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第十六話「揺らぐ予知、試される決断」

第十六話「揺らぐ予知、試される決断」

隴西の秋は深まり、山々は燃えるような紅葉に彩られていた。しかし、その美しい風景の下では、蜀漢と魏、二つの大国の意地と存亡を賭けた、血で血を洗う激しい戦いが続いていた。前回の勝利で勢いを得た蜀軍であったが、魏の名将・鄧艾は、驚くべき粘り強さと巧妙さで反撃に転じ、戦線は再び膠着状態に陥っていた。


鄧艾の戦術は、馬謖の予想以上に多角的で、執拗だった。彼は得意の屯田兵を巧みに使い、昼夜を問わず蜀軍の兵站路や斥候部隊にゲリラ的な襲撃を仕掛けてきた。偽の情報を流して蜀軍の一部を誘い出し、伏兵で叩く。さらには、金品や甘言を用いて蜀に協力していた羌族の一部を寝返らせ、後方を脅かす。その変幻自在の策の前に、蜀軍は徐々に消耗し、兵士たちの間にも焦りと疲労の色が濃くなり始めていた。


この困難な状況にあって、馬謖はかつてないほどの苦悩の中にいた。彼が密かに最後の拠り所としていたかもしれない「予知夢」が、もはや明確な指針を与えてくれなくなっていたからだ。時折見る未来の断片は、ますますその輪郭を失い、曖昧で象徴的なイメージばかりが去来する。ある時は勝利の凱歌が聞こえたかと思えば、次の瞬間には味方の屍が累々と横たわる光景が見える。それは未来の警告というより、彼の不安や願望が作り出した幻影に近いものなのかもしれない。

(…もはや、当てにはできぬということか…)

彼は認めざるを得なかった。自分の行動が、あるいはこの戦いそのものが、本来の流れを変えてしまったのだ。自分が知っていたはずの未来は、もうどこにも存在しないのかもしれない。この力は、変質し、その輝きを失ったのだ。


そんな折、馬謖は全軍の命運を左右するであろう、重大な決断を迫られた。鄧艾が、蜀軍の進路を阻む最重要拠点である峠道に、大規模な野戦築城を行い、鉄壁ともいえる防御陣地を築き上げている、という報告が入ったのだ。この峠を突破できなければ、隴西攻略は頓挫し、最悪の場合、兵站を断たれて全軍が壊滅する危険すらある。

軍議は紛糾した。

「犠牲は覚悟の上! 全力で峠を攻め落とすべきです!」姜維は、いつものように積極策を主張した。「ここで退いては、これまでの全てが無駄になります!」

「いや、無謀だ!」王平は冷静に反論した。「敵の思う壺にはまるやもしれん。ここは一旦兵を引き、態勢を立て直すのが賢明かと…」

諸将の意見も二分した。馬謖は、両者の言葉に耳を傾け、地図を凝視し、集めうる全ての情報を頭の中で組み立て直した。予知は、相変わらず矛盾したイメージを見せるだけで、何の助けにもならない。

(…どうすべきか…)

彼の脳裏に、街亭の光景が蘇った。あの時、自分は功を焦り、諫言に耳を貸さず、独善的な判断で全てを失った。あの失敗を繰り返してはならない。だが、同時に、ここで退くことは、丞相の遺志を、そして費禕殿の死を無駄にすることにはならないか?

彼は、後方の成都にいる陳祗とも書簡を交わし、国力の限界、そして民衆の期待も考慮に入れた。全ての情報を吟味し、彼はついに顔を上げた。その目には、もはや迷いはなかった。

「…峠を、攻める」

その声は静かだったが、揺るぎない決意が込められていた。

「街亭で、私は功を焦り、現実を見ずに策に溺れた。だが、今回は違う。全ての情報を検討し、犠牲が出ることも覚悟の上で、これが現時点で取りうる最善の道だと判断した。退けば、我々は全てを失うだろう。ならば、進むしかない」

彼は地図を示し、具体的な作戦を説明した。

「姜維将軍には別働隊を率い、敵の意表を突くこの獣道から、決死の覚悟で敵陣の背後を突いてもらう。私が本隊を率いて正面から総攻撃をかけ、敵の主力を引きつける。王平将軍には、側面からの敵増援に備え、鉄壁の守りをお願いしたい。これは、我々の総力を挙げた戦いとなる。多くの血が流れるであろう。だが、私は諸君を信じている。この困難を、必ずや乗り越えよう!」

それは、予知という不確かな杖を完全に捨て去り、現実の情報、自身の知略、そして何よりも仲間への絶対的な信頼に基づいて下された、馬謖自身の「決断」であった。


その後の戦いは、血で血を洗う、凄惨なものとなった。蜀軍は、鄧艾の巧妙な罠と頑強な抵抗に苦しみ、多大な犠牲を払った。しかし、彼らは退かなかった。姜維率いる別働隊は、文字通り決死の覚悟で険しい山道を踏破し、鬼神の如き勇猛さで敵陣の背後を突き崩した。馬謖は、本営で冷静に戦況を見極め、的確な指示を送り続け、王平は側面からの敵の攻撃を見事に防ぎきった。そして、ついに蜀軍は、兵士たちの不屈の闘志によって、鄧艾の鉄壁の防衛線を突破することに成功したのである。

勝利の雄叫びが、血と汗に濡れた戦場に響き渡った。だが、その代償はあまりにも大きかった。報告される味方の損害の数は、馬謖の胸を締め付けた。彼の執務室に運び込まれた、戦死した将兵の名を記した木簡の束。彼はその一つ一つを手に取り、黙って目を閉じた。この決断は、本当に正しかったのか? 別の道はなかったのか? 答えは出ない。だが、彼は最高司令官として、この結果の全てを受け止め、その責任を負わねばならない。その覚悟は、彼の表情に、以前にはなかった深い陰影と、同時に、何事にも揺るがぬ強さを与えていた。


姜維や王平は、この苦しい戦いを通して、馬謖の真の姿を見た。予知という不可解な力に頼るのではなく、彼らと同じように悩み、情報を分析し、血の通った議論を交わし、そして時には非情とも思える苦渋の決断を下し、その責任を全て背負おうとするリーダーの姿。それは、以前のどこか危うさを感じさせた彼とは違う、人間としての深みと強さを感じさせるものだった。

「大将軍は…変わられたな。もはや、我々と同じ地平に立っておられる」

彼らの馬謖への信頼は、もはや疑念の入り込む余地のない、揺るぎないものへと変わっていた。


馬謖自身もまた、この戦いを経て、一つの境地へと達していた。予知能力は、もはや彼の戦略を左右するものではない。それは時に、解釈の難しい象徴的なイメージとして現れることはあっても、彼がそれに振り回されることはなかった。未来は未知であり、だからこそ、今この瞬間に全力を尽くす価値がある。過去の失敗から学び、現実の情報を分析し、仲間を信じ、そして自らの責任において決断を下す。それこそが、唯一確かな道なのだと。

予知の呪縛から完全に解き放たれ、彼は真の意味で「自立」した指揮官となった。未来への不安が消えたわけではない。だが、彼はもはやそれに怯えることなく、自らの意志と、仲間たちとの絆を頼りに、この先の見えない道を、力強く歩んでいく覚悟を固めていた。智将・馬謖の、本当の意味での戦いが、今、始まろうとしていた。

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