逃げる者、彷徨う者、探す者、悔いる者 二
2025.07.21 最後の文面を改訂。
「ドコだぁっ、出てこおぉいっ!赤目ぇっ!」
人垣の奥から騒ぎ立てる、怒気を孕んだ荒々しい声。下男を罵倒するが如く連呼する家名に、蜂谷と二人して顔を見合わせる。
赤目。級どころか、学舎中でもふたつと無い姓。人違いだと白を切るのは難しい。
已む無し。肩で小さく息を落としてから数歩。推移に固唾を飲む門徒の境界線に到せば、気付いた者がすかさず隙間を空ける。
「あ赤目?」
小さい怯えを隠さぬ蜂谷の呼びかけには、恍けるしか無い。
「此の儘、通せん坊されても困ろう?」
事実、昇降口の前で難儀する同胞の数は増えていく。放っておけぬし、名指しされた以上、知らぬ存ぜぬで通すのは無理筋。
悩ましき頭痛の種が脈打つのを指で押さえ、足を前へと引き摺る。前を塞ぐ制服の波が細波の動揺を見せて左右へと引き、道を産んだ。途切れた先で待ち受けていたのは巻き毛の男子。少々、残念な胡座鼻には見覚えがある。確か間宮の取り巻きの中にいた男。
「赤目っ!テメェっ!」
巻き毛は鼻息荒く大股で寄り付くと、胸倉を荒々しく掴んだ。前襟に幾重もの深い皺が走り、形が崩れる。
「どうした?そんなに唾を飛ばして」
急に締め上げられる暴挙に面食らいつつ、首元を握る手に両手を添える。話の道筋を飛ばして詰め寄られても困るだけ。
「落ち着け。何が有った?」
「落ち着いてられっか!」
相手を宥めようと投げかけた言葉は、どうも火に油を注いだらしい。首元を締め上げる手に、更なる力が入る。
「大体、テメェはっ!ハジメっから気に食わなかったんだよっ!」
巻き毛の言い分に、つい溜息を漏らしてしまった。どう思おうと勝手だが、他人に迷惑を掛けてまで伝える事か。
「そういう話なら、校舎の隅で存分に聞いてやる。良いな?此処で屯うは邪魔極まり無い」
「うるせぇ!永見を差し向けたのっ、テメェの入れ知恵だろっ!」
思いがけぬ名に身体が反応した。
一歩前に踏み込んで互いを密着すれば、巻き毛の手首を内へと曲げてやる。腕ごと巻き込む形を作り折り固めれば、指先に伝える力は鈍る。
其れで十分。添えた両手を押し下げれば、巻き毛の弱った手首が首元から外れた。
「なっ!」
優位と信じ切っていた体勢が崩れ、巻き毛は一旦離れんと力任せに足掻く。逃がすと思うか?動きに合わせ、手首を外側に捻る。哀れ、相手の五体はくるりと横回り。
「っ痛てぇ!」
受け身も取れず、肩から地面に打ち付けられる巻き毛。鈍い音の衝撃に、顔中の皺が胡座鼻に集まる。いや、まだ終わらぬぞ。
「永見が、何と?」
相手の腕から手を離さず、捻った手首を引き伸ばす。人体の摂理を知り尽くした故、力を使わず筋を痛めるなど容易。
「あがっ!痛いっ!痛いぃっ!」
甲高い絶叫と共に巻き毛の頬は引き攣り、眼球が飛び出さんばかりに見開かれる。大仰な。拷問にしては極々、軽い方ぞ。
「答えよ」
「わっ!分かったからっ!離してっ!」
「先ず、答えてからだ。何があった?」
簡単に業を解くなど思われても困る。軽く脅してやれば、音を上げた巻き毛は囀りを始めた。
「なっ、永見っ!がっ、間宮っ、さんをっ!なっ、殴ってっ!」
「殴る?間宮を?」
不穏な名に心臓の鼓動が跳ねた。
「永見と間宮が何故、顔を合わせる?ちょっかいを出したのか?」
「ちっ、違うっ!まっ、間宮さんのっ、前にぃっ!突然っ!」
「其れで?」
「いっ、言いあっ!争ったらっ!急ぅ、にっ!殴りっ、かかってっ!」
