第十一話「星墜ち、そして大将軍へ」
第十一話「星墜ち、そして大将軍へ」
蜀漢の柱石、費禕の突然の死は、成都の都を深い悲嘆と混乱の渦に巻き込んだ。新年を祝う宴席での凶行は、あまりにも衝撃的であり、国の最高指導者を失った蜀の未来には、暗い影が投げかけられていた。犯人たる降将・郭脩は即座に捕縛され、厳罰に処されたが、それによって空いた権力の空白と、人々の心に広がった動揺が埋まるわけではなかった。
丞相府では、残された重臣たちが連日、対応に追われていた。内政を預かる尚書令の陳祗が中心となり、まずは国の秩序維持と人心の安定に努めると同時に、喫緊の課題である後継者問題――空位となった大将軍・録尚書事を誰に託すか――について、密かに議論が重ねられていた。
その頃、馬謖は自室に引き籠もり、深い絶望の闇の中にいた。費禕の血に染まった姿が、悪夢のように彼の脳裏から離れない。予知していた。警告もした。だが、結果は何も変わらなかった。自分の無力さが、敬愛する恩人を死に追いやったのだ。その激しい自責の念は、鋭い刃のように彼の心を切り刻んだ。そして同時に、あの忌まわしい予知能力への憎悪と恐怖が、彼の精神を蝕んでいた。こんな力、なければよかった。未来が見えるなど、ただ苦しみをもたらすだけの呪いでしかないではないか。彼は数日間、部屋に閉じこもり、食事も喉を通らず、ただ虚空を見つめて時を過ごしていた。
一方、この悲劇は、別の人物の胸中に複雑な思いを去来させていた。姜維である。彼は費禕の死を心から悼んだ。その穏健さは時に歯がゆくもあったが、公正な人柄と、国を安定させた功績は疑いようがない。しかし、同時に、北伐への最大の「枷」となっていた人物がいなくなったこともまた事実であった。魏の内部が揺れ動く今、この国難を乗り越え、丞相(孔明)の遺志を継いで軍事を担うべきは自分ではないのか? そんな野心にも似た強い使命感が、彼の内で頭をもたげ始めていた。
後継者を巡る議論は、水面下で様々な意見を生んだ。姜維の軍才と若き情熱を推す声はあった。しかし、その経験不足や異民族出身という点を懸念する古参の将も少なくない。廖化や張翼といった宿将の名も挙がったが、国全体の軍事を統帥するには、やや決め手に欠けるという見方が大勢だった。
そんな中、陳祗は冷静に状況を見極めていた。今の蜀に必要なのは、単なる武勇や名声ではない。国内をまとめ、着実に国力を回復させ、そして何より、姜維のような突出した才能を活かしつつも、その危うさを制御できるだけの深慮と器量を持つ人物だ。彼の心は、一人の人物へと傾いていた。――馬謖。
陳祗は、費禕が生前、馬謖の分析力と内に秘めた先見性を高く評価し、将来を嘱望していたことを知っていた。興勢の役での功績は、彼の軍略家としての才能を証明している。街亭の失敗という汚点はある。しかし、彼はその苦汁を舐め尽くし、見違えるほどに成長した。そして、あの剛直で時に猪突猛進となりかねない姜維を抑え、その力を国家のために正しく導ける可能性があるのは、この男しかいないのではないか。陳祗は他の穏健派重臣とも諮り、馬謖を後継者として強く推すことを決意した。
数日後、陳祗は自ら、馬謖の部屋の扉を叩いた。中から返事はなかったが、彼は静かに扉を開けた。部屋の中は薄暗く、やつれ果てた馬謖が、床に力なく座り込んでいた。その瞳からは、かつての聡明な光は消え、深い絶望の色だけが浮かんでいた。
「馬謖参軍、少しよろしいかな」陳祗は、静かに、しかし強い意志を込めて呼びかけた。
馬謖はゆっくりと顔を上げた。「…陳祗殿。何用でしょう。今の私には、何も…」
