正心 二
黄昏と漆黒の境目に位置を取る、薄灰色の縒れた背広。膝下は水面の奥へと沈まず、床に立つが如く黒革靴が暗き水鏡を踏み締める。
「化物め」
思わず、悪態が喉を鳴らす。
足元が濡れるのを嫌ったのか、水の表に足を置く奇怪な行動。一体、幾つの理外を持ち得ているのか。川底に足を置く者からすれば、少し見上げる形となる。
「赤目様に対する、たび重なる不手際。大変、申し訳ございません」
妙に白い手袋が拍手を止め、揉み手する仕草に変わった。
「弊社としましても、これ以上のご負担を強いるのは心苦しく」
先の爆発の煽りで耳が遠い。にも関わらず、透き通った声は内耳に届いた。一度聞けど、忘れてしまう特徴の無い声音。
「獏」
意外そうに。名を呼べば、組み合った手袋がふたつに別れ、上擦った声が橋脚の間に反響する。
「覚えていらっしゃいましたか」
「当然」
半分真、半分嘘。
実際、過去に聞いた声色を記憶から遡れず。特徴の無い、という朧げな記憶だけの当て推量。
だが、脳裏の片隅には鮮烈に焼き付いている。淡緑の根城で起こった惨事を。
刺青と坊主が死に、何もかもが灰燼に帰した修羅場。其処で商談を持ちかける様に言葉を交わした。
既に声音は忘却の彼方だが、相手が獏、と名乗る者なのは、辛うじて憶えていた。
「で、先の言葉は?」
警戒心を隠す積もりは毛頭無い。不意に現れた背広へ、疑惑の目を切っ先として突き刺す。
「何を求めているのは分からぬが、見ての通り今は取り込み中」
手の内で溺れかける鷲鼻を勢い良く引き上げる。気管に入った汚水を撒き散らし、激しく咳き込んだ。
「又、其方らとは二度と会わぬ約を結んだ筈。此れ以上、何を話す?」
「その件に関しまして、弊社も重々、承知しております。が……」
歯切れ悪く、白い手袋が自身の胸の辺りを押さえる。
「実は、弊社内で重大インシデントが発生しまして」
「其れが?」
都合を語る薄闇を睨み付けた。意に介せず、獏の独白は続く。
「事が明るみに出ますと、弊社のイメージにも影響を及ぼしかねませんので。どうにか穏便に解決すべく、協議を重ねていたのですが……」
一旦、言葉を切って言い淀んだ。
「……折り合い悪く、赤目様を巻き込んでしまった様でして」
申し訳なさそうに。だが、録音した声を流したかの様な感情の籠もらぬ声。
獏の流した音声に一拍、思案を入れる。
「巻き込む、とは?色々とあった故、仔細を申して貰わねば分別つかぬ」
真。一体、何処までを巻き込んだ、と言うのか。獏の胸中に潜む真意を探りに、影の向こうへ目を凝らす。
然れど正心を喪い濁ったか、闇の奥を透かすに至らず。
「左様でございますか」
片方の手袋が逆の肘を支え、空いたもう片方は影の切れ間に吸い込まれる。
「そうですね、御学友とのじゃれ合いを除くすべて、でしょうか」
「……警察もか?」
「いえいえ。国家機関を操れるほど、弊社は大きくありません」
可笑しそうに、獏の手袋が左右に振られた。何処まで信じて良いのか判断に苦しむ反応。
「失礼、話が逸れてしまいました」
場を取り繕う様な、わざとらしい咳払い。
「ともあれ。弊社もこれ以上、赤目様にご迷惑をお掛けするのは、本意ではございません」
手袋が腹の前で綺麗に重なった。お辞儀をする際の腕の組み方。
「つきましては、後のすべてを弊社にお任せ頂けませんでしょうか?」
「……どういう意味ぞ?」
疑問を口にすれば、白い手袋が開いた。片方の指が濡れそぼった鷲鼻を指す。
「此の者を?」
「ええ」
「どうする気だ?」
「もちろん回収し、その後に廃棄いたします」
