乱戦 三
身の丈と同じ高さとなる透明な盾と、短い多段の警棒。ふたつを手にした警官が次々と廃墟の中へと飛び込む。表の階段だけでなく、商館内部から続く裏階段からも。
数は少ない。合わせても両手の指よりも足らない程度。だが、全ての出口が相手に奪われた。逃げ場無し。
ひと頻り歯噛みすると、素早く地に伏せる。身を低くし、横倒しとなった写真器の筐体の内部へ。独りでも身動ぎ出来ぬ狭さだが、幕が影を隠してくれた。人の手で造られた白夜の下で立ち呆けるより、よっぽど良い。
「警部っ。コレをっ!」
頭上で差し迫った声が近付く。薄幕の奥から片目だけを表に出せば、目前に映るは黒の半長靴と焦茶の革靴。
「この奥の、少し開けた場所に転がってました。その……心肺機能停止状態の者と傷病者も一緒に……」
ふたりの会話だけが届く故、どんな表情なのかは声音でしか察せぬ。内容から、淡緑の傍らで興味を唆る何かを見付けたのだろう。気にはなるが、顔を晒け出す愚は犯せず。
だが、直後に床を跳ねた小箱が答えを教えてくれた。姉から渡された、Mix-Sceneの端末。
「小僧っ。最後の最後で感づきやがってっ」
聞き覚えのある舌打ちが頭上で鳴る。仄かに甘い、燻した葉の匂いが鼻腔を擽った。
「ど、どうします?他に、GPSの反応が消えた被疑者もいますし……。応援を頼みますか?」
「んっ?昼間の怪獣騒ぎで、署内が大わらわだってのに?」
意地悪そうに、枯れた声が問い返す。蛇に似た白い顔が脳裏に浮かぶ濁声。
「揃いも揃って二階級特進したせいで、他の所轄から応援を呼ぶハメになってんだぞ。こんだけ集められたのだって、奇跡みたいなモンだ」
「でっ、ですがっ……!相手があのバケモノだなんて聞いてませんよっ!」
「言ったら、ノコノコ付いてきたか?」
煙草で潰れた声が発する返答に、息を飲む音が続く。
「あんなんでも一応、人間だ。刑事を目指すなら『GB』の末期症状くらい知っておけ」
言葉を失った警官を冷たく遇う。少し間が空き、白い部分の無い吸い殻が天空から零れた。
「上司からの命令だ。ガキどもを探せ。鼻タレのガキでも犯罪者なのを忘れんな」
「……分かりました」
喉の奥から絞り出した呻き声。半長靴がくるり、と回った。
「各自っ、警棒から拳銃へっ!凶悪犯に対する対処に必要だと認めるっ!」
上擦った号令を発し、黒い靴が遠ざかる。時を同じくして、硬い足音がひっきりなしに響き始めた。
余り宜しくない兆候。五感を密にし、触覚で周囲を探る。警官達は小さな固まりとなって瓦礫を崩し、中を検めた。時折「抵抗せず、出てこい! 大人しく投降しろ!」と張り上げる声。
さて、どうするか?
隠れているのは得策に非ず。息を潜めた儘では、見つかるのは時間の問題。
何せ、偽りの日差しは警官達の味方なのだ。瓦礫の海を照らすだけで警官達の助けとなり、潜伏者にとっては仇となる。
と、指先に何かが触れた。
無意識に隠し物入れの中へ。奥底で焙烙玉が出番を待ち侘びていた。表面の油紙の感触に、つい口元が綻ぶ。どうも、白日の下は居心地が悪いらしい。
「やるか」
口に含んだ言葉を飲み込み、焦茶の靴の踵が見せた隙を見て筐体から抜け出す。周囲の視線から逃れるよう感覚の域を広げ、息を殺して死角を渡り歩く。身を屈め、床に突いた手の甲の上に足裏を重ねる、深草兎歩で。
「警部っ!」
別の声音が息を切らし、薄茶の三揃いに駆け寄る。顔を寄せ合い二言三言。僅かに見える横顔が口笛を吹く。
「ひょうたんから駒じゃねぇか。で、ココの所有者は?」
猫背の男からの質問に、警官の表情が固まった。
「あ……、あの……」
しどろもどろに言葉を詰まらせる。聞き手は吸い始めた許りの煙草を投げ捨てた。後ろ姿からでも、途端に機嫌を損ねたのが分かる。
「そんくらい事前に調べておけっ。おいっ!至急、鳥居に連絡しろっ。署内で無駄メシ食ってるハズだっ」