悲鳴へと様変わりし始めた自白から、巻き毛の限界が近いと分かる。質問は出来て、あとひとつ。
「で、永見は?間宮を殴って、其の先は?」
「にっ、逃げたっ!逃げっ、やがったっ!」
自ずから漏れた息は落胆か、其れとも安堵か。ともあれ、状況は把握できた。少なくとも、永見は逃げ果せた様だ。
「ぎゃぁ――っ!」
魂を吐き出す、肺腑を抉る悲鳴が灰色の空に轟く。いちいち過剰な反応。腕の痺れは残るが、壊すに至らず。時が元通りに戻すだろう。
「あ、あ赤目?」
固い地面でのた打つ巻き毛を捨て置くと、何処か遠慮がちな、歯の噛み合わぬ蜂谷の声。
振り返れば白い顔だけではない、周りを囲む生徒が一様に、逃げ場を失った小動物の顔を向ける。怯えと不安が入り混じった視線に、思わず後悔を宿した顔色を手で隠す。
確かに自重すべきだったかもしれん。まっとうな神経の持ち主ならば、早朝から見るに堪えられぬ惨事。が、衆目へ陳謝する前に大事な用事が出来た。背負った鞄の位置を直すと、校舎に背を向け歩き出す。
「蜂谷、後は頼む」
「えっ?がっ、が学校は?」
「上手く執り成してくれ」
先ずは、永見から話を聞く。怒っているか泣いているのか分からぬが、間宮を叩くほどの喧嘩をしたのだ。慰めの言葉を掛ける相手が必要だし、何があったのか尋ねなければならぬ。
「世話を掛ける」
思えば、蜂谷には尻拭いをして貰って許り。申し訳なく思うも、今は時間が惜しい。遠くから届く教師の声が近付く前に一目散。猛風を引き連れ校門を飛び出す。
入れ違いとなる生徒が、不思議そうに首を傾げていた。
永見と間宮の間で起きた揉め事が何時に有ったかは分からぬ。とは言え女子の足。まだ遠く離れていないと信じ、近辺を虱潰しに探し回る。
が、運に見放されたか。不可視の触覚を広げてみても、感じるのは目当ての少女とかけ離れた中年の輪郭。恐らくは生活指導の教諭だろう。謹慎明けの身の上でまた捕まれば、どんな説教が待っているか。
いや、邪魔はせんだつ先達だけに非ず。
「あっ、赤目っ!」
同じ制服姿が視界に飛び込むと、相手は溝鼠を見るかの如く眉間に谷を刻む。中には理由も言わずに殴り掛かる者まで居た。どれもが間宮の取り巻きの中で見かけた連中。網を掛けても数が多ければ、鉢合わせするのも否めない。
時に周囲を見渡し、時には逃れて四半刻。歩道や脇道、近所の小売店からも永見の面影は消えていた。
全くの見当外れ。挫かれた思惑に、髪を掻いて誤魔化すしか無い。既に学び舎の近辺には居ないのだろう。
となれば、残る手はひとつ。御河童頭がひょっこり現れそうな場所を狙うしか無い。
では、何処に?未来の足跡について頭を巡らす処で、はたと気が付いた。
永見が何処へ足を向けるか、心当たりすら思い至らぬ事に。
「いやゞ」
うら乾いた薄ら笑いを、頭を強く振って追い払う。足が縺れて壁に手を突いたのは意図では無い。
斯様に、阿呆な事があろうか。
東の都に辿り着いてからひと月半。最も長く一緒にいたのだ。あの毎日が上辺だけの出来事だと言いたいのか。
だが。いや、真逆。
荒くなる呼吸を鎮め、目を閉じた。暗闇の中で永見の輪郭を描き、思いつく限りの血肉を掻き集める。
名前は?永見椿。性別は?女性。年齢は?恐らく同じ。誕生日は?知らぬ。
友人は?赤目忍以外、知らぬ。普段の過ごし方は?赤目を振り回して愉しむ。良く買う雑貨は?知らぬ。
お気に入りの歌は?知らぬ。一番の思い出は?知らぬ。好きな場所、知らぬっ。好きな色、知らぬっ!