当然であるかの様に。冥暗の継ぎ目から覗く灰色の背広から、躊躇いなど微塵も感じさせず。
「殺すのか?」
「いえいえ、あくまでも弊社不良品の処分ですので。ご心配には及びません」
手袋が忙しなく位置を変える。だが、両腕の動きによる弁明も響かず。無造作に濡れ髪を掴み、鷲鼻の頭を後ろから強く引き抜く。
指が食い込む頭皮越しに、彼が震えていると分かった。春の夜、川水は冷たい。だが、怯えて萎縮した首筋と息の浅さに、他の意味も含まれるのが容易に受け取れる。
「人、だぞ?」
「どんな形であれ、弊社の製品に変わりございませんので」
正確には不良品ですが。と、獏は手袋を広げた。
「では。残りのふたりも同じく、葬るか?」
呼吸ふたつ分。間を開けて黙考の後、再び口を開く。
「其れだけではない。怪異を生み出す『GB』も、其方らの撒いた種か?」
言葉にするのも擬しく、語尾が早くなる。
聞きたい事が山ほど生まれた。
怪異が付け狙う理由、『GB』を生んだ経緯。企みの根底で見え隠れした糸が縒り合い、一本の膿んだ緑の紐となって目の前の闇へと伸びる。血の色が混じった先は、白い手袋に握られていた。
だが、暗闇からの返答は無し。白い手袋も微動だにせず、寂滅の暗幕に浮かぶ。
「大事な事ぞ。答えよ」
不確かな態度に、声が荒れた。頬に走った罅が割れ、亀裂が深く侵食する。どろりとした殺気が溢れ出し、中身が外へと染み出していく。
抑え切れぬ外道の圧気を前にして、獏の語調が下がった。
「申し訳ございません。弊社の秘匿義務に触れますので、お話は出来かねます」
「ならば、渡せぬ」
決別の意を含め、鷲鼻を掴んだ手を下ろす。
「狙われ、殺されかけたのだ。仕返しするに、誰からも咎められる謂れ無し」
再び水面下で暴れる傷だらけの痩身。掌から伝わる苦悶に、更なる力を加える。
「自ずの手で始末したければ、先ず対価を用意せよ。話は其の後」
言葉の可笑しさに、喉が震えた。
他人に任せても然したる問題など無し。なのに拒否するとは。善人の振りは既に出来ぬらしい。
「そう言われましても。弊社の情報を開示するには、色々と手順が必要でして」
白い手袋の片方が上がり、顎の辺りを擦る。困った、と言いた気な仕草。だが、その指先からは一滴の懊悩も感じられぬ。
「今すぐ開示できるとなりますと、永見嬢の所在地くらいしか」
色味を帯びた言葉に、心臓が跳ね上がった。
「……知っているのか?」
「ええ」
肯定を紡いだ涼しい声に、芯から震えた。硬く冷たかった肌に血が通い、内耳を塞ぐ耳鳴りが嘘の様に霧散する。
行方の手掛かりすら無い永見の報せ。暗所に差し込むひと筋の光明は、己の不始末さえ彼方へと吹き飛ばした。
「宜しければ、すぐにでもお教えいたしますが?」
甘美な毒餌に、思わず唾を飲み込む。
食らいつくのは厳禁。手を伸ばすだけでも、獏に弱みを見せる事となる。
だが、拒絶の言葉が喉に張り付き出てこない。
分かっている。拒絶すれば、取り返しの付かぬ後悔に一生涯、苛まれる事になる、と。理屈でなく、直感で。
上手い手は無いか。逡巡が眉間に深い皺を刻む。額から焦燥が細かな薄片となって剥がれ落ちる。
「先ずは居場所を。引き渡すのは、報せの質を確かめてから」
落とし所を見つける為、交渉の楔を打ち込む。
「おや、担保をお求めですか?」
「生殺与奪を譲るのだ。値切るのであれば結構。知りたい話は、此の男に尋ねるまで」
再び鷲鼻の頭を無造作に吊り上げる。水上に立ち、見下ろす獏へ自慢する様に、出来うるだけ高く。
全裸の男が弓反りとなり、上半身が水面から抜き放たれる。ぎゃあ、と汚水混じりの悲鳴が上がった。
