邯鄲の夢、覚めて煉獄 二
硬い感触が拳に食い込み、髑髏が砕ける。白波立つ水表が、内側から爆ぜた。
憎き仇敵の、野狗子の仮面を、緑の汚泥ごと叩き潰す。
「ゴォッベェッ!」
水提灯の言葉は、果たして人間のものであったか。水提灯の中にある鋼の髑髏を歪ませ、大きく後ろへ吹き飛んだ。可怪しな具合に首が曲がり、泥と肉片と鉄塊で捏ね上げた巨体が転がる。
「グッ、バアァハァッ!」
波濤を思わせる破音と共に照明がちらつく。傾いた床も相まり、止まらない衝撃を嵌め込み窓が受け止めた。荒波が打ち付ける様に、白い割れ目が縦横に走る。
「……ぐぅっ」
追い打ちの好機に、片膝をついた。
身体が意思に追いつかない。経絡は乱れ、肉体は泣き言を漏らし始めた。望まず打ち込まれた毒が全身に回り、吐き気を引き起こす。噎せた咳に、赤いものが混じった。
――摩利支天の加護が無いだけで、此れ程に辛いのか。
両肩で大きく動かし、息を整えるのが精一杯。苦しさと共に面当てを剥ぎ捨て、口元の血を乱暴に袖で拭う。
『どうやら、肚を定めたようだな』
此の期に及んで囁きかける、異相の声。
『聞かせて貰おうか、赤目忍。貴様は、どう死ぬ?』
――知らぬ。其れより、奴を倒すのが先決。
真。丹田に力を込め、失った気を練り直す。
あの、悪意で膨れ上がった化物を生かしてはならん。世に放てば、再び永見に、ひいては自らに害が及ぶ。
故に、此の手で息の根を止める。
でなくば、溜まった鬱憤は晴らせぬ。
――だから、邪魔をするなっ!
言うことを聞かぬ膝を持ち上げ、段平を前に突き出す。
決意を伝えれば、異相は何も言い返さず。幼な過ぎた物言いに、閉口したのかも知れぬ。
其れはゞで幸い。何しろ、立て込んだ厄介事は終わってないのだから。
「……クゥッ、……フフッ……ウアァハハァッ!」
床に寝転がった野狗子が不意に嗤い出した。最初は小さく、徐々に大きく。
「スゴイナ……。これガ赤目ノ、器ノミナモトッ、カァッ!」
ぎちぎち、と。痙攣する異形の頭を上げる。髑髏に浮かぶ黒点が妖しく潤んだ。
「アア……欲シイッ!ソノ肉体ガアレバッ、獏ニダッテ勝テルッ!」
「……未だ、言うかっ」
嫌悪の色で、野狗子を睨む。怪異は愉悦に鉄歯を打ち鳴らし、立ち上がる。
と、片腕が捥げた。呆気なく、音も立てず。緑色の膿肉が床で潰れ、べちゃり、とした土塊と変わる。傷口が泡立つものの、再生する気配は微塵も無い。
「……オヤ?」
髑髏が不思議そうに顎を鳴らす。
「……コノからだモ、ソロソロ限界カ」
感慨深げに獲物を見やる。怪異の黒き眼窩には何が映っているのか?ひょっとしたら、不敵に頬を緩めた忍び崩れかも知れない。
相手は片腕だけとは言え、腕が落ちた。一方的に手負いでは無い証左。少しだけ安堵し、乾いた唇を舐める。
「早ク彼ヲ、僕ノ一部二、シナイト」
「戯言を繰り返すな」
足元に転がる段平を蹴り上げ、空中で掴んだ。ひと振りで泥を振り払い、甘く蔓延る妖鬼に切っ先を突き付ける。
威勢良く構えるも、身体の軸は定まらず。指先にまで回った猛毒が小刻みな震えを呼ぶ。
「くれてやる気など、無い」
だとしても。荒い息で答える。外道に落ちたとて、最後の一線を超える気は毛頭ない。
「抜カセッ!」
野狗子が迫った。
水妖を纏った骸骨は、残った片腕も身体に取り込んだ。人形を捨て、背から無数の茨蔦を生やす。
「喰ワセロォッ!」
重い足音を轟かす。近付くにつれ、髑髏を覆った水提灯が縦に割れた。
天頂から腹の下まで、一直線に亀裂が入る。大きく広がる口腔に鉄の牙が並び、粘り気を帯びた涎を撒き散らす。
「赤ァッ目ェッ!」
湿り気を帯びた低い声が欲望を撒き散らし、襲い掛かった。牽制も読みも無い、一直線に押し寄せる暴食の津波。
狙いは――首かっ!
