嘘と真 二
天から地へ、間断なく落ちる無数の細い線。水気の含んだ薄霧が、色褪せた公園を薄く滲ませた。其処に立つ永見の輪郭さえも淡く溶かして。
いっそ、胸の奥で燻る疑念も流し去ってくれれば。
念じたとて、詮無き事。額に落ちてきた水気を、やり過ごすように手で払う。
「何故?」
彼女は頷いた。頷いてしまった。
明確なる肯定を見てしまった以上、もう後戻りはできない。沈黙という安寧は、疾うの昔に奪われた。いや、自らの手で奪ってしまった。
「何か、訳があるのだろう?ならば、せめて理由を聞かせてくれまいか?」
故に、問わねばならぬ。せめてもの救いは、吐き出した声が震えなかった事だけ。
だが、永見は――答えなかった。
曖昧模糊に溶かされた世界で、本降りへ変わった礫が永見の身体を打つ。執拗な責め受けるにも関わらず、彼女は只ゞ沈黙を守る。静寂が重いのは、雨水を吸った所為か。
「ずっと……ずっと、謝りたかった」
何れ程、待ち侘びただろう。地面で雫が弾ける音を縫って届く、震えた声。
「しぃ君の知らないところで、悪いコトをしてる。分かっていた」
永見が顔を上げた。切り揃えられた髪が、雨粒の重みで額に張り付く。
目に映る全てが痛々しかった。
体温を失った頬の青白さ。白地の制服の下に薄く透ける、無防備な肌の色。決して扇情的などではなく、何処か罪人の責め苦にも見えた。
「でも……できなかったの。この関係が、もし壊れたらって思ったら……、怖くて」
懇願を宿した指が力無く離れる。背を向けた永見は静かに、墓標に向かう足取りで滑り台へ歩を進めた。彼女の小さな姿が、公園の風景と同化する。
「ホント、ワタシってバカだよね?後悔する前に、できること、いっぱいあったのに」
彷徨った視線の先で何を見たか。ただ、自らを嘲る音が雨の調べに混じる。
「結局、何も変えられなかった。変えるのを、ためらって――。取り返しのつかないトコロまで来ちゃった」
永見が振り返った。
可憐な顔に浮かぶ、全てを受け入れた者の儚い苦笑。滴り落ちる涙を浴びて咲く一輪花は、悲しい程に綺麗で。
「ごめんね……、しぃ君。迷惑だったでしょ?」
彼女の口角が必死に微笑みの形を作ろうとも、眉間に皺を寄せ、涙を零す瞳が寝返る。痛々しく揺らぐ花弁。黙って傍らへ寄り、濡れて冷え切った肩へ手を置く。
「永見」
発した声は、優しく奏でられただろうか。
「悪いが、答えになっておらぬ」
掌に触れていた華奢な肩が跳ね、小さな飛沫を上げる。彼女が放った無言の息は、向かい合う同級生の頬に白く触れた。
「其方の気持ちも分かる。が、聞きたい話とは別。先の通りだ。理由を教えてくれ」
真。
裏切った、裏切られたは世の倣いにて、気付かぬ阿呆が悪いだけの話。嘆くのは、気付けなかった己の愚かさを認める事になる。
ならば、せめて。此れ以上、傷を付け合う前に災いの根を断たねば。隠れた脅威への繋がりを。何より、向けられた刃の在り処を。
「今迄の出来事、全て永見が仕組んだ事なのか?」
譲れぬ思いを口にすれば、再び押し黙る永見。雨足から逃げる様に視線を逸らし、外方を向く。
「では、間宮か?」
「……えっ!」
機械仕掛けの様に、御河童頭が跳ね上がる。大きく見開かれた瞳に浮かぶのは驚愕と、僅かな絶望の色。
「なんでよっ……トオルはなにも――」
「――関係あるのだろう?」
殊更、冷静を装い言い放つ。
何も難しい話ではない。永見の言葉が真であるならば、別の黒幕が居る、という事。
ならば、槍玉に挙げられるのは独りだけ。あの、いけ好かない美丈夫のみ。