「――っ!」
得も言えぬ熱き悔恨が喉の奥からせり上がった。口内は泥水の味で満たされ、催す吐き気が呼吸を妨げる。
何と、愚か。
友と呼ぶ者に、好意を示した相手に何と言う仕打ち。非道と誹られても反論出来ぬ無関心さに、呆れを通り越して怒りが湧く。其れで良くぞ、平気な顔して隣を歩けたものだ。
彼女に対し、どんな言葉を紡げば良いのか。釈明の言葉も見つからず、浅薄なる脳漿に手を伸ばす。毟り取らんと掴んだ掌は髑髏に阻まれた。願い叶わず、其の場にへたり込むしか無い。
其の儘、幾許。嗚咽のひとつも漏らせば、少しは楽になっただろうか。だが、慙愧の念はひと筋も頬を伝わらず。この期に及んで、涙も上手く流せぬのが酷く疎ましかった。
嗚呼、間宮が羨ましい。
あの美丈夫は知っているのだ。出会う前の永見を。童の頃からの変遷を。他人では振り返る事も出来ない彼女の微細について、小さく形の良いだけの頭に収まっているのだ。
何とも忌々しい。薄っぺらい美顔を地獄の釜で煮潰してやろうかと、どす黒い欲求が胸の奥から湧く。只、十数年ばかり一緒であっただけで、記憶の濃度に図り知れぬ差が生まれた。その事実が、義理の二文字を貫くべし、と教え込まれた脳内を焼き殺す。
狂ったのかも知れぬ。故に妄想と現実との境目が見えなくなる。
もしや、今も永見と間宮は。
矢も盾も堪らず駆け出した。宛てなど無い。ただ、過去の記憶を手繰り、共に過ごした場所を血眼になって探す。三人で出掛けた繁華街。約束した遊戯場の周辺。黄昏れた空中回廊の上。
何処も忌まわしい記憶と重なる断片。だが、僅かな懐旧を頼りにするしかない。
堪らなく悔しい。だが、其れでも。
わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身をつくしても 逢はむとぞ思ふ
永見の姿は何処にも無かった。
鉛色に沈む雲の塊が空を覆う下、欄干に力なく凭れる。眼下には無機質に動き回る人の群れ。誰もが颯爽に、淡々に、感情ひとつも表に出さず混ざり合っては散っていく。其処に切り揃えた黒髪の幻影も、微かに香る甘い温もりも見つからず。
当然だろう。僅かひと月半、短い逢瀬の繰り返しで全てを知った積もりの愚か者なのだ。
ふと、校庭を走らされた時、蜂谷と交わした会話を思い出す。
永見と間宮、ふたりの関係を知って頭に浮かんだ一節。恋人の仲に止めを刺ささんとする悪しき忍者。ひょっとしたら、成敗される時期が来たのかもしれん。
いかん。凍て付いた暗闇へと落ちる感覚に、頭を振って繋ぎ止める。
蜂谷は別の結末があると言っていた。過去の愚行は変えられぬが、先の道は未だ白紙。虫酸の走る美仮面に先を越されたとて、韋駄天を飛ばし差を埋めれば良い。
其の為にも先ず、永見に謝ろう。確りと向き合わなかった不徳を詫び、最初からやり直すのだ。
彼女はどんな顔をするだろうか?想像もできず、会わねばならぬ理由が深まる。いや、彼女が顔を合わせ辛いと言うならば、声だけでも良い。
難儀なのは重々承知。故に考える。今迄の探索に見落としが無いか、取れる手立てが残されているか、と。
あった。
脳裏を走る電流に任せ、背嚢からひと回り大きい端末を取り出す。授業に用いるMix-Sceneの黒い端末。
此処には永見が寄越してくれた連絡先が、記録として残っている。折り返せばきっと、彼女と繋がるはずだ。
焦燥に駆られた指先が画面の上を滑る。起動し、新規の連絡を無視して履歴を遡った。何回目かの操作で永見の名が画面一杯に埋め尽くされると、震える爪先が不意に硬直する。
此の儘、永見がすんなりと出てくれるだろうか?言伝の記録すら教師に覗かれるのを嫌っていた彼女。少しでも躊躇わせる原因は除きたい。
「ヒノスケ、この端末から永見の連絡先を拾えるか?」
左手に握った端末が大きく震えた。画面に不死鳥の偶像が映し出され、大きく太い羽を一本立てる。了承の合図。文句も零さず言い付けを遂行する此の鳥を、よくも手に掛けようと考えたものだ。
少し許の謝意を心の中で送れば、不死鳥は然程の間を置かず、ふたつの羽で輪を描いた。完了の印と共に授業用の端末を放り投げ、残った端末を両手で掴む。
「ヒノスケ、永見に電話をっ」
再び端末が短く振動し、呼び出し音が鳴った。だが、無機質に繰り返される電子音は、一向に止む気配を見せない。
「もう一度」
二度目、先程より長く待ってみたが、切り替わる音はついぞ聞こえず。三度目を試してみるも、変化は無い。
「頼む」
何時からか、祈りの言葉を唱えていた。五度目、応答無し。七度目、同上。
「頼む、出てくれ」
十一度目。結局、何も変わらず。
ついに膝から崩れた。
この作品はフィクションです。登場する人物や団体、事件はすべて著者の想像によるものであり、現実のものとは一切関係ありません。実在の人物や団体、場所、出来事との類似がある場合でも、それは単なる偶然であり、意図的なものではありません。