「くぅっ!」
段平の刃を立て、峰に左腕を押し当てる。引くのは駄目。圧し切る勢いで頭から突っ込み、染み付いた忍びの動きで怪異の大口を斬り払う。
「グオォッ!」
擦れ違った野狗子から溢れる呻き。太い足が縺れ、前のめりに倒れた。ずん、と鈍い振動が回廊中に響く。
「クゥッ!シブトイやつメ゙ッ!」
蔦を器用に使い、のそり、と肥えた袋を持ち上げた。縦広の裂口が憎しみを込め吠える。
「其の言葉、そっくりお返しする」
段平の刃を青眼に構え、牽制する。
一動作で簡単に息が上がった。四肢の動きも鈍く、鉛を背負ったかの様。悟られまいと意気がるのがやっと。
互いに決め手に欠けた。
立ち位置を入れ替え、一歩も動かない。いや、動けずにいた。自然、睨み合いが始まる。
何方が先に音を上げるか。不毛な我慢比べ。
だが、張り詰めた静寂も長くは続かない。
「ナァッ!」
不吉な地鳴りと絶え間ない振動。回廊全体が沈む。
「くぅっ!」
照明が闇に飲まれ、壁に大きな亀裂で引き裂かれる。床は細かく抜け落ち、頭上から大きな破片が降り注いだ。
遂に、終わりが始まった。
今迄とは違う、地響きを伴う絶望的な縦揺れ。形を失いつつある四方の割れ目から、鉄と油の匂いを孕んだ熱風が荒く吹き込む。
「ナッ、ナンダッ!」
野狗子は狼狽えた。太く短い足は一歩も動かず、只立ち尽くすのみ。
「くうっ!」
考えるより先に身体が動いた。戦は二の次。丹田を燃やし尽くす勢いで、練った気を全身へ送る。
崩れゆく壁の動きを見極め、生じる隙間に身を捩じ込んだ。踏む端から消えていく床が追従する。
だが、足りぬ。
崩れ落ちる床を蹴り、次の足場へ。道なき道を走る最中、背負い鞄の紐に段平の刃を当て、引き裂いた。中身を探す暇など無い。
――此れっ!
零れ出す道具の中から、目当ての鉤縄を掴む。残りは裂けた鞄と共に奈落へ吸い込まれた。
未練は後回し。鈎縄を左手に引っ掛け、段平は右手に。
「マッ、待テェッ!」
背後で野狗子の怒号が炸裂した。回廊が形を失う中、執念の絶叫が濛々たる粉塵を貫く。
振り返れば、異形の大口は未だ落ちず。惨状を顧みる事もせず、背から伸ばした無数の蔓草で巨体を宙に吊る。
「イサギヨクッ、明ケ渡セェッ!」
緑の先鞭が追い越し、僅かに残る道を閉ざした。蜘蛛の巣状に巡らされた捕食の罠が取り囲む。
まるで、毒蜘蛛の巣。今や野狗子の身体全体が、忍び崩れを取り囲む大きな網となり、檻と化した。
――いい加減にしろっ!
身を固定する蔦を巻き取り、後方から詰める腐肉の気配に舌打ちする。上下左右、逃げ場も無ければ、避ける足場も見当たらない。
「モラッタアァッ!」
飲み込まんとする異形の顎は、もう眼と鼻の先。じっとしていれば喰われるだけ。万事休す。
――伸るか、反るか。
覚悟を決めた。
残った足場を捨て、何も無い宙へと飛び降りた。重力に導かれる儘、五体は瓦礫と灼熱の夜空へ舞う。
「ヌゥッ……、ウァアァッ!」
裂けた口が、絶望と驚愕を綯い交ぜた声を上げる。
完全に慌て、取り乱す野狗子の声。触手が一本、物凄い勢いで追いかけて来た。命を狙うのでは無く、救うかの様に。
全て、読み通り。
掬い上げんと胴に絡みつく巻き蔓を、段平で突き刺す。樹液が吹き出し、甘臭い瘴気が鼻腔を襲う。
「グギャァッ!」
怪異の悶絶に合わせて暴れ、のた打つ緑の触手。荒ぶる蔓代から振り落とされないよう、力を込めた右手を軸にして逆上がり。動く茎幹を足場とし、再び駆け上がる。酷く不安定な綱渡り。
「オッ……オノレェッ!」
野狗子は行く手を遮らんと、残った棘茎を全て攻撃へ転じた。妖躰を支える蔦が減り、がくん、と大きく揺れ落ちる。
――なんのっ!