「何でも……、お見通しなんだね」
答え合わせを求めるまでも無かった。目が憂い、薄く嘲笑う。
元より、彼女も騙し通せるとは思っていなかっただろう。若しくは、騙し通せると信じ込まねば、平静を保てなかったか。
「あ奴が、淡緑――襲ってきた不良を嗾けた。違うか?」
一言ゞ。彼女を無駄に追い詰めぬよう、ゆっくりと言葉を選ぶ。ややあって、永見は重い沈黙と共にこくりと頷いた。
「往来で拐おうとした二人組も?」
「違うっ!」
即答。彼女は激しく頭を振り、懇願の瞳を向ける。
「あんなのっ、ワタシ知らないっ!トオルも、絶対に知らないハズだからっ!」
筈、か。
間宮の為に、斯様な顔も出来るとは。
両肩から蒸気も上がる彼女の熱量に、自ずと、指が雨に晒された額へと触れた。顔には落胆が浮かんだのだろう。彼女の唇が、必死に言葉を紡ごうと一度、二度と開閉を繰り返す。
僅かに見せた抵抗。其れも虚しい足掻と悟ったのか、ふっ、と表情を消した。嵐を呼ぶ静けさに似た、絶望の気配だけを残して。
「抑、間宮は何故に付け狙う?馬は合わぬが、乱暴を働かれるまで憎まれる覚えは無いぞ」
彼女の思いを切り捨てるは忍びない。が、心を鬼にして言葉を続けた。返事は、無い。雨足が強まる中、時も、どう振舞えば良いか、と戸惑い始める。
「……わかんない」
暫くして、力なく、諦め切った声が落ちた。
「分からぬ?」
つい鸚鵡返ししてしまう。理由も無く牙を剥かれる訳がない。
「何も聞いていないのか?」
「……うん」
首肯した永見の前に、降り頻る銀糸が格子を編み上げていく。奥に隠れた顔にあるのは、諦念なのか苦痛なのか。判別するのは難しかった。
「ただ……、トオルは利用価値がある、って」
「……」
不穏な言葉に知らず、喉が唸った。漏れぬ様に口元を手で隠した。一体、あの男は何を企てる?
「……他には?」
静かな声で、御河童頭を促す。
「どんな些細なことでもいい。思い出してくれ」
だが、彼女は口を閉ざした。唇をきつく噛み締め、わなわなと震え始める。
「永見?」
「……なんで、そうなのよ」
大きな瞳から向けられたのは、憎悪の炎だった。
戦慄く言葉を皮切りに、彼女の感情が爆発する。折しも吹き抜けた風が、ざわりと公園の木々を揺らした。
「一番に聞かなきゃいけないのは、ワタシのコトじゃないのっ!しぃ君を裏切って、騙したっ!ワタシの罪でしょうっ!」
あえて触れなかった話の矛先を、自分から向ける。
「永見、落ち着け」
「やめてよっ!」
暴れ出す御河童頭を鎮ませようとも、相手は激しく身を捩り、手の内から逃れようとする。
「しぃ君はっ、なんでっ!ワタシに心を開いてくれないのよっ!」
悔しそうに険しく歪む顔。雨の軌跡か、涙の筋道か。濡れた瞳が揺れ動く。
「いっつもっ、ひとりきりで考えてっ、勝手にっ、答え見つけてっ!黙って、どっか行っちゃうっ!」
強い力で手を振り解かれた。小さな身体の何処に、然る力が有ったのだろうか。
「なんで?ワタシじゃ、相談相手にもならないの?」
肩で息を繰り返し、寂し気に。激情を抑え込んだ責め句を受け、言葉に詰まる。
「なんで、しぃ君の方から自分のコト、話してくれないの?なんで、アタシのコト、知ろうとしないの?」
不意に、世界を叩く雨音が遠退いた。
薄闇が霞み始める世界の中、永見の睫毛に乗った、ひと粒の雫に視界が吸い寄せられる。危うい均衡は、直ぐに重力によって破られた。大きな水滴が頬を伝い滑り落ちる。
此れが、始まり。息を大きく吸い込む彼女の口から、激情が迸る。
