乱戦 四
現世の人間と比べ、死生を間近に置く時期は長かった。
昔話の代わりに忍びに関する様々な逸話を、血腥い過去の教訓も学んでいる。故に、惨憺たる景色には動じぬ自負があった。
が、眼前の惨状を素直に受け止める事は出来ず。
「間宮?」
水提灯を引き剥がそうと藻掻く、彼の腕の動きが止まった。だらり、と肩口から垂れ下がると、小さく身震い。透過する緑の水球を肩の上で揺らす。
とても、奇妙な光景。
既に上半身の傷は見当たらず。だが、代償として支払った頭部も消え失せた。
水提灯と繋がった、ふたつの胴体。路地から漏れ差す灯火で浮かび上がる影絵を、どう言葉にすれば良いものか。少なくとも、人と呼ぶのは憚られた。
「……間宮?」
再びの呼び掛け。応じたのは何方の意思なのか。
ぴくり。
水提灯側の腕が動く。小刻みに戦慄き乍ら、左手を此方に翳した。動きひとつで甘い悪臭が濃度を増す。ひりつく痛みから鼻を守る為、袖の布地で塞ぐ。
『カクゴ……シロ……』
くぐもってはいるが、先程より明確に聞き取れる音。言葉の意味を瞬時に理解し、僅かに踵を上げる。
其れが崩壊の序曲。水提灯の伸ばした腕が瞬く間に崩れ始める。
「なっ!」
息が詰まり一歩、退く。傍で見れば瞠目したかもしれぬ。
熱い蝋が蕩ける様に、緑の腐肉が舗装を汚す。異臭を伴いつつ腕から肩へ、胴から腰へ。人の型をしたものが水気を含んだ腐った土へと還っていく。
爪先が屁泥へ変わり終えるのに、大して時間は掛からず。
悍ましい身体の入れ替えを前にして、ゆっくりと唾を飲み込む。次から次へ、目紛しく変わる現状。思案は追い付くのがやっと。
「間宮、では無いな?」
乾いた口で、胴体の上に水提灯を乗せた四肢へ問い掛ける。嘗て、人を誑し込んだ者が所持した肉体。其の持ち主が入れ替った今、彼を何と呼べば良いのか?
「貴様が『あの人』か?」
返ってきたのは沈黙。大きな水玉は不思議な力で形を変えると、半透明な唇を広げた。笑ったのか?
判断に迷うと、間宮のものであった肉体が動いた。跪いた膝を地面から離し、すくり、と立ち上がる。
「……何処へ、行こうと?」
腕で顔の下半分を隠した儘、気付かれぬ程度に膝を曲げ重心を落とす。全身に気を巡らせ、五感を研ぎ澄ます。
知覚の網が小さな一団を認めた。
荒い息遣いに、装備が擦れ合う無機質な音。近い。迷い無く迫る感触に、思わず舌打ちしてしまう。
寄りにも寄って、此の契機。只でさえ厄介な相手が前に居ると言うのに、厄介な種が追い打ちをかけるとは。
「警察だっ!全員っ、動くなっ!」
案じた懸念など構いもせず、路地の横手から紋切り口調が割って入った。
水提灯との対峙を遮る様に三人。何れも透明な盾で身を守り、回転式拳銃の銃筒を突き付ける。
「抵抗せず、大人しく……、えっ?!」
内ひとりが水提灯に向かうと、前進を強張らせた。拳銃を持つ腕が激しく震え、膝が笑い出す。突然の悲鳴に、同僚も振り返って動きを止めた。
「ばっ、バケモノっ……!」
短い悲鳴。ひとりが盾を落とし、腰を抜かす。舗装に突いた手から黒い塊が転がり落ち、硬い路面の上で踊る。
「なっ……、なんでっココにっ!」
程度の差はあれ、残るふたりも同じ。気丈に振舞うが、見るからに動きは固い。
「…………」
怖気づいた警官隊の醜態を前に、水提灯が揺らいだ。緑の泥水が小さな渦を巻く様を残し、間宮の身体が身を翻す。校庭で見せた動きと全く同じ仕草。
「まっ、待てっ!動くんじゃないっ!」
気後れを隠し切れぬ儘、警官のひとりが発砲した。上空に向け一発。硝煙の匂いと破裂音が門扉で囲まれた通りを支配する。
「けっ、警告だっ!次はっ、当てるっ!」
自らに頼れる武器が有ると気付いたか、落ち着きを取り戻した言葉は勇ましい。盾を投げ捨て、腰溜めとなり両手で狙いを定める。標的は異形と化した間宮の身体。其の姿に触発され、もうひとりも盾を構え直す。
だが、異変は足元で進んでいた。
「――っ!」
水提灯が捨てた身体の成れの果て。命の尽きた筈の汚泥が蠢く。淀んだ緑の土塊が盛り上がると、何かが屍肉を掻き分け顔を出す。
蛙に成り切れぬ、膿んだ緑色の『おたまじゃくし』。
丸い身体を支えるに不釣り合いな短い手足。身体の半分もある口を、ぱくりぱくりと開閉させた。都合、四匹。数を合わせたか。
オギャアァ!