「承知いたしました」
間を置かず、獏は答えた。至極あっさりと、予定調和の台本を撫ぞる様に。
「永見嬢の所在を、赤目様の端末に転送いたしました。ご確認いただければ」
了承から実行まで、灰色の背広は何もしていない。疑問を抱くより早く、鷲鼻を掴む手が離れた。
焦る指先で端末を操り、画面に命を吹き込む。幾何学の光彩が弾け、平面の地図が隙間無く浮かび上がる。
全く見知らぬ場所。建物を意味する囲いが固まる一角に、赤い矢印が突き立つ。
「何処だ?」
思わず呟くと、Mix-Sceneが反応した。線画が遠ざかり、見聞きある近隣の地形へと変わる。同時に浮かんだ窓に記されるのは住所。
遠い。大河を超えた先にある建物群。淡緑の根城と同じく、対岸の遥か先にある。
「これで、よろしいでしょうか?」
灰色の背広が契約の履行を誇示する様に、両手を広げて見せた。
「此れが本物である証拠は?」
「……赤目様は、疑り深いようで」
「性分でな」
不敵か自嘲か。笑って見せれば、獏も釣られて口端を上げた。他人へ不幸を振り撒きそうな、造り物めいた薄ら嗤い。
「弊社の信頼にかけて、本物であると保証いたします。きっと赤目様にご満足いただけるかと」
「そうか」
約定は成った。鷲鼻の首に食い込ませた指を解く。
だが、素直に逃す積もりは無し。立ち上がるのに合わせ、鮮血と川水で濡れそぼつ背中を蹴り飛ばす。
「あぐっ!?」
無様に川水を跳ね上げ、鷲鼻が転がった。川面の上に悠然と佇む、獏の足元へ。
「…………うごっ……ばぁっ!」
熨斗を付けて返してやると、全裸の男は四つん這いの格好で猛烈に噎せ返った。撫で肩を上下させ、ぜぇぜぇと夜気を貪り喰らう。
其の鼻先に、黒革靴がぬらりと踏み込んだ。
「おや?随分と汚れてしまわれましたね」
歌う様に弾んだ獏の一言に、大きな鼻先が上を向く。間を置く暇も無く、鷲鼻は彫像と同じ仕草で固まり、徐々に全身を小刻みに震わせた。
「ばっ、獏……っ!?」
悲鳴に近かった。
金切り声を上げ叫ぶと、後退ろうと手足を無様に掻き回す。が、膝下程の深さしか無い川中。思い通りに進めず、彼の周囲が泥で濁り始める。
「弊社資産の無断利用と施設の私物化。機密情報の不正アクセス」
呼吸も荒い鷲鼻へ、獏の足が前へ出る。革靴が水面を踏み進むにつれ、暗幕の切れ目に隠れた顔が露わになる。
稀に見る異相であった。
一見、何の変哲も無い相貌。目が有り、鼻が有り、口が有る。其れだけ。のっぺり、とした肌の上に配置された記号的な造作は、人である印象だけを残す。
だが、其れは上辺だけ。
見る者が見れば呼吸を止め、冷や汗が止まらぬ事になるだろう。凡庸過ぎる輪郭の中にある、悪意だけを抽出し、凝縮した厄災の似姿を。
「製品の権限では不可能なコンプライアンス違反。一体、誰の手引きでしょうか?」
畏怖と恐慌を顔に張り付かせ、鷲鼻は苔生す橋脚の壁へと躙り寄る。が、触れるのが精一杯。水鏡を歩む獏に忽ち追いつかれ、行き場を失う。
「回答もせずに逃走ですか。残念です」
獏が小さい吐息を漏らした。落胆したのかも知れぬ。
「たっ……助けっ…………!」
鷲鼻の視線が獲物であった少年へ、縋る様に向けた。助ける義理は皆無。冷たく見返せば、獏が視線の間に割り込み、断ち切る。
「ヒィッ…………!」
鷲鼻の喉から捩れた呼気が鳴った。腰を抜かし、特徴の無い相貌を見上げ尻餅を付く。
「い、いやっ。こ、コレは違うんだっ。誤解だっ!」
しどろもどろに、声を震わせ叫んだ。泣いているのか、少々掠れた涙声。
「ぜ、全部っ。野狗子……、そうっ!ヤツがっ!」
