隔てる扉 二
目を開けぬ永見を腕の中に抱え、鉄の墓標が林立する谷間を走る。
左手の感覚は消え失せている。代わりに、手首から先が熱く灼け付いた。割れた骨が神経を逆撫でする度、脂汗が面当ての内側を伝う。
だが、立ち止まるは死と同義。背後から濡れた足で床を叩く、ひたゞと滴った野狗子の気配が追ってくる。徐々に、甘ったるい刺激臭が濃度を増した。
天を仰げば、自立機が黒雲の如く渦を巻いた。天から見下ろしてくる幾十、いや百を超える『おたまじゃくし』の目がぎろり、と回る。
「そこカァッ!」
沸き立つ泥水の様な怒号が背中を撃った。頭上から、風切り音と敵意が固まって降り注ぐ。先頭を切る鉄騎が、鋭利な回転翼を鎌に変え襲いかかる。
「ちぃっ!」
乱暴に舌を鳴らし、段平の腹を噛む。空けた右手で棒手裏剣を見舞った。駆動部を貫き、螺旋を描いて墜落する。
だが、多勢に無勢。一機だけ撃ち落としたとて、別の二機、三機が隙間を埋める。
凶兆の影が増す。
――切りが無いっ!
永見を支える左腕に力を込めた。込み上げる悲鳴を無視し、鉄柱の死角を縫う。右へ左へ、影から影へ。怪異の視線を欺き、攪乱する。
やや遅れて、押し潰される鉄と肉の音。
「進路ダッ!道ヲ断テッ!」
水提灯の命令を受け、『おたまじゃくし』は動きを変えた。狙いを男の首から、足止めへ。
壁や床、鉄塔へ。命知らずに機体を突き立て、前の道を穿つ。鋼の雨が鉄の血管を千切り、緑色の廃液を噴き出させる。
断線した回路が爆ぜて赫い傷を刻み、黒煙混じりの緑霧が視界を遮った。
「逃ガサナイッ……!僕ノォ、身体ァッ……!」
水提灯の粘着質な水音。煙る毒雲の奥から、黒い影が浮かぶ。
――近いっ!
首を回し、逃げ道を探す。兎に角、前へ。瓦礫を乗り越え、毒沼の上を跳ぶ。
魔窟の主が此処に居る。と言う事は、抜け道はあるという証左。
然れど目に付く限り、僅かな風穴さえも見当たらず。腰の端末で地図を確認する余裕も無い。
――何処にあるっ!
焦りが思考を泥沼に沈める。息苦しさで呼吸が乱れ、心臓が早鐘を打った。
腕の中にある永見の華奢な身体が、鉛の様に重い。
『哀れ。実に、哀れ』『退き時、潮時を見誤った者の末路よ』
脳裏に重なり響く、嘲笑う声。
『滑稽。誠に、滑稽』『逃げ切れたとて、罪から逃げる事、能わず』
内に住まう異相の住人。
幻聴が鼓膜を震わせ、精神を削り取る。
『手負いの身で荷物を抱え、何処へ逃げる積もりか』『諦めよ。全て、徒労で終わりを告げよ』『此処がお主の限界。此の地が終焉』『天意を、天命を受け入れよ』
――いや。未だ、やれるっ!
段平を強く噛み締め、誹謗を一蹴する。
例え天意に背き、天命を全う出来ずとも。永見を無事に帰す迄、此の足は止められぬ。
「……っ!」
崩壊の始まった鋼の迷路を遮二無二、突き進む。微かに肌を撫でる、外気の流れを頼りに奥へ。数少ない選択肢を、細い糸を辿る様に繋いでいく。
だが――。
クギャ……アァッ!
不吉な奇声が進行方向を塞ぎ、眼の前で道を潰した。二の矢、三の矢。其の度に逃げ場を削り取られていく。
――しまった!
