逃げる者、彷徨う者、探す者、悔いる者 三
2025.08.03 後半部を改訂
2025.07.27 いつもの忘れてました
腹の底で生まれた汚泥の濁流が荒れ狂い、四肢の制御を狂わせる。痙攣する指先が、永見へと繋がらなかった端末を軋ませた。其れでも飽き足らず、迫り上がる激情の塊が喉を塞ぎ、行き場を失くした衝動が唇の薄皮を食い破る。
過去を憎むことで誤ちを償えるなら、躊躇なく呪詛の言葉を刻もう。五体が千々に引き裂かれても構わない。
だが、時は怠けたとて後へは戻らぬ。
全ては後の祭り。呪おうとも嘆こうとも、永見の幼馴染は間宮であり、欄干の袂で跪くのは自惚れた愚か者。此の事実は変えようもない。
どれほど打ちのめされていただろうか。下を向き、身悶えると、左手が震えた。低く唸る音と断続的な反復運動。此の番号を知る者など数えるしか無い。
真逆、折り返しか?
手から滑り出しそうな程に暴れる端末を必死に押さえ、耳元に当てる。
「もしもし?」
電話を受ける合図を送れば、
『忍っ!いったいドコをほっつき歩いてるのっ!』
内耳を突き刺す、鋭い金切り声が受話器から飛び出した。期待したのとは違う声音。
「姉上か」
理想と現実の乖離に、深い溜息が口元を衝く。良くなかった。
『なぁにが「姉上か」よっ!お姉ちゃんをさんざん心配させておいてっ!』
端末越しでも感情の変化を察したのだろう。途端に姉の声量が増す。
「すまん、姉上。確かに今の言い方は無かった」
『ホントにそう思ってる?!お姉ちゃんはね、忍のコトが心配で……心配で……』
上擦る声に水気が増した。姉の表情が容易に窺える。きっと眉をへの字に曲げ、潤んだ瞳で天を仰いでいるに違いない。表情を曇らさせた時点で敗北も同然。
「申し訳ない。言い訳になるが、少々、焦っていた故。要らぬ心労をかけた」
せめて傷口を広げぬよう、殊更に優しい声色を作り出す。こうでもせねば、姉の涙は止められない。
「ところで姉上。用事があって電話を掛けてきたのだろう?何か伝え忘れた所用でも?」
其の上で懇願する体を装い、意識の先を誘導する。
『あっ、そうそうっ!』
湿った声から一転、質量を伴った怒号が鼓膜を殴りつける。
『忍っ、アンタ学校をサボったらしいわねっ!蜂谷クンと太田センセから連絡きたわよっ!』
「……えー、あー……。まぁ」
姉が言葉を発してから反応するまで、少しの時間が必要だった。結局の処、そうなるのだろう。行き場のない片手が慈姑頭を掻き分け答えると、頭蓋に響く圧力が一段と強まる。
『もう!朝、あんなに大口叩いてたじゃない!』
端末を耳から離しても届く大声量。彼女の迸る激情が、端末を持った手を大きく揺さぶる。
『やっぱり、一人で行かせたのが間違いだったわ。あぁもうっ!お姉ちゃんもついて行くんだった!』
「其れは……本気で止めて欲しいのだが」
『全部、忍がウソついたせいじゃないのっ!少しは反省しなさいっ!』
少し処か、多大に悔い改めねばなるまい。何をするにつけ、姉の機嫌を損ねる真似は避ける、と。
「正しく、姉上の言う通り。だが、此れには大事な理由が――」
刺激を与えぬよう平身低頭。座を正し、下手に出て様子を伺う。
が、此処で意外な言葉を耳にする。
『椿ちゃんのコトでしょ?聞いてるわよっ』
耳が早い事、此の上無し。知っているならば話は早い。消えかけた熱が再び、目の奥に灯る。
「永見から連絡が?」
『いいえ、蜂谷クンからよ。ひょっとして、まだ見つかんないの?』
返すのは沈黙。真を伝えるか、嘘で誤魔化すか決めかねると、先に低い唸り声が返ってきた。『そういうコトね』と喉に引っ掛かった骨が気になる様な、憤る不快感を押し出す吐息と共に言葉を継ぐ。
『ホント、失敗したわ。忍にはもっと、オンナのコの扱い方を伝授すべきだった』
冗句も悔悟を掘り返された心中に響かず。いや、今、大事なのは永見。幼馴染を張る迄に追い詰められた彼女は泣いているのか、憤慨しているのか。
「姉上、実は――」
『忍。少しは落ち着きなさい』
張りは強く無いが、芯へと響く声。
『いい?忍に思い当たる節がなきゃ、他の誰が分かるというの?ここは諦めて、学校に戻りなさい』
