第2話 恋を知らぬ娘と仮面舞踏会
朝の陽光がカーテンの隙間から差し込む中、キャピュレット邸の一室では、乳母がせっせと櫛を動かしていた。椅子に座るジュリエットは、整えられていく長い髪を無抵抗に任せながら、どこか上の空だった。
「まあまあ、お嬢様のお髪は今日も絹のように柔らかくて。赤ん坊の頃からずっとこの手で梳いてきたけれど、あの頃はほんに……あら、あのときのあざ、覚えてますか? 小さな石につまづいて、尻もちをついて、それはそれは大泣きして……」
乳母は思い出話を止めない。ジュリエットは小さく笑みを浮かべたが、話の半分も耳には入っていなかった。鏡に映る自分の顔を見つめながら、まだ知らぬ未来に思いを巡らせていた。
「乳母、それはもう十年以上前の話でしょう」
「そうだけれど、あれを見てごらんなさい。ひじのところ。まだほんの少し跡が残って──」
「いい加減にしなさい、乳母」
奥からキャピュレット夫人が現れ、あきれたように声をかけた。端然とした顔立ちには、貴族の威厳が滲む。
「ジュリエット、今夜の舞踏会のことは聞いているわね」
「はい、お母様」
夫人はジュリエットの正面に座ると、真剣なまなざしで言葉を継いだ。
「あなたに会いたいという方がいるの。パリス伯爵。立派な方よ。若くて、容姿も申し分なく、家柄も申し分ない。お父様もお会いして、たいそう気に入っておられるわ」
乳母が間髪入れずに口を挟んだ。
「まあまあ、あの方はまるで彫像のようにお美しい! 若さと気品があって、あんな男性、めったにいませんよ。もし私があと三十歳若かったら──なんて、冗談ですけどね!」
ジュリエットは一瞬、母と乳母を見比べ、それから伏し目がちに言った。
「けれど、私は……結婚なんて、まだ考えたことがありません」
その言葉に、乳母も夫人も一瞬、言葉を失った。
夫人はやがて、静かに頷いた。
「わかっているわ。でも、今夜の舞踏会で会ってみて。それだけでも。あなたの人生の扉が、少し開くかもしれない」
ジュリエットは小さく頷いたが、その瞳には少女特有の不安と未知への怯えが揺れていた。
*
一方その夜、モンタギュー邸の一室では、ロミオがぼんやりと窓の外を見つめていた。月が、青白い光を地上に注いでいる。
「また、ため息か」
入ってきたベンヴォーリオが、やや呆れたように言った。
「お前の憂鬱は、町じゅうの空気を重くするな。まだロザラインのことか?」
ロミオは小さく首を振った。
「愛とは、これほどまでに苦しいものなのか……心は満たされず、夜ごと夢にうなされる」
「その夢を吹き飛ばす方法があるぜ!」
ドアを蹴るようにして入ってきたのは、陽気な親友、マーキューシオだった。
「ロミオ、お前のために仮面を用意してやったぞ。今夜の舞踏会、楽しまなきゃ損だ。敵の家でも、仮面をつければわかりゃしないさ」
ロミオは苦笑した。
「だが……夢を見たんだ。とても不吉な夢だった。何か悪いことが起こるような……」
「夢だと? おいおい、そんなもので未来が決まるなら、この世は夢占い師であふれてるぞ」
マーキューシオは大仰な身振りで声を張る。
「そもそも夢というのはな、妖精の女王マブが人のまぶたに忍び込んで見せる幻さ──」
彼は椅子の上に立ち、夢と幻想に満ちた“マブの話”を語り出す。恋する者には愛の夢、兵士には血の夢、弁護士には訴訟の夢──そのすべてを女王マブが操るのだと。
あまりの勢いに、ロミオもベンヴォーリオもつい吹き出す。
「わかったよ。行こう」
ロミオはようやく立ち上がり、仮面を手に取った。
「たとえ胸騒ぎがしても、未来からは逃れられない。ならば──進もう」
三人は仮面をつけ、夜の町へと歩き出す。月の光に照らされながら、仮面舞踏会が開かれるキャピュレット邸へと、その足取りは少しずつ近づいていった。
*
夜のヴェローナ町に、灯りの列が流れる。
それはキャピュレット邸の大広間へと続く、華やかな仮面舞踏会。
ジュリエットは侍女にドレスの背を結わせながら、鏡の前に立っていた。唇には淡い紅、髪には真珠の飾り。乳母が「ああ、まるで女神様」と嘆息する中、彼女は小さく笑って首を傾げた。
遠くから聞こえる音楽の調べ。
扉が開けば、運命の時が始まる。
ロミオとジュリエット。
その出会いは、すでに静かに動き始めていた。