ついに壁際まで追い詰められた。見回せど、目に飛び込むのは延々と続く終端。出口はひとつも無い。
左右に伸びる細い隘路すら、ゆっくりと舞い降りた自立機によって阻まれた。
「サア、今度コソ、ちぇっくめいとダ」
毒々しい靄を越え、姿を変えた野狗子が現れる。
水鏡で作られた美貌が冷笑を浮かべた。
腐肉と泥漿で捏ね合わせた身体が、ゆっくりと近寄る。
崩れかけた四肢を、膿緑の粘垢が辛うじて支える、無残な命の贋作。
「赤目。大人シク……」
頭部を模る水球がぶくり、と泡立った。愉悦に声を湿らせ、白骨の浮き出た腕を伸ばす。
「…………ナンダ?」
触れる寸前、白と緑の指先が止まった。
訝しげな声で、見せかけの玉顔を振り回した。警戒心が、水提灯の中身を淀ませる。
「地震、デハ、ナイ?」
怪異の疑念は、世界が上げた悲鳴で跡形もなく吹き飛ばされる。
ずぅん、と。低く、鈍い振動を伴って。
――来るっ!
身構えると同時に、床が波を打った。壁が嘶く。天井を支える鉄柱が、共振して鉄片を降らす。
「ヌオォッ!」水提灯が躓く。
徐々に近づく、絶え間のない地響きの震源。激しき縦揺れから、身を挺して眠り姫を庇う。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!」
壁の向こうから轟く咆哮が、側壁を打ち破る。
芯を揺さ振る暴力的な破砕音。分厚い壁が瓦礫の雨に変わり、内側へと爆ぜた。飛散した砕片が慰霊碑の列を殴りつけ、中身を無惨に吐き出させる。
「あんのぉクソガキィっ! テメェだけはぁっ!」
巻き上がる粉塵の向こうから届く、聞き覚えのある悪態。
――もしや、と思ったが。
「やっぱりぃココかぁっ!ドンピシャだぜぇっ!」
大黒は濃厚な殺意を撒き散らし、瓦礫を踏み砕いた。
ぽっかりと空いた大穴から、巨大な影が躍り出る。土煙を切り裂き、其の異形が姿を現す。
先の、小奇麗な背広姿とは似ても似つかぬ。
肉体と呼べるのは半身だけ。残りの片身は道すがら集めたのだろう。再生の足りぬ部分を、瓦礫で無理やり補完した。半機半妖の、歪んだ醜悪な姿。
「絶対にぃっ、殺すぅっ! 八つ裂きにしてやるぅっ!」
筋張った肉を更に膨張させ、鉄屑を寄せ集めた片足を踏み鳴らした。首に掛かる襤褸が激しく揺れる。
「ヨクモォッ!いい所ダッタノニィッ!」
野狗子も癇癪を爆発させた。横から獲物を奪われ、水提灯の根本から小さい泡が吹き出す。
「邪魔バカリ繰リ返ス、役立タズッ!オトナシク、ヒッコンデロッ!」
籠もり乍らも、がなり立てる水音。耳障りな声に、大黒の濁った瞳が動く。獲物である餓鬼を素通りして。
「うるせぇっ!アレはぁ、オレの獲物だぁっ!」
理性を失った獣の雄叫び。鉄骨と廃材が癒着した大腕を、棍棒の様に振り回す。周囲の自立機が巻き込まれ、儚い火花を散らして砕け散る。
「ダマレッ!コノ欠陥品ッ!」
「ああっ?!」
水提灯の罵倒に、大黒は充血した目で睨む。
「ソレはテメェもぉ、同じだろうがぁっ!」
「きさまト、一緒ニスルナァッ!」
双方が同時に牙を剥く。大黒が砲弾の如く突進し、野狗子が両手を天に翳す。
怪異同士の、潰し合いが始まった。
「行ケッ!」
水提灯の命令に従い、自立機が一斉に大黒へと突撃した。
肉と鉄が打つかり、へし折られる硬質且つ柔い音。『おたまじゃくし』の編隊は命を顧みず、矢継ぎ早に身魂を捧げる。
其れでも、もう一方の怪物は歩みを止めぬ。
「うぜぇんだよっ!」
自爆を物ともせず、水妖を吹き飛ばした。勢い良く墓標に叩きつけられ、拉げる水提灯。蛍光色を壁に残して摺り落ちる。
衝撃で壁の配管が破裂し、緑の蒸気が噴出した。視界が白と緑の混濁に覆われる。
千載一遇。
ふたりの諍いを利用せぬ手はない。汚染された断層を盾に、大黒が空けた大穴へと、ふたりして飛び込む。
鉄筋の隙間を擦り抜ける背中を、数機の自立機が見咎めた。
「寄るなっ!」
矛先を変える鉄騎の襲来より早く、残った棒手裏剣を全て打ち放つ。吸い込まれた白刃が五月雨となり、消魂しい風鳴りを沈黙させた。
グゥ……ギャアァッ!
