学び舎で 一
学舎へと急ぐ最中、足を止めざる出来事が眼前に広がる。歩道に乗り上げ、捨て置かれた黄緑色の車。歩くにしては厳しい幅寄せで立ち塞がれ、一般の往来を滞らす。
無神経な持ち主に向け、舌打ちをひとつ。恨めしく車体を睨めば、既視感のある車体。はて?と記憶を巡らせば、直ぐに思い出した。何時も校舎裏に停めてある、教師の乗用車ではないか。
「又か」
少しばかり苛立っても罰になるまい。何せ、こ此れで三台目。護輪軌条が途切れる度に、見慣れた車両が通せんぼを繰り返した。何かの嫌がらせか、と勘ぐってしまう仕打ち。
此れが更に続くならば、別の道を使った方が早い。
見切りをつけた胸中を共連れに、裏門に繋がる細道へと切り替える。普段の登下校には使われぬ、歩車の区切りも無い路地。幸いにも擦れ違う車両も無く、正門よりも簡素な通用門を潜る。
然して広くない駐車場には空きがあった。校舎の影に覆われた、無機質な地面と壁。主に教師達が使う昇降口は狭い階段を上がった二階にある。
「おや?確か、赤目くん、だったね?」
其の手前を横切れば、頭上から透き通った男性の声。見上げると強面、鳥居刑事が階段を降りてきた。見た限り、ひとり。
「どうした、その格好は?傘を忘れたかい?」
濡れ鼠な様が気になったのだろう。厳つい顔に呆れた色が浮かぶ。
「どうして、此処に?」
思いも掛けぬ場所での再会に、つい身構えてしまった。
相手は気に留め置かなくとも、同じ調子で応じは出来ぬ。彼の上役と、ひと悶着を起こしているが故。
「ああ、先輩はいないよ。安心して」
周囲に気を配るのを勘付かれたか。彼は武骨な相貌を崩し、苦笑する。
「タレコミがあってね。念のため、事情を聞きたかったのだけど」
「けど?」
「空振り、さ。どうも入れ違いになったようでね」
鳥居は残念そうに頭を掻く。病院での一幕といい、どうも口の軽い御仁。上司とは違う意味で、良く刑事に成れたもの。
「密告した者の声は若い女性か?」
ならば。浮かんだ疑問を其の儘、口にする。対して、刑事は肩を竦めてみせた。
「どうかな?受けたのは、別の部署の人間だから」
お道化た刑事を前に、掌で口元を隠す。彼女ならやりかねん、と思ったが、考え過ぎか。
いやゞ。思考が少々、先回りしている。間宮が緑の毒を嗜んだ証拠は無い。断定には早過ぎる。
「えっと、赤目くん」
氏名を呼ばれた。気になり顔を上げれば、少し寂し気な刑事の顔。
「先輩の事、悪く思わないでくれないかな?」
己の眉根が険しく動く。先輩。彼の上司たる、白蛇の如き刑事。
「まぁ、そうなるよね」
若い刑事は苦笑する。が、良くないと思ったのだろう。
「でも、分かって欲しいんだ。先輩だって悪気は無い。ただ、職務に忠実なだけで」
物は言い様。
勝手な思い込みで下手人扱いされた挙げ句、あらぬ疑いを掛けられたのだ。此れで悪気を感じずに振舞え、とは。聖人君子でも難しい。
「ならば、少しは手心があっても」
「……手厳しいね」
強面が首を傾げ、俯いた。耳の痛い話であろう。
「この間は本当、申し訳ないと思う。けど、先輩は古くて、まっすぐな人間だから」
「真っ直ぐな警官の中には、優しい者も居るぞ。貴方の様な、の」
厳つい顔が少し、綻ぶ。
「褒めてくれるのかい?ありがとう」
濡れるのも構わず、大きい手が肩に乗った。力強く、大きな掌。
「――職業柄、感謝されるなんて稀だから。嬉しいよ」
刑事は目を細めて呟く。
「治安を守るのが当たり前。少しでもヘマすれば、世間はそれ見たことか、って、怒るからね」
通り過ぎる横顔に、少し疲れが見えた。
「時々、何のために守っているのか。疑問に思うことがあるよ」
少し丸まった背中を、駐車場に停めてあった箱自動車の中へと押し込む。