産声にしては汚すぎる合奏。『おたまじゃくし』は白く平たい歯を剥き出しにし、威嚇する啼き声を奏でる。
「たっ、助けっ……!」
肝を潰した警官が絞り出す、声の戦慄き。砕けた腰は持ち上がらず、後ろへ向かって地べたを這う。
「骨皮っ、立てっ!」
戦意を失った同僚を、盾を構えた仲間が叱責した。警官の放つ怒声を意識の端で聞き流し、再び焦点を水提灯へ戻す。
蒼白い光が不気味に明滅する頭部。間宮の身体を引き連れ遠ざかる輪郭が、路地の隙間から漏れる灯日の中に霞んでいく。
「待てっ!」
呼び止めようと声を張った。応じたのは路上を埋め尽くす化生の群れ。汚緑の『おたまじゃくし』が、もう一度啼き出す。
ブゥギャアァッ!
濁声を張り上げ、醜い肢体が跳ねた。寸詰まりの身体が天高く跳ね上がり、頭上から襲い掛かる。見る間に視界を覆う、臼歯だらけの白い並び。
「っ!」
がなり立てる銃声を気にする余裕無し。足腰に力を込め、掌底を一閃。『おたまじゃくし』の下腹を打ち抜き、跳ね返す。
悪意の塊は「プギュ」という悶絶の空気を漏らし、ひっくり返って地に落ちた。直ぐ様、踏み潰す。小さき異形は緑の泥濘へ姿を戻した。
「うわあぁぁっ!」
群青の一団から上がる絶叫に視線を動かす。
襲い掛かった『おたまじゃくし』の前に、警官のひとりは盾で押し潰し、半透明の板に粘り気のある彩りを添えた。もうひとりは銃弾で丸い胴体を撃ち抜き、粘液を地に撒き散らす。
だが、残るひとり。恐怖に凍りついた警官の顔の上に『おたまじゃくし』が張り付く。
「あっ……がっ……」
顔面を占拠した緑の怪異を掴み、地面でのた打つ群青の四肢。だが、必死の抵抗を嘲笑うかの様に『おたまじゃくし』は小さい身体を丸め、自らを開いた口の中へ押し込んでいく。
「骨皮っ!」
床に伏した同僚の元へ、拳銃を握った警官が駆け寄った。体内に侵入せんとする異形に贖えず、ただ虚空を見上げる仲間を抱き上げる。
「大丈夫かっ!吐き出せっ!」
抵抗すら無い顎を強く抉じ開け、口内へと差し入れられる太い指。消えた『おたまじゃくし』を追って湿った喉の奥へ。だが直後、侵入した指先が即座に引っ込められる。
「ぎゃぁっ!」
引き抜いた指の付け根を押さえ、苦悶する救助者。隙間から赤い川流が溢れ出す。噛み千切られた指の痛みに絶え切れず、身を丸める男の足元に血溜まりが生まれる。
其処で終わらず。痛みを堪える横顔に向け、銃声が一発。
「――ほっ!」
声も音も無い儘、群青色の背中がゆっくりと横倒しになる。其の奥で、すっくと立ち上がったのは『おたまじゃくし』を飲み込んだ警官。
いつの間にだろうか。肩からぶら下がる生気の無い手に、彼らの信頼する凶器が握られていた。
「骨皮ぁっ!」
残ったひとりが大音声を上げる。
「オマエぇっ、正気かぁっ!」
盾を前に構えるも周囲を見ず、救いの手を拒絶した者へ短い激情をぶつける。
だが、天空から吊り下げられた男は無言。何も発せず、路傍の片隅に立ち尽くす。
其の、何も映さぬ双眼がぐるりと裏返った。
此れでは視覚は役に立たぬ。にも拘わらず、彼ら足を引き摺り乍ら位置を変えた。通りの中央へ、水提灯を遮る様に。
「ナニしたか分かってんのかっ!目を覚ませぇっ!」
糸で操られた人形と同じ。同士の説得にも耳を貸さず、拳銃を握る腕が上がる。其の奥で水提灯の、間宮の背中が宵闇の彼方へ溶けてゆく。
「っ!」
逃がす訳にはいかぬ。奥歯を噛みしめ、地を踏む足に力を込める。
既に手持ちの焙烙玉は使い尽くした。虚を生む手段は持ち得ぬ。勢い、正面から相対する必要に迫られる。
だから何だ。
