昼下がりの詞戦 二
「今は……ムリ。答えられない……」
項垂れ、首を左右に振る永見。瞼を伏せた瞳は落ちた前髪に隠れ、噛み締めた小さい口元だけが仄見える。枷を嵌められた様な、重苦しい仕草。
知れず、掌を額に当てる。彼女らしくない、と訝しむしか無い。間宮に何か吹き込まれたか?其れとも彼女の本心か。
何れにせよ、前言を覆すは己への裏切り。しこりはあるものの、黙って受け入れるしかない。
しかし。
「バカを言うなっ、椿っ!」
顔を伏した御河童頭の両肩を押さえる。力の加減を知らないのか。指が深く食い込み、顔を上げた永見の眉間に深い皺が刻まれる。
「そんな勝手なことっ、許されると思うのかっ!オマエはっ!」
痛がる彼女に気遣いもせず、鷲掴みしたまま強く揺さぶる。らしくもない立ち振舞に周囲もざわめき立つ。取り巻きの口から戸惑い狼狽える声が漏れ聞こえた。
「間宮、止さぬか」
永見を甚振る愚行を許せる筈も無し。力尽くで二人の間に割り込み、暴漢へ化けた間宮の手首を捕まえる。
途端、彼の矛先が変わった。
「赤目ぇっ!」
勢い良く振り返ったと思えば、行き成り奥襟を掴む。端正な顔が歪むのは、上手く事が運べぬ苛立ちからか。駄々っ子と同じ態度を繰り返し見せつけられ、熱くなった血潮が全身を巡る。
「阿呆っ!頭を冷やせっ!」
此の儘、素直に引き下がれようか。逆襲の狼煙代わりに腕を伸ばし、逆上する間宮と組み合う。己の我だけを押し通さんと差し合う喧嘩四つ。
纏わりつく温度が俄に変わる。互いの襟元を破かん許りの力で意地を張り合い、交錯する視線が擦れて火花の幻を見せた。睨みを利かせた力相撲に、誰もが目を離せずにいる。
「どれだけ騒ごうとも、永見の気は変わらんっ!大人しく引き下がれっ!」
正論を吐けども、荒い息遣い。二枚目も引けぬとばかりに敵意の目を送り返した。額をぶつけ、目鼻よりも近い位置で感じる嫉妬の熱。
が――
「っ!」
鋭く燃ゆる眼差しが焦りから戸惑いへ、恐れを含んだ物怖じと次第に変わる。
頭に血が上ったとて、間を置かずに気付いた様だ。力の差を。
美丈夫が何度も腕に力を入れようと、頭ひとつ低い相手は微動せず。両の足はしっか、と大地に根を張る。
対して此方は、上背で勝る相手を指先の力だけで上半身を揺らす。
当然なる帰結。鍛錬を積んだのは間宮だけではなく、間宮は鍛錬に命を懸けてはおらぬ。
力の強弱に関わる話ではない。人の身体は不思議なもので、押せば必ず押し返し、引き込めば確実に引き戻す。
己の意思とは違う力に抗ってしまう、反射と呼ばれる生まれ持っての習性。人の意志ではどうにも出来ぬ力の作用を利用すれば、如何な相手でも容易に崩せるし、逆に力任せに仕掛けられたとて簡単に受け流せる。
一朝一夕では出来ぬ、微細なる力の流れを読み切り、その砌を征する業。元は柔の極意なれど、有益ならば忍びは用いるのを迷わず。
忙しなく動く針が一周する前に、勝負は決まった。
「確かに、赤目の言う通りだ」
大きく溜息をつくと、襟から手を離す。全てを悟った涼しげな顔で、空いた手を天に掲げた。降参の合図。敵わぬと見たのか、にしても潔い。潔過ぎる。
「どうやら、僕は少し焦っていたようだ。どうかしていたよ」
急な心変わりに訝しめば、彼の視線が掴んだままの手に向かう。
「どうだい?ここは一旦、休戦というのは」
確かに。敵意が霧消した今、提案を拒む理由はない。渋々と手を解けば、健闘を称える積もりか、大袈裟に肩を叩かれた。
「いや、参った。椿が好きになるのも分かる気がするよ」
自由となった間宮が右の拳を差し出す。構えではない。流行り病の際に広まった、握手に代わる挨拶。清々しい空気を帯びて立つ姿に、永見を追い込み、連れ去らんと企む悪意の影は見当たらない。
余りの身替りの早さ。古い衣を着替えるかの如き掌返しに、何処まで信じて良いか逡巡してしまう。
が、彼の生んだ空間が猶予を与えてくれなかった。
間宮の取り巻きだけではなく、野次馬の面々からも非難の視線が肌を刺す。拳を合わせろ、争いなど見たくないという無言の圧力。
致し方ない。拳を軽く合わせれば、誰かが手を叩いた。拍子の空いた手拍子は疎らな拍手となり、気付けば誰もが手を打