「いや、貴殿に頼みたいことがある。いや、頼むのではない。これは蜀漢の未来のための要請だ」陳祗は、馬謖の目の前に進み出て、真っ直ぐに彼を見据えた。「費禕様亡き後、国は大きな危機にある。我々は、熟慮の末、貴殿にこそ、その後を継いでいただき、大将軍・録尚書事として、この国を率いていただきたいと結論した」
「な…!?」馬謖は、耳を疑った。血の気の引いた顔で、陳祗を見返す。「何を…仰せられるか! 私が…大将軍に!? 馬鹿な! 街亭の敗将であり、費禕様をお救いすることもできなかったこの私が、そのような大役…! とんでもない! 私には、その資格も、力も、何もございません!」
彼は激しく頭を振り、その申し出を拒絶した。自責の念と、再び重責を担うことへの恐怖が、彼の全身を縛り付けていた。そして、あの忌まわしい予知能力。こんなものを抱えた自分が、人々を導くなど、できるはずがない。
だが、陳祗は揺るがなかった。
「資格がない? 力がない? それは貴殿が勝手に決めつけることだ! 費禕様は誰よりも貴殿の才を認め、将来を託そうとしておられた。そして、丞相(孔明)もまた、貴殿に国の未来を見ておられたはずだ! 街亭の失敗は過去のこと。貴殿はその苦しみを乗り越え、見事に再生したではないか。興勢の役での見事な采配を、もう忘れたか!」
陳祗の声は、徐々に熱を帯びていく。
「今の蜀に必要なのは、過去に怯える者ではない! 未来を見据え、困難に立ち向かう勇気を持つ者だ! そして、姜維将軍のあの類まれなる武才は得難いが、時に危うさも伴う。貴殿の冷静な判断力と深い思慮こそが、彼の力を正しい方向へ導き、国全体を安定させることができるのだ! それができるのは、今の蜀には、貴殿をおいて他にいない!」
彼は馬謖の肩を掴み、強く語りかけた。
「考えてみよ! 費禕様は何のために命を落とされた? 貴殿がここで心を閉ざしていて、どうしてその無念を晴らせるというのだ? 丞相が命を賭して守ろうとしたこの国を、このまま衰亡させてよいのか!? 貴殿が立ち上がらねば、蜀の未来はないのだぞ!」
陳祗の魂からの叫びは、馬謖の心の奥底を激しく揺さぶった。孔明の最後の言葉が雷鳴のように響く。「最大の敵は己の心にある驕り…北伐の夢を諦めるな…」。費禕の穏やかな励ましの声が聞こえる。「この経験を糧としてほしい…」。
(そうだ…私は生かされたのだ。多くの犠牲の上に。そして、費禕殿は私を信じてくれた。彼らの思いに応えるには…このままではいけない…!)
予知能力への恐怖は消えない。再び失敗するかもしれないという不安も拭えない。だが、それらを全て引き受けてでも、自分がやらねばならないことがあるのではないか? この忌まわしい力も、もし国のために、丞相の遺志のために役立てることができるというのなら…。
馬謖は、震える両手を床につき、深く、深く頭を垂れた。そして、顔を上げた時、その目には涙が溢れていたが、もはや絶望の色はなかった。そこには、重い運命を受け入れ、未来へ踏み出すことを決意した男の、静かな、しかし鋼のような覚悟が宿っていた。
「…分かりました、陳祗殿。この馬謖、浅学非才、そして大罪を犯した身ではございますが…もし、それが亡き費禕様への、そして丞相へのご恩返しとなり、蜀漢の未来のためになるというのであれば…この身、そしてこの不可解な力をも含め、全てを捧げる覚悟で、大将軍・録尚書事の重責、謹んでお受けいたします」
その言葉は、彼の再生の物語が、新たな、そして最も困難な局面へと進むことを告げる、力強い宣言であった。
こうして、街亭の敗将であり、不可解な予知の力を宿した男・馬謖は、悲劇を乗り越え、ついに蜀漢の軍事と国政の頂点に立つことになった。彼の前途には、北伐という大事業、姜維との複雑な関係、そして自身の異能との終わりなき戦いが待ち受けている。だが、彼はもう俯かない。亡き師と恩人の遺志を胸に、彼は自らの足で、未来へと歩み出すことを決意したのだ。