胸元に手をやる薄茶の三揃い。慣れた手付きで小刻みに肩を揺らす。口元に灯火が点く事も無く、悔し気に何かを放り捨てた。
「建物の家主を特定し、身柄を確保しろっ、ってなっ。なんだったら、逮捕状ナシでも構わねぇっ」
言葉を吐き捨てるが早いか、酷い撫で肩を回し、反対へと向き直る。
近い過去に見た顔が其処にあった。松平正。毒を追う、独善たる刑事。
「警部、どちらへ?」
「あ?補充だよ。補充」
不機嫌そうに首を巡らす白蛇の刑事。片方の細眉が跳ね、小さな鼻の脇に深い皺が寄る。
「すぐ戻る。捜査は続けておけ」
ぶっきらぼうに吐き捨て、表に出る階段へ。道筋を辿れば、身を屈める者と視線を交わす事となるだろう。
会話に気を取られ、包囲が狭まった事に気付くが遅れた。
「――っ!」
不手際の穴埋めが為、周囲に気を差配し潜伏先を探す。
駄目だ。
松平の目から逃れられても、別の気配が見付けてしまう。此れこそ、完全な詰みの状態。
ならば。座して死を待つよりも、前へ。
足を地に戻し、空いた手が隠し物入れへと向かう。手持ち全ての焙烙玉を集めれば、紛い物の天日へ。蛍光灯の白い残照に迷煙が滲み、辺り一帯の輪郭を奪う。
「うぉっ!」
松平だけでなく、警官達からも動揺の声。
煙幕に呑まれた相手を尻目に、身を低くし地表に続く上り階段へ。視覚だけには囚われぬ者の特権。其の場で戸惑う人影の間を擦り抜ける。
「――こ、こっ!」
微風に巻かれ、一瞬だけ松平と目が合う。
「小僧っ!」
白蛇の吠える唇は再び煙雲の中に消えた。掠れた怒声を背に受け、疾走する脚が階段を駆け上がる。
表に出れば濃紺の海。しん、と静まり返った無人の街並みが出迎えた。
「被疑者は現在、逃走中。身長は百六十センチほど。GPSの反応は無し。機器による追跡は不可」
「相手は発煙筒などで武装。注意せよ」
「周囲に応援をっ。これじゃ、逃げられるっ!」
突き進む道とは別の方角で、不意に怒号が上がる。
焦燥に満ちた響きに、追手が獲物の足跡を見失った事実を知る。此の儘、諦めてくれるのなら御の字だが。
とは申せ、追う立場は此方も同じ。
四方を疾駆しつつ、不可視の触覚を広げる。間宮の影を探し当てられる、最大限の広さで。丹田の底が擦り切れても構わぬ。彼に聞きたい事が山ほど有るが故に。
南に手応えは無く、西も同じ。北では影も形も見当たらず。
最後の東、其処で見つけた。
距離にして三間半。蹌踉めきつつ狭路を進む赤黒い影。炭化した皮膚に覆われた上半身に焦げた襤褸。痛みに対する喘ぎを連れに、昏き隘路を進む。
「探したぞ」
短く声を掛ければ、掌で醜貌を隠す間宮が振り返った。
切り裂かれ、崩れた肉も剥き出しとなった血塗れの顔。細い筋の隙間から見せる白い瞳が震えた。黒い水疱で埋め尽くされた唇が引き攣る。
「あっ、赤目っ!」
昔日の色男が短く息を呑む。慌てて後退る動きに、ぎこちなさは無い。
先の逃走劇といい、あの大火傷で此処まで動けるとは。矢張り、緑の毒が関わっているのだろう。
「なんでっ!追いつけるハズなんて……」
「観念せよ。其方の負けだ」
ならば遠慮は要らぬ。穏やかに、冷たい事実を突きつけてやる。
「先程は聞きたい事も聞けず仕舞いだったから、の。改めて、此の場で聞かせて貰おうか」
「クッ……くっそぉっ!」
醜い絶叫を上げると、弾かれる様に背を向け逃げ出す。
遅い。学び舎で一番の韋駄天であった姿など見る影も無かった。地面に張り付いた足を引き剥がす、滑稽な走り方。
掛ける言葉が見付からず、溜息を残して後を追う。微風に足音を纏わせる走りを披露すれば、瞬く間に彼我の差が半分まで埋まる。
「くっ!」
音も無く忍び寄る影に慌てたか。間宮は路地の塵箱に足を引っ掛けると、頭から翻筋斗を打った。汚い路上に酸っぱい悪臭を放つ残飯が飛び散る。
「たっ、助けっ!」
だが其れでも。彼は這い出し、藻掻く。
