第十三話「隴西の攻防、智将の目覚め」
第十三話「隴西の攻防、智将の目覚め」
延熙十九年(西暦256年)夏、漢中の南鄭には、かつてない熱気が満ちていた。蜀漢の威信と、亡き丞相の悲願を乗せた北伐軍が、今まさに出陣の時を迎えようとしていたのだ。大将軍・馬謖が自ら率いる本隊、そして若き猛将・姜維が指揮する精鋭の先鋒部隊。その数、総勢数万。魏の大軍に比べれば決して多くはない。しかし、兵士たちの瞳には、長年の雌伏を経てついに掲げられた「漢室再興」の旗への、熱い思いと高い士気が漲っていた。成都から見送りに来た民衆の声援が、地響きのように響き渡る。
「大将軍、万歳!」「漢室を、我らの手に!」
その熱狂を馬上から受け止めながら、馬謖は兜の緒を締め直した。この期待、この重圧。そして、予知でも見通せぬ、未知なる戦いへの覚悟。彼は内心で深く息を吸い込むと、ただ前を見据え、静かに、しかし力強く号令を発した。
「全軍、出陣!」
進軍の目的地は、黄河上流域に広がる隴西の地。古来より漢民族と羌族など多くの異民族が混淆し、東西を結ぶ交通の要衝でもある。ここを制圧し、確固たる足場を築くこと。それが、関中、そして中原へと続く道を開くための、馬謖が描いた第一段階であった。
そして、その進軍は、驚くほどに慎重を極めた。馬謖は、一日に行軍する距離を厳しく制限し、常に斥候を放って周囲の警戒を怠らず、そして何よりも兵站線の確保と維持に全神経を注いだ。十分な食料と武器弾薬が、滞りなく前線に届くこと。宿営地は必ず防御に適した場所に設け、必要な物資を備蓄していくこと。工兵隊を駆使して道なき道を開き、川には橋を架ける。それは、華々しさとは無縁の、地味で骨の折れる作業の連続だった。だが、馬謖は決して焦らなかった。街亭の山上で、補給を断たれ、飢えと渇きの中で味方が次々と倒れていったあの悪夢。あの惨めな敗北を、彼は決して忘れてはいなかった。二度と同じ過ちを繰り返さない。その決意が、彼の用兵の根幹を成していた。
蜀軍侵攻の報は、魏の雍涼方面を守る都督・陳泰、そして雍州刺史・王経らの元にもたらされた。彼らは直ちに迎撃態勢を整える。孔明時代の度重なる北伐を経験している彼らは、蜀軍の戦闘能力を侮ってはいなかった。だが、今回の総大将が、かつて街亭で赤子の手をひねるように打ち破った馬謖であると知り、一抹の油断が生まれたことも確かであった。「あの若造が、今さら何を…」そんな空気が、魏軍の一部には流れていた。
しかし、洛陽で魏の実権を握る大将軍・司馬昭の判断は、より冷徹で現実的だった。彼は興勢の役での蜀軍の粘り強さと、その後の蜀の国力回復の報を軽視していなかった。そして彼は、この北伐軍を確実に叩き潰すため、対蜀戦の切り札ともいえる男を、雍涼方面へ急派することを決断した。その男の名は、鄧艾。字は士載。若き日の不遇を乗り越え、その卓越した実務能力、特に屯田政策による兵站構築の手腕と、地形を熟知しそれを最大限に活用する戦術眼によって、今や魏軍屈指の名将と謳われる存在であった。
その頃、隴西の入り口では、蜀軍と魏軍(陳泰・王経の部隊)との間で、最初の火花が散っていた。先鋒を率いる姜維は、その若き情熱と軍才を爆発させた。巧みな機動と、兵士たちの勇猛果敢な戦いぶりによって、いくつかの前哨拠点を陥落させ、魏に与していた羌族の一部族を打ち破るなど、緒戦を鮮やかな勝利で飾った。勢いに乗る姜維は、さらに敵の懐深くへと進撃し、一気に敵主力を撃破せんと意気込んだ。
だが、本営の馬謖から届いたのは、「勝利、見事である。しかし、深追いは厳禁とする。確保した拠点の防御を固め、兵站線の確立を最優先とせよ」という、あまりにも慎重な指示であった。