何か、返した方が良かったであろうか?逡巡する合間に、彼を乗せた乗用車は走り去った。
結局、鳥居刑事は何を伝えたかったのか。悩む頭を抱え、校舎を回り込み校庭へと向かう。
本来、居るべき生徒の姿は無かった。
湿った黒土の運動場はとても殺風景で、今の時刻ならば聞こえてくる筈の喧騒は欠片すら感じ取れず。
陸上部だけでは無い。校庭を分けて使用する野球部や、隣接する庭球部にも人影は皆無。耳を澄ませば聞こえてくる、体育館からの掛け声すら届かない。
学びの園から人が消えた。異様な光景に、掌が口元を覆う。
「……参ったな」
校舎へ足を運ぶ前、蜂谷に様子を聞くべきであった。後悔、先に立たず。考えに至らなかったのが恨めしい。
いや、刑事である鳥居が学舎から出てきたのだ。少なくとも、応接した人物が何処かに居る筈。
致し方無し。丹田から発する不可視の触覚を周囲に放つ。長く、広く。例え雑でも良い。人の気配だけを探る。
と、知覚の網に何かを捉えた。直ぐ様、接触した先に五感を集める。校舎の隅。人目から逃れる様に、壁に身を寄せる影がひとつ。
遠くない。網に掛かった感覚を頼りに、校舎の角を曲がり身を乗り出す。
「誰ぞっ?!」
「んっ?」
恰幅の良い女性がのんびりと振り返った。運動着に身を包み、手には煙管を思わせる黒い箱。口元からひと筋の紫煙が立ち上る。
「……?」
静寂が周囲を包む。
「……!」
相手の丸くした目が、生徒と手にした煙管を行き来する。
かと思えば、丸い身体が急に飛び跳ねた。
「あああっ!違うんですっ!コレはタバコじゃなくって、電子タバコっ!煙を楽しむモノなのでっ!」
顔を真青に染め上げ、煙管を背の後ろへと隠す。空いた手を必死に振り、言い訳にも満たぬ弁解を繰り返す。
「太田先生?」
「分かってますっ!校内禁煙ですよねっ!でもっ、厳密な分類上はタバコじゃありませんからっ!だからセーフですっ!セーフっ!」
「太田先生っ!」
名を強く呼ぶしかなかった。相手はびたり、と動きを止めて一、二秒。ようやっと生徒の顔を認識する。
「って、赤目かぁ。もう、ビックリさせないでよぉ」
女教師は大仰に安堵の息を漏らした。そして、何事も無いかのように現代の煙管を腰の物入れに仕舞い込む。教師としての体裁を取り繕うにしては雑な動き。
「って、どうして校内に残ってるの?いや、ソレより服のほうが先ね。ビシャビシャじゃない。さっきの雨?」
思ったより身形が酷い様だ。疑念と不憫が入り混じった声で捲し立てる。
「それじゃカゼ引くでしょ?学校に着替えを置いてたりはしないの?」
力なく頭を振る。生憎、今日の時間割に体育は無かった。そう都合良く、代えを持ち合わせていようか。
「あらま。じゃあ、しょうがないわねぇ」
丸く短い指に、手首が掴まれた。思ったより力強く引っ張られる。
「予備の体操服を貸してあげるから、体育準備室に来なさいな。今よりかはマシでしょ?」
断る理由もない。首肯し、ふたりして脇道を進む。
「そういえば」
校舎伝いに歩きつつ、丸い風体の教師に問いかける。
「先程、刑事と擦れ違ったぞ。其れに、他の生徒も見かけない。学校で何が?」
返ってきたのは、大きな溜息。
「もう。目上の人にはキチンとした言葉づかいを使いなさいな」
厚い唇の間から、遣る瀬無い声音が響く。
「お爺さんの影響だっけ?今から直しておかないと、将来、苦労するわよ」
耳の痛い説教に、顔を顰めてしまった。聞きたい話は、其れに非ず。
勘づいた教師は、再び肩を落とす。
「で、質問の答えだけど。刑事さん達が来校したせいで、午後の授業は中止。生徒を全員下校させて、先生たちはずっと職員会議よ」
会議?なのに外で煙管を愉しんでたのか?
