邯鄲の夢、覚めて煉獄 一
逃げる。暈けた白灯の下、一色の世界が続く通路の中を疾走する。
違う色は時折見える、嵌め込み窓から覗く漆黒のみ。其処も立ち上る黒煙が不吉な影絵を躍らせた。
――成程。
息が熱いのは、何も疾駆だけでは無いらしい。建物全体に、火災の熱が回っているのは確か。焼ける鉄の匂いが面当て越しにも伝わる。
「赤目ェッ!」
野狗子は追って来た。毒と執着心を撒き散らし、背面から肉薄する。弛んだ水袋を揺らす音が耳を煩わせた。
「逃ガス、モノカァッ!」
水提灯の中に浮かぶ髑髏が気を吐く。爛々と燃える害意を感じ取り、身を屈める。頭上を丸太の様に太い緑の上腕が通り過ぎ、通路の壁と窓硝子を粉砕した。
――此の儘では、じり貧か。
歯の奥に挟まる焦燥感。単に逃げただけでは、何れ追いつかれる。
反撃の切っ掛けが欲しい。状況を打開する一撃が。
機会は早くやって来た。
「せいっ!」
呼気を鋭く、曲がり角を勢い殺さず折れる。直後に壁を蹴り上げ、身を高く。
天井の照明に足を置き、天地を逆様へと変えた。動かぬ左手も、口元の息を隠すくらいには使える。
「ナッ、消エタッ?!」
僅かに遅れた野狗子は獲物を見失い、突き当りで足を止めた。自分の目が信じられぬか、頭の水鉢を激しく揺らす。
「ド、どこダ⁈」
辺りを必死に睨め回すも、頭上は留守。全くの隙だらけ。
――仕掛けるなら、今。
天井から足を離し、頭上へ。鉄の髑髏に段平を振り下ろす。
刃は泥水と鉄の骨を裂いた。脳天から股下迄一直線。深い剣戟が吸い込まれる。
道の折れ目を利用し敵の目を欺き、隙を生じさせる。観音隠れの術の応用。
「ギャアアアアアッ!」
野狗子が絶叫を上げ、身を捩らせた。確信の手応え。怪物の命を奪うまではないものの、怪異を怯ませるさせるには十分。
着地と同時に間合いを詰める。足に力を込め、次の斬撃を準備する。
だが、振るえず。不意に邪魔が入る。
『阿呆が』
突如として頭蓋に響く、爺様の不穏な声。
「なっ!」
訝しむ暇すら与えられず。腕が沈み、膝が砕けた。不意に腰から力を失い、肩が重くなる。
全身から力が抜ける。左手の痛みがぶり返し、背中が熱く、軋む。
――何故っ!
関節が鈍り、鉛を背負う感覚に息が止まる。折角の好機だと言うのに、後退るしか無い。
『下愚。正しく、下愚』
『摩利支天の加護、何時までも続くと思うたか?』
淑女と壮年。揺れる床から、崩れる壁から白い気配が忍び寄り、四肢に纏わりつく。
「グオォッ!」
臍を噛む隙に、野狗子の背中へ与えた傷口が大きく泡立ち、瞬く間に癒着していく。
――元の木阿弥かっ!