「しぃ君とのっ、会話だってっ!いつもその場をごまかす言葉ばっか!どうして?どうしてっ、しぃ君は自分をっ、見せてくれないのよっ!」
痛い所を突かれ、押し黙る許り。彼女も、そう感じていたか。
「永見……」
「まだっ、トオルのほうが良かったっ!」
感情の箍が外れた彼女を止める手段は無い。言葉を強く吐き出す反動で、小さな肩が何度も大きく跳ねる。
「もっとっ!トオルは話してくれたっ!自分勝手だけどっ、自慢ばっかりだけどっ!ソレでも向き合ってくれたっ!」
「……あ奴とは、喧嘩をしていたのだろう?」
何度も間宮を引き合いに出され、心の底に咎が生まれる。
「今だってっ、ケンカしてるよっ!」
「では、何故――」
「しかたないじゃんっ!」
彼女は泣き乍ら、だが強い意志で顔を上げた。頬から落ちる激流を、両手で受け止める。指の隙間から、掬い切れなかった粒が零れた。足元の水溜りに広がる波紋に合わせ、彼女は誓いの言葉を続ける。
「トオルが暴走してるのにっ、誰も止めないからっ!アタシがっ、止めなきゃっ!」
「どうして……、其処まで」
言葉が震えてしまった。怒りなのか、悲しみからか、全く分からぬ。ただ、胸の内に冷たい何かが渦を巻くのは確か。
「だってっ!トオルがっ、スキだからっ!」
余りにも真っ直ぐな告白。一瞬、視界が暗転した。雨風に晒され、剥き出しとなった感情の火花。目も眩む閃光に打ちのめされ、思わず瞼を閉じてしまう。
辛うじて地を踏みしめる男子に眼中無く、なおも永見は叫ぶ。
「トオルはただっ、騙されているのっ!ワタシが引き戻さなきゃ、ダメになっちゃうっ!」
黒く厚い雲が割れ、薄っすらと日差しが差し込む。徐々に薄闇が晴れていくというのに、ふたりは暗中に閉じ込められた儘。声を交わすも無く、互いの顔を見ずに立ち尽くす。
「……好いた、というのも嘘か?」
どうにか、ようやっと。乾いた口から言葉を絞り出す。既に答えの出た、意味の無い問いかけ。
「ウソなワケ、……ないじゃんっ……」
以外な答えに、噦上げる子女を見た。枯れてしまわないか、と心配する程に流した涙を飛び散らせ、必死に首を振る。
「どうでもイイ奴と……、キスしたいなんて思わないよ……」
途切れゞ。嗚咽も儘ならぬ声に、しっくりと胸の奥へと落ちる物を感じた。もの悲しく、仄かに優しい真実。音も無く沈みゆく思念の残骸を、掌が静かに支えてくれる。
そうか、敗れたのか。
「もうっ……頭ん中……、グチャグチャだよぉっ……」
しゃがみ込み、両膝に顔を埋める永見。咽び泣く動きが漣となり、小さな背中を揺らす。
「どうして……しぃ君のこと、好きになっちゃったんだろう?」
掛ける言葉を見失ってしまう。彼女も、自分でも知らなかったのか。
「トオルのコト、こんなに愛してるのに」
聞きたくなかった言葉が、内耳の隙間から忍び寄る。
「永見」
堪らず、蹲る御河童頭に声を掛ける。
「獏、という名に心当たりは?」
本能に近かった。此れ以上、触れたく無い内容であった故に。ただ、その一心で話を逸らす。
「……ば……く?」
「ああ」と、顔を上げた永見に頷き返す。
「悪いが顔貌は分からぬ。ただ、大岩の如き筋骨隆々な大男を従えていた」
「大男って。しぃ君、なんで知って――」
永見の瞳が大きく見開かれた。顔の色も、一気に血の気が引いて青く変わる。
「まさかっ……。多目っちも、しぃ君が?!」
彼女が、震え乍ら立ち上がる。
多目。空中回廊で出会った黒眼鏡の姓。あの、淡緑の頭目の氏。
「ねぇ?!あの晩、いったい何があったのっ!」