間宮は水提灯を知っていた。あの怪異が『あの人』なのかは知らぬ。が、何かを知っているに違いない。鷲鼻の事、大黒の事。そして獏の事。
根拠は無いが、確信は有る。何しろ、今迄に組み合った相手は怪異許りなのだから。
「覚悟っ!」
吐き出した気炎に、人形と化した警官が反応した。発条仕掛けの玩具であるかの如く、拳銃が跳ね上がる。
臆するなっ。
一発は受ける心構え。致命で無ければ良し。逆ならば運が無い、と諦めるのみ。来る痛みに備えて歯を食い縛り、前へと踏み込む。
だが――、鼓膜を叩く破裂音は立て続けに二発。
「なっ……!」
不意に襲われた十字砲火に、足を止めてしまう。其の直ぐ先で鉛玉が舗装路の上で跳ね、赤い火花を散らす。
「少年はぁっ、動くなぁっ!」
盾の陰から突き出された警官からの警告。銃口から薄っすらと上がる白煙に、正気での行いだと悟る。
「阿呆っ!」
が、其れは過ち。余りにも見当違いな判断に、目上にも関わらず声を荒げてしまう。
「追わねば逃げられるであろうっ!行かせよっ!」
焦りが口調を早くした。こうして諍う合間にも、水提灯は間宮の身体を連れ何処かへ消えてしまう。
「だっ、ダメに決まってんだろぉっ!」
だが、唐変木は構えを解かず。周りに誰も居ないというのに踏鞴を踏み、定まらぬ銃口が徐々に上がっていく。
其処にまた、乾いた破裂音。頭の先を掠める鉛玉を躱し、地面を転がる。壁際に滑り込むと身を屈め、人形が繰り出す攻撃に備える。
「怪物を逃がしても良いのかっ!」
「うっ、うるさぁいっ!骨皮ぁっ!もうヤメてくれぇっ!」
悲痛に呻き、無駄な説得を繰り返す生き残り。前に翳す盾の上で銃弾が跳ねた。青白く激しい火花が咲き、無色の合板に無数の亀裂が走る。
「うわっ!」
衝撃を受け止め切れなかったか、警官の上身が平衡を失い大きく揺れる。同時に射線も外れた。好機は今しかない。
ヲン・アニチ・マリシエイ・ソワカ
再び狭路の中央へ飛び込み、群青色の人形に迫る。血色を失った白い顔が正対し、肘を固めた腕の先が眉間に向いた。
狙いが付く前に体当たり。頭を下げ、肩から身を投げ出す動きに、相手は対処が遅れる。
空いた横腹を突き飛ばした。重い感触が骨に伝わる。人形が勢いに押し負け、尻餅を搗いた。
上等。後は任せ、残った余威の儘に路地の奥へと突き進む。「止まれぇっ!」との絶叫に耳を貸さず、只管に光の先へ。
近付くに連れ、強く甘い異臭の中に酸味と煤の臭いがこびり付いた。車の放つ排気と同じ。
「くっ!」
逸る鼓動を抑え、光の末端へと辿り着く。街灯が煌めく、開けた並木通り。小さな混乱が湧き上がっていた。
大きく泣き崩れる着飾った女性に、脱兎の勢いで逃げ出す背広の一団。遠巻きに様子を窺う青年の傍で、青白い顔をした女性が口元を手で覆う。人影は面した車道まで伸び、車の警笛が長く喚き散らす。
「化物は何処にっ!」
直ぐ脇で、小さな看板の後ろで全身を震わせる中年に問う。身体の半分も隠せず食み出た、天辺の薄い男。
「ばっ、ばっ、ばっ……」
口で応える代わりに、大きく振れる指が広告塔の真下を指し示す。其の先は、何も無い車道が広がる虚空。往来を行き交う車両の姿も無ければ、横切らんとする人影も無い。
暫く、言葉を忘れ立ち尽くす。
ひと足、遅かった。悔しさに肩が震えた。拳を強く握り、奥歯を痛くなる程に噛みしめる。
「……永見っ!」
ようやっと口から漏れた小さい慟哭は、誰にも届かなかった。
この作品はフィクションです。登場する人物や団体、事件はすべて著者の想像によるものであり、現実のものとは一切関係ありません。実在の人物や団体、場所、出来事との類似がある場合でも、それは単なる偶然であり、意図的なものではありません。