遅れて、異変に気付いた別の『おたまじゃくし』が向き直る。
――悠長に待つと思うかっ!
壁の上から滴り落ちる垂水の傍で、指先を擦る。
焙烙玉の着火に使う、爪に仕込んだ硝石から火花が散った。忽ち、濁緑の落水が火柱に変わる。
――撒いたか。
紅蓮の炎壁に目を細め、胸を撫で下ろす。
が、読みは外れた。
ぐおん、と重い振動が響く。飛び込んだ通路の奥で、逃げ道を閉ざそうと鋼鉄の垂れ幕が降り始める。緩やかな風を巻き上げ、鋭利な金属音の連打と共に。
――冗談ではないっ!
慌てて永見を抱き、床を踏み込んだ。既に半分以上、道が消えている。腕の中で眠る温もりを掻き抱き、必死の疾走。最後の一間、足を揃え滑り込む。
――間に合えっ!
断頭台の切っ先が鼻先を掠めた。慈姑頭の先端を、風圧が巻き込む。
遅れた髪を置き去りに、地獄から隔たれた。
頭皮の痛みと引き換えに立ち上がると、やけに明るい白亜の回廊が広がる。
清貧な空気に五感が洗われる。騒乱の残響は防火壁に断ち切られた。耳を澄ませど、何ひとつ届かない。
「ふぅ」
静謐の中、冷たい夜気が火照った頬を撫でた。段平を仕舞う余裕も生まれる。
だが先ず、やらねばならぬ事がある。
「永見」
床に座り込み、腕の中の温もりを揺すった。目は閉じた儘、返事は無い。彼女の口元からたらり、と緑の毒液が糸を引く。
「此れかっ」
右手の指を口内へ。躊躇なく喉奥へ指を突っ込み、嘔吐中枢を抉る。
「……っ、げほっ、げほっ……」
御河童頭の背中が激しく波打ち、緑色の胆汁を吐き出した。それでも止まらぬ咳。肩が大きく上下する。
収まるまで背中を擦り続ける。新鮮な空気が彼女の容体を落ち着かせた。
呼吸が落ち着くまで、暫く掛かった。
「…………しぃ……君?」
長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開く。
「っ……、ここは……?」
焦点の定まらぬ瞳に、吐息に交わった。弱々しい声と虚ろな眼差し。未だ、夢と現の狭間で漂っている。
「永見……」
緊張が解け、全身の力が抜けた。
と、同時に忘れていた激痛が蘇る。左手だけではなく、破片の刺さった背中も。堰を切って押し寄せる責め苦に、目の前が白む。
「えっ?」
其の場でへたり込むと、御河童頭の顔から血の気が消えた。
「し、しぃ君っ。どうしたのっ?……きゃっ!」
慌てる彼女が、がくん、と姿勢を崩す。歯を食い縛り、転がりかけた彼女の重みを胸で受け止める。
「あぁ。一寸、な」
顔を青褪める永見に笑ってみせる。だが、頬が引き攣るのは止められず。
「チョットって……手、ケガしてるじゃんっ……」
矢張り、勘付かれた。永見の手が、包帯代わりに巻かれた布地を、上からそっと包む。
「あっ……、痛かった?ゴメンっ……」
「気にするな」
目を伏せる彼女に、努めて明るく振る舞う。
「其れより。早く此処から離れなければ、な」
壁に手をつき、立ち上がった。
動ける。其れだけが不幸中の幸い。永見も支えが必要であったものの、自分の足で立ち上がる事が出来た。