「先生は仲間外れに?」
「違うわよっ!」
噛みつく様に否定される。
「今は休憩中。ぶっ通しで責任を押し付け合ってたんだもの」
ほんと、やんなっちゃうわ。
うんざりした調子で、太田女史は嘆いた。
体育館内にある、体育教師専用の職員室。汗の匂いが立ち込めた狭い一室に案内され、シャワーと着替えを馳走される。
「あら、思ったより似合うじゃない」
顔を赤らめているであろう男子を他所に、嬉しそうに表情を崩す太田女史。
「本当に、此れしか?」
「そうね、赤目の着られるサイズ、それしか無かったの。いやぁ、ユニセックスのデザインって便利ねぇ」
ならば渡す前に伝えるのは「卒業生の寄贈」だけで良かろう?女子生徒が着ていた、と無駄に強調してきたが故に、羞恥を感じて仕様がない。
「着ていた制服はタオルにくるんで、袋に詰めて置いたわよ。帰ったら、直ぐにクリーニングに出しなさいな。
じゃないと、縒れちゃって着られなくなるわよ。持っている制服、それ一着なんでしょう?」
普段は教師同士の団欒に使われるのだろう。部屋の中心に鎮座する卓袱台の上に紙袋。持つと胸中と同じく、少し重い。
「あ、お茶淹れるけど、飲む?湯呑みは他の先生が使ってるモノだけど」
太田女史の手には大きな御盆。急須と湯呑みの他、山盛りのお茶請けが載っていた。
「あ……」
返答する間もなく、女教師は次々と、お盆にある品を卓袱台の上へ並べ始めた。中々に手慣れた動き。素早く配置を終えると、急須から湯呑みへ、お茶を注ぐ。
「で、どうだったの?」
話を先に切り出された。体育教師は折畳椅子にどっか、と座り、菓子の山から煎餅をひとつ摘む。
「どう、とは?」
「決まってるじゃない、永見さんよ。追ったんでしょ?」
なんとも嫌らしい笑みで見つめてくる。
瞬間、永見の叫ぶ声が耳の裏で反唱した。ほんの少し前、雨中の公園で涙ながら告白された、出来たての傷口。
落ち着け。
開いた儘の患部を、忍びの呼吸で抑え込む。少しでも感情の血が滲めば、苦い痛みが胸中を襲うは必定。
「やるわねぇ、彼女を探すために学校を飛び出すなんて。ホント、青春だわぁ」
眼の前で瀬戸際の攻防を繰り広げているのも気付かず、太田女史は遠い目をして煎餅を齧る。ぱきり、と口の前でふたつに割れた。
「あら、どうしたの?そんな顔して。ひょっとして、永見さんに会えなかった?」
呑気な調子を前に、奥歯が軋む。口内が鉄の味で満たされた。
「いや、会えた」
辛うじて。
悪いが、今は痛みを味わう時節に非ず。歯を食い縛り、耐えるしかない。
「あー……」
此処に至り、太田女史も異変に気づいた模様。突いた他人の傷から目を逸らし、宙を彷徨う。
「ま、まぁ、そんな時もあるわよ。ほら、永見さんにも悪気があったんじゃないと思うし。……多分」
引き攣った顔の女教師が取り繕う。下手過ぎる慰め。あれが邪念で無いのならば、尚更、救いが無い。
「其れより」
だが、未だだ。悲しむのは、己の不始末を嘆くのは後回し。確かめるべき事柄が先に有る。
「皆を帰らせた詳細は?午後の授業を無くすのは余程の重大事」
湯呑みから立ち上る湯気を前に、太田女史へ問いかける。
「……ふつーの生徒なら、飛び跳ねて喜ぶシーンなんだけど。ねぇ?」
相手は呆れた様に項垂れ、大きく首を傾げた。
「それに、生徒のプライバシーに関係する話だし……。璃の姐さんにはお世話になっているけど、やっぱり教える事は出来ないわ」
「……間宮、であろう?」
摂ってはならぬ毒を追う刑事。其の毒に侵された者達と繋がりのある若人。鎌掛けだが、根拠は有る。
投じた一石は、のらりくらりとした女教師の表情に波紋を広げた。困り果てた唇が波を打ち、贅肉で詰まった腕が首の後ろを擦り出す。
「一体、刑事は間宮に何の用が?」
追撃の質問に、相手は首を捻る。頭が力なく、ゆっくりと振られた。
「そこまで分かっておいて、まだ他人に尋ねるの?」
黙って頷く。
確かに、大方の予測はついていた。が、答え合わせは他人の口からが良い。
