正心 一
2025.12.07 最後のセリフを修正。
ついに鷲鼻は全裸の儘、門を乗り越え警察署の敷地から飛び出した。
壁ひとつ越えた先には喧騒と光の川が流れる大通り。油と排気臭が夜気と混じり合う中、交差点の手前で信号待ちしていた電動二輪の若者を捕まえる。
「どけぇっ!」
痩身の腕が若者に触れると、目も眩む閃光が瞬く。青白い霹靂が俄かに通り過ぎれば、肉の焦げる匂いが鼻孔を支配した。若者は白い煙を吐き、黒い炭の塊となって倒れる。
「きゃぁぁぁっ!」
突然の惨劇に、無数の悲鳴が瞑色の天幕を引き裂いた。動揺と混乱が宵闇を掻き乱す中、事を起こした本人は唾を吐き、奪い取った電動二輪に跨る。
速い。明らかに車体の限界を超えた速度。公道を裂く様に蛇行する鷲鼻の、緑の粘膿に塗れた背が見るゞと小さくなる。
「っ!」
負けじと疾駆する。混雑する車列を縫い、大きく蛇行する赤い尾灯に追い付けず。多少の遅滞はあれど、生身と機械では根本の馬力が違い過ぎた。
せめて、一直線に走れる道があれば。自然と視線が救いを求めれば、何処までも続く細き鉄柵が目に留まる。
此れしかない。身を軽く、護輪軌条に飛び乗る。心許ないが、鷲鼻に食らい付く活路は細き背渡りだけ。
いざっ。短く気を吐き、鈍色の糸の上で風に乗る。
歩道に張り付き、瞬きせずに硬直する若人。車両の窓から目を見開いた駕籠車の運転手。外野の絶句と好奇が入り混じった視線を置き去りに、重力を欺く軽やかさで滑る。
大凡にすれば、人が成し得ぬ所業に映るだろう。
正しい見方なのかもしれぬ。何しろ、赤目忍は正道を外れ、災厄の徒と化したのだから。
ほろゞと、はらゞと。
舞い上がる風に煽られ、人として形取る殻が剥がれ落ちる。割れた陶器の如く、欠けた画皮がらんどうの中身を晒した。
黒々と穿った穴から、心中に棲まう名人達が顔を覗かせる。
…………うっ……うぅっ…………
…………ぐぅっ……ぐむぅ…………
…………あはっ……きゃっ…………
…………はぁ…………
四者一様。怨嗟の滲む七情が内側から削り取る。
当然の帰結。いっそ、崩れてしまえば良い。其れだけの大罪を犯したのだから。
正心を怠る、という過ちを。
何故、忘れていたのだ。
不安定な足場を飛び乍ら、悔しさに唇を噛む。
正心。
万川集海の冒頭に記された、仁義忠信を本幹とする忍びの心得。術策の根底に流れる、清廉なる源流。
役目に於いて、忍びは人を騙す。
天道に従う為、もしくは大業の為。相手を偽り、罠に嵌め、時には殺める。
だからこそ。平時では我心を捨てるこそが肝要。忍術を生業とする者は誠を尊び言葉正しく、天命正道の下で義理の二文字を貫かねばならぬ。
でなければ、誰が信を置くというのか。
我欲に駆られて仁義忠信を蔑ろにすれば、野盗奸賊と同じ。一時の権謀では誰からも相手にされず、画策は必ず害となって自身に跳ね返る。
知っていた。分かっていた。
なのにっ!翻り、如何なる態度を取り続けたかっ!
…………ううぅっ…………
袖口を濡らす女性が夜霧を集め、静かに形を成す。
『汝の振る舞いに仁があるや?』
――否。温和慈愛の道理に構わず、私心の思うが儘に働いた。
…………ぐぐぅ……ぬぅ…………
怒りに満ちた壮年の声が夜陰の奥から沸き立つ。
『汝の振る舞いに義あるや?』
――否。断制裁割の理を忘れ、徒に我を通した。
…………きゃはっ……きゃははっ…………
耳元で笑う童の顔が闇の底から浮かび上がる。
『汝の振る舞いに忠はあるや?』
――否っ。姉弟の縁を踏み躙り、友を酷く悲しませた。
…………はぁ…………
老爺の呆れた溜息が、重苦しい静寂を連れて来た。
『汝、振る舞いに信あるや?』
――否っ!祖父との約定を破り、忍びの業を濫りに弄したっ!
