隔てる扉 一
2026.01.05 野狗子との会話の内容を変更・修正。一部の描写を微修正
野狗子の透けた頭部が、不快な粘液の音を立てて揺らぐ。
首から上に骨肉は無い。在るのは、淡緑に濁った水塊のみ。濡れ光る表面が盛り上がり、窪む事で、間宮透の面影が浮かび上がらせる。
「ソノママ夢ノ中デ、『GB』二染マッテイレバ、幸セダッタノニ」
水底に没した拡声器から発する様な、湿り気を帯びた声。前より明瞭なものの、以前の間宮が持っていた爽やかさは皆無。寧ろ、怨嗟を煮詰めた泥である。
「其れは勘弁。枕が変わると眠れなくて、の」
嘘。軽口で脂汗を隠し、面当ての位置を正した。動作ひとつで、砕けた左指から脳を焦がす激痛が走る。
「あと、眠ったとて悪夢では身体に毒。どう飲ませたか知らぬが、御免被る」
「ヒドイ、言イ方ダネ」
水提灯の、透き通る皮膜が小刻みに震える。表面が泡立ち、人の顔を形取った。何処か間宮に似た、陶酔し切った顔。
「僕ガ生ミ出シタ、愛ノ証明ナノニ。ソレヲ毒ト、呼ブナンテ」
「 其方が?」
「アア、ソウダ。僕ノ体内デ醸成サレ、気化シタ『GB』ダヨ」
口に当たる部分が大きく凹んだ。水提灯から噴き出す毒々しい水蒸気に、怪異の輪郭が霞む。甘過ぎる汚臭が濃度を増した。
「甘美ナ匂イ、ダロウ?」
野狗子は大仰に手を広げる。前の持ち主と同じ、気障な仕草。指先から緑の膿汁が滴る。
「見タマエ。僕ノ体液、僕ノ呼吸。ソノ全テガ、下等ナ人間ヲ導ク、福音トナル」
息を吸うのも憚れる猛臭が墓場に満ちた。毒香から身を守るべく、面当ての上から袖口で鼻を覆う。
「何が福音だ」
吐き捨て、戦支度を始める。呼吸を浅く、薄く。痛む左手を庇い、悟られぬ様に踵を上げ、腰を落とす。
「逆立ちしたとて、良い知らせと思う輩が居るとは思えぬ」
否定の言葉に、水提灯はぶくり、と気泡を吐いた。
「赤目ハ、理解デキナイカ。コノ、人間ヲ越エタちからヲ」
「戯れ言を」
「イヤ。コレハ進化、ナノダヨ」
水波が恍惚とした表情を作り出した。床の緑光を照り返し、表面を卑猥に煌かせる。
「僕ハ、人ヲ超越シタ存在。アラタナ霊長ノ到達点。超人間ダ」
両腕を天に掲げ、歪つな十字架を模して見せる水提灯。
「分カッタカ、赤目。世界ハ、コノ高潔ナル魂ノ、下僕ナノダ」
「笑わせるな」
棒手裏剣の抜き打つ一投。掴む、投げるをひと動作に収め、水塊の中心、脳漿があるべき場所へ白刃を打ち込む。
だが。返ってきたのは、小石を池に投げ込むかの如き、間の抜けた音。
「言ッタダロウ?超越シテイル、ト」
刃は水塊を素通りし、後方の闇へ消えた。何の手応えも無い鋼の楔は、波紋だけを作って床に落ちる。乾いた音を床で奏でた。
「……そう云う事か」
面当ての奥で、苦みを感じた。伊達に大口を叩く訳では無いらしい。
「サア、むだナ抵抗ヲヤメテ、僕ニ、ヒザマズケ」
余裕を見せつける怪異が一歩、前に出る。同じ分だけ下がると、追撃の足は小さい異音に呼び止められた。
ぱりん、と。陶器が割れる音に似ていた。
「……オヤ?」
野狗子は首筋に手を当てる。白い指が引いた後に残るのは、緑色の粘液が漏れる亀裂。血の筋を引くかの様に、罅割れが顎へと走る。
「モウ、壊レルトハ」
不快そうに、間宮のものであった首を爪で削いだ。皮膚が塗装の様に剥がれ落ちる。陶器に似た皮膚の下で、緑色の肉が脈動した。
「ヤハリ、ちからのナイ器ハ、モロスギル。モウ少シ、持ツト思ッタガ」
床に散らばった、肉片とも陶片とも付かぬ残骸を無造作に踏み躙る。
「モット強靭ナ肉体ニ、交換シナイト」
「……其れが、付け狙う理由か」
眉間に皺が寄る。自然と下がる口端を感じ取った。
「何が超越した人間、だ。凡人を殺生せねば生きられぬ、寄生虫ではないか」
