相通ず、故に相違う 一
2025.08.17 後半を若干変更
無骨な岩肌を晒し、目抜き通りに姿を表す赤鬼。記憶にある姿から大きく傷ついていた。
赤黒く盛り上がった胸板には無数の抉れた肉痕。自らが流す濁血で身体を深い色に染める。
何よりも腕が一本無い。左肩から先にあった巨木の幹は赤茶けた肉肌が陥没し、白い骨が出血の合間から伺えた。其れでも、痛む素振りなど微塵にも見せぬは異形の証左か。
「うわぁぁっ!」
生き残った黒武者が腰撓めに発砲した。軽く乾いた破裂音が繰り返し響き、別の銃声が重なる。気付けば近くに居た全員が拳銃を構え、赤鬼に向けて引き金を引く。
万雷の拍手と紛う、密度の詰まった発砲音。立ち処に湧いた喝采を、赤鬼は庇う仕草も見せず浴びた。逞しい岩盤の表皮が削り取られ、山嶺と思しき肉片が爆ぜる。
秩序の反撃に、赤鬼も堪らなかったのだろう。歓迎とは程遠い拒絶の嵐を一身に受け、膝を折る。邪に従う大蛇も翻筋斗打って地に倒れ伏す。
動きを止めた赤鬼に対し、警官達も射撃を止めた。
ふたつの光点も消え、息吹の消えた巨躯に近づけず、然りとて離れられず。畏怖とも恐怖とも取れる顔で、赤黒き潺湲に染まった丘陵を仰ぎ見る。
「死んだ、よな?」
誰かが漏らした期待の声は、不意に鳴り出す電子音によって裏切られた。
嗚呼、あの時と同じだ。
もぞり。出し抜けに赤鬼が大きく身を捩った。何かが軋む悍ましい音と共に、細かい鮮血を周囲に撒き散らす。
赤い光点が灯った。岩盤と瓜ふたつな厚い胸板が前後に動き出す。鉄の匂いと黒い怒気に当てられ、警官達は一斉に息を止めてしまった。
其れが、彼らが見た最後の景色だった。
くぉぉぉっ!
赤鬼が嘶く。片椀に従えた大蛇が猛る風を纏った。巨腕を撓らせた横薙ぎの一撃が、群青の制服を次々と巻き込む。近い者は大樹の如き太い腹で擦り潰され、遠い者は鎌刃に寸断される。
たった、ひと振り。勇者の一団の尽くが拉げ、切り刻まれ、人の形を留めず路傍に転がる。彼の肌と同じ色に染まった世界。噎せ返る程に新鮮な死臭の中、大蛇を携えた異形の鬼は、頭を振り乱し次の得物を探す。
さて、どうするか。
薄く吐いた息は研がれ、指が自然に隠し物入れへと伸びる。
最早、赤鬼を止められる者は居らず。あの鬼と事を構える理由が無い今、敢えて死地に飛び込む必要は無い。
大丈夫。相手も嘗て命を狙った者が直ぐ傍に隠れているなど、露とも思わぬであろう。隠れ通す自信は十分。
くおおおっ!
祈りが通じたか、ひと頻り吠えた後、赤鬼は身を翻した。鮮血の沼を越えて小道へ、大黒が消えた細い脇道へと悪意に彩られた巨躯を潜らせ消える。
後に残されたのは、破壊し尽くされた目抜き通り。
赤く彩色された道路に投げ出される骸の数々。隙間から怪我を負った者の呻き声が聞こえる。
何処に隠れていたのか、運良く生き延びた者が戻ってきた。先程まで語らっていた友の亡骸へ、必死に声を掛ける女性。何でこうなった、と憤る薄髪の男。両足を抱え泣き噦る老女の姿。警察官は何もせず、呆然と立ち尽くす。
何もかもが奪い去られた荒地を覗き見しつつ、額に指を添える。脳裏は先を思考し始めていた。赤鬼と大黒が争う理由を探しに。
方や命を奪われかけ、もう一方には身を攫われかけた。因縁浅からぬ両名が仕掛ける命懸けの戦、興味を唆られぬ訳が無い。
何故に争うか、理由など皆目、分からぬ。が、どう転んでも得する結末を迎えるだろう。相打ちでも良し。ひとり残った所で事情を尋ねるのも良し。
後を尾けるか?