非情な言葉に眉を細める。身内である故、胸の内を透かして見るのは構わぬ。が、正論の刃を納得するには鋭すぎた。
「永見を切り捨てよ、と?」
彼女の情を軽視するのであれば、話は別。御河童頭の盾となり反論を試みる。
が――
『あのね。それで考えなしに飛び出して、結局どうなったの?まったく、忍らしくない』
姉の言葉で強かに殴られた。
眼の前で火花が散り、浸透する蟀谷に手を当てる。幸いにして傷は開かず。だが我に返るには十分過ぎる一撃であった。
『いい?学校で頭を冷やして、今後どうすればいいか。ゆっくり考えた後で行動しなさい』
姉の声から鼻を啜る音も、苛立った叫喚も消えていた。
『別に二度と会えなくなった訳じゃないでしょ?大丈夫。忍には時間はたっぷりあるから』
拡声器から聞こえるのは、僅かに憂いが込められた姉の穏やかな声。
『分かった?太田センセには取りなしてくれるよう頼んでおくから』
暫しの沈黙を了承を受け取った姉。最後に諄い程の念押しをした後に通話は切れた。残されたのは、黒地に白抜きで浮かぶ『通話終了』の文字。見えぬ様に片目を手で覆う。
姉の言葉にも一理は有る。此れ以上、闇雲に探し回っても益は無い。愚策を積むよりは、大人しく待つ方が正しいのだろう。
しかし――。いや、考えるのは止そう。
明日になれば学び舎で会える。其の時に顔を見つめて言ってやろう。散々、探したぞ、と。
地に根を張った膝をゆっくりと引っこ抜く。端末が示す時刻は巳の刻、昼四つ。人通りは多かれど、世間は世知辛い。昼日中に高校生が漂うのも気を置かず、各々の世界を守る精鋭達が足早に通り過ぎた。
滑稽な姿を晒す高校生など幻影であるかの様に、爪弾いて。
弱り目に祟り目。眼の前で封じられた黄色い帯紐の数に、喉から漏れかけた呻きを掌で押し殺す。
高櫓が連なる、開けた目抜き通り。車両止めを丁寧に並べて入口を固め、奥には白黒車両の群れが赤い提灯を回す。見慣れた群青の制服に混じり、厚い革鎧で固めた黒武者の一団が見えた。厚い半透明の盾に同じ色の前立て。色取々に着飾った境界線の先に笑顔は無い。
「ですから、今は暴漢が徘徊しておりまして」
直ぐ横、通りの入口に並んだ警官が老女の甲高い声を靭やかに受け流した。先程と同じく、口調はあくまでも穏やか。相手の剣幕を宥め賺す。
「皆様の安全確保のため、当面の間は一帯を封鎖しています。どうか、ご協力を……」
「当面っていつまでよ!?!もう随分、経ってるじゃないっ」
老女は血相を変え、相手の丁寧な説明を遮った。身形の良さに反し、節榑立った指を乱暴に突きつける。指名された群青の制服は、ただ困ったように眉を下げるしかなかった。
「そうは言われましても。安全が確保できるまでは解除できません」
「話にならないわっ!一体、警察は何やってんのっ!」
「そうだっ!さっさと捕まえろよぉっ!」
駄々を捏ねる老女に合わせ、無理難題を口走る薄髪の中年が加わった。情に任せた文句の群れ。厚顔の一味と思われたくない。面貌の半面を隠して封じられた境界から離れる。
「参ったな」
思わず独り言ちる。
学び舎へ続く道の最短を選ばず、大きく遠回りすれば此の有様。姉との約束を緩慢に守ったのが仇となった。
戻り際、擦れ違う女性に、つい永見の面影を追ったのが原因。一度、気になれば中々に止め辛い。次第に歩みは遅くなり、時に道草を食んでしまった。これ以上ゆるりと学び舎に向かえば、姉からどんな小言を受けたものか分からぬ。
何処か都合良い抜け道は無いものか。周囲をぐるりと探れば、不意に視線を合わせてしまった。厚く張られた硝子の壁。薄く映り込んだ、輪郭の暈けた高校生の男子。
「っ!」
鏡の住人は口の端を醜く崩した。広げた口角を上げ、逆に細めた目尻は嫌らしく下げる。中心に歪な円を描く嗤笑。強欲に染まった歓喜が透ける。
あの日より捻じ曲がった凶貌を前に喉が詰まり、肌が粟立つ。なんの。丹田に込めた熾火を全身に巡らせて縛めを振り払う。怖気て許りいられぬ。望まぬ来訪には理由が有るに違いない。
今になって現れた意図を暴かんと、真正面から見据えた。が、薄影の瞳は此方を捉えず。眼の前に居る生き写しを通り過ぎ、背後の不穏な風景を眺める。
何故?
