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第十四話「『ずれ』始める未来」

第十四話「『ずれ』始める未来」

隴西ろうせいの山河は、深く色づく秋の気配に包まれていた。しかし、その美しい風景とは裏腹に、この地では蜀漢と魏、二つの国の威信を賭けた、息詰まるような攻防が数ヶ月に渡って繰り広げられていた。蜀の大将軍・馬謖と、魏の名将・鄧艾。両軍の指揮官は、互いに手の内を探り合い、一歩も引かぬ知略の応酬を続けていた。


馬謖は、鄧艾との正面からの消耗戦を巧みに避け続けていた。彼の繰り出す手は多彩だった。姜維率いる機動部隊を陽動に使い、敵の注意を引きつけている間に、別方面から魏の兵站線に奇襲をかける。王平らに命じて確保した拠点の守りを固めさせ、鄧艾の反撃に備える。そして、連携を深めた羌族の部族を動かし、魏軍の後方をゲリラ的に脅かす。さらに、捕虜にした魏兵から得た情報や、意図的に流した偽情報によって、鄧艾軍の内部に疑心暗鬼を生じさせようとも試みた。

対する鄧艾もまた、百戦錬磨の将であった。馬謖の多角的な揺さぶりに対し、彼は驚くほど冷静に対応した。守るべき拠点は鉄壁の守りを敷き、兵站路には幾重もの警備網を張り巡らせた。羌族の動きには、時には武力で、時には巧みな懐柔策で分断を図る。そして、馬謖軍のわずかな油断や隙を見逃さず、電光石火の反撃を繰り出しては、蜀軍に損害を与えた。まさに、一進一退。両軍の将兵は疲弊の色を濃くしていたが、二人の智将の間の、目に見えない神経戦は、ますますその鋭さを増していくようであった。


この緊迫した戦況の中で、馬謖は依然として、時折彼の脳裏をよぎる「予知夢」の断片的な情報にも意識を向けていた。当初、それは彼の判断を少なからず助けてくれた。敵の伏兵の気配、小規模な衝突の結果の暗示。彼はそれらの情報を、自身の分析や諜報活動で得た情報と慎重に照らし合わせ、戦略の一助としてきた。あくまで補助的なもの、万が一の保険のようなものとして。


しかし、戦いが長引き、そして彼自身の行動が戦況に影響を与え始めるにつれて、馬謖は言いようのない違和感を覚え始めていた。彼が見る「未来」の光景と、実際に起こる出来事との間に、無視できない「ずれ」が生じ始めていたのだ。

ある時、彼は夢で見た。数日後、特定の峠道を通る魏軍の比較的小規模な輸送部隊の姿を。これを奇襲すれば、大きな戦果が期待できるはずだった。彼は姜維に精鋭を与え、万全の準備を整えてその峠道で待ち伏せさせた。しかし、約束の日が来ても、輸送部隊は一向に現れなかった。後に捕らえた魏の斥候兵の話によれば、鄧艾が直前になって、「最近、あの方面での羌族の動きが活発すぎる」という報告を重視し、より警戒の厳重な別のルートへと輸送路を変更したのだという。馬謖が働きかけた羌族の活動が、皮肉にも予知された未来を変えてしまったのかもしれない。

(なぜだ…? 夢では、確かにあの道を通るはずだった…。私の行動が、未来を…?)

報告を受けた馬謖は、愕然とした。


また、別の激しい局地戦の最中には、「この戦で、敵の勇猛な若き部将(顔も夢で見た)が、味方の矢に当たって討ち死にする」という予知を見た。彼は部隊長にその情報を伝え、その部将への攻撃を集中させた。戦闘は蜀軍優勢に進んだ。しかし、あと一歩というところで、別の部隊からの予期せぬ援護射撃があり、その部将は重傷を負いながらも、かろうじて戦線を離脱し、命を取り留めたのだ。これもまた、予知とは異なる結末だった。

(これも…違う…! 何かが、狂ってきている…)

予知と現実との間に生じる、明確な食い違い。最初は、夢の解釈ミスか、予知そのものの曖昧さのせいだと考えようとした。だが、そのような「ずれ」が続くにつれて、彼は認めざるを得なかった。自分が見ていた「未来」は、もはや絶対的なものではないのかもしれない。いや、そもそも、自分が街亭で死なずに生き残り、こうして歴史に介入していること自体が、本来の流れを大きく変えてしまっているのではないか?

