名人の正体 三
慌ただしく立ち去った姉の背を目で追う。時を置かず、目紛しい警官達の雑踏に飲み込まれた。辛うじて見える足元も、道を折れ曲がって姿を消す。
顔色が悪い、か。
姉の言葉を頭の中で反芻し、顔を撫でてみる。
「其処まで、かの?」
どうも実感が湧かず、首を傾げてしまう。
確かに、慌ただしい数日であった。が、修業の日々と比べれば遠く及ばぬ。気怠げも無く、活力は十分。千里は無理でも、五百里くらいは走れよう。
どうしたものか。持て余した五体を長椅子に預け、視線を虚空に遊ばせる。
群青の制服は誰何の声ひとつ無く通り過ぎ、喧騒が右から左へと流れる。大きく開いた窓硝子から、赤みの薄まった日差しが弱々しく差し込んだ。
ゆっくりと立ち上がり、窓越しに外の景色を眺める。
赤い灯火が陰り、帷が落ちる。藍色の空を薄めんと、四方八方で白い篝火が焚かれた。
ほろゞと、はらゞと。
忽ちに夜陰を取り崩し、白妙たる営みを生み出す。が、暗色へと変わる夜空は、無限の虚無を以て微かな灯を飲み込まんとした。人類の叡智を嘲笑うかの様に。
人が夜を克服した。と思案したのは皮相的だったやも知れぬ。
闇を恐れる。故に火を用い、文明を作り上げた。原始の蒙昧を払い、自らの時間を広げ続けた。
だが、幾世に渡り努力して手に入れた空間も、結局は極僅か。地面より少し高い位置で、明暗の鬩ぎ合いが続く。どんなに工夫を凝らしたとて、地を這う定命の者が、夜の全てを手に入れるのは難しいだろう。
背筋の芯に寒気を覚え、身震いする。
春も半ばに近付いたと言うのに、夜は未だ冷え込む模様。息で窓が白く曇り、見慣れた慈姑頭の輪郭が暈ける。
欠けた断片は白い跡を吸い上げ、瞬く間に輪郭を結び直す。が、本来、映り込む筈の無い顔がこびり付いた。内障子の縁で覗き込む、淑女の泣き顔。
ううぅっ…………
涙で濡れる目元を袖で拭う佳人が夜景と重なる。
『哀れや、ゞ』
此れで三度目。前と同じく哀音が耳元で囁いた。驚きは無し。胸の鼓動も静かに受け止める。
『浅慮が過ぎました……。なんと愚かな事』
「……確かに」
幻影の宛て擦する悲泣に、薄い笑いが込み上げる。
「姉に無用な心配をかけた。全く以て、不明の至り」
ぐぐぅっ…………
『軽々成り、ゞ』
淑女の影の上に、壮年の怒り顔が二重写しとなり歪む。
『梵鐘の響きも聞かず、善悪の差別を怠る。此れを愚かと呼ばず、何を阿呆と呼ぶか?』
「……阿呆はなかろう?」
あんまりな物言いに、口端と眉尻が連れ立って下がる。
「生憎と、善悪は弁えておる。横から口差しされる謂れ無し」
きゃはっ…………
次は童。低い鼻を啜り、稚くも残忍に嗤いに取って代わる。
『重愆ゞ。戒律を破った上で、傲った態度だね。破滅するのも当然だよ』
「……何が言いたい?」
薄く浮かぶ童顔に眉根を下げる。信心するは摩利支天。聞き覚え無き御託は無用。
はぁっ…………
『図星を突かれた挙句、癇癪か。忍びから遠ざけた理由、此れでも分からぬ、とは』
妙に懐かしい掠れ声。窓面の明光が揺れ、別の顔を映し出す。
老爺の顔ではなく、別の顔であった。透き通った硝子に浮かぶ見慣れた輪郭の中で、髪を結んだ男が炯々とした双眸で射抜く。
『否、分かってる。故に、現出した』
影は言う。眼前の男と同じ声で。
『忍びに非ざる者が、安易に忍びの業を使えばどうなるか。何もかも知った上で』
――知ったように言うな。
『知っているさ。そうであろう?』
――ならば。其方なら如何にした?
