邯鄲の夢、覚めて煉獄 三
足裏で起こした火花が気化した毒に燃え移り、唐突な烈光が視界を覆う。
鼓膜を突き破る業火の雄叫びと、肌を突き刺す重い衝撃。甘い悪臭も、飛翔する野狗子も、何もかもを呑み込み、吹き飛ばす。
「ぐぅっ!」
膨れ上がる熱の波浪に押し出され、身体が打ち上がった。
咄嗟に身を丸め、腕で顔を庇うのが精一杯。吹き飛ばされた勢いの儘、瓦礫塗れの床に叩きつけられる。
寸前、五点倒置で身を護ったのは、長年の修行で培った血肉の業か。
「……っ!」
だとしても。痛めつけられた身体には酷。蹲った儘、冷や汗が額から滲み出る。
「……うぅっ…………っ!」
無理を重ねた身体は、既に限界を越えた。
左腕、背中、右肩、そして脇腹。内臓も些か毒に侵され、身を蝕む。
満身創痍。然れど、眠るには日付も回り、夢見るにも些か遅過ぎた。痛む五体を叱咤し、顔を上げる。
「ギャアアアッ!」
野狗子の放つ奇声が、炎が巡る瓦礫の山に響き渡る。
「熱イッ!熱イィッ!」
緑の泥の上で、水提灯が火達磨となって転げ回った。空を舞った翼は焼け落ち、残った身体も灼熱の衣に纏わりつかれる。
怪異の威容も今は昔。三尺にも満たぬ水袋は、赤い焔と緑の水蒸気に煽られる。焦げた異臭が鼻先を掠めた。
「アアッ早クッ!次ノッ、器ヲォッ!」
水袋の下から、辛うじて焼け残った腕が伸びる。裸火の帯に巻かれ、萎びた指先が瓦礫に引っ掛かる。力を入れると、弾けて潰れた。
「……諦めよ」
立ち上がったのは先。脇腹を押さえつつ、地面を藻掻く水妖に冷たく言い放つ。
彼我を分かつ、二間の隔たり。這いずる水妖にとって、険しき峰々にも勝る絶望の道程。
「いやダッ!コンナノッ、アッテタマルカッ!」
水提灯を激しく揺さぶり、空いた穴から中身が飛び散った。滴り落ちるは、汗か涙か。
「ドウシテダッ!僕ハ、人類ノうえ二、くんりんスルものナノニッ……!」
子供の我儘に等しい癇癪を繰り返す様に、冷ややかな視線を注ぐ。
――哀れ。
「あかめぇッ!きさまガッ……、ぼくのいウコトヲきケバッ!」
この期に及び、未だ求めるか。死に体を晒しても尚、他者を奪うことでしか己を保てぬ外道の邪執。
「其方は、過ったのだ」
言い聞かせる様に。静かに語りかける。
「生き続けた事が。抑、生まれ落ちた事が。人を害せねば生きられぬ、理に仇なす邪見の輩ぞ」
願って異形の生を受けたのではあるまい。とは言え、怪異の犯した非道に対する免罪符にはならぬ。
「バッ……ばか二ッ……、スルナァッ!」
当の野狗子は聞く耳を持たず、憤怒に身を焦がした。燃え盛る火の粉と共に、毒々しい悪意の怨嗟を噴き上げる。
「ぼくハッ……!ひとヲこエタッ……しんかノちょうてんッ、デッ……しはいしゃダッ!」
――此れ以上は、無駄か。
小さく歎息し、燃える水妖から視線を外した。運良く足元に転がっていた段平を拾い上げる。
いっそ、ひと思いに介錯するのが情けか。
「……いや」
白刃に欠けがないか確認しつつ、思い留まる。
身体の大半を失ったというのに、生にしがみつく異形の執念。人とは作りが違う故、何処に急所があるのか、読み切るのも困難。
果てして、どう刃を震えば息の根を止められるやら。首を捻るしか無い。
――ならば。放って置いても事足りるか。
直に息絶えるのは目に見えている。臨終に立ち会えば、其れで済む話。
だが、油断は禁物。大黒はひと欠片からでも元の姿へと戻った。野狗子が違うとは、言い切れはしない。
――どうしたものか。
煮え切らぬ思いが、切っ先を鈍らせる。止めを刺すべきか。此の儘、業火に焼かれるのを見届けるか。
「どうやら、お悩みのようですね」
背後から、くぐもった拍手の音が降り掛かった。
芯の無い、乾いた拍手。曖昧に籠もった布擦れの音が、熱風に乗って耳を打つ。火の粉の舞う中、白い手袋が煤煙の隙間に浮かんだ。
