第13話 永遠の別れの口づけ
ヴェローナ郊外の墓所は、夜の帳に包まれ、あたりには死者の沈黙だけが広がっていた。
キャピュレット家の霊廟。その前に、ひとりの男が佇んでいた。
パリス伯爵。整った軍装に身を包みながらも、その表情には張りつめた静寂が漂っている。
手にした白百合の花を、慎重に石の扉の前へと置く。
月明かりの下、彼は小さくつぶやいた。
「ジュリエット……君の微笑みは、まだ目に焼きついている。たとえ永遠に閉じようとも、私は君を忘れない」
その瞳に滲む涙は、決して大げさではない。ただ、穏やかに、静かに──悲しみが彼の胸を満たしていた。
──だが、その静寂は、すぐに破られる。
墓地の入口から、カッ、カッ、と誰かの足音が響いてくる。
松明の赤い火が、闇を裂くように揺れている。
その炎の中から姿を現したのは──ロミオだった。
痩せこけた頬、乱れた髪。手には鉄の棒。
その目は虚ろで、ただひとつの場所──霊廟の扉だけを見据えていた。
パリスは驚愕し、すぐに警戒の色を浮かべた。
「ロミオ……モンタギューのロミオ!貴様、追放されたはずでは!」
だがロミオは答えない。ただ鉄の棒を振り上げ、ギィ……ギィ……と錆びた扉の継ぎ目に押し込む。
パリスが立ちはだかる。
「何をしている! 死者の安息を乱すな!貴様は、ジュリエットの墓を──」
「やめてくれ」
ロミオは低く、震える声で言った。
「もう……誰とも争いたくない。ただ……彼女に会いに来ただけなんだ」
パリスは剣を引き抜く。怒りと誤解が、その行動を駆り立てた。
「許せん。君の愛が、彼女を苦しめた。今また──墓までも汚すというのか!」
「……やめろ」
ロミオも、ゆっくりと剣を抜く。
「頼む。これ以上、死を増やすな」
「ならば、剣を収めよ!」
「……それは、君次第だ」
冷たい月光の下、墓前で火花が散る。
──一瞬の交差。
鋼がぶつかり合い、二人の剣が閃く。
だが、疲れと絶望に押し潰されたロミオの剣筋は、いつしか本能のままに鋭さを増していた。
突き上げた一太刀が、パリスの胸を貫いた。
倒れ込んだパリスの唇が、かすかに動く。
「……お願いだ……ジュリエットの隣に……葬って……くれ……」
ロミオは、その顔を見てようやく気づいた。
「君は……パリス伯爵……?」
遅すぎた理解に、愕然とする。
彼は剣を放り出し、しゃがみ込む。
「すまない……争いたくなかった……なのに、また……」
だが、涙は流れない。もはや、流す力も残っていなかった。
ロミオは彼を両腕で支え、そっと霊廟の中へと運び入れた。
扉の中は、ひんやりとした石の静寂。
ロミオの足音だけが、重く響く。
石の棺。その中に、ジュリエットは眠っていた。
ロミオは、彼女の前に膝をつく。
「……こんなに美しいのに……なぜ……もう目を開けない……?」
その頬は、ほんのりと薔薇色。
唇にはまだ血の気が宿っていた。
「まるで……ただ、眠っているみたいだ」
ロミオは、指先でジュリエットの髪を撫でた。
そして、その額にそっと唇を押し当てる。
──これは、永遠の別れの口づけ。
「ジュリエット……君のいない世界に、何の意味がある?」
彼は懐から、小瓶を取り出す。
「これが……僕たちの祝杯だ。遅れてすまない」
震える手で、小瓶を傾ける。
一滴の迷いもなく。
それが、彼の愛のかたちだった。
「──ああ……ジュリエット……」
そのまま、彼は彼女の傍らに崩れ落ちた。
まるで、彼女に寄り添うように。
松明の火が消えかける。
闇が、ゆっくりと、ふたりを包んでいった。
だが読者は知っている。
間もなく、彼女が目を覚ますことを。
この世で最も悲しいすれ違いが、すぐそこまで迫っていることを──。




