異相を持つ者 二
直ちに丹田へ気を込め、不可視の触覚を四方へと飛ばす。化粧品を取り扱う百貨店の区画、買い物客も疎らでしかない。店舗の全てを包含するは難しいものの、姿を見せずに付け狙う輩を探り当てるには十分。
「っ!?」
然れど、どういう事なのか。知覚の網に掛かるのは無関係と思しき者ばかり。不審に隠れ、または動く影を一向に捉えられず。
遠くから狙うか?より深く集中し、意識を遠くへ飛ばす。が、見つからず。
上手く身を隠したか?五感の触察を密にする。が、結果は同じ。人影の欠片どころか、残り香さえ掴むに能わず。
額に流れ伝う一滴の汗が変に冷たく、思わず拭い取る。
幼少に会得した知覚の術が一切、通用せず。
有り得ぬ事だ、と切り捨てるのは簡単。だが、現状から目を背ける行為でしかない。長きに渡る修行の末に得た不可視の罠を掻い潜られた。事実を只、受け入れるしかない。
ならば、相手は何者なのか?
分かるのは、相手が腕の立つ名人である、という事。
生まれ落ちて十余年、手練と呼べる者に出会ったのは、後にも先にも爺様だけ。郷で繰り返した修行の中、最後まで不可視の触罠で捉えられずにいた唯一の存在。
故に、分かってしまう。眼前で姿を隠す四名は、神忍と同じ技量を持つ者だ、と。
所在も悟らせず、やっつの目によっつの気配を飛ばす隠忍上手。忍びとして出会えなかった名人が今、伺い知れぬ動機を胸に凝視を向ける。
果たして、付け狙う理由は?考えを巡らせど、思い当たる節は無い。
強いて言えば、獏と名乗った背広の男だが、あの夜に交わした密約は守っている。今更、手練を寄越す必要などあろうか。
強い視線に、肌がひりつき出す。宥める為、浅い呼吸を数回。ゆるりと息を吐けば、暇を持て余すふりをして手近な売場に足を向ける。
展示棚に視線を向けると、着飾った店員の仏頂面が出迎えた。気に留めず、残りの感覚を研ぎ澄ます。食い入る目は、ひとつ残らず追ってきた。
成程、用事があるのは独りだけ、か。
永見や姉に興味を示さぬのは幸いと言えよう。ならば、乱客から二人を引き離した方が良い。この先、何が起こるか分からぬが故。いや、十中八九、きな臭い出来事が待つのであろう。
が、問題は何処へと向かうか。
曲がりなりにも天下の副都心。二人を巻き込まぬのと同じく、周囲に被害を及ぼしては元の木阿弥。気兼ね無く用を済ますには、余りにも人の目が多過ぎる。
一向に姿を見せぬ手練の一味も、同じ思いだったのだろう。ふと、監視の目に力が籠もる。
じわりと詰める重い気色は、硝子張りの出入り口へと追い立てた。達人の域たる隠匿の業を以ても、人気の少ない百貨店はお気に召さぬらしい。
手で片方の瞳を覆い、思案する。
腕の立つ名人を前にしたとて、一人ならば渡り合う自信はある。
二人が相手であろうと、どうにか蒔く事は出来るであろう。
しかし、身の在処を煙に巻く腕利きが四人。分は甚だ悪し。
せめてもの救いは、見に徹して仕掛ける素振りが無い事か。が、其れも何時まで続くか分からぬ。
致し方無し。相手の姿を捉えねば、勝負にすら持ち込めぬ。体裁の悪さに小さい息をつき、大理石の壁から離れる。
再び雑踏へと舞い戻れば、好き勝手に響く会話に車が地面を擦る音。無秩序な喧噪は密度を増し、混乱に拍車をかけていた。
こうも騒々しければ、感覚を研ぎ澄まして探るにも限界がある。反対に、刺客共は喧々囂々たる混雑に紛れて見張るのも容易。現に、密やかな凝光が歩みを急き立てる。