吐き出しそうな慟哭に代わり、同じ顔へ問い質す。
――立て続けに襲われた不可解な出来事。救ったのは偏に忍びの業ぞ。他に術など有るものか。
真。
淡緑との諍いも、赤鬼との死闘も。鷲鼻と大黒や間宮の件、悉く同じ。爺様、延いては祖先から受け継いだ体術、知識の御蔭。
『正に、愚鈍』
異相は愉し気に目を細めるものの、直ぐ様、笑みが陰った。
『無粋な客人ぞ。まあ、良い』
機嫌を損ねた異相が顎を噦る。其の先で触覚が揺らぐ気配を掴んだ。何かを急ぐ、不穏な気配。
『……いや、此れも一興』
「ココに居たのかっ、探したぞっ!」
異相の言葉と、緊張に満ちた硬い声が重なった。ひと際大きい怒声に、窓面に並ぶ影の群れは一斉に霧散する。
「……鳥居、刑事?」
前触れも無く訪れた声の主に目を向ければ、厳つい体躯に角張った頬面。周囲を疑う視線を回しつつ、正面に陣を取る。
「何か?」
「いいか、驚かずに聞いてくれ」
力の入った両手を肩に置いた。服越しに指が食い込み、軽く痛みが走った。
「……今、警察病院から連絡があった」
途切れゞ。慎重に言葉を吟味し、太い唇に覆われた口が動く。
「昨日、君と一緒に居た少年たちだが……。先ほど、何者かに殺されたらしい」
「……何故?」
口の中が乾く中、どうにか言葉を紡ぐ。鳥居刑事は緊張の面持ちを変えず、頭を振った。
「状況は分からない。たった今、病院から連絡が来たばかりだ」
「……全員か?」
今度は首が縦に。唐突なる報告に目を瞑り、数瞬の冥福を祈る。
多目が死んだ。確か、永見の口からも出た名前。間宮も親しげに話していた事から、幼馴染か、其れに近い間柄だったと推察する。
で、あるならば。永見の悲しく歪んだ顔が脳裏に浮かぶ。
「犯人は?」
再び、頭を横に振る刑事。節くれた顔には緊張が色濃く滲む。
「まったく分からない。監視していた警官の話では、いつの間にか殺されていたようだ」
「死因は?」
「そんなコトより、もっと大事な事がある」
鳥居刑事が顔を寄せた。鬼気迫る形相で質問を遮る。
「犯人の目的も分からない今、ココも危ない。証拠隠滅が犯人の目的なら、きっとキミも狙うだろう」
此処が危ない?疑問を口にするより早く、肩の骨が軋んだ。手放したくないかの様な力の込め方。
「安全な場所を用意した。そこまでオレが護衛しよう。早くっ!」
言い終わるより先に、強面の腕に背中を強く押された。いや、叩いた。背中一面に熱を感じ、息が詰まる。
「少し、待たれよ」
性急に事を進めんとする刑事に、楔を打ち込む。先を急ぐ刑事の足が止まり、怪訝な顔で振り返る。
「姉が迎えに来ているのだ。何処かに移るのであれば、彼女も一緒に」
途端、荒削りの顔が醜く歪んだ。
「ええいっ、クソッ!」
人目も憚らず、強面は汚い言葉を吐く。忌々しそうに足元の床を強く踏み鳴らすと、逆剥けた手が腕を掴んだ。
「キミの姉さんは別の人間が保護しているっ。後はキミだけなんだっ!」
抗うも構わず、汗を掻いた太い腕に力が籠った。血管を這う肌の上を、白い指の輪郭が重なる。
輪郭?疑問が浮かぶより先に、答えがやって来た。
……ううっ……
……ぐむぅ……
……きゃはっ……
……はぁ……
四人の名人が窓枠を跳び超えた。肌から温度も伝わらぬ、気配だけの存在で五体に纏わり始める。
『理缺の者よ、ゞ』
『道心から外れ、天に背く愚かな男』
『血気の勇を誇れども、守るべき理を忘れた』
『名に違いし所業、まさに仇とならん』
代わるゞ、内耳へ直に響く幾重もの声。泣き、怒り、笑われ、呆れられる。
「さっ、コッチだっ!早くっ!」
名人の幻像に四肢が絡んだ。自我は彼岸の淵へと誘われ、現世の出来事から引き離される。抵抗する力が失せ、糸の切れた傀儡の如く引き摺られる。
再び強く歩み出す強面の後ろ姿に、慈姑頭の面影が重なる。
――何故に、付け狙う?