何とか転落を食い止め、怒れる触手の攻撃を避けつつ別の蔦へ。剥き出しとなった支柱に根を張る親蔓へ飛び乗るや否や、足場を切り落とす。
「クゥッ、ソォッ!」
一本、二本。九郎義経が乗り移ったかの如き八艘飛び。舳先の代わりに緑の足場を次々と傷付け、崩落を免れた鉄骨の梁へ向け飛び移る。
「ヤッ……ヤメロオォッ!」
――止める阿呆が、何処にいる、と?
一番太い幹を段平で斬り捨て、宙へ踊る。最後の数歩は諦めた。投げ放った鉄の爪が、形の残った瓦礫の縁へ食い込む。
「ウワァッアアァァッ!」
瓦礫と埃の上を振り子の様に翔け抜ける中、野狗子の断末魔が爆発音に掻き消された。
正に今、怪異の檻が崩れ落ちる。
「ナンデッ、ナンデェッ!」
残った残骸に縋ろうと茎を伸ばすも届かず。緑の泥は為す術も無く、奈落へ吸い込まれ、消えた。
静寂が俄に訪れた。
正確に言えば、崩壊の残響はある。ただ、喧しく、鼓膜を煩わせた声は途絶え、鼻を腐らせる悪臭が幾分か薄まった。
「……ハァッ……」
肺が大きく膨らみ、萎んだ。全身に激痛が走る。どうにか足で床を踏めば、吐き気が込み上げて来た。
耐えられず、吐く。
滲んだ血と、淡い緑の毒が胃液に混ざった。頭の奥で、硬いものが挟まったかの様な不愉快な鈍痛が脈を打つ。
だが、意識だけは保つ事が出来た。
膝から力が抜ける。破片と塵芥が敷き詰められた床に、腰からへたり込んだ。
「……生きて、るのか?」
呟くことで、ようやっと実感が湧いた。
気になる身体の位置に視線を向ける。
左指は紫色に変色。右手の傷口も痛々しい。首筋から滲む赤い血は襟元を汚した。背中も灼ける様に熱い。
だが、心臓は鼓動を繰り返す。
毒に侵され、蝕まれたものの、五体は自分の意思で動かせられる。
赤目忍である儘、此処に居る。
「……いや、未だだ」
喜びを噛みしめるのを途中で止めた。
大黒の例もある。此の目で亡骸を確認するまでは、油断は禁物。
誰も見てないのを良い事に、裂けた断崖の際まで移動した。ぽっかりと空く大穴から下を覗く。
視界に広がるのは、一面に広がる瓦礫と熱波。緑の粘液も、醜悪な肉塊も、鉄で出来た骸骨すら見当たらない。
全てが闇に呑まれ、動くものは何ひとつ無い。
無い、筈だった。
「……何?」
奈落から吹き上がる欠片に、背筋が凍る。
「……嘘、……であろう?」
信じたくなかった。悪夢の再来を。
底から緑の疾風が吹き荒れた。黒い影が夜空を斬り裂く。業風に煽られ、屁泥の飛沫が舞い散った。
「ギャハハハァッ!マタ落トセルト、思ッタカァッ!」
怪鳥は上昇し切ると、宙返りして急降下。眼前で翼を羽ばたかせ、眼前で姿勢を変えた。
「二度モ、同ジ手ヲ食ウ、僕デハァッ、ナアァイッ!」
漆黒の空に、野狗子の高笑いが響く。
其処に水提灯の名残りは微塵も無い。開いた割れ目を更に大きく裂き、肋骨から伸ばした半透明の皮膜を羽撃かせる。
芯としていた鉄の骸骨と肉片を失い、小さくなったものの、腐った悪臭は健在。水妖は、蝙蝠を思わせる飛翔体へと変貌を遂げた。
「……化物め」
「ナントデモ、イウガいいッ」
中央に浮き出る、染みの様な模様が嘲笑う。間宮を思い出させる、卑しい面影。
「きさまトイウ器ガアレバッ、ヤリ直セルッ!」
羽が大きく震えた。風を巻き上げ、頭上へ高々と舞い上がる。