「そう焦らすな」
姿無き気配に促される儘、重い足を動かすしか無かった。
行き着いた先は、煉瓦敷きの続く小さな坂道であった。
四面四角の高櫓に挟まれた中、三人が横に並べば埋まる小道。両脇には扉を固く閉ざした軒先が続く。
嘗ては小洒落た店であっただろう、往時の名残が残る壁は無数の乱筆で書き散らかされ、其れも色褪せて捨てられた。人の目はあれど、先の百貨店よりも閑散とした場所。日常の息吹きから取り残され、打ち捨てられた通りと言えよう。
「さて、如何なる用かな?」
妙な場所に連れ込まれたもの。こう静かでは、監視をするにも不都合極まり無いだろう。其れでも正体の手掛かりさえ垣間見せぬのは、達人たる所以か。
「望みの通り、付き合ってやったのだ。いい加減、姿を見せたらどうだ?」
軽口を叩きつつ、未だ姿を見せぬ気配に耳を攲てる。音を聞き分ける修行は嫌と言うほど積んだ。
ウッ……ウゥッ……。
微かな泣き声が内耳に届く。悔しさ、無念さを押し殺した女性の低い呻き。
声する方角へと瞬時に首を巡らせば、向かいの空き店舗に目が行った。
店を広く見せる工夫なのか。壁もなく、大きく口を開いた喫茶店の跡。朽ち始めた机と椅子が隅に積まれ、奥の厨房も煤と錆で汚れた姿を晒す。
其の中で、壁に埋まった門が不自然に口を開けていた。
誘っているのは一目瞭然。
身の危険を前にして、自然に指先が隠し物入れを探る。が、振れるのは薄布だけ。其れも当然。物見遊山の最中、達人に見張られるなど望外な出来事。預言者でもあるまいし、此の顛末を推し量るなど出来ようか。
「何処へ連れて行く気か、の」
不可視の触覚で奥を探るが、薄闇の先に気配は無い。が、油断は禁物。明白な罠に警戒を怠らず、慎重に窓のない廊下を進む。
細く、仄暗い廊下。長らく人が入っていないのだろう、原型を留めずに崩れた紙箱が散乱し、一歩進む度に埃が舞う。時間の澱みが凝縮された乾いた匂いと珈琲の残滓に、視線が付き纏った。後を追うだけでなく、不思議と前からも。
クスッ……キャハッ……。
別の声が耳朶を打つ。童には似つかわぬ嘲笑うような嬌声。
声の先を探りはすれど、あいも変わらず触れる人影はなし。姿を見せずに先回りされた眼差しが全身を嬲る。殺意も無く悪意すらも感じぬが、蛭に肌の上を這い回されるにも似た、不快な感覚。
永見と姉から離れて良かった、と心底思う。
隠遁に長けた名人を向こうに回し、二人を庇うは土台、無理な話。万が一、人質にでも取られていたら、と考えれば身の毛が弥立つ所では無い。
グゥ……ムゥ……。
壮年らしき男の怒りに満ちた唸り声が右手の間口から聞こえた。
外れて拉げた戸を踏み越え押し進めば、元は更衣室だったか。錆の浮いた細長い荷物棚が所在無く犇めき合っていた。
「此処が目当ての場所か?」
問いかけるも、返ってくるのは無言だけ。
だが見透かさんとする眼光は健在。仕掛けるには絶好であろう。人目から隔絶された場所で、かつ逃げ場は無い。
正に絶体絶命。にも関わらず、胸の奥からむず痒い可笑しさが込み上げる。
忍び崩れに名人を四人。何とも壮大な陣容である。
どうも、相手は目利きが悪い模様。数多の忍び業を身に持つとは言え、帰農した今となっては無用たる骨董品。この更衣室と同じく、やがて忘れ去られるのが運命である。
にも関わらず、高値を吹っ掛ける数寄者が現れるとは。何処の古手買いかは分からぬが、世間にはとんだ変わり者が居るらしい。
ハァ……