「獏……」
瓦礫の山を焼く炎の陰影が揺れ、手袋の主が、出し抜けに現出する。
熱気が滞留する紅の庭には不釣り合いな、灰色の背広姿。首元には、直ぐに忘れそうな、特徴の無い相貌が据えられた。
「見事です、赤目様」
もう一匹の怪物は口元に緩やかな弧を描き、恭しく一礼する。
「まさか、ここまで綺麗に片付けて頂けるとは。夢にも思いませんでした」
表情も精巧な仮面ならば、立ち振る舞いも造り物めいていた。不自然さを感じさせる、人形に似た動き。
「良く言う……」
弱々しく、毒吐く。
「道筋を作ったのは、其方。違うか?」
的の得た指摘に対し、獏は何も答えず。口元の笑みを絶やさず、沈黙を守る。
「……で。今更、何用だ?」
無遠慮な闖入者に、嫌悪の眼差しを投げつける。
「真逆、また横取りする気か?」
「はい。弊社の不始末ですので」
悪びれる風も無く、背広の男は肯定した。
「赤目様はどうも、お疲れのご様子。ですので、幕引きは弊社で」
「阿呆を申せっ」
声を荒げると、傷口が呻きを上げた。骨身を襲う、耐え難き痛みの嵐に、思わず眉間に皺を寄せる。
「ご無理なさらず。後は、お任せください」
「まっ!」
待て、という言葉が喉に引っ掛かった。険しき眼光を浴びせるものの、脇を通り抜ける獏の背中には届かず。既に、燃え残った野狗子しか眼中に無い模様。
「ナ……なにヲ……スルきダ……」
震える声で問い質す水提灯。頭に残った緑の泥の塊が、不規則に渦を巻く。怯えているのは明白。
「実際にお会いするのは、初めてですね」
対して獏は朗らかに。気負いの無い足取りで、無様に転がる上半身の前で止まる。
「でも、じきにお別れですが」
「あかめェッ!」
突然、水妖が吠えた。残された頭部の水流が、激しく中身を掻き乱す。
「いまスグぼく二ッ、ソノからだヲヨコセェッ!」
切迫した叫びは、残り火が爆ぜる音に吸い込まれた。
最後まで傲慢な命令に、痛む左手を眉間に添える。よもや、応じるとでも思うたか。
「無駄ですよ」
優しく、だが冷たい言葉が獏の口から淡々と綴られた。
「乗り移ったとしても、貴方の居場所はもう、弊社にはありませんから」
「ナッ……!」
白い手袋が、驚く野狗子の首根を掴んだ。其の儘、軽々と。残った緑の泥を摘まみ上げる。
「マッ……まテッ!バッ、ばくッ!」
不遜な態度をかなぐり捨て、水提灯が哀願を始めた。一縷の望みを懸け、異相の怪異に命乞いを試みる。
「ぼくナラ、キットへいしゃ二ッ……!」
「お疲れ様でした」
だが、遮るように一言。眉ひとつ動かさず、白い指が手品のように閉じる。
ぱん、と。
乾いた音がしたかと思えば、手の中にあった怪異に穴が開いた。
「コンナノ……ウソダ…………」
野狗子の残り滓が、音も無く崩れ始めた。
気の抜けた破裂を起こし、水妖は瞬く間に枯れていく。堰を切った泥流が、床に緑の水溜りを作り出した。
獏の手袋は緑色に染まった。袖口が廃液で濡れそぼつ。床を跳ねる汚泥で汚れる足元。
其れでも。獏は気にも留めず、零れ落ちる命脈を黙って見つめる。
「ぼくハ、えらバレタ、じんるいの……。しんかノ……」
失う体液が増えるにつれ、水妖の譫言が徐々に小さくなる。
逆に、残った緑の泥は体内を駆け上がった。水提灯が膨らみ、大きな眼球へと変わる。
「ヨコセ……。ソノからだ、ガアレバ……」
最後の悪足掻き。其れも、長くは続かない。
「ぼく……ハ…………」
見開く眼球も力尽き、最後に泥となって黒く焦げた床に落ちた。
呆気ない、野狗子の最後。
人を超えたと嘯いた怪異の、無惨な末路。
「……塵ひとつ残さぬ、か」
獲物を奪われた恨み半分、残りは感嘆。複雑な心境が入り混じった、短い溜息を漏らす。
だが、獏からの反応は皆無。穢れを免れた片方の手袋が、懐から手巾を取り出した。何の変哲も無い布地が、汚れた衣服の表面を撫でる。