『哀れなり、赤目忍。悪漢外道に堕ちよった』
姿を見せぬ同じ声が高笑いする。異相の言う通り。反論も出来ず只、目を伏せる。
――仕方なかったのだ。
『何を言うかと思えば。申し開きにしても稚拙』
――何を言うっ!
異相の底意地悪さに一蹴され、弾む息に紛れて舌を打つ。
――あの怪異の群れ、忍びの業無くして追い払えるかっ!
『其れよ。事の起こりを思い出せ』
言われずも憶えておる。淡緑に難癖をつけられ、忍びの力で翻弄した。
『ならば。万川集海にある韓信の件、忘れた訳ではあるまい』
勿論。大志を叶えるが為、少年の前で膝を付き股を潜った。卑しき小者の戯言に一切動じず、羞を包み恥を忍んだからこそ、天下に名を馳せし大将軍となれたのだ。
『では、問う。 其方の大志とは?』
口内に血の味が滲む。唇や頬すら破片となって身体から零れ落ちる。
『爺様の遺言通り、忍びの道を棄てる事か?其れ共、東の地で腥風血雨を撒き散らす事か?』
拳を強く握れども、指の隙間から止めど無く落ちるは自戒の砂。
『ほら、答えが出ておろう。詰まらぬ矜持に獅噛つき、掟を棄てた』
同じ声音が洞の内側から低く響く。
『此れが其方の原罪よ』
ほろゞと、はらゞと。
正心を喪い、赤目忍という器が崩れる。
自己を律する殻が花弁となり、華やかに幹から舞い落ちる。朽ち掛けた人皮の縫い目が綻ぶにつれ、血潮が滾り、理性が霞む。
何が為に追うのか、想起する術すら無し。
『そう、急くな』
愉しそうに。異相が耳元の内側で囁いた。
『もう直、獲物に追いつく』
視界の芯に鷲鼻の背を捉える。
街の動脈たる大通り。凝縮した赤い帯に捕まり、相手の二輪の速度は白地に削ぎ落とされた。警告色に染まる喧騒の中、緑膿に濡れた醜態が白日に晒される。
思うように動けぬ焦りか、衆目の的となる羞恥なのか。相手は歪んだ顔を左右に晒せば、距離の縮まった視線が重なった。
「なっ!」
鷲鼻の顔が瞬時に青褪める。即座に視線を背けると、閉塞した進路を捨て右手首を目一杯に回す。後輪が夜陰を削って白煙を上げ、機首を脇道へと巡らす。
「邪魔だぁっ!」
隙間に潜り込む寸前、細い腕が手近にあった車両を殴った。瞬間、雷光が迸る。束の間の静寂を置いて乗用車は輝き、夜空に大輪の華が咲く。
出し抜けに生まれた紅蓮は混乱を呼び込んだ。甲高い制動音と軽い衝突音が立て続けに重なり、狂騒に囲まれた世界は更なる赤みを差す。
「っ!」
最中、煽りを受け横転した車両が迫った。護輪軌条に激突する寸前、ひと跳躍。着地と同時に地を蹴る。
「逃がすかっ!」
狭い路地で手間取る相手に引導を渡すべく、脹脛に力を込める。
だが。捉えたと確信した矢先に、鷲鼻の後頭部が沈んだ。車体を転倒する勢いで傾け、左へと滑り込む。
不意の方向転換。動きに追い付けず、再び緑膿の背から指が離れる。
「どけどけぇっ!」
通りをひとつ跨いだ鷲鼻は歩道に乗り上げ、暴走を繰り返す。
「死にてぇかっ!」
倫理を金繰り捨てた醜悪の男は、見境無く周囲に触れる。相次いで青白い閃光が爆ぜた。運悪く触れられた者が白煙を上げ、棒切れの如く転がる。
何て事。絶叫と悲鳴の混ざった死臭を振り解き、再び鷲鼻を追う。水辺の湿った匂いが深まった夜空に混じる。
と、眼の前が開けた。