摩利支天の加護を得ようとした矢先、耳元で漏れる溜息に戦慄した。
老夫の、やや掠れた吐息。飛び退き身構えるものの、既に遅し。鼻先には孤影すら残っておらぬ。
流石に此の距離まで気付かぬなど、奇想にも過ぎる事態。相手に殺意があれば、ひと思いにも出来たであろう。
にも関わらず、見逃された。
弄ばれている事実に寸時、思考を止めてしまう。一瞬の隙。姿無き幽鬼が凝視と共に声を折り重ねる。
女性の啜泣、童の嘲弄、壮年の震えた唸りに老翁の諦観した吐声。四様に色分けた負の想いが狭い一室に満ちる。
どう見ても相手が一枚上手。どんなに感覚の枝葉を伸ばそうとも、影すら捉えられぬ始末。悔しい思いと共に、幼き頃の修行の記憶が甦り、喉を渇かした。
山中、逃げる爺様を探すという修行。勿論、神忍が手掛かりなど残す筈もなく、途方に暮れただけではない。逃げ手であった爺様が突如、背を狙い始めたのだ。
何時の間にか狙われる側へと入れ替えられた驚きと焦燥感。背後から首を触れた手刀の冷たさを、生涯忘れることはない。
「要件は?」
だが、今は修行中の稚児に非ず。思い出と同じ冷気を背中に浴びてもなお、至極平然といられた。寧ろ、強者と巡り会えた悦びが格段に勝る。
考えても見よ。身を隠す隙間すら無い一室で、依然として容を見せず。妖術の類としか思えぬ技巧の持ち主が四人、たったひとりに刮目するのだ。
郷を離れ、一介の凡人に身を窶してから数ヶ月。此の期に及んで達人と腕を競う好機を得るとは。
この際、誰が仕組んだのか問うのも野暮であろう。無用たる忍びの棄て場所として、此れ以上の舞台は無い。達人相手に何処まで通じるか、存分に試すも一興。
其の駄賃が命か別かは分からぬが、釣りが戻る事は無かろう。却って、足りぬと文句を言われるかも知れん。知ったことか。事前に値札を掲げぬのが悪い。
「真逆、誘い出すだけが目的ではあるまい。何が望みか知らぬが、思い通りにはさせぬぞ」
返答が無いのは想定の内。何処から襲われても対処できるよう、静かに姿勢を整える。不自然にならぬよう、あくまでも然りげ無く。
ハァ……
再び吐息が漏れた。より深く沈んだ翁の溜息。
「何を落胆する?」
相手の意図が読めず、思わず問い返した。大仰な仕掛けを施し、誘き寄せた者とは思えぬ意外な態度。
少なくとも、まだ双方共に何も仕掛けてはいない。失望するにしても早過ぎる。
『そうか、分からぬか』
落ち窪んだ呼気が答えた。掠れた、しかし明瞭たる老翁の声。同時に、よっつの気配が徐々に薄れてゆく。
「待てっ!」
咄嗟に影の奥へ遠ざからんとする残余を追う。
正体も目的も、何もかもが不明。始まりもせずに終わっては、残された疑問をどう始末すれば良いのか。少なくとも、その胸中は明かして貰わねば。
然れども、願いとは裏腹に手練の一団は存在を搔き消してゆく。
逃がさぬ。もう一度、気を込めた不可視の網を広げ、影法師の跡先を探る。通じぬのは承知の上。今はひと欠片でも掴む手段が欲しい。
果たして、苦慮の策は視界の端に光の断片を捕まえた。一縷の望みを託して振り向けば、不意に視線が重なる。
其れは女人でも童子でも盛漢でも昔人でもない、戸惑いを浮かべた総髪の慈姑頭。何万回ほど見ただろうか、指折る事すら億劫な程に見飽きた顔。
置き去りにされたのだろう。大きな姿見に映された相貌には、はっきりと異相が浮いていた。
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