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第十八話「長安城陥落、漢室の旗再び」

第十八話「長安城陥落、漢室の旗再び」

それは、人の意志が自然の猛威に打ち克った瞬間であった。数週間に及ぶ、筆舌に尽くし難い苦難の末、馬謖率いる蜀漢の本隊は、ついに秦嶺山脈の険しい障壁、駱谷道を完全に踏破したのだ。目の前に広がるのは、どこまでも続くかのような広大で肥沃な大地――漢王朝発祥の地、関中平野であった。


「おおおおっ!」「着いたぞ! ついにやったんだ!」

土埃にまみれ、疲労困憊の極みにあった兵士たちの中から、堰を切ったような歓声と、安堵の嗚咽が同時に湧き上がった。長く暗い谷底から、ようやく陽の光の下へと抜け出した解放感。そして何より、不可能とも思われた難事業を成し遂げた達成感が、彼らの身体に新たな活力を注ぎ込んでいた。遠く霞む地平線の彼方に、目指すべき最終目標、古都・長安の威容が見えるような気がした。


蜀軍本隊が、あたかも地から湧き出たかのように関中平野に出現したという報は、魏軍の司令部に雷鳴の如き衝撃をもたらした。子午谷方面へ進軍した姜維の部隊を蜀軍の主攻と完全に誤認し、主力をそちらに集中させていた関中の守将・鄧艾は、自らの背後を完璧に突かれたことを悟り、愕然とした。あの馬謖という男、もはや街亭の頃の若造ではない。恐るべき智謀と胆力を持った敵将へと変貌していたのだ。鄧艾は即座に方針を転換し、全力を挙げて長安の守りを固めると共に、各地の守備隊に蜀軍の迎撃を厳命した。姜維の見事な陽動作戦は、馬謖の本隊が無事に関中へ到達するための時間を、完璧に稼ぎ出したのである。


しかし、馬謖は勝利を急がなかった。駱谷道踏破という偉業を成し遂げたとはいえ、兵士たちの疲労はピークに達している。この状態で無理な攻勢に出れば、いかに敵が動揺していようとも、手痛い反撃を受ける可能性がある。彼はまず、関中平野の南端、秦嶺の麓に近い安全な場所に堅固な拠点を築き、兵士たちに休息と回復の時間を与えた。そして、記録書記官時代に学んだ統治の要諦を思い起こし、周辺の村々へ慰撫の使者を送った。蜀軍は漢室再興のための義軍であり、民衆から略奪するようなことは決してしないこと、むしろ圧政に苦しむ民を解放するために来たことを丁寧に伝え、食料の提供などの協力を呼びかけた。その誠実な態度と、規律の取れた兵士たちの姿は、長年魏の支配に喘いできた関中の民の心を徐々に掴み始め、彼らの中から自発的に蜀軍へ協力する者が現れ始めた。人心の掌握こそ、戦いにおける最大の武器の一つであることを、馬謖は深く理解していた。


数週間の休息と再編成を経て、蜀軍はついに万全の態勢を整えた。そして、漢の旧都・長安へ向けて、怒涛の進撃を開始した。道中、魏の地方部隊が必死の抵抗を試みたが、士気高く、十分に英気を養った蜀軍の敵ではなかった。馬謖の的確な指揮、王平ら宿将の奮戦、そして兵士たちの勇猛果敢な戦いぶりによって、魏軍の抵抗線は次々と打ち破られ、蜀軍はついに長安の城壁へと到達した。


壮麗なる古都・長安。その城壁は高く厚く、守りは堅固であった。城内には、この地を死守せんと決意した鄧艾、そして洛陽からの援軍として駆けつけた鍾会の率いる兵力が籠っている。一筋縄ではいかない。

だが、馬謖は正面からの力攻めという愚策を選ぶつもりは毛頭なかった。

「力攻めは無用。城を完全に包囲し、兵糧攻めとする。内と外から、敵の心を砕くのだ」

彼は、街亭で自らが味わった苦しみ――兵站を断たれることの絶望感――を、今度は敵に与えようとしていた。そして、堅固な城壁よりも脆いもの、それは人間の心であることも知っていた。

包囲網が完成すると同時に、馬謖は執拗な心理戦を開始した。まず、大量の檄文を城内へと射込んだ。「天命は漢にあり! 逆賊司馬氏に組する者は滅びるのみ! 漢室に忠誠を誓い、城を開ける者には、生命と財産、そして名誉を保証する!」