「クゥッ、クゥッカアァッ!」
一気に高度を下げ、凄まじい勢いで滑空を始めた。轟音を纏った暴力を正面から受け、勢い良く背後へ弾き飛ばされる。
「――――っっ!」
鉄筋の浮いた壁に強く叩きつけられた。何も出来ぬ儘、緑の水溜りへと投げ出される。
息が詰まり、口内に鉄の味が広がった。段平が手から離れ、澄んだ音を立て遠ざかる。
「カナリ手間ヲ、カケサセテクレタガ――」
野狗子は瓦礫に足を降ろし、ひと鳴き。全身から緑の涎を垂らし、染みで出来た顔が愉悦に浸る。
「最後ニ笑ウノハ、僕ノヨウダネ」
「そうとは……限らんぞ……」
途切れゞ。じん、とした熱が脇腹に広がる。折れたか、そうでなくとも罅は入ったか。
――だとしても。
壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。左腕に絡みつき、離れなかった鈎縄を右手に持ち替える。
鉄の爪が、じゃきり、と音を立てた。
「クッ、カカヵァッ!ソンナからだデ、何ヲスル気カネ?!」
「……貴様を……倒す手立て」
染みが、ぶくり、と波を立てる。
「アキラメロッ、赤目ッ!おまえノ、負ケダッ!」
「…………諦めは……悪い方でな……」
真。地を這ってでも、生き足搔くのが性分。生きて帰るのが、忍びの慣わし。
「……ぎりぎりデ生カスつもりダッタガ、気ガ変ワッタ」
全身を濡らす緑の薄膜が、忌々し気に蠢いた。殺気を皮膜に張り付かせ、体内の泥水を掻き乱す。
「きさまハ、殺シタあとニッ、身体ヲモラウッ!」
「やれるものなら……やってみろ……」
右手に構えた爪を前に突き出し、低く身を沈める。
「クゥワアァッ!」
野狗子は翼に怨念を込め、再び大きく飛び跳ねた。再び天空へ飛翔し、先程よりも高く舞い上がる。
「死二ィッ、サラセェッ!」
不吉な風切り音と共に、頭上から野狗子の悪意が降り注ぐ。
「……断る」
呻きと共に、痛む右腕を持ち上げた。手にした鈎縄を回し、天に向かって投げる。
直上の突き出た鉄管に、爪が掛かった。漏れ落ちる毒滝の向きが変わり、水妖から半身を隠す。良き塩梅。
「なにヲスルカと思エバッ!むだダアッ!」
怪異は吼えた。首筋を狙う、薄く研ぎ澄まされた緑の翼。首を刎ねる算段か。
――今っ!
最後の力を足に込め、縄を強く引いた。壁を蹴り勢いをつけ、再び空中へと舞い上がる。
拍子で配管から鈎爪が外れた。五体が緑の滝を越え、夜天の頂へ。
「ばかメ゙ッ!」
濁った泥の羽を動かし、怪鳥が軌道を修正した。多少の動きでは狙いを外さず、殺意を孕んだ翼を反転させる。
ーー狙い通りっ!
野狗子の翼が届くより先に、落ちた鈎縄の爪と交錯した。眼前を通り過ぎ、足元へ至る瞬間、踵で勢い良く蹴り飛ばす。
鋼鉄の爪と、足裏に仕込んだ硝石が激突し、鮮やかな火花が散る。
其れだけで良かった。
空中に満ちた緑の毒霧が、即座に引火する。爆発的に広がる焔の幕が一帯を飲み込む。
「ナッ……」
言葉を発するより先に、紅蓮の壁が怪鳥を包み込んだ。
この作品はフィクションです。登場する人物や団体、事件はすべて著者の想像によるものであり、現実のものとは一切関係ありません。実在の人物や団体、場所、出来事との類似がある場合でも、それは単なる偶然であり、意図的なものではありません。