「寄生デハナイ、融合ダ。……ソレニナ、赤目」
野狗子の、皸た手が割れた首を撫でる。
「コノ間宮トイウ男。本当ニ、いい子ダッタ」
恍惚するかの様に、妖しく蠢く水肌に漣が立った。
「ミズカラ、『GB』ヲ貪リ、細胞ノ隅々マデ、染マッテクレタ。素晴ラシイ、苗床ダッタヨ」
自慢げな口調。顔の形をした水提灯が、流れに沿って靡く。
「ダガ、弱スギタ。獏ニ対抗スルニハ、肉体モ、精神モ、貧弱ダッタ」
「……何が言いたい」
「分カルダロウ?きみガ、欲シイ」
野狗子の頭部が波打つ。
目が無いと言うのに。ねっとりと、肌を舐め回すような視線。不快な感覚が肌を這い、総毛立つ。
「アノ冷徹ナ、獏ヲ出シ抜イタ。ソノ強靭ナ肉体ト精神。赤目。きみハ、僕ノ器ニ相応シイ」
「……そういう事か」
虫唾が走るのを堪え、胃液ごと飲み下す。
「ならば断る。其方らに関わると、碌な目に会わぬ」
即断。吐き捨て、丹田に熱い気合を込めた。目を細め、間合いと隙を探る。
だが。水提灯の湿った嘲笑が、ごぼりと鳴る。
「残念ダガ、手遅レダ」
「……何?」
「気付イテイルカイ? コノ部屋ニ満チル、甘イ香リヲ」
意味を含んだ言葉に、片眉が跳ね上がる。視線が部屋を漂う薄緑の靄を追った。意識の外へ追い出した筈の腐臭が、鼻腔に蘇る。
「きみガ呼吸ヲスル。ソレダケデ、僕ノ体液ガ、きみノ中ニ蓄積サレル」
「……っ!」
喉の奥が引き攣った。面当ての上から袖口を鼻に押し付ける。
だとしても、肺の裏側にべっとりと張り付く甘い死臭。吐き気を催した。
「きみガ、僕ニ、ひざまずクノハ、時間ノ問題」
水提灯は水面を揺らし、くくく、と嗤う。
「モウスグ、きみハ、僕ノものニナル」
「気色悪い事を言うな」
睨み付ける。と、水提灯がぶるりと震えた。
「照レル、ことハナイ」
翠緑に濁る水の器の中で、愉悦の波紋が表面を激しく揺らした。心做しか、口の湾曲が横に広がる。
「サア。モウ、会話ハいいダロウ」
野狗子が手を叩いた。ぱふん。濡れた肉が弾ける、不明瞭な音。
「赤目。ソノ身体、僕ニ、ヨコセ」
「言ったであろう?断る、と」
冷たい視線で言い放ち、片足を少し引く。
「勘違イ、シテナイカ?」
指を立て、横に振る野狗子。細かな亀裂が走った指から、腐臭と汚液が伝う。
「僕ハ、交渉ヤ、オ願イヲ、シテイルわけデハ、ナイ」
墓標の影から、自立機が床を音も無く滑った。動く車椅子は、腐敗の甘さを纏う背広の隣で止まる。
「赤目。きみ二、命令シテイルンダ」
乗せられていたのは、見慣れた御河童頭の子女。目の辺りを『おたまじゃくし』に覆われ、ぐったりと首を垂れる。
「永見っ!」
気付けば、喉から彼女の名前が迸った。駆け出す寸前、片手で水提灯に静止させられる。
「ダイジョウブ。息ハ、マダ、続イテイル」
何が大丈夫だ。ならば、彼女の口や鼻に差し込まれた管は何なのか。
「濃厚ナ、原液ダヨ。気化シタ毒トハ比ベ物ニナラナイ」
見タマエ、と、水提灯は管の中を流れる緑液を指差す。
野狗子の言葉に、目が管の先を追った。確かに、水提灯の手元へと伸びている。
「コノ娘ハ、きみガ決断スルマデノ、繋ギダ」
破断の目立つ手が、永見の髪を愛おしそうに撫でた。濡れた緑の指先が、彼女の白い頬を汚す。
「きみガ僕ノ器トナル栄誉ヲ拒ムナラ、代ワリニ、彼女ガ壊レルマデ、注ギ込ム」
びくり、永見の身体が跳ねた。
野狗子の言葉を拒む様に、細い喉が小さく震える。僅かに開いた口元が、動いた気がした。
「サア、選ベ」
愉悦を含んだ声。首元が奇怪に捻じれ、水提灯の中身を掻き混ぜる。
「至高ノ器ヲ、差シ出スカ。ソレトモ粗悪品ヲ、使イ潰スカ」
「……下衆がっ」
汚い言葉が口から飛ぶ。射殺す意思を込め、歪んだ水面を睨み付ける。
「サァ、ドウスル?コノ娘ガ、壊レルノヲ、見守ルカ?ソレトモ……」