「……しょうがないわねぇ。特別よ」
先達が折れた。降参するかの様に、太い両腕が挙がる。
「って言っても、あんまり情報はないのよ。
刑事さんが間宮を訪ねて来た。アタシが知っているのはソレだけ」
「強面――刑事が来た理由も?」
「ええ。対応は校長センセをはじめとした、お歴々。だから、応接室で何かあったまでは分からないの。まぁ、その辺りはキミのほうが詳しそうだけど」
丸い身体を背もたれに押し付ける女教師。其の目尻に疲れが見え隠れする。
「で、間宮は?」
更なる質問を浴びせると、相手は薄く自嘲しながら両肩を竦めた。
「教室まで呼びに行ったんだけどね。探し回ったけど、結局、見つけられなかったわ」
向かい合う女史の手が湯呑みを持つ。唇まで運び、湯気の消えた茶をひと口。
「ココだけの話ね。どうも教頭センセが先回りして、先に帰らしちゃったみたい。ま、センセは彼にゾッコンだったしね。いやぁ、恋は盲目だわぁ」
溜息を吐く手番が回ってきた。其れが真ならば、あの詐欺師は何処まで人を誑したのか。
「奴に連絡は?端末があるのだろう?」
其の為に配られた学習端末。授業に用いる黒い石板には、教師と生徒との連絡を円滑にする機能も備わっている。最も、生徒には頗る不評ではあるが。
「もちろん、したわよ。けど、何回呼び出しても繋がらなかった。それはそうよ。GPSの反応は学校なんだもん」
呆れた声に合わせ、頭の上で手を組む。怒りよりも寧ろ、感心したような響きを持たせて。
「そのへん、抜かり無いわよね。ロッカーに入れておけば、『置き勉してました』って、後でいくらでも言い訳できるんだから」
「置き勉は校則違反であろう?」
「あのコは間宮透よ。そんなつまらないことで、とやかく言われないわ。アタシも言う気は無いけど」
確かに。いけ好かぬ美顔を思い出し、腕を組んで指先を顎に当てる。
何もかもが、間宮に都合良く出来ていた。
間宮を貶めようとする悪意が芽生える度に、彼の人畜無害な笑顔が、いとも簡単に無力化する。
しかも、その尖兵は決まって、周囲から差し伸べられる手に依る。彼等は挙って彼を庇い、手助けするのを厭わない。単なる人気者という言葉で片付けるのは憚られる程に。
温くなった茶を一気に飲み干す。
ともあれ。目当ての男は学校には居ない。奴が再び舞い戻る迄、此処で待つには長過ぎる。其れに、果たして、彼は登校してくるであろうか?
「――?」
強い視線を感じた。感覚を頼りに相手を見れば、なんてことはない。向かい合う女史が感慨深げに見つめていただけ。
「何か?」
目を細める太田女史に、怪訝な目を注ぐ。何故か優しく、そして懐かしい視線。
「いやぁ、ねぇ。昔を思い出して、ね」
生徒の顔が疑念に染まるというのに、呑気に頬に手を当てる女教師。心做しか、嬉しそうに目尻が下がっていた。
「ホント、お爺さんに似てるわぁ。考え込む姿なんてそっくり。神忍のお孫さんって、ひと目で分かるもの」
「何故、爺様を?」
直ぐ様、腰を落とし物入れへ指を入れる。真逆、此の場で祖父の名を耳にするとは。
「ああっ、もうっ!」
臨戦態勢を取る生徒を前に、途端に不機嫌となる太田女史。
「早とちりするのは璃さん譲りなのね。もう少し、落ち着いて話を聞きなさいな」
過去を知っている?意味有り気な視線を送られ、記憶を遡る。
が、眼前の女性と合致する女性など居ない。
「まぁ、そうだよねぇ。前に会ったのは、アナタがまだ赤ん坊の頃だし。私もココまで太ってなかったし、ね」
腹の贅肉を摘み、あっけらかんと笑う。
「――若しや?」
「やっと気付いたのね」
にやり、と意地悪い笑みが出迎えた。
「アタシの生まれは伊賀、上野。ご推察の通り、伊賀忍びの一員よ」
この作品はフィクションです。登場する人物や団体、事件はすべて著者の想像によるものであり、現実のものとは一切関係ありません。実在の人物や団体、場所、出来事との類似がある場合でも、それは単なる偶然であり、意図的なものではありません。