訝しむのと、首筋が逆立つのは同時だった。
背後で黒い気配が凝縮し、より深く濃い戦慄へと練り上がる。暗澹たる結晶の誕生。もぞり、と動き出した大きな塊は、存在感を隠すこと無く負の感情を顕にした。存在だけで万物を圧し潰す、途方もない重圧を込めた憎意。
異相が見ていたのは、此れか。
咄嗟に高櫓の隙間へ飛び込み、壁に張り付いて身を隠す。丹田の気を周囲に解き放てば、不可視の網がふたつの影を捉える。
近い。
ひとつは脇道を這いずる大きな害意。先に感じた悪しき気配であるは明白。ゆっくりと表通りへ、凝り固めた怨嗟を滲ませ表通りへと近づく。
其の前を小さな人影が、敵意から逃れようと必死に藻掻いた。後ろから迫る巨大な漆黒に慌て、文字通り手足を無闇に振り回して目抜き通りへと飛び出す。脇から目耳を出し、正体を確認する。
大黒であった。
だらしなく弛んだ五体に垂れ下がった耳朶。上半身を曝け、腰履きだけの姿だろうと間違えようもない。全身から冷や汗を流し、ぎこちなく手足を振り回して地面を駆ける。
人の尊厳を失った大黒の行動に、傍にいた黒武者が駆け寄って救いの手を差し伸べる。助けを借りて立ち上がった大黒は掴んだ手を離さず、自分が来た道へと振り飛ばた。
「おいっ!」
乱暴な動作に、別の小道へと駆け出した肥満体に向けて非難の声が飛ぶ。恩を仇で返した疫病神は脂肪を弾ませて振り返る。
「邪魔なんだよっ!」
噛みつくのと同時に、断続して打ち響く高らかな金属音。雨よりも硬い響きは厚い鎧を易々貫いた。傍に居た幾人かの黒武者が其の場で崩れる。
不意に降り出した銃撃の俄雨に、黒武者の統制が崩れた。外れた鉛弾は黄色の境界線を越え、物見遊山を決め込んだ者達も襲う。当たり籤を引いた順に、見物人は次々と屍となりて地に横たわる。
一瞬の静寂の後、誰かの悲鳴が爆発した。
人の口から出たとは思えぬ音と、本能を剥き出しにした混乱が目抜き通りを掻き乱す。自ら流す鮮血で濡れぬよう、其々が雨宿り出来ると信じる軒先へと駆け回り、打つかり合った。止める者なき阿鼻叫喚。若い警官たちもを止める術を持ち合わせず、ただ青い顔で蹲る。
「くっ!」
秩序が瓦解する最中、生き残った黒武者のひとりが大黒へ銃を向ける。が、太った男の姿は既に脇道の奥へ姿を消していた。其れでも引けぬか、息の無い者は他に任せ、未だ健在な武者へと指示を飛ばす。
「犯人を追うっ!誰でもイイっ!俺の後に――」
声を張り上げる首が宙に跳んだ。
背後から急襲した赤黒い大幹が首筋を撫で、鎌刃が胴から切り離したのだ。出来立ての積み木は高く宙を舞い、ゆっくりと地に落ちる。残された胴から紅蓮の噴花が咲いた。
「ひぃ、ひぃぃっ!」
残された武者のひとりが腰から崩れ落ちる。
大黒の凶行で誰もが忘れていた。同じく脇道から迫る黒き邪心の存在に。間近で蠢く、具象化した真の呪詛に。
くぉぉっ!
地から響く黒塊の咆哮が通りを席巻する。高い位置から真紅の頭が姿を現した。ふたつの光点を発する岩石が如き顔。
忘れるなど出来ぬ、異形の巨漢。赤鬼だった。
この作品はフィクションです。登場する人物や団体、事件はすべて著者の想像によるものであり、現実のものとは一切関係ありません。実在の人物や団体、場所、出来事との類似がある場合でも、それは単なる偶然であり、意図的なものではありません。