その考えは、彼を深い混乱と恐怖に陥れた。もしそうだとしたら、自分が見てきた予知夢は、「起こるはずだった未来」の残像に過ぎないのかもしれない。そして、これから見るであろう夢もまた、もはや信頼に値しないのかもしれない。

(では、私は何を頼ればいいのだ…? この力は、もはや何の役にも…いや、むしろ判断を誤らせる罠でしかないというのか…?)


馬謖の内面の動揺は、彼自身が気づかぬうちに、その言動にも微妙な影を落とし始めていた。軍議の席で、以前のような揺るぎない確信に満ちた分析だけでなく、時折、「…という可能性も否定はできない」「…あらゆる事態を想定しておくべきだろう」といった、慎重すぎる、あるいは迷いのような言葉が口をついて出るようになった。姜維や王平は、そんな馬謖の変化に気づいていた。

「大将軍は、近頃、何か深く思い悩んでおられるご様子だ。以前の鋭さが、時折曇るように見えるが…」

彼らは、その理由を知る由もなかったが、最高司令官の微妙な変化に、一抹の不安を感じずにはいられなかった。


馬謖は、一人、幕舎で地図を広げ、蝋燭の揺れる灯りの下で、自身の内なる声と激しく対峙していた。予知が当てにならないのなら、自分は何を信じ、何を拠り所として、この困難な戦いを指揮していけばいいのか? 恐怖が心を締め付ける。だが、その暗闇の中で、ふと、別の感情が芽生えていることにも気づいた。それは、驚くべきことに、「解放感」とでも言うべき、奇妙な安堵感だった。

(そうだ…未来など、誰にも分かりはしないのだ。偉大なる丞相でさえ、全てを見通すことはできなかったのだから…)

予知という、得体の知れない力、あるいは呪縛。それから解き放たれ、ただ、目の前にある確かな現実と、自らの頭脳で集め、分析した情報と、そして何よりも、この身に刻まれた教訓だけを頼りに戦う。それは、恐ろしいほどの孤独と責任を伴う。だが、同時に、それは真の意味で「自分の足で立つ」ということではないのか?

(頼るべきは、不確かな未来の幻影ではない。今、ここにある現実の情報。書庫で培った分析力。街亭での失敗の教訓。そして…)

彼の脳裏に、仲間たちの顔が浮かんだ。

(そうだ、姜維のあの比類なき突破力があれば、敵陣に風穴を開けられる。王平のあの鉄壁の守りがあれば、背後を突かれる心配はない。彼らを信じ、彼らの力を最大限に引き出すことこそが、今の私が為すべきことだ…!)

馬謖の目に、迷いの色が消え、決意の光が再び宿り始めた。予知能力への恐怖が完全に消え去ったわけではない。だが、彼はもはや、それに依存し、翻弄されるだけの存在ではなくなっていた。不確かな未来の影に怯えるのではなく、確かな現実と、自らの知性と、そして共に戦う仲間との絆を信じること。その重要性を、彼はこの厳しい隴西の戦場で、血を流し、心を砕きながら、ようやく掴み取り始めていたのだ。

この内面的な大きな転換が、彼の今後の采配に、そして蜀軍全体の運命に、どのような変化をもたらすのか。それは、彼自身にも、そして敵将・鄧艾にも、まだ予測のつかない、新たな未来の始まりであった。

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