ひと吹き。其れだけで緑の痕跡は、跡形もなく消え失せた。
「其方が最初から出張れば、もっと早く片付いたのでは?」
「いえいえ」
獏は死地に不釣り合いな声を上げ、軽やかに手袋を横に振る。
「すべては、赤目様のご尽力のおかげ。弊社はサポートしたに過ぎません」
「思ってもない言葉を吐くのは止めよ」
獏の顔を見据え、静かに間合いを詰めた。悟られぬ様、乱れた呼吸を丹田に沈める。
「……何故、けしかけた?」
其れでも、腑に落ちぬ違和感を問わずにはいられなかった。
「野狗子の叛意に気付いたとて、其方ならば容易に倒せた筈」
言葉を切り、獏の被った仮面を見る。変化無し。作り物の微笑みを崩さず、黙って見詰め返す。
「だが、敢えて放置した。しかも、自ら手を下さず、部外者に汚れ役を任せた」
相手の奥底を覗く様に、双眼を細める。
「何故か?答えよ」
沈黙が、火の手が回る焦熱の檻を駆け巡った。額から汗が吹き出し、頬を伝う。
獏は何も答えない。
手袋の片方を顎の下に当て、少し首を傾げる。落ち着かせようとするのか、本音を見せぬ為か。
「……赤目様。それは少々、買いかぶりでございます」
やっと出た言葉は冷え切っていた。
ゆっくりと両手を開き、悲しく訴えるかの様に、肩を竦めてみせる。
「お恥ずかしい話、弊社も失敗作の対応したのですが、すべて後手に回りまして」
「ならば。外に騒ぎのひとつも無い理由は?」
真。耳に届く音は爆ぜる火の粉と、吹き抜ける風切り音のみ。
「建物が崩れる程の爆発と火災。其の前には事故もあった」
視線を横に動かし、開けた建屋の群れを指す。
「弊社とやらの対応が遅いならば、疾っくに警察や消防が飛んで来るのが道理」
にしては、静か過ぎた。遠くで鳴る警笛すら、御上の耳に届かぬとは思えぬ。
「其方ら。先回りして止めたな?」
疑いの目で仮説を口にすれば、獏は柳に風と受け流す。
「さて?行政サービスは弊社の管轄外でして。弊社へのクレームは困ります」
「無能にしたのは、態とであろう?」
白々しい態度に、更なる追撃を加える。
「野狗子の手足であった淡緑を、赤鬼に襲わせたのも同じ」
あの時も、全てが終わった後に御上の警笛が聞こえ始めた。
「更に言えば。警察に流れた『GB』の動きも潰した」
だとすれば。ひとり気を吐いた松平も、哀れな被害者かも知れぬ。
見当違いな正義感を振り翳した白蛇にも問題はあろう。が、其れを差し引いたとて。御上の幕引きは少々、強引過ぎた。
「全ては、其方ら弊社が裏で糸を引き、世間を操った。野狗子の、失敗作の力量を推し量る為に」
「……赤目様のお言葉、何か根拠はございますか?」
獏の声に僅かな揺らぎ。白い顔に埋まった双眼がすぅ、と細められる。
「何も。単なる勘よ」
真。自嘲を込め、両肩を落とす。
結局は荒唐無稽な絵空事。根拠の無い戯言と誹るならば、其れ迄。
「だが、降り掛かった出来事を継ぎ接ぎするには、一番しっくりくる故」
尤もらしい言葉を並べてみたものの、結局は推測の域すら達しておらぬ。其れだけ、知らぬ事が多すぎた。
「実の所、どうなのだ?思い違いならば、違う、とだけ言ってくれれば良い」
確証など無い妄言に突き合わせるのも野暮。息を継ぎ、相手の出方を待つ。
「……残念ですが、赤目様」
だが。獏が口を開くには、少々、時間を要した。
「その件に関しまして、お答えすることは出来ません」
「……何故?」
思いがけぬ言葉に、不穏な影が脳裏を過ぎる。
「弊社の秘匿義務に抵触しますので」
申し訳ございません。と、深々と頭を下げる獏。肯定も否定もせず、腰を直角に折り曲げる。
酷く不自然な、事務的な謝罪。だが、何方付かずの返答が、雄弁に物語った。
「……巻き込まれた者を、何だと思っている?」
義憤が、燃料となって全身に熱を伝える。