通りを抜け、大橋が夜闇の中に姿を表す。頭上から三色の破片が儚く飛び散った。光源が次々と麻痺し、帷が重く伸し掛かる。
無数の前照灯が逃げ場を求めて四散する中、橋の向こうで睨みを利かす光源がひとつ。鷲鼻の乗る二輪が旋回し、殺意の矛先を突き付ける。
「クソッタレエェッ!」
気が触れた様な叫び声に、風を巻き込む唸りが重なった。雷火を垂れ流し、電子的な鋭利さで闇夜から迫り来る。
近付かれれば危うい。
雷鞭を既での所で躱しつつ、物入れを弄る。指先が硬く冷たい肌に触れた。引き抜けば真鍮製の弾頭。あの廃墟で抜き取った、弾丸の片割れが掌に転がる。
「クソ野郎がっ!」
仕留め損なった鷲鼻が憤激に車輪を鳴かせ、二輪の先を向き直した。額に青筋を浮かべ、口端に泡を吹いて絶叫する。全身に張り付いた緑の膿が波打つように震えた。
「轢き殺してやるぅっ!」
狂人の意思に導かれ、二輪車が暴れ馬の如く前輪を持ち上げる。漏電した蒼雷が車体を包み込む。
『怖くないのか』
暫く黙っていた異相が他人事の様に口を開いた。さも当然、と言った体裁。
短い息で愚問を肺から排出した。相手も求めてないだろう。只、迫る雷禍に対し感覚を密に、指先で弾頭を包んだ。親指を尻面に引っ掛け、切っ先を鷲鼻の眉間に合わせる。
真名を唱えるか?
いや、外道に摩利支天の加護は不要。
親指が放った真鍮の弾は、鷲鼻の左目を抜いた。汚れた頭が仰け反り、操縦桿から片手が離れる。
「ぎゃっ!」
制動を失い、災厄は再び脇を通り過ぎる。大きく揺れる微風の後には、重い何かが跳ねる軽い衝撃。続く鉄と樹脂が圧し砕かれる断末魔。
振り返ると、欄干に押し潰された車体の向こうで、全裸の男が天地逆となり宙を飛ぶ。
「ぎゃあっ!」
野太い悲鳴が自然の摂理に従い、奈落へと消えた。
橋の手摺から身を乗り出し、橋の下を覗く。
凡そ二間半の高低差。綺麗に切り取られた土手の下で、黒い水面から濁った線が走る。浅瀬に飛び込んだ五体は川底で激しく打ち付けられたらしい。顔を上げた鷲鼻の至る所から皮膚が裂け、赤黒い肉と白い骨を表に晒す。
にも関わらず、ゆっくりと。水飛沫を上げ、蹌踉めきつつも緩やかな川を遡上する。橋下の影の中へと逃げ込む様に。
「しぶといな」
口から感嘆の声を漏らす。と、背後から騒然が塊となって押し寄せた。
橋の袂から鷲鼻が落ちた事実に、自然と人が集まってきた模様。人が次々と車両から降り、川面を覗き込む。端末の照明で照らす者。端末を操作するものもちらほら。
「キミィッ!ナニやってん…………」
義憤に駆られたか、肩を掴みかかった中年を一瞥する。立処に顔を引き攣らせ、口を閉じた。
暫し言葉を失う。が、元より相手にする積もり無し。捨て置き、手摺を飛び超える。
壁面に踵を擦り付ければ、途端に護謨の匂いが鼻についた。二の舞いになるよりはまし。無事に脛を水面に沈ませれば、橋が影を落とす、濃密な闇へと踏み入れる。
進むにつれて、夜が深まった。上から注がれる光量も、次第に弱くなる。
代わって、四人の名人。いや、正心が剥離した器の隙間から鎌首を上げた。
『愚かや、ゞ』淑女の憐憫。
『気付いたに目を瞑り、尚も罪を重ねるとは』
――必要なのだ。
慟哭が洞から漏れる。
――奴らが未だ付け狙う理由、質さなければ落ち着かぬ。
『蒙昧、甚だゞ』壮年の怒声。
『ならば刃を降ろし、心から未練を取り払うべし』
