嘘と真 一
2025.08.29 アタシをワタシに修正
「戯言をっ」
仰向けとなった腹の上に跨り、贅肉を揺らす大黒。涎が糸を引く口元から出た言葉に、思わず眉を顰めてしまう。
「大体、どうやって明け渡す?生憎と身体はひとつだけ。其の唯一も、貴様の言い分には従いたくは無いそうだ」
我欲を剥き出しにする卑しき双眼へ、憎まれ口を叩く。押し掛かる重い身体から逃れたいが、右手首と首元を封じられた。其れも中々の膂力。簡単には外せそうもない。
「うっせぇっ!」
途端に頭上の顔が怒りを上げた。首筋に一本の青筋が立てたかと思えば、みるゞと顔全体を朱色に染める。
「アイツがやれんだっ!このオレだってぇ、簡単にできらぁっ!」
「彼奴?」
他の誰かが、力で従わせたというのか?だとすれば、鷲鼻か?
「だとしても、其方に従う謂れは無い」
真。寄こせ、の言が調伏を意味するか。ともあれ、「分かりました」と頷けるものでは無い。
「素直に諦め、持ってる物だけで我慢せい」
「フザけんなっ!ダレが好きこのんでっ!」
歯を剥き出しにし、頭上で大黒が吠え猛る。
福神に似た顔を醜く歪め、弛んだ四肢が内側からの圧力で弾け飛んだ。何かが千切れる音と共に、筋肉が一瞬にして太く隆起する。柔らかい皮膚が耐え切れず、裂けた皮膚の下から緑色の筋繊維が覗いた。
過去に見た事のある変化。贅肉で固められた輪郭がひと回り膨張し、筋骨逞しい、深緑の異形へと書き換えられる。
「オマエが素直に渡せばっ、何もかも全部っ、解決すんだっ!オレは救われるんだよぉっ!」
怪物が力を込めた。首を、手首を、伸し掛かられた上体を締め付けられる。骨が軋み、息をするのが難しくなる。殺意の籠った圧迫。
「其れは……御愁傷様」
心底、軽蔑する。
妖怪悪鬼へ化けるのは本意で無いかもしれぬ。が、己の煩悶を他人に押し付けるのは筋違い。誰が、自分勝手に憐れむ奴の生贄になるか。
「ならば……、もう少し悩んでくれ」
首元を絞める相手の右手首を、空いた左手で掴む。妖怪へと変わった腕は固く、握り潰すのは能わず。
「バカがっ!」
大黒、いや、悪魔に身を窶した男が吠える。
「少し腕は立つみてぇだが、所詮はタダのガキっ!コっからっ、どうにかできると思うのかぁっ!」
喉の奥で愉し気に、からからと響く笑い声。其の勝ち誇る顔に向け、微笑んで見せた。大きく、歯を見せる様に。
首を取られたら先ず、笑って見せよ。爺様の、古より伝わる武の格言に従って。
「でき……るさ」
化生では無く、人の形で対峙したのが運の尽きぞ。
ヲン・アニチ・マリシエイ・ソワカ
「ナニを笑って――ぬぉっ!」
口の動きを使い、喉を広げた。元より忍びの修行で鍛えた首根。盛り上がる首筋が鋼の強さを得て、太く丸まった指を押し返す。
喉と指での力比べに負けると思っていなかったのだろう、頭上から見下ろす瞳孔が縮まり、白目が広がる。
「なっ!」
状況が飲み込めず、狼狽えた大黒が再び喉を絞め上げる。が、焦りが手元を狂わせる。ぬるりと指の腹が皮膚の上を滑った。首元に掛かる力が弱くなる。
其れで十分。首元に生まれた隙間へ指を捩じ込み、内から力を入れた。思わぬ抵抗に、深緑の怪物は更なる力で応じる。
掛かった。
化外の者が力む流れに逆らわず、少しだけ方向を逸らす。同時に軽く手首を返せば、勢いで首の縛めが外れる。
「ぬぉっ!」
驚いている暇は無いぞ。
合気の流儀で力を外へと受け流す。繋がる肩口が下がり、上体が寄った。其の胸元目掛け、親指を突き出す。
喉仏の直下にある急所、秘中。天突とも称される活殺共に重要な経穴を、壁すら駆け登れる忍びの指先が触れたら何が起こるか。
「おぐごぉっ!」
押し潰された喉から言葉にならぬ音が鳴る。左手を離せば、大黒は喉元を押さえ頭を仰け反らせた。青褪めた顔から油汗を流し、腹の上で脂肪の塊が大きく揺れる。
姿勢が崩れる。
後は容易。足裏を地に着け、腰を片方だけ浮かす。如何に上屋が重くとも、土台が傾いては瓦解する許り。況してや、ただ伸し掛かるだけの素人。抑え切る術も知らぬ相手に遅れを取るか。
「ぐがっ!」
筋肉が縮み、深緑の肥満体となった大黒が地面に転がった。其れを尻目に、足の勢いを利用して身を起こす。