だが、何処吹く風で、中身を揺曳させる水提灯。不遜たる沼から見据える、粘着質な視線。
怪我した指が鈍い痛みを送った。無意識に頭へ持って行こうとした様だ。
――どうする?
脳が目紛るしく打算を弾く。此処から活路を開く最善手を探す。
奴は永見を盾にしている。強引に奪還しようとすれば、管を通して毒を流し込まれるだろう。或いは、汚れた手で彼女の首を折る。
首を横に振り、肩を落とす。どんなに算盤を弾いても、起死回生の手は見付からず。
と、視界の隅が、車椅子で眠る永見を映し出した。
目耳を『おたまじゃくし』に縛られ、微動だにせず。肌から血色が抜け落ちる。頭無き想い人から、緩やかに命を奪われる御河童頭の友。
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
「…………分かった」
どうにか絞り出せたのは、暫く経ってから。俯き、健手の先を帽子の片鍔に添える。
「だが、条件がある」
「……なにカナ?」
「永見の解放が先だ。妙な真似を止め、彼女を安全な場所へ移せ」
揺れ動く水の澱みを見据え、貌から一切の感情を削ぎ落とす。
「此の条件を呑むならば、従おう」
全身から力を抜き、完全な棒立ちとなる。精一杯の譲渡。
「フム……」
野狗子は腕を組み、顎らしき場所に指を引っ掛ける。思案なのか、透き通る頭部の被膜が少し傾いだ。
「……イイダロウ。ダガ、先渡シハ、出来ナイナ」
野狗子の指が動き、管を引き抜いた。だが、車椅子からは手を離さず、逆に引き寄せる。
「ここヘ来イ。おまえガ僕ノ手ニ触レタラ、コノ娘ヲ放シテヤル」
――矢張り、そう来るか。
「ドウシタ?迷ッテ、イルノカ?」
異形の悪魔が手を招いた。奴とて、此方の出方を警戒している。
「……今、行く」
帽子の鍔を指で摘み、息を二重伊吹に変えた。ゆっくりと、だが確実に怪異へと歩みを進める。
一歩、また一歩。距離が縮まる。
水提灯の光沢が周囲の風景を乱反射した。屁泥の輝きが、近付く男の顔を死人の色に染め上げる。
間合いはニ間。野狗子の手は、御河童頭の肩を掴んで離さず。
――失敗ったら、地獄で永見に詫びよう。
覚悟を決め、手を動かす。
被っていた帽子を、勢い良く野狗子の顔面へ投げつける。回転を加えた帽子は、風を切り裂く円盤となって怪異の視界を覆う。
一時でも長く、宙を舞い続ける様に。
野狗子の視界から、獲物の姿を隠す様に。
扇子隠れならぬ、帽子隠れ。
怪異の思考を止める、一瞬の猶予。
「ナアァアァッ!?」
寸時、時が怠け出す。
酷く間延びした、野狗子の狼狽した声。瞬きの時間が、緩慢に進む。何もかもが、のたり、と動きを遅くした。
闇に踊る帽子の裏へ、気配ごと潜り込む。
より低く、四足動物かの如く身を屈め、床を蹴りつける。怪しく脈打つ水提灯の、不快なる視線を断ち切り、死角へ。
会話できる距離を、一瞬にして埋める。
「サァセェルゥカァッ!」
刹那の空白を経て、野狗子も動く。視界を塞ぐ帽子を払い退け、永見へと通じる道筋を全身で封じる。
其れこそが、狙い。
踏み足の向きを変え、水提灯の懐に飛び込んだ。背に回した右手が、段平の柄を掴む。
革鞘を走る刃の音が、静寂を裂く。
「ナッ、ナニィッ!」
虚を突かれた野狗子に向け、一閃。腰下から肩口へ、逆袈裟に段平を振り上げる。
趣味の悪い背広を、肉を薙いだ。途中で防ぐ筈だった骨でさえも、苦も無く断ち斬る。
絶叫が喉を通る事も許さず。水提灯は、赤くない濁った体液を撒き散らした。
「ア……アッ……」
斬られたのを信じられないのか。野狗子は断面から緑液を飛散させ、身を捩った。一歩、又一歩。悪夢に怯える様に、後ろへと辟易ろぐ。
だが、其れだけ。致命の一撃だというのに。
――くっ!