――何もかも喪え、と。
憤怒が頬に罅を深く刻む。
『仕方無し、ゞ』童の嬌声。
『吐息に忍びの残滓を残してこそ、今の災厄』
――残さねば、護り切れぬ。
無邪気な刃に耳朶が崩れ、音も無く塵へと還る。
――何も持たぬ丸腰では何も出来ず。如何にして身を守る。
『知悉無し、ゞ』老翁の嘆息。
『無であればよい。何も残してはならぬ』
――出来るのであれば、最初からしている。
唇を噛み締めど、何も溢れるものは無かった。
「ヒィッ!」
闇の奥で息を詰まらせる悲鳴。橋脚に凭れ頭から血を流す鷲鼻の、蒼白な顔が強張る。
「くっ、来るなぁ!」
激しく怯え、壁伝いに水面を掻き分ける。だが、大怪我を負った男と、五体無事な少年。何方が早く動けるかなど一目瞭然。程なく、ふたりの隔たりは一間まで詰まる。
「何故、付け狙う?いや、未だ身体が欲しいのか?」
退路に手が届かず足掻く全裸に、ゆっくりと問い掛けた。
「欲しがるのは野狗子とやらか?」
だが、鷲鼻は口では何も答えず。激しく首を横に振り、唇を震わせる。
「な……なんで……、知ってんだ?」
見てはならぬものを見てしまったかの様に。動揺を隠せぬ痩身の男の哀れな姿に、欠けた口端が思いの外、上がった。
「其方の相方が色々と教えてくれたぞ。あの、丸々と太った男がな」
「……クソッタレェッ!」
嘘に激昂した鷲鼻の両腕が水面に沈む。薄い頭髪が揺らぎ、剥き出しの肩が夜陰に青白く煌めいた。
目に見える程の電光は両腕を這い川波に吸い込まれる。全裸の男を中心に水面が泡立ち、生臭い金属臭が微かに漂う。
視界を染める蒼白の輝きに、息を呑んだ。何かある。
「死ねぇっ!――」
最後の声は乾いた破裂音に掻き消された。続いて重低音。衝撃の波が濁った水柱を突き上げ、理不尽な暴力となって五体を襲う。
気付いた時には川底を蹴り、宙に身を投げ出していた。
「――!」
重い足場を物ともせず、二間に及ぶ跳躍。全裸の男は唇を震わせるが、急に襲われた耳鳴りで言葉は届かず。只、大きく目と口を開き、魂を抜かれた面持ちで見上げる。
仕掛けてくると思えば、案の定。初めての邂逅も、先の逃走劇も。得体の知れぬ妖かしの術を使うのは承知。
「――っ!」
空中で姿勢を正し、驚愕で固まった全裸の胸元へと飛び込む。上空からの、両足を揃えた一撃。
蹴り飛ばされた相手は橋壁に跳ね返り、うつ伏せで水中へと没する。
「もう寝るのか?」
直ぐ様、飛沫を割って無防備な背へ乗り掛かった。身動きできぬよう手の甲と肩口を踏み付け、首根を手で押さえる。
「さぁ、問いに答えよ」
だが、川底に沈んだ鷲鼻の口から漏れるのは気泡だけ。夜の底冷えた緩流に身を埋め、苦しそうに悶える。
「……答える気が無いか?ならば」
死ぬぞ。の言葉は、俄かに湧き立る気配に遮られた。
布を叩き合わせる拍手。ゆっくりと拍子を取る合図に、音の出る先を見る。暗闇に浮かぶ一対の白い手袋。
「いえいえ。赤目様の手を煩わせるには及びません」
耳鳴り止まぬ内耳に、聞き覚えのある、聞き慣れぬ声が飛び込んだ。
この作品はフィクションです。登場する人物や団体、事件はすべて著者の想像によるものであり、現実のものとは一切関係ありません。実在の人物や団体、場所、出来事との類似がある場合でも、それは単なる偶然であり、意図的なものではありません。