攻守が入れ替わった。驚きと恐怖を半々に宿した異形の喉笛へ腕を絡ませる。
一瞬で事足りた。
藻掻く暇も与えず、呻きのひとつも漏らせず。前からの落としで怪物の意識を断つ。深緑の奇形は白目を剥き、瞬く間に全身が脱力する。
怪物とて、頭と胴を結ぶ血脈を閉ざせば動くのも叶わず。深緑の邪妖は、締まりなく口を開いて動かず、股間から尿を漏らした。
「永見」
地面に大の字となった大黒など目も呉れず、傍らでへたり込む御河童頭へと向き直る。腰を抜かした彼女は、わななく唇で見上げてきた。怯える様な、驚く様な、震える瞳で。
「しぃ……君……。こっ……殺したの?」
「いや、眠らせただけだ」
真。先に問い詰められた手前、殺めるには気が引ける。
「放って置いても、何時かは目を醒ます。その内に逃げよう。立てるか?」
永見の手を取り、気合を入れて引き上げる。が、彼女の下半身は意思を持たず、一向に体重を支えようとしなかった。ただ、生まれたての仔馬の如く、膝をがくゞと震わせるのみ。
「仕方ない」
背中と膝下に手を差し入れ、抱き上げる。
「えっ!ちょ、ちょっと、しぃ君っ!」
「我慢してくれ。其れとも、あの化物が起きるまで待つか?」
慌てる永見に、寝転ぶ大黒へ顎を杓る。流石に観念したか。彼女も身を固くしながらも頷く。
「出来る限り、しがみ付いてくれ」
願いを聞き入れてくれた彼女の、細い指が制服の胸元を掴む。弱々しい力。この手は離れぬよう、加減する必要がありそうだ。
「では、行くぞ」
合図と共に地面を蹴り、裏路地を駆け出した。最後にちら、と背後を振り返る。福神を騙った緑の悪鬼は、未だ動く気配なし。
此の儘、眠っていてくれ。
一瞬、神仏に祈って良いものか、考え込んでしまった。
今にも降り出しそうな薄闇の中、人通り疎らな道を走る。
途中、車道を走る消防の赤い車両や、白黒仕立ての警察車両と擦れ違う。彼らも忙しいのか、懐に子女を抱える高校生を気に留める気配すら無かった。
個人的な戦から四半刻は走っただろうか。幾つもの交差点を渡り、大通りを抜け、入り組んだ住宅街まで辿り着いた。今では、振り返っても大黒の影すら無い。周囲に張った不可視の網にも、妖しき気配も感じられず。
「永見、寒いか?」
変わりに、強くなった風が体温を奪いに来た。動いている身としては大した事は無いが、腕の中で蹲る永見には堪えるだろう。問いかけに言葉で返さず、小さく頷く。
「分かった。少し休もう」
幸い、お誂え向きな公園を見付けた。小さな滑り台と長椅子が有るだけの小さな公園。無人で有るのを良い事に、黙って足を踏み入れる。
「立て……そうもないな」
彼女を下ろしてみたものの、足元が定まらず危うく転びかけた。仕方なく、長椅子に座らせた。午後を少し過ぎたばかりだと言うのに、街灯に明かりが点く。湿った風がふたりの間に重く流れた。
「あれ……なんだったの?」
久し振りに聞いた声は少しだけ悴んでいた。俯き加減で視線も合わせず、言葉だけを紡ぐ。
「さぁの。人では無い、のだけは分かるが……」
真。大黒が何者なのか、何故に赤鬼と争っていたのか。結局、短い会話の中では何も掴めず。
「ううん……そう、じゃなくって」
だが、どうも永見が求めた答えとは違ったらしい。力なく頭を左右に振り、顔を上げる。心做し、瞳が潤む。
「しぃ君てさ……、何者なの?」
不意を突かれた。話の矛先を向けられ、言葉が喉の奥で詰まる。
「……どういう意味だ?」
真逆、斯様な色眼鏡で見られたとは。人成らざる者を見る目と同一な視線に、嘆息するしか無い。
「だってさ。いきなりマンガに出てくるみたいな怪物がでてきたんだよ?」
それでも視線を外さず、しっかと両目で見据えてきた。唇から滲む声は糸の様に細く、上擦る。
「普通はさ、動けないよ。あんなのが目の前にいたら……。でも、しぃ君は、平気で……」
一言ゞ、噛みしめる様に。小さな口から染み出す言葉に、少なくない恐怖と違和感を乗せて。
「……怖くなかった?」
問いは、刃物に似て鋭かった。何と答えるか、一瞬迷う。
「怖くない、訳が無かろう?」
「えっ?だって――」
「見た事も無い人外が現れば、誰だって怖い。今、永見が言ったであろう?」
更なる疑問を投げかけられる前に、先手を打つ。