嘗ての優男は汚れ切った長い手足を舗装に擦り付け、必死に前へ。路地の横手から漏れる光が、惨めな彼を導き迎え入れた。
「往生際が悪いぞ」
間宮の後に続き角を曲がる。門扉が連なる壁に薄汚れた舗装路。奥から差し込む白茶けた光の帯が、視界を薄く暈けさせる。
と、名状し難い腐臭が鼻を突いた。
余りの刺激に、上腕部の裾で顔の下半分を覆う。其れでも肌を刺す痛みすら感じる、息苦しい迄の甘い瘴気。
熟しきった果実を更に濃縮した、諄い吐息だった。
「たっ、助けてっ、くださいっ!ぼっ、ぼうっ、暴漢にっ、襲われてっ……!」
だが、間宮は。五感を狂わせる程の毒々しい甘さを物ともせず、眩く縁取られた人影に手を伸ばす。溺れる者が掴む最後の藁の様に、元の色すら分からぬ、朽ちかけた腕を。
「……えっ?!」
歯の根が合わぬ、甲高い震え声が途中で止まった。醜く変わった顔を晒し、黙って見上げる。
「やっ……野狗子……さん?」
間宮の放った言葉に、微動だにせぬ新参者を見――言葉を失う。
頭が乗っていなかった。
いや、頭が無い、という言葉には語弊がある。
少なくとも、首の上に塊は存在した。
淡い緑色に濁った水塊。半透明に震える頭部は、背後の街灯を惘と通した。異様に煌めく、不気味な水の提灯とも言えよう。
だが。此れを頭と、人と呼ぶ冪なのだろうか。
『ブァファ……ガ……』
水提灯が微動する。口に当たる箇所が窪み、唇を型取る。声と言うには酷く籠もった、不明なる響き。
「ちっ……違うん、ですっ。ごっ、誤解っ、しっ、しないでっ……」
異形の言葉の前に、間宮は怯えていた。縋り付いた手を離し、腰から崩れ落ちる。
「だっ……だからっ!もっ、もう一度だけっ、チャンスをっ!」
形の整わぬ顔から漏れた、祈りにも似た焦燥。果たして、水提灯に祈りは通じたか。其れ共、異形に声と判別されなかったか。
答える代わりに、淡緑の水面が揺れた。形を顔の輪郭へと変え、すうっと間宮の目の高さまで降りる。
『シィ……ッゥフォゥ……シィ……ファ』
ふたつの頭が触れ合い、水と怪奇な相貌が接吻する。南蛮の者が見せる、深い口吸いに似た接触。
「――っ!」
目を疑う光景に、一瞬、息が止まる。
水提灯が崩れた。
汚れた水塊は形を失い、粘度を持った泥となって間宮の頭を飲み込む。抵抗する暇も無く、瞬く間に頭全体を覆い尽くす。
捕食、という言葉が頭を過る。拒絶を許さぬ、静かな侵食。
……ぐぼぉっ!
大きな泥漿の中で気泡が沸いた。無数の破片で引き裂かれた腕、いや全身の傷口から薄緑の粘液が滲み出る。
「待っ……!」
制止しようと伸ばした腕が止まった。
間宮の上半身を薄く覆った半透明の繭。抵抗を止めた蛹の核の色が薄くなる。赤黒い火傷から薄い緑へ。
同時に、破片で抉られた肉は盛り上がり、傷口が塞がっていく。焼き焦がし、醜く爛れた皮膚すら、何事も無かったかの様に滑らかさを取り戻す。
嗚呼、大黒の時と良く似ている。癒える、という言葉では片付けられぬ、生命の、自然への冒涜。
だが、間宮は相応の代償を払った。
異常なる治癒の力と引き換えに、彼の頭部が見るゞと縮み、痩せ細っていく。
有る筈の髑髏も役に立たず。彼の自慢であった顔が皺と皮だけとなり、消えてゆく。
「……化物っ」
頬に手を当て、搔いてもいない汗を拭う。
救う手立てすら思い至らず。出来る事と言えば、此の惨状を目に焼き付けるのみ。
人間において、決して目に掛けてはいけぬ光景。
異界が織りなす災禍を前にし、胃の内容物が迫り上がる。何も食べずにいたのが幸い、と喜べる筈も無かった。
この作品はフィクションです。登場する人物や団体、事件はすべて著者の想像によるものであり、現実のものとは一切関係ありません。実在の人物や団体、場所、出来事との類似がある場合でも、それは単なる偶然であり、意図的なものではありません。




