第10話 絶望の淵と仮死の秘薬
ヴェローナ町の西はずれ、静かな礼拝堂にジュリエットは足を踏み入れた。
薄暗い中、ステンドグラス越しに差し込む光が祭壇をやさしく照らしている。
「ジュリエット嬢……」
気配に気づき、祭壇の前から一人の青年が振り返った。パリス伯爵だった。
「まあ、パリス様。こんなところでお会いするなんて」
ジュリエットは笑みを浮かべながら、心の奥で身構える。
(どうして……ここに……)
「今日は、神父様に明日の式のことを確認しに来たんだよ。君も祈りに?」
パリスは嬉しそうに近づく。無邪気な笑顔が、ジュリエットには苦しく映った。
「ええ……祈りを。必要なの、今の私には」
少し震えた声を隠すように、ジュリエットは視線を逸らした。
パリスは気づかぬまま、穏やかな声で言った。
「明日、君が僕の妻になる……それが本当に、嬉しい」
(お願い、もうやめて……)
ジュリエットは必死に笑顔を保ちながら、短く頷いた。
やがてロレンス神父が現れ、気まずい空気を悟ったのか、パリスを礼儀正しく送り出す。
扉が閉まるのを見届けた瞬間、ジュリエットはその場に膝をつき、神父にすがりついた。
「神父様……助けてください! もう、どうすればいいのかわからないのです!」
耐えてきた感情が一気にあふれ、涙が頬を伝って落ちた。
「明日、私はあの人と結婚させられます。ロミオと誓った愛があるのに……! どうして、誰も私の声を聞いてくれないの……!」
ロレンス神父は静かに彼女の肩に手を添え、黙ってその絶望を受け止めた。
ジュリエットは懐から短剣を取り出し、目を潤ませながら震える声で言った。
「もう死ぬしかないのなら……この短剣で、今ここで──」
「待ちなさい」
神父の声が低く響いた。
「君の命を散らす前に、一つ……望みがある。
恐ろしい策だが、成功すればロミオと再び会えるかもしれない」
ジュリエットの瞳が光を取り戻した。
「……望み? 本当に?」
ロレンス神父は奥の小部屋から銀色の小瓶を取り出し、慎重に差し出した。
「これは、42時間の間、生きていながら死んだように眠りにつく薬だ。
心拍も呼吸も微かになり、誰が見ても亡骸にしか見えないだろう」
「仮死……」
ジュリエットは息を呑む。
「君は明朝、この薬を飲んで眠る。そして家族は、君が死んだと思い、埋葬する。
だが、私がすべてを手配して、ロミオに君の無事を知らせる。墓所で目覚めれば……君は自由だ」
「それしか……方法はないのですね」
「……ああ。だが危険だ。目覚めない可能性もある。私の手紙がロミオに届かなければ、君は──」
「かまいません」
ジュリエットは神父の言葉を遮り、小瓶を強く握りしめた。
「この薬で目覚めたとき……ロミオの腕の中でありますように」
瞳には、涙ではなく確固たる決意が宿っていた。
ロレンス神父は静かに頷いた。
「……行きなさい。君の勇気に、神の導きがあるように」
その夜、キャピュレット邸。
ジュリエットは、父と母の前で深く頭を下げた。
「……お父様、お母様……私、パリス様との結婚を受け入れます」
部屋が静まり返った。
「ほ、ほんとうに……?」
キャピュレット夫人が目を丸くし、キャピュレット卿は一気に頬を緩めた。
「よく言った! 娘よ、よくぞ目を覚ましたな! では結婚式は明日だ、すぐに準備せねば!」
(……明日)
ジュリエットは静かに微笑みながら、心の奥では静かな覚悟を燃やしていた。
母が優しく抱きしめ、乳母が涙ぐんでうなずく。
「ジュリエット様……ようやく……」
(……ごめんなさい、みんな。でも……私、もう戻らない)
ジュリエットは家族の温もりの中で、そっと小瓶を抱きしめた。
その夜──
ジュリエットはろうそくの火を見つめながら、ゆっくりと薬瓶の蓋を開けた。冷たい香りが鼻を刺す。
「ロミオ……もうすぐ……あなたに会える」
そう呟いて、彼女は静かに薬を口に含んだ。
蝋燭の火が揺れ、彼女の体がベッドに崩れ落ちる。
夜が深まり、静寂があたりを包んだ。
次に目覚めるとき、そこに──愛しい人の姿があると信じて。