濡れて重くなった襟元に、彼女の細い指が食い込んだ。激しく揺さ振られても、約定がある故に言葉を返せず。ただ、白手袋の名を口にした後悔だけが胸に積もる。
真逆、知っていたとは。其れは、あの惨劇から生き延びた者が居る、という証左。
「なんで黙ってるのっ?!教えてよっ!」
そうだとしても。御河童頭の耳にも全てが伝わった訳では無いらしい。ならばいっそ、曝け出してしまおうか。
「なが――」
彼女と向き直り、何かを言おうと口を開く。言葉が凍り付いた。彼女の瞳の奥、その暗い水面に映るふたつの影。
誰かに似た顔で、歪めた笑みを湛える、忌まわしい凶相。
「――っ!」
思わず眉根が険しく寄り、一瞬だけ目を背けてしまう。明らかな失態。
「しぃ……君……」
彼女は異変を見逃さなかった。永見は瞬く間に硬直してしまう。光が消え失せ、白く反転した大きな瞳が怪物を見るかの様に凝視する。
「バカっ!」
力を振り絞った、拒絶の一撃。突き出された両腕を贖えず数歩、蹌踉けてしまう。彼女との間に、手の届かぬ距離が生まれる。
永見は躊躇わなかった。勢い良く身を翻し、ひとり公園から駆け出して行く。駆け去る小さな背中は決して、振り返りはしなかった。
彼女を追う決心は、敗北感と罪悪感が足枷となり押し潰された。只、住宅街へと消える姿を目で追うだけ。
第一、追う資格など持ち得るのだろうか?
この期に及んでも、涙も出ぬ、か。苦々しい気持ちが胸に宿る。
空を見上げたのは水溜まりを見たくなかったが故。映り出される相貌を恐れた。
「此れで満足か?」
音に聞こえし通り、破滅へと導かれた。きっと、満足気に頷いているに違いない。いや、腹黒の権化だ。まだ足りぬ、と吠えているかもしれん。
顔の半面に手を添え、大きく溜息を吐く。
いや、此れは自業自得。彼女の好意に対する裏付けも取らず、其の上で胡座をかいた阿呆の結末。何も彼もを押し付けられては、異相も苦虫を噛む事だろう。
笑えないが、嗤うしか無い。
「さて」
どうしたものか。
図らず、身を切る犠牲を払って報せを手に入れた。点が、細い糸で結ばれる。其の先に引っ掛かるのは、誑し上手の色男。
何を目的として付け狙ったのか。白日に晒す迄、黄昏れるだけでは居られぬ。
「聞く、か」
大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。
果たして、平静でいられるだろうか?
常に柔和な顔を心掛けよ。其の心には義理の二文字。万川集海にある、忍びを生業にする者へ説く一節。
教えを胸に平静を装うも尚、出来たかと問われれば首を傾げるしか無い。況してや奴の顔を、其の双眸と見えたならば。夢想でさえも奥歯が軋む。
が、やるしか無い。やらねば、ならぬ。
猫の目を探す代わりに、腰袋に収めた端末を取り出す。液晶は十五時を少し過ぎた辺りを示していた。授業の時間は過ぎたものの、未だ部活動に勤しむ時間。学び舎に戻れば、機会はある。
ずぶ濡れの衣服を厭う暇など無い。頭を振って水気を切ると、永見が去った方角とは逆へ進む。
先ずは間宮。幸いにも、積もる話が山ほど有る。
きっと、彼は嫌がるだろう。煙たがり、声高らかに詰るかもしれぬ。
だが、話だけは聞いて貰わねば。互いの、今後の平穏の為にも。
必要ならば、力ずくで。
この作品はフィクションです。登場する人物や団体、事件はすべて著者の想像によるものであり、現実のものとは一切関係ありません。実在の人物や団体、場所、出来事との類似がある場合でも、それは単なる偶然であり、意図的なものではありません。




