第十七話「関中への道、駱谷の奇襲」
第十七話「関中への道、駱谷の奇襲」
隴西の激戦を制し、かの地を蜀漢の版図に加えてから、数年の歳月が流れた。大将軍・録尚書事となった馬謖の下、蜀はしばしの安定期を迎えていた。彼は占領地の統治に心血を注ぎ、民衆の慰撫と羌族との融和に努め、成都の陳祗らと連携して国力の回復と充実に邁進した。その成果は着実に現れ、国内は安定し、兵糧の備蓄も十分なものとなっていた。一方、魏では司馬昭が権力を固めたものの、皇帝との軋轢や内部の不満は依然として燻り続けている。馬謖は、それらの情報を冷静に分析し、ついにその時が来たと判断した。次なる目標、それは漢王朝の故地、関中平野であった。
景耀五年(西暦262年)、漢中の本営。馬謖は主要な将軍たちを前に、壮大な作戦計画を告げた。
「皆、聞いてほしい。我々は、ついに次なる一歩を踏み出す。目標は、関中、そして長安奪還である!」
その言葉に、集まった姜維、王平ら歴戦の将たちの顔が一様に引き締まる。
「しかし、ご存知の通り、関中の守りは固い。潼関を正面から攻めるのは策の下であろう。そこで、私はこの道を選ぶ」
馬謖が地図上で示したのは、秦嶺山脈を深く、険しく貫く一本の谷筋――駱谷道であった。
「駱谷道…!?」どよめきが起こった。王平が、思わず声を上げる。「大将軍、しかしその道は、あまりにも険しく、大軍の通行は不可能と…かつて丞相(孔明)も断念されたはず!」
他の将軍たちも、驚きと懸念の表情を隠せない。
「その通りだ」馬謖は静かに頷いた。「確かに、常識的に考えれば無謀かもしれぬ。だが、私は記録書記官であった頃、この道に関するあらゆる記録を調べ尽くした。そして、結論を得たのだ。不可能ではない、と」
彼は自信を持って続けた。「近年の工兵技術の向上は目覚ましい。そして何より、興勢の役以来、我々が培ってきた兵站管理の能力をもってすれば、この難路を克服することは可能だ。数ヶ月前から、工兵部隊に命じ、密かに道の整備と中継地点の設営を進めさせてきた。食料、装備も、この作戦のために特別に準備し、現地の地理に詳しい案内人も多数確保済みだ。準備は、万端整っている」
その周到な準備と、揺るぎない自信に、諸将は息を呑んだ。
「作戦の要諦は二つ。姜維将軍には主力の一部を率い、陽動として子午谷方面へ大々的に進軍していただく。魏軍の目を完全にそちらへ引きつけるのだ。その隙に、私自身が精鋭の本隊を率い、この駱谷道を密かに踏破し、関中の心臓部へ奇襲をかける。成功すれば、我々は一気呵成に長安へ迫ることができよう」
作戦の全貌を聞き、将軍たちの顔に興奮と緊張の色が浮かんだ。危険は大きい。だが、成功した時の見返りもまた、計り知れない。
「…承知いたしました」王平が、覚悟を決めた表情で応えた。「大将軍の本隊には、この王平も同行し、必ずや大将軍をお守りいたします」
「大将軍!」姜維もまた、目を輝かせて進み出た。「陽動の儀、お任せください! この姜維、必ずや魏軍主力を引きつけ、大将軍の本隊が無事に関中へ到達するまでの時間を稼いでみせます!」
他の将軍たちも、次々と同意の意を示した。彼らの馬謖への信頼は、もはや揺るぎないものとなっていた。
作戦は、予定通り開始された。まず、姜維が数万の兵(一部は偽装を含む)を率い、勇壮な軍旗を林立させ、子午谷方面へと進軍を開始した。その動きは、魏の間諜によって直ちに捉えられ、関中の守将(鄧艾、あるいは他の将軍)は、これを蜀軍の主攻と判断。迎撃のため、主力の大部分をそちらへと急派した。
魏軍の目が完全に北東へと向けられた、その数日後の夜。
馬謖は、王平らと共に、選りすぐられた精鋭の本隊を率い、人目を避け、音もなく、漢中の南に口を開ける駱谷道の入り口へと達した。見上げる空には月もなく、ただ満天の星々だけが、彼らの行く末を見守るかのように瞬いていた。
「…進め」
馬謖の短い号令と共に、蜀軍は暗黒の谷へと足を踏み入れた。道は、想像を絶するほどに険しかった。両側からは、天を突くような断崖絶壁が迫り、昼なお暗い。足元は、ぬかるんだ泥や、鋭い岩くれが転がり、一歩踏み外せば深い谷底へと転落しかねない。時には、腰まで水に浸かって冷たい谷川を渡り、時には、絶壁にへばりつくようにして狭い岩棚を進んだ。昼夜を分かたぬ行軍に、兵士たちの顔には疲労の色が濃く浮かんでいた。
「水だ! 水をくれ…!」
「足が…もう動かん…」
弱音を吐く者も出始めた。そんな時、馬謖は自ら馬を降り、兵士たちと共に歩き、声をかけ、励ました。
「皆、もう少しだ! この谷を抜ければ、そこは関中だ! 漢室再興の夢は、我々の手の中にあるぞ!」
彼の揺るぎない姿と、周到に準備された補給(特別な携帯食料や、中継地点での短い休息)が、兵士たちの心を支えた。記録係時代の知識が、今、現実の困難を克服する力となっていた。時折、落石の危険がある箇所では、工兵隊が迅速に安全を確保し、道が崩れている箇所では、彼らが夜通しで丸太を組み、仮の橋を架けた。隠密行動のため、松明を焚くこともできず、ただ星明かりと、案内人の記憶だけを頼りに、彼らは暗黒の中を進み続けた。
(…丞相、見ていてください。貴方が不可能と判断されたこの道を、我々は必ずや踏破してみせます…)
馬謖は、険しい道程の先に広がるであろう関中の大地を思い描き、固く拳を握りしめた。予知という不確かな力ではなく、人間の知恵と、勇気と、そして仲間との絆だけを頼りに、彼は前人未到の道を切り開いていく。
関中平野は、まだ彼方であった。だが、蜀漢の未来を賭けた、最も大胆にして最も困難な一歩は、今、確かに踏み出されていた。その先に待つものが勝利か敗北か、それはまだ、誰にも分からなかった。