万川集海にある「三忘の鉄心」という言葉。意識、分別、計略のみっつを忘れよ。
思い切り死ぬぞ、と心構えれば如何なる恐怖心を抱かず。理に全てを委ねれば心身は澄み渡り、万難を前にしても明々と動ける。
「怯えて足を竦ませては、窮地を脱するなど以ての外。故に動いた。死にたく無いからの」
嘘。命知らずと謗られるのも困る為、尤もらしい嘘を吐く。
「そっ、か……」
すっかり騙された永見は再び視線を外し、下を向く。忍び寄る寒さと沈黙の中、胸の奥に針の痛みを感じた。
「やっぱり、しぃ君は強いや」
少しの間を置いて、永見がぽつりと呟く。
「もうね、強すぎるよ。誰の助けも必要ないくらいに」
薄暗い公園に、永見の小さな声が吸い込まれる。湿った土と葉が、音階の輪郭を寂しく暈した。
「其れは買い被り過ぎぞ」怪しくなり出した雲行きに、思わず口を挟む。「助けが必要な時など、幾らでも――」
「そんなのウソっ!」
ぽつり、ぽつり。天が灰色の涙を零し始めた。細く冷たい雨粒が色彩を霞ませ、急に冷え出した空気が白い息を吐く。
「今回だってっ、この前だってっ!……ううんっ、もっと前もそうっ!」
強まる雨足に負けず、彼女は声を張り上げた。
「どんなに危なくってもっ、いっつも笑ってっ!でもっ、ひとりで飛び込んじゃうっ!ひとりでっ、どうにかしちゃうっ!」
雨と涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、彼女は糾弾する。今まで見たこともない、痛々しい表情で。
「しぃ君にもっ、トオルにだってっ!いらないコなのよっ!ワタシはっ!」
小さな唇から放たれた絶叫が、土砂降りとなって鼓膜を震わす。何れ程の激情を、華奢な背中に溜め込んできたのだろう。
「みんな勝手よっ!どっちもっ、助けてあげたいのにっ!なんでっ!どうしてよっ!」
「永見……」
「やめてっ!」
彼女の肩へと伸ばした手は、しかし、激しい力で弾き返される。
「ワタシっ、しぃ君にひどいコトしたのよっ!」
不意に立ち上がり、襟元に縋り付いた。大して違わない身長、冷たい唇が触れ合う距離まで近付く。雨のせいか、不思議と甘い香りはしなかった。
「なのにっ、なんで優しくするのっ!もっと怒ってよっ!」
慟哭は、悲痛な慙悔へと変わる。激しく迫る彼女の剣幕に言葉を失った。
「怒るなど……」
戸惑いつつ、慰めの言葉を探す。喉から言葉が消えた。少しだけ顔を引き、静かに手の内で片目を隠す。
永見が酷い事をした?誰に?いや、今、彼女の口から出たではないか。
では、何の話を指すか?思い当たる節を片っ端から探る。
四六時中、彼女の都合に振り回された。そんな他愛もない些事は除外して良い。もっと重く、彼女が泣き出してしまう程の思い罪。然るものが有るか、記憶を遡る。
彼女と初めて出会った校舎裏から、此の公園までの記憶を。
「――っ!」
首筋を伝う一筋の冷たさが、狂った仮説を思考に割り込ませる。馬鹿げた、荒唐無稽な妄想。だが、もしも描いた絵空事が真実ならば。ならば、彼女の涙も納得がいく。
「よもや、とは思うが」
だが。もしも。いや――
雨音が思考を鈍らせる。ひとつの可能性だけが、やけに鮮明だった。震える息を呑み込み、その静寂を破る。
「あの夜から今迄、始まった事件の数々。……永見が手引を?」
空中回廊での一件、一緒に居たのは誰か。
淡緑に囲まれた雑踏、何者に袖を引かれたか。
都の中心で二人組に襲われた時は?そして今、向かい合う女性は?
答えは、ひとりしかいない。
「永見。答えてくれ」
間違いであってくれ。単なる偶然の重なりを、さも証拠のように並び立てただけ。
だから、永見。其方の口から確りと否定してくれ。考えすぎだ、と。
雨が降る。鈍色の空から降りしきる緞帳が、ふたりの間に薄く垂れた。息遣いも感じ取れる距離だと言うのに、不思議にも遠く感じる。
永見は何も答えない。再び俯き、ただ黙って雨に打たれる。
やがて、少しだけ頭を引くと、かくん、と大きく項垂れた。
この作品はフィクションです。登場する人物や団体、事件はすべて著者の想像によるものであり、現実のものとは一切関係ありません。実在の人物や団体、場所、出来事との類似がある場合でも、それは単なる偶然であり、意図的なものではありません。