「なぜだ! 今こそ追撃し、敵を殲滅する好機ではないか!」姜維は幕舎で地図を叩き、不満を露わにした。しかし、最高司令官の命令は絶対である。彼は、勝利の熱狂を抑え、歯噛みしながらも、占領地の安定確保と防御陣地の構築へと兵を向けざるを得なかった。
馬謖は、目先の勝利に一喜一憂することなく、より長期的な視野で戦略を進めていた。その重要な柱の一つが、羌族との連携強化であった。隴西に広く居住する羌の民は、魏の支配に対し、常に複雑な感情を抱いていた。馬謖は、記録書記官時代に南中平定に関する記録を読み込み、孔明が武威だけでなく、恩徳と信頼をもって異民族の心を掴んだことを学んでいた。彼はその知識を活かし、複数の有力な羌族の族長に使者を送った。威圧ではなく、対等な立場からの呼びかけ。金品や食料といった実利を提供し、魏の圧政からの解放と、漢室再興という大義への協力を粘り強く説いた。全ての部族が応じたわけではない。中には魏との関係を重視する部族や、日和見を決め込む部族もいた。しかし、馬謖の真摯な働きかけは、いくつかの有力な部族の心を動かし始めた。彼らは蜀軍への協力を約束し、魏軍の後方でのゲリラ活動や、地理情報の提供といった形で、徐々にその力を発揮し始めた。この連携は、まだ不安定さを孕んではいたが、今後の戦局を左右する重要な要素となる可能性を秘めていた。
やがて、鄧艾がその精鋭部隊を率いて、雍涼の地に到着した。彼はまず、戦場の喧騒から距離を置き、自らの足で地形を確かめ、捕虜を尋問し、間諜を放って情報を収集し、蜀軍の動きと、その指揮官である馬謖の実態を冷静に分析した。そして、彼は確信した。今の馬謖は、もはや街亭の頃の青二才ではない。その用兵は老獪なまでに慎重で、兵站への執着は異常なほどであり、さらに異民族との連携にも長けている。これは、正面からぶつかって力で押し切れる相手ではない、と。鄧艾は短期決戦の誘いを避け、長期戦を覚悟した。彼はこの地でも得意の屯田政策を強力に推し進め、食料の現地調達体制を確立し、持久戦への備えを固めた。同時に、隴西の複雑な山岳地形を徹底的に調査し、蜀軍の進撃ルートを予測し、地の利を最大限に活かした巧妙な迎撃策を練り始めた。
鄧艾到着とその動向は、馬謖の元にも詳細な報告として届けられた。彼は、諜報網からの情報に加え、時折見る予知夢の断片――几帳面に区画された田畑で黙々と働く兵士たちの姿、険しい山道に巧妙に隠された落とし穴や伏兵のイメージ――から、この新たな敵将が、これまでの陳泰や王経とは比較にならない、恐るべき実力者であることを明確に認識した。
(鄧艾…士載。実務に長け、兵站を重視し、地形を読む達人か。そしてこの粘り強さ…まさに、最も戦いたくないタイプの将だな…)
馬謖は、執務室で地図を広げ、鄧艾の動きを予測しながら呟いた。その心には、強敵の出現に対する強い警戒感と共に、知将としての血が騒ぐような、ある種の武者震いにも似た感情が湧き上がっていた。
(力押しは通用しない。持久戦に持ち込まれても不利だ。ならば…)
彼は思考を巡らせた。鄧艾の強みは、その堅実さと現実的な対応力だ。ならば、こちらも現実的な手段で対抗するしかない。
(こちらの動きを読ませないように情報を撹乱し、敵の目を欺く。そして、敵が最も嫌がるであろう兵站線への攻撃を執拗に繰り返し、その持久力を削ぐ。さらに、羌族を動かし、常に背後を脅かし続ける…)
正面からの決戦は避ける。多角的な揺さぶりによって敵の態勢を崩し、その隙を突く。それこそが、この老獪にして粘り強い名将・鄧艾を打ち破る道筋に違いない。
馬謖の目は、地図上の隴西の複雑な地形、そしてその先に広がる関中の地を、かつてないほど鋭く、そして深く見据えていた。智将としての彼の真の戦いが、そして鄧艾との長く厳しい知恵比べが、今、静かに始まろうとしていた。