不意に突き出された指先が虚空を突いた。罪の所在を他所へ逸らそうと。
「あ、アイツにっ、ダマされたダケなんだっ!裏切るなんて、元々……」
必死の言い訳も、川のせせらぎに吸い込まれた。獏は何も語らず。只、冷ややかに見下ろす。
「……わわっ、分かった。御社に忠誠を誓い直すっ!だから……」
鷲鼻が跪き、胸の前に手を合わせた。懸命の懺悔を前にして、黒靴の片方がゆるりと上がる。
「……許してくれっ!獏っ!」
獏の足裏が鷲鼻の鼻先へ迫った。咄嗟に血塗ろの両腕を上げ、最後の抵抗を試みる。
無駄だった。
庇った腕ごと、鷲鼻の身にめり込む。
悲鳴も無く、突き出た鼻が押し潰される。圧倒的な膂力に、後頭部が背後の壁に食い込んだ。
ぐちゃり。
湿った破砕音と共に、鷲鼻の脳天は熟れた石榴となって弾ける。壁に真っ赤な飛沫が飛び散り、脳漿混じりの肉片がへばり付いた。
獏は無言の儘、事も無げに足を引き抜く。
大事な部位を失った身体が一瞬、激しく痙攣する。時を置いて震えが止まれば、ずるり、と水中へと没し、水面を汚した。
「赤目様、ご協力ありがとうございます」
姿勢を正し、深く一礼する獏。戻した時に見せた笑顔は満足そうであった。
「これで弊社も、対外的に示しが付けられたかと」
「御託は結構。其れより」
にこやかに語りかける獏を手で制す。
「地図が示す場所の仔細を。矢印が永見の場所で良いのだな?」
「ええ。その通りです」
翼が生えたかの様に、口軽く答える灰色の背広。
「初めて会った場所に近いが、此処は其方らの――『弊社』の一部か?」
今度は逆に沈黙。笑顔を崩さず、だが拒絶の意を見せつける。
「ならば別の質問。此処に野狗子は?」
「恐らく」
素直に獏は首肯した。
「残念ながら現在、弊社の統制から離れた状態でして」
「何っ?」
掌の中にある最悪の情報を飲み込み、元凶を見据えるべく視線を跳ね上げる。
が、既に記号に似た異相の顔は無かった。灰色の背広も、白い手袋も。
「……やってくれたな」
前と同じく、忽然と。元より居なかったかの様に、希薄な気配すらも残さず消えた。ご丁寧に鷲鼻の遺体と共に。
暫し呆然となる。
狐か狸に化かされたと訝しむ程の、唐突な幕切れ。だが、灰色の橋脚に残る血痕が、現実の出来事だと教えてくれた。
掌が徐々に上がり、顔の半面をそっと覆う。耳の奥で獏との会話を噛み砕き、咀嚼する。
「……見事な謀り様よ」
導き出した結論に、唇の隙間から漏れた。
元より、仕組まれた茶番。でなければ、自らの失態を零すとは思えぬ。
十中八九、獏は行かせたいのだろう。御河童頭を餌に、未だ怪異の残る蠱毒の壺へと。
呼吸に合わせ肩を上げ、ゆっくりと下げた。瞳を閉じ、波打つ心を鎮め雑念を消す。
口約束を信じるしか無い。
あの異相には前科がある。今回も真っ赤な嘘とて、何ら不思議に非ず。手に余る巣穴を掃除させるため、体の良い捨て駒に仕立て上げる算段とも見て取れる。
が、他に選択肢など持ち合わせず。
ならば、行くしか無い。
永見が居るなら儲け物。もし騙されたとて、ひとりの阿呆が勝手に地獄を見るに過ぎない。
橋桁の下から歩み出る。春の軟風が頬を撫でた。見上げれば漆黒の空を囲う、朧げな灯火の群れ。地上の喧騒を重たい闇が嘲笑う。
今宵は晦、雲多し。
死の日入るには絶好の頃合いぞ。
この作品はフィクションです。登場する人物や団体、事件はすべて著者の想像によるものであり、現実のものとは一切関係ありません。実在の人物や団体、場所、出来事との類似がある場合でも、それは単なる偶然であり、意図的なものではありません。