いや。仮にするにしても、懸念が残る。
ふたりの力量差を考えれば、長引く事は無いだろう。贅肉で身を固めた男の相手は、大蛇を生やした人外。どう贔屓しても、大黒が出し抜く未来など見えない。
となれば、結局は赤鬼が相対する事となる。先の通り、積極的に見えたく無い。
此処は関わらぬのが吉。なのに、背筋を凍らせる寒気は依然として残った。冷ややかな不安を浴びせる小さな棘。
分かっている。隣で卑しく嘲弄する異相のせいだ。
あの気色悪い笑みを見せつけてくる虚像の顔。不幸を呼び寄せる伝承の通り、奈落の底へ落とさんと目論む双眼を向け続ける。企みはまだ終わらぬ、と言いた気に。
薄鏡の向こう側から送られる不吉な挑発は、腰を上げるに十分であった。どうせ碌でもない奸計なのだろう。良い、乗ってやる。
覚悟を決め、既に用を成さぬ帯紐を乗り越えた。赤鬼の背中が消えた今、脇道を塞ぐものはない。失意の合間を抜け、赤鬼の跡を追った。見つからぬよう慎重に。だが急いで。
不可視の触覚を用いれば、赤鬼を探し当てるなど容易。小道の隙間を埋めて進む巨躯の背を追い、物陰から物陰へと渡り歩く。随分と緩慢な歩みに、気付いた素振りは無い。左足を引き摺るのは、廃工場での諍いが原因か。
其れでも赤鬼が大黒に追いついたのは、相手が息を切らせた為に他ならない。
「クソッタレぇっ!」
膝に手を付き一息入れた半裸の男が突如、怒鳴り声を上げる。弛んだ脂肪の隙間から取り出した拳銃で狙いを引き絞る。鼻の長い、大きく口を開いた黒い掌砲。先端から噴く火柱が空気を震わし、低く重い轟音が小路に響く。
二発、三発。逃げ場の無い赤鬼は鉛の雨を残らず浴びた。其の度に硬き岩肌が爆ぜ、血潮を撒いて肉が捲り上がる。
然し、それでも恨み骨髄に徹した鬼は足を止めず。
くぉぉぉっ!
赤鬼の咆哮。怪我を押して速度を上げ、大黒へ肉薄する。大蛇の牙が動き緩慢な贅肉に襲い掛かった。大きく振り被った、袈裟懸けの一撃。哀れ。身を守る手立て無き大黒は、肩口から下腹へと切り裂かれ、片腕も胴から離れた。
当然とも言える結末。命の遣り取りにかけては、明らかに赤鬼に分がある。
だが――
「っ痛ぇっ!」
大黒の上がる、断末とは違う絶叫。歪めた顔に深い皺を刻むが、末期に見せる表情では無い。身体をふたつの刀傷で引き裂かれ、真っ赤な臓物を散らすにも関わらず。
そうか。こ奴も異形の一員か。
「コノぉっ、獏のオモチャがぁっ!」
赤い唾を吐き捨て、残った手で何度も撃鉄を起こす。空気の壁を打ち壊す重音の雄叫びが、怨憎会苦たる相手を捉えた。うち一発が額に命中し、邪悪な仁王の顔面を欠く。絶壁の如き上半身が激しく仰け反り、砕けた岩像から白い脳漿が散る。
新たに穿たれた傷口から血潮が噴き、山水となりて巌を紅く染めた。然れども、太く大きな両脚は地を掴み、決して倒れず。
「クソぉっ!」
互いに致命傷を受けても尚、死闘は終わらず。大黒は空砲を投げ捨て、贅肉の隙間に再び指を入れる。
迂闊。大きな隙を赤鬼が見逃す筈も無い。大蛇から剛腕に戻し、ふた振りの鎌刃を大黒のだらしない胸板に突き刺す。
「っがぁ!」
大黒の口から、再びの悲鳴。構わず、赤鬼は串刺した脂肪の塊ごと腕を天に掲げる。万有の法則に従い、重々しい肢体が凶刃を伝って滑り落ちた。背を貫いた先端が顔を出し、局地に鮮血の雨が降る。
「うごぉぉっ!くっ、クソッタレぇっ!」
口から真っ赤な泡を吹きつつ、密接した赤鬼の半顔を睨んだ。神を騙る顔に悪鬼が乗り移り、正に自分を屠らんとする相手へ拳を振り上げる。
丸く、黒い玉を握りしめた拳。先端に張り付いた鉄片が宙へと躍る。
いかんっ!