『何と人聞きの悪い物言いよ』
異相だけが振り返った。口元に薄い下弦の月を浮かべ、親愛と侮蔑の情を示す。
『其方とは表裏。絶えず、傍に付き添うのが運命というもの』
何時も聞く声音で答えた。耳ではなく、骨から伝わる声。
――常ではなかろう?
『いやゞ。四人に阻まれ、中々に表へと出られなかった迄』
――四人?
『彼らと手を切ってくれて助かった。お陰で、こうして話し合えるからの』
――元より、其方が居る筈も無し。
『聖人にも人心有り、とは其方が前に言った事。若しや、己が例外だと自惚れておらぬよな?』
――黙れ。
『いや、愉快ゞ。年端も行かぬ未熟者が悔しがるか。四人が最後の挨拶したがるのも道理』
――嘘を言うな。
『嘘から出た真。と言う諺を知らぬのか?正体を知っている癖に、別人と惚けられれば、失望もしよう』
返す言葉も無く、苦渋に満ちた沈黙を飲み下す。
『さて、如何にする?赤目忍』
「どうしたっ!早く来いっ!」
夢遊から覚めると、何時の間にか足を止めていた。数歩先を行った刑事が苛立ちの声を上げ、振り返る。
気付けば、玄関まで五間もない距離。忙しなく働く警官達は手を止め、視線が声を荒げる強面へと向かう。少年を囚える幽霊を気にする者は誰も居ない。
成程、と不意に口元が緩む。
道理で気配しか覚れぬ訳だ。
名人は、誰の目にも映る有形の客人では無かった。姿を象る肉体を、元より持ち合わせず。
疾うの昔に分かっていた。が、余りにも都合の悪い真実に、目を背けた。
其の付けを、今、払う事になる。太田女史も言ったではないか。現世において、神忍に及ぶ腕の持ち主はひとりだけ、と。
「なっ、何がおかしいっ!」
刑事が声を荒げた。牙を向き睨み付ける姿が何と滑稽か。
全くの的外れ。此れは自嘲。最早、偽り続けるは能わず。
「いや。刑事も大変だな、と」
異相を追うのを止め、強面と向き合った。沸々と腹の底から競り上がる怒りを表に出さぬよう、敢えて顔に不遜を張り付かる。
「怪我を押してまで働くとは。上司から殴られた痛み、残っておろう?」
嘘。学び舎で再会した際、平然と振舞っていた。外見からも赤みは残っておらず。此れで痛みがぶり返すとは思えぬ。
「えっ……?」
だが、強面の顔が強張る。怒りから動揺へと変わった顔の上に指が触れた。健在である筈の右目を隠す様に。
「おや?」
不思議な動きに、わざとらしく片眉を上げる。
「松平警部の肘打ちは顎。場所が違うのでは?」
指摘に、刑事の動揺が更に大きくなる。構わず爪先から一歩、前に出た。其の分だけ強面、いや、得体の知れぬ何者かが後退る。
「な、ナニを……」
「変装は上手いが、芝居は下手。成り替わるなら、もう少し観察眼を養った方が良い」
正体が違う、など直ぐに見破った。姿を変え警察署に乗り込んだ度胸は意外だが、内容が伴わぬのでは、画竜点睛を欠くというもの。
「さて。本物の鳥居刑事は何処に?真逆、殺したとは言わぬよな?」