「野狗子を先に止めておれば。永見は怖い目になど合わずに済んだ」
一度、疑ってしまえば止め処を失う。
野狗子が永見を攫う理由など、端から無かった。別の誰かが、入れ知恵した疑惑が鎌首を持ち上げる。
「あの怪異を野に放たなければ、間宮も無様な最後を迎えなかった」
段平を握る右手に、力が戻った。空となった筈の丹田に、気力が注ぎ込まれる。
「間宮の取り巻きも、淡緑も。其方の思惑に踊らされた挙句、徒に骸を晒した」
獏に対する憎悪が沸き立ち、自然と足を前へと動かした。決して目は逸らさず、ゆっくりと。足元が覚束ぬ乍らも、着実に。
「そう、言われましても」
人を模した怪異は困ったように、わざとらしく嘆息した。
「弊社の社会的貢献には、必要な犠牲となります。どうか、ご理解のほどを」
「貴様っ!」
残る力を振り絞り、深く踏み込んだ。
確かな殺意を込め段平を一閃する。狙うは、獏の首。
手応えは、有った。筈だった。
「……ご満足、いただけましたか?」
――だが。
眉ひとつ動かさず、微動だにしない背広姿の怪異。首と胴が離れぬ事実に、決死の一撃を加えた身が固まる。
斬った感触は手の中に残った。なのに、異相の男は微笑む首を乗せ、平然と立っているではないか。
「……何故……っ」
答えは、直ぐ目の前。軽く、余りにも軽くなった右手が震える。
――有り得ぬ。
口の中が、瞬時に乾く。
刺青の形見であった段平の刀身が、根本から霧散した。
まるで、最初から存在しなかったかの様に。残された鍔と柄だけが、獏の首元に触れていた。
「……くっ」
瞬きも出来ず、掠れた声が喉の奥で凍て付く。
「それとも、ご不満がまだおありでしょうか?」
獏は差して気にする素振りも無く、言葉を重ねた。影絵に似た、実存感の希薄な声音。
音も無く膝から崩れ落ち、塵の積もった瓦礫の上に正座する。
――勝てぬ。
張り詰めていた糸が切れた。支えていた気概が、砂塵となって吹き飛ばされる。
五体無事ならば、などという言い訳以前。
何しろ、どう倒せばよいか、全く見当が付かず。百遍、獏と対峙したとて、退治する手掛かりすら得られぬであろう。
そう思わせる程の、神忍の爺様すら凌駕する脅威が、彼我の間に横たわった。
「ああ、ひと言、忘れておりました」
心を折られた男を見下ろし、獏は労いの声を掛ける。
「永見嬢は無事でございます」
其の一言で、失った生気が戻る。
「……真か?」
灰色の怪異を見上げれば、静かに頷いた。
「弊社が匿名で通報したようで。警察に無事、保護されたようです」
淡々と言葉を紡ぐと、胸の物入れから懐中時計を取り出した。
「これで赤目様と契約は終了となります」
蓋を開け、時間を確認する。
「望まれました通り、二度と会うことはないでしょう」
一瞬、獏は自ら仮面を剥いだ。
其れは満足気な、そして残忍な笑み。全てを見透かし、掌の上で転がした超越者の眼差し。
――嗚呼、分かった。
正に今。獏に夢を、思いを喰われたのだ。
怪異を打ち倒すという、途方もない夢を。
「それでは。これにて失礼いたします」
間髪を入れず、獏は元の表情を作り直した。垣間見せた悪意を瞬時に塗り潰し、能面の如き無機質さを取り戻す。
「赤目様。お休みなさいませ」
軽い会釈の後、超越した者は颯爽と踵を返した。もう此処に用は無い、と背中が語る。
「……ま、待て」
呼び止めるも、怪異は止まらない。振り返る事も無く、揺らぐ陽炎の狭間へ。
「獏……っ!」
指先を伸ばすも、虚しく空を切った。喉を震わせた咆哮も届かない。
灰色の背広は蜃気楼の様に、忽然と姿を消した。
この作品はフィクションです。登場する人物や団体、事件はすべて著者の想像によるものであり、現実のものとは一切関係ありません。実在の人物や団体、場所、出来事との類似がある場合でも、それは単なる偶然であり、意図的なものではありません。