機を逸した。目論見は潰え、死地へと反転する。
「オノレェッ!」
水提灯の憤りに、正心の囁きが重なる。
『忍びに非ざる者』
『忍びの業、使う勿れ』
童と爺様。見えざる手が、重くなった身体を更に締め付ける。
「ちょこまかトォッ!」
大振りの拳が唇の横を擦り抜けた。烈風が頬を斬り、鮮血が飛沫く。
常ならば軽く躱せていた打撃。
――不味い。
内と外。両面からの挟撃に、不利を悟る。此の為体では嬲り殺されるのは確実。後ろへ飛び退き、間合いを切るしか無い。
然れど。正心を欠いた代償に、五体は思う様には動かず。
「遅ォイィッ!」
水提灯が踏み込みと、回廊の振動が重なった。大きな揺れで床が傾く。予期せぬ地変に足を滑らせ、壁際まで追い遣られる。
「くそっ!」
慌てて立ち上がるも、既に手遅れ。
「むだダアァッ!」
野狗子の突き出した右腕が広がった。文字通り。人腕の体を捨て、幾つもの太い泥鞭へと変化する。
投網の様に襲い掛かる、膿んだ泥の束。眼の前で四方へ割れた攻撃に、逃げ道などあろう筈も無い。
「しまっ!」
重い泥の切っ先が四肢に打つかり、絡みついた。両腕と右足。粘質の塊が、身体の自由を殺ぐ。
「ヤット、捕マエタゾッ」
膿んだ水面に浮かぶ骸骨の、黒い眼窩がゆらり、と喜悦で揺れた。波立つ顔色は緑泥に沈んでいると言うのに、至福であるのがひと目で分かる。
「サァ。覚悟ハ、いいカネ?」
『最期のけじめ。果ての禊』『今、此処で選べし』
正心の断罪が、水提灯の宣告と重なる。
「僕ノ一部ト、ナリタマエ」
『忍びとして死ぬか』『忍びを棄て、死ぬか』
「選べる訳……、無かろう」
真。到底、呑めぬ沙汰に、悔し紛れの呟きが口から漏れる。
「アア。選ブノハ、僕ダカラナ」
頷く頭に嘲笑を混じらせる野狗子。其の背から太い茎が生え伸び、畝った。幾つもの棘を持つ、薔薇を思わせる長い管。違うのは、花弁がひとつも無い所か。
「サァ。はっぴーえんどヲ、始メヨウ」
喜びに満ちた響きと共に、無花の茨が首に巻き付く。犇めく棘が皮膚を抉り、肉を食い破った。
「がぁっ!」
何かが入ってくる感触。熱した何千本もの針が、血管を傷付け溶けていく。内側から焦熱地獄に炙られる、熱く、鋭い激痛。
「――――――――っ!」
今迄発したことのない、高音の絶叫が喉から迸る。
得も言えぬ激楚に、視界が揺さぶられた。臓腑が全て裏返り、中身を掻き回す。其れでも、体内を蝕む蹂躙は収まらない。
「オオッ、これハッ!」
絶頂の表情に変わる野狗子と反比例する様に、全身を駆け巡る毒が容赦無く意識を削ぎ落とす。
最早、五感は使い物にならず。全身に纏わり付くのは、ねっとりとした不快な泥濘。息を吸うのも痛く、甘く燻る毒が命脈を犯す。再び嘔吐するも、喉の奥まで粘液が詰まり、咳き込む事すら能わぬ。
緩やかな死の抱擁。術無く瞳孔が裏返り、視界が反転する。
「……素晴らしい」
脳幹の裏側で、知らぬ男の声が響く。
幼少の、忍びの修行とは違う記憶。だが、我が事のように思い出せる。
ゆっくりと意識を開けば、無機質な白い床と硝子の壁。透明な檻を挟み、見上げる白衣の群れ。
妙な感覚が全身を支配する。
まるで、別の生き物へと生まれ変わったかの如き、変異した肉感。少なくとも、人間の知覚とは全く違う。
耳が無いのは直ぐに理解した。なのに音を拾えるのは、肌が聴覚を持っているから。いや嗅覚、味覚も。海月の様に透き通った肌には、全ての感覚が備わっていた。
――何が、起こってる?
必死に抗うも、指ひとつ動かせず。自宅の居間で映像を眺めるかの様に、物事が進む。
此れは……夢?其れ共……、誰かの記憶?
「身体能力の向上、超回復、そして記憶の奪取能力も確認できました」
淡々と語る声が次第に熱を帯びた。
「……所長」
「ああ……」
白衣の一団は、中央に陣取る人物へ視線を集めた。細眼鏡を懸けた彼は感慨深げに頷く。
「間違いない……成功だ」
彼の言葉で、一斉に歓声が沸き立った。
「やりましたねっ、所長っ!」
「これで、獏に大きな顔をさせませんよっ!」
次々と駆け寄り、細眼鏡へ惜しまぬ賛辞を捧げる。拍手の輪が自然と生まれた。
「みんな、ありがとう……」
温かい祝福に、眼鏡を外して喜びの涙を拭う。
「さぁ、所長っ!さっそく名付けを!」
「ああ……」
白衣のひとりに促され、細眼鏡が強い眼差しを向ける。
「検体コード、V-6Q。呼称は、そうだな……『野狗子』としよう」
再び湧き上がる喝采の渦。その中心で、細眼鏡が満足そうに頬を緩めた。
「これで、獏の鼻をあかせるぞ」
「失敗だ……」
瞬きすれば、様相が一瞬にして変わった。場所は其の儘に、細眼鏡が生気を失った顔で項垂れ、頭を抱える。
「所長!諦めるのはマダ早いですよっ!」
漏らした弱気に、若い白衣の男が声を荒げた。
「まだ改良の余地はあるハズですっ!そうすれば、獏だって超えられますし、弊社も……」
「ムリだ」
自らへ投げかけられた励ましの言葉を遮り、首を横に振る。
「元々の効率が悪すぎる。能力を少し使うだけで、動体が簡単に損壊するのでは、使い物にならん」
「では……、彼は……」
「廃棄、だろうな」
力無く、肩を落とす。
「近く弊社も、同じ判断を下すだろう……」
再び同じ場所が映し出された。先と比べ、視線が低い。感覚も混在せず、独立している。
此れは別の記憶……大黒のか?