相手を選ばぬ鳴鯨の術を使えば、強面に集まる視線が更に厳しくなった。強く響く不穏な言葉も相まり、制服組の顔色が変わる。
「ば、バカな……」
空気の異変を感じ取った変者は酷く汗を掻き始めた。署内に立ち昇る鋭い警戒心に辟易ろぎ、狭まる群青の輪に一歩も動けずにいる。
「観念せよ」
放つ言葉に熱が籠もる。
分かっている。此れは只の八つ当たり、だと。
「其方は失敗ったのだ」
認めたが故、過ちの重さが身を焦がす。己が不甲斐なさを薪にし、燃え盛る激情の矛先を、体の良い贄へと向ける。
「くっ、そおぉぉっ!」
追い詰められた男は拳を握り、腹の底から吠えた。有らん限りの絶叫で、疑惑と緊張に満ちた静寂を震わす。
と、前触れも無く、仮初めの身体が崩れた。
表面が幾つも罅割れ、肉が塊で剥がれ落ちる。着衣した背広の内側から次々と穴が空き、吐き気を呼ぶ腐臭と膿緑の泥濘が溢れ出した。刑事の五体は、見る間に緑の汚泥を垂れ流す不浄へと変わる。
「ぐっ……、うげぇっ!」
不幸にも嗅いでしまった警官が其の場で吐いた。袖口で呼吸を庇い、恐るゞ視線を落とす。飛び散った肉片ならぬ土塊が足元で蠢く。
「なっ!」
身構えるより早く、汚緑の泥土が身震いした。
刑事であった男と、群青の輪の間に湧いた腐った苗床から、短い手足が生える。丸い身体を捩って這い出せば、白い歯の揃った口を開けた。
また、あの『おたまじゃくし』。次々と緑の塵垢から姿を現す怪異に、居合わせた誰もが顔を青褪め、冒涜的な死臭から距離を取る。
ホギャアァ!
ざわつきが混乱に昇華された。怪異の群れが嗄れた濁声を張り上げれば、警官達は総じて腰が砕ける。
「顔を守れっ!乗っ取られるぞっ!」
気色を失い、足元も覚束ぬ群青を叱咤する。同時に、飛び跳ねた『おたまじゃくし』を殴り飛ばした。低く劈く絶叫の隙間を縫い、不可視の五感を無作為に広げる。
「くっ!」
次々に振り掛かる怪異を追う網膜の隅で、全裸の男が脱兎の如く跳ねた。
肌に薄緑の膿を被り、惨劇を置き捨て出口へと急ぐ痩身。其の背は、記憶にある不逞の輩と重なり合った。鷲鼻だ。
「待てっ!」
逃がしはせぬ。足元で耳障りに喚く『おたまじゃくし』を踏み潰し、鷲鼻を追う。全裸の男は既に外へと飛び出した。半透明の扉が音も無く閉まり掛ける。
両肩を縮めて擦り抜ける寸前、硝子面に焼き付いた名人の影と視線が交錯した。
「っ!」
一瞬、息が止まり、動悸が早くなる。
もう、偽る事は出来ぬ。
名人が誰なのか、問う間でもない。遥か前から、言葉を解する以前より、何度も言い聞かされたもの。
此の期に及び、隠し通すは無理筋。己の不徳を認めるしかない。
正心を、喪っていたのを。
この作品はフィクションです。登場する人物や団体、事件はすべて著者の想像によるものであり、現実のものとは一切関係ありません。実在の人物や団体、場所、出来事との類似がある場合でも、それは単なる偶然であり、意図的なものではありません。