寸時、手近にあった壁の隅へ張り付く。手足を屈め、首も縮めた。万川集海にもある鶉隠れの術。「伊賀の忍びは石になる」の言葉通り、霜の音を聞く様に蹲る。
軒端の石に化け終えた刹那、灼ける程の熱を首筋に感じた。続いて内耳を潰しかねん強烈な爆発音と、皮膚を震わす衝撃。
刻み続ける秒針が、突如として吹き飛ぶ。
ずん、と一瞬だけ沈む地面の感触を前に、身を伏し隠形の呪いを繰り返すしか無い。爆発を遮るものが無ければ、果たしてどうなっていたか。
気付けば嵐は過ぎ去っていた。時計の針が再び、淡々と動き出す。
狂った時間に埋もれた故、何れ程の時が経ったか推し量れる自信は無い。救いなのは五体が無事であったこと。少々、埃に塗れたものの、身に着けたものも含めて扠したる傷は無い。
「さて」
少し熱が残る壁際から、そっと周囲を窺う。
相争う二人の姿は消えていた。焦げた跡も生々しい、少し熱の残る小道。その中心に、ふたつの黒い炭塊。
赤鬼であった遺骸は左の上身を完全に失い、焼け爛れた肉と骨が剥き出しとなった。煤で汚れた下半身は両脚を地に踏みしめた儘。せめてもの意地を見せたのだろう。
一方、地面に転がる大黒と思しき塊は、腰から上が見当たらなかった。内臓も炭へと変わり、元の形も分からぬ。唯一、識別できる足先が小刻みに痙攣する。
痛み分け、にしては凄惨たる終幕。大黒からすれば大殊勲だろうが、始末が悪かった。
真逆、あ奴も異形の類だとは。
となれば、妖怪どもの合戦に、図らずも巻き込まれた事となる。だが、斯様な目に巻き込まれる心当たりなど――ある。
あの晩、獏と交わした約定を思い出し、額の皮膚を指先で摘んだ。淡緑に端を発した確執の後始末。未だ終わっていないらしい。
何とも迷惑な話。だが、仏に愚痴を零しても仕様が無い。物言わぬ姿となった二人に、此の先は知らぬ事柄なのだから。
軽く肩を落とした後、弔いの言葉を投げかけに焦げた肉塊へと寄る。物言わず仁王立つ赤鬼の両脚と、陸に上がった小魚の様に引き攣りを繰り返す大黒の欠片。
いや、可怪しい。
頭に添えた掌が、黙念の支えに変わる。童であった頃、爺様が健勝であった記憶を遡る助けに。
あの時、爺様は何と言った?未だ先の大戦で片腕だけとなった友の最後。一瞬だけ震えたのは故郷に帰りたかったが故、と遠くを見つめ呟いた南方の話。
大事なのは『後で知ったが』と前置いた箇所。確か、脳や脊髄がなければ反射運動は起こらない、と。そう言葉を紡いだ筈。
記憶が正しければ、昔話が真実ならば。陸に上がった小魚の如く跳ねる足先は、奇っ怪なる現象に他ならない。人体では有り得ぬ、異形の産物としか言えぬ。
身の危険を感じ、近くの壁を蹴った。鍛え上げた手足の指先を駆使し、僅かな凹凸を頼りに駆け登る。時間も惜しい今、身を伏すには狸隠れの術しか無い。
「っ!」
眼下で筆舌に尽くし難い出来事が起きる。