改めて周囲を確認する。
複数の渡り廊下が交錯した通路が伸びていた。
暖色灯の続く、長い直線が左右に走る。何方も、突き当りで二手に分かれた。所々に取り付けられた嵌め殺しの窓から、未だ夜の中だと分かる。
「……入り組んでおるな」
口の中で小さく謐く。
一見では抜け出せそうもない悪意の迷宮。そう簡単には帰してくれぬらしい。
果たして、どの道が出口に至る正解なのか。脱出口を探す支えに右手の指を額へと置く。
と、永見がはっ、とした様に周囲を見回した。
「そういえば……、トオルはドコ?……一緒に来てないの?」
無邪気で、残酷な問い。
「いや、知らんっ」
嘘。面当ての下で唇を噛み、声を荒げてしまう。
「一緒に、来たんじゃないの?」
「さぁ、の」
自ら吐き捨てた言葉の棘に、喉が熱く灼けた。
「大方、自分の部屋で震えているのであろう?」
嘘。
間宮は、人の形を失った。彼女の想い人は、この世の何処にも居ないのだ。
本当ならば、彼女に伝えるべきだろう。
だが、躊躇われた。
理由は、取って付けた様に後から浮かぶ。曰く、彼女は今、感情的になっている。曰く、伝えるのは逃げ遂した後で良い。
なのに、喉に詰まる蟠りは溶けてくれぬ。
「なんでっ、そんなふうに言うのっ!」
永見は言葉を荒げた。濡れた瞳に、ありったけの怒気を詰め込む。
「トオルのコト、なんにも知らないクセにっ!」
何も知らぬが故の純粋な刃が、一番触れられたくない場所を抉る。
「……あ奴の性根くらい、とうの昔に理解しておる」
「ウソつきっ!」
見透かす様な、鋭い眼差しが射抜く。
「ねぇっ!ホントのコトを言ってよっ!トオルはドコにいるのっ?!」
御河童頭が利き手に縋り付く。毒の影響か、彼女の手は氷のように冷たい。立つのがやっとの状態だというのに、汚れた裾を強く握り締めた。
今にも泣きそうな顔で。
「……っ」
つい、彼女から目を逸らした。
胸の奥底から沸き立つ、苦い怒りが喉から声を奪う。
何故、間宮なのか。
人の道を踏み外し、化物に成り果て、剰え彼女を生贄に捧げようとした男。
一体、彼の何が、永見の心を縛り付けるのか。
――と。
混濁する思考で、外した視線の先。厚い防火壁の隙間から、何かが滲み出る。
とろりとした、緑色の粘液。先程まで嗅いだ甘い瘴気が鼻に突く。
消毒液の匂いで満ちる清潔な回廊が、瞬く間に冒涜的な悪臭で塗り潰されていく。
「……なに、このニオイ」
永見も異変に気付き、服の袖口で鼻を覆った。示し合わせた様に、空調が不気味な音を立てて止まる。
――もう、来たのかっ!
一瞬、呼吸が遅れる。
低く打ち鳴らす鐘の如き打撃音と共に、防火壁が内側から丸く盛り上がった。
この作品はフィクションです。登場する人物や団体、事件はすべて著者の想像によるものであり、現実のものとは一切関係ありません。実在の人物や団体、場所、出来事との類似がある場合でも、それは単なる偶然であり、意図的なものではありません。