「た……助けて……」
白と赤に彩られた背景で、命乞いする白衣の男。涙と汗で汚れた顔の眼前に銃口を突き付ける。
「ケッ!」
躊躇い無く撃ち殺し、床に転がった死体を蹴り飛ばす。
「人間ふぜいがっ!弱いクセにイバりやがってっ」
上から唾を吹きかけると、隣の鷲鼻が顔を顰めた。
「キッタネェなぁ。かかったらどうする気だよっ」
黒焦げの死体を投げ捨て、不満気に鼻を鳴らす。生意気な態度に、大黒は気分を害した。
「あぁっ?文句言うんじゃねぇよっ」
「はぁっ?!ケンカ売ってんのか?」
威勢のいい言葉で鷲鼻が詰め寄ってくる。クソッ、弱いクセしてイキリやがって。
「ふたりトモ、けんかハヤメロ」
序列を分からせてやろうかと、拳を振り上げた所に、野狗子が割り込んだ。三人の中で唯一の名持ち。いや、元、だ。
「うっせぇなっ!しゃしゃり出てくんじゃ……」
腕捲くりする鷲鼻の鼻息が一気に萎んだ。捕まえた研究員を頭から貪る野狗子に、視線を外す。
「まぁた着替えかよ」
皮肉を込め、大黒は戯けてみせた。
「今日だけで何度目だ?そんなんじゃ、残したヤツも、あっという間だぜ?」
「分カッテイル」
然して気にせぬように、答える野狗子。
「ダカラ、手伝エ」
水提灯の言葉に、大黒は鷲鼻と顔を見合わせた。確かに廃棄寸前を助けられたが、頼んで助けて貰ったワケではない。
「なんでオレたちが……」
「何ナラ、ちからズクデ、従ワセテモ良イガ?」
緑の泥顔が妖しく光る。ヤバい、本気だ。
「クソっ、分かったよっ!」
ふたりが束になっても敵わない。苦々しく舌打ちし、振り上げた拳を下ろす。
「で、どうすんだ?」
「僕ノ体液ヲ、特効薬トシテ、市場ニ撒ク」
野狗子が出した提案に、大黒は鷲鼻と顔見合わせる。
「それで?」
「……少シハ、頭ヲ使エ」
返る声は余りに冷ややか。ゆっくりと歩みを進め、ある機械の前で立ち止まる。
「体液ダケデモ、僕ノ効果ハ、変ワラナイ。甘イ蜜ニ、ありハ群ガルダロウ」
ヤツの新しい手が、機械に触れた。
「その中カラ、適合シソウナ身体ヲ選ンデ、使エバいい」
場面が大きく変わった。
見覚えのある、教室の一角。幕を降ろし、薄暗闇に染まる中、車座で小さく輪を作る集団。
「『あの人』からのお達しだ。転校生を献上しろ、だとさ」
聞き馴染みのある声が苦々しく言い放った。――今度の記憶は、間宮?