大黒であった足先が突如として暴れ、地面から濃緑の粘液が溢れた。泥濘が蠢く様にも見える汚色の寒天は、震えながら黒く変色した傷口へと取り付く。ぶよゞとした容積を増し、次第に色が変わる。
白く伸びた骨が生まれた。何本も湾曲する肋骨の中に、赤褐色の塊が内蔵を形造り始める。鮮明な赤が筋肉となって全身を覆った。
五行が身に、死体が生者へとして蘇る。輪廻の理を冒涜する行い。
「くっはぁぁっ!うぉっぷっ!」
遂に黄ばんだ肌色が体表に施されると、先と変わらぬ大黒が大きく咳き込んだ。前へ屈み、喉の奥に溜まった嘔気を吐き出せば、ゆっくりと左右を見渡す。直ぐ手前、赤鬼の屍を前にして動きを止めた。
「ギャハハハっ!」
歓喜の絶笑を発し、助走する全裸の男。勢いを殺さず、下半身だけとなった赤鬼を蹴り飛ばす。
「ザマァがぁ!どうだっ、獏の野郎っ!」
耐える力なく横倒しとなった残骸に一笑し、更なる蹴りを見舞わせる。炭化した成れの果ては簡単に崩れ、形を失う。
「いっつもオレらをバカにしやがってぇっ!」
罵倒の言葉に怒りを乗せ、足蹴を繰り返す大黒。最初は力強く踏み躙った姿も、次第に勢いを失った。やがて、蘇っても変わらぬ顔に涙が浮かべる。
「っくそぉ!」
小さくなった黒い切れ端を足裏で押し潰すと、さめざめと泣き始めた。蹌踉めきながら高櫓の壁に手を置き、額を押し付ける。
「これじゃあっ、モノホンのバケモンじゃねぇかぁっ!」
戻ったばかりの頭を勢い良く打ち付けた。
加減無き殴打の連続。生まれた許りの赤い飛沫が散り、額から白いものが覗く。其れも一瞬。打ち砕き、傷付く度に、緑の粘質が生み出され、元へと戻った。
「野狗子ぃっ!あのクソッタレぇっ!」
最後に重く鈍い音が響く。其の儘、頭を壁に押し付け肩を震わせた。声無く泣き崩れる姿に同情は沸かず。望んで人外へ化けた訳では無いらしいが、今迄の所業を許す理由にはならぬ。懺悔ならば、せめて拐う理由を吐いて貰わねば。
ならば、大黒が死の淵から舞い戻ったのは幸いと言えるだろう。殺めるのは難しかれど、縛り上げて口を割らせるのは簡単に出来そうだ。
後は機会。鷹の目で頃合いを図れば、軽い足音が耳に飛び込んだ。目抜き通りから分かれた裏道、更に分岐する細い通りから届くひとりの跫音。
「キャっ!」
惨劇の跡地に、不意に若い女性が飛び出した。若い。制服姿から高校生だと推察される。
いや、他人の空似に期待するのは止そう。嫌という程まで求めた相手を忘れようか。
「えっ?」
状況も分からず目を見開く御河童頭の子女。間違いなく永見椿であった。
この作品はフィクションです。登場する人物や団体、事件はすべて著者の想像によるものであり、現実のものとは一切関係ありません。実在の人物や団体、場所、出来事との類似がある場合でも、それは単なる偶然であり、意図的なものではありません。