さらに、捕虜にした魏兵を、意図的に「寛大に」解放した。彼らが城内に戻り、「蜀軍の食料は豊富だ」「降伏兵は手厚く遇されている」といった情報を広めることを計算してのことだった。そして、最も効果を発揮したのは、巧妙に仕掛けられた離間策であった。内通者や間諜を使い、「鄧艾将軍は、この機に乗じて関中で独立を画策しているらしい」「司馬昭殿は、功を焦る鍾会殿を疑っており、戦後に粛清するつもりだそうだ」といった真偽不明の噂を、城内の将兵たちの間に浸透させていったのだ。


包囲が長引くにつれ、城内の状況は確実に悪化していった。兵糧は底をつき始め、兵士たちの間には飢えと絶望感が広がっていく。そして、馬謖の流した噂は、疑心暗鬼という名の毒となり、将兵たちの心を蝕み、鄧艾と鍾会の間の連携にも亀裂を生じさせ始めていた。鄧艾は必死に城内の統制を保とうとしたが、もはや限界に近づいていた。

そして、ついにその時は訪れた。景耀六年(西暦263年)の晩秋。城内にいた、かつて漢王朝に仕え、魏に降ることを余儀なくされていた一部の旧臣たちが、長安の民衆の一部と共に、ついに決起した。「漢室再興! 圧政を倒せ!」彼らは密かに連絡を取り合い、内から城門の一つを破壊し、固く閉ざされていた扉を押し開いたのだ。


「城門が開いたぞ!」「開門だ! 突入せよ!」

鬨の声が上がり、蜀兵たちが城内へ殺到しようとする。しかし、その動きを制したのは、馬謖の厳しく、しかし威厳に満ちた声だった。

「待て! 秩序を乱すな! 整然と入城せよ! 繰り返す、略奪・暴行は断じて許さぬ! これを破る者は厳罰に処す! 我らは、漢室を再興し、民を安んじるための義軍であるぞ!」

彼の声に、兵士たちは我に返り、規律を取り戻した。そして、粛々と、しかし誇らしげに、長安城内へと足を踏み入れていった。

馬謖は、王平らと共に、静かに城門をくぐった。城内ではまだ散発的な戦闘が続いていたが、大勢は決していた。鄧艾と鍾会は、それぞれわずかな手勢を率いて、混乱に乗じて東門から脱出したとの報が入った。

馬謖が真っ先に命じたのは、城内の治安維持と、飢えた民衆への食料の配給であった。彼は自ら倉を開けさせ、蓄えられていた穀物を民衆に分け与えた。規律正しい蜀兵の姿と、惜しみない援助に、長安の民は涙を流して喜び、心からの歓声を上げた。


そして、馬謖は全ての戦いが終わった後、長安城の最も高い城楼へと登った。眼下には、戦いの傷跡が残るものの、活気を取り戻し始めた古都の姿が広がっている。彼は、傍らに控える兵士に命じた。

「あの旗を掲げよ!」

兵士たちの手によって、長年仕舞われていた「漢」の旗――赤地に勇壮な龍が描かれた旗――が、ゆっくりと城楼の竿に掲げられていく。秋風を受け、その旗が高らかに、誇らしげにはためいた瞬間、城内外から、地響きのような、割れんばかりの大歓声が沸き起こった。

「漢室、万歳!」「大将軍、万歳!」

その歓声に包まれながら、馬謖は城壁に手をつき、眼下に広がる光景を静かに見つめていた。胸に込み上げてくるのは、言葉にならないほどの万感の思いだった。街亭での絶望的な敗走。記録書記官としての屈辱の日々。あの不可解な予知の力への恐怖と葛藤。費禕を失った深い悲しみ。そして、亡き師・諸葛亮孔明の、五丈原での最後の眼差し…。それら全てが、走馬灯のように彼の脳裏を駆け巡った。

(丞相…費禕殿…ご覧になっていますか…? やりましたぞ…ついに、ここまで…)

熱いものが、彼の頬を静かに伝った。

(もはや、未来を垣間見る力などなくとも…この確かな勝利を、仲間と共に掴むことができた…!)

それは、長年の苦難と、自身の弱さと向き合い続けた末に、ついに掴み取った栄光への、そして異能の呪縛から完全に解き放たれたことへの、万感の涙であった。漢室再興への道は、まだ遠い。しかし、その最も大きな扉は、今、確かに開かれたのだ。長安の空に翻る真紅の漢の旗は、新たな時代の到来を、そして智将・馬謖の完全なる再生を、高らかに告げていた。

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