「転校生って……あの田舎者です?」
取り巻きの声に、不承ゞ、頷く。
「誰かさんが口を滑らせたせいで、『あの人』が興味を持ったようだね。運動神経が素晴らしい、だとか。厄介な話だよ」
「で、どうするんですか?間宮さん」
「どうもこうも。言われた通りにするだけさ」
大袈裟に肩を竦めてみせた。その前に、分からせてやるつもりだ。
どちらが、格は上なのか。
「ツバキ」
意識が車座の外へ向かう。壁際で、所在なく下を向く幼馴染。
「話を聞いていただろう?」
しばらくの間を置いて、永見の頭が小さく頷く。
「なら、やるコトは分かるよね?」
間宮は、かつての恋人へ破顔した。誰もがうっとりと目尻を下げる、計算し尽くされた笑顔。
こういう時に大事なのは、失っても痛くない駒。
「ヤツに近付き、落としてくれ。色仕掛でも、泣き落としでもイイ。ヤツを、赤目を連れて来て欲しい」
永見は顔を上げない。拳を握りしめ、自分の世界に閉じ籠もる。
やれやれ。机から腰を上げ、みんなの輪から外れる。彼女に、自分の立場を教えてやらないと。
「イヤ、なんて言わないよね?」
眼の前に立ち、生意気な顎に指を添える。
「キミは僕のために、尽くしてくれるんだろ?」
軽く力を込めると、悲しそうな顔が持ち上がった。瞳に涙を溜め、それでも首を縦に振るしかない哀れな女。
頼むよ。もう、そんなコトでしか使い道がないんだから。
「ドウダ?」脳内で囁く、陰湿な嘲弄。
『愉快、であろう?』内なる異相もまた、愉悦に声を合わせる。
――巫山戯るな。
理性が焼き切れる。他人の記憶である筈の光景が、我が事として怒髪が天を衝く。
――何処まで、永見を翫ぶか。
口の中に溢れ出す悔しさを、奥歯で思い切り噛み砕く。ごり、と鈍い音が頭蓋に響き、鉄錆の味が舌に広がる。
痛い。
脳を焼く鋭い激痛が、麻痺しかけた神経を無理矢理に叩き起こす。
生きている証が、未だ簒奪者の手に渡っていない心臓が、血潮を熱く滾らせる。
「まぁ……みぃ……やあぁっ!」
気付けば雄叫びを上げていた。
忍びの血から発する怒りでは無い。人間としての、制御出来ぬ、してはいけない激情。腹の底よりも深く熱い場所から、業火が噴き上がる。
「貴っ様ぁっ!」
感情の激流に任せ野狗子の髑髏を、奥にある間宮の面影を睨む。
「ナニィッ!」
水提灯に浮かぶ黒い眼窩が大きく広がった。水面が激しく波打ち、大きな身体を身動ぐ。
「マサカ、意識ガッ?!」
だからどうした。そんな下らぬ話より、憎むべき外道の顔へ一発見舞わせるが先。
「斃ばれぇっ!」
気合慷慨。全身の筋肉を膨張させ、血管が切れよと許りに力を込める。壁に足裏を合わせ、封じられた腕を無理矢理、押し上げる。
皮膚が裂けた。骨が悲鳴を上げる。耳の奥で打ち鳴らされる、弾け跳ぶ健と筋肉の音。
構うものか。鮮血が舞うのも厭わず、丹田に残る気も残らず激昂の釜に焼べる。燃え上がった紅蓮の焔を力に変え、執拗に食い込む粘着の枷を引き千切る。
「バカナッ……、ニンゲンごときガ、コノ拘束ヲッ?!」
水提灯が酷く狼狽した。泥濘と肉塊で固めた巨体を仰け反らせ、世迷い言を垂れ流す。
――此のっ、阿呆がっ!
耳を貸さず、首元に巻き付く茨の幹を両手で毟り取った。掌に棘が刺さるなど、些事に過ぎぬ。痛みも厭わず、強引に手繰り寄せる。
「ヌゥワァッ!」
綱引きに負けた野狗子の上体が大きく泳いだ。醜悪なる泥人形が無様に前のめりで引き倒される。水提灯の中で漂う黒い髑髏が無防備に近寄る。
「間宮ぁっ!」
緑の汚泥が震える鼻先に、憤怒で固めた拳を撃ちつける。
硬い感触。砕ける音。
憎き仇敵の顔面が歪むのを、此の目で見届けた。
この作品はフィクションです。登場する人物や団体、事件はすべて著者の想像によるものであり、現実のものとは一切関係ありません。実在の人物や団体、場所、出来事との類似がある場合でも、それは単なる偶然であり、意図的なものではありません。