内心で悪態をつく。頭部だけでなく、全身も化物となったか。
「せいっ!」
追撃の足蹴で、彼の背後にある墓標へと叩きつける。水提灯は吹っ飛び、床の上へひっくり返った。
「永見っ!」
稼いだ時を使い、直ぐ様、車椅子へと駆け寄る。四肢は拘束されておらず。戒めは顔を隠す『おたまじゃくし』だけ。
グシャアァッ!
御河童頭の眉間から突き出した怪異の口。隙間に段平を捩じ込み、彼女を束縛した害虫の肉を断つ。汚らわしい肉片は急速に崩れ落ち、土塊へと還った。
「永見ぃっ!」
再び、彼女の名前を呼ぶ。抱きかかえ、頬を叩く。
反応は無い。魂の抜けた人形を思わせる、虚ろな表情。
「ながっ――!」
繰り返そうとした友の名を、人工的な吹鳴が遮る。
「っ!」
鋼鉄で作られた墓場に冷たく満ちる、乾いた電子音。神経を焦らす旋律が執拗に鳴り響く。
悪い予感が背筋を刺した。回転灯の朱色が、空間を血の色に染め上げる。
「アアァカアァッ目ェッ!」
振り返るよりも早く、どす黒い気配が膨れ上がった。視界が、水鉢の形を崩して立ち上がる野狗子を捉える。
「ヨクモォッ、コノ僕ヲォ、愚弄シタナァッ!」
斬刀の傷を意に介さず、水提灯は手にした小箱を床に叩きつけた。濃緑の汚水に満たされた顔に、赤みが差す。
「楽ニ、死ネルト思ウナッ!」
不快に響く不協和音に呼応し、遠くから捕食者の息遣いが聞こえてきた。数機ではなく、数え切れぬ数の羽音が梁の奥から降り注ぐ。
天井の闇が割れたかと思う程の、夥しい数。
「くっ!」
永見を抱き、怒髪天を衝く水妖に背を向けた。脅威と距離を取る為、覆い被さる影の隙間を走り抜ける。
オォゥッ……ギャアァッ!
舞い降りた自立機に、四角い空は埋め尽くされた。見付からぬ様、立ち並ぶ鉄の林に駆け込み、円筒の機械の影へ紛れる。
――振り切れっ!
息を殺し、円筒の影から影へと渡り歩いた。其の間も『おたまじゃくし』の合唱が鼓膜を掻き乱す。巨大な目玉が獲物を求め、ぎょろり、と蠢いた。
「逃ゲル場所ナド無イゾ、赤目ッ!」
野狗子の声は近い。粘度の濃い腐臭が鼻先を襲う。
「大人シク、僕ノ身体ト、ナレッ!」
「何度も言わすなっ!」
誰が化物の礎になるものか。
永見を抱く腕に力を込め、奥へと足を速めた。
この作品はフィクションです。登場する人物や団体、事件はすべて著者の想像によるものであり、現実のものとは一切関係ありません。実在の人物や団体、場所、出来事との類似がある場合でも、それは単なる偶然であり、意図的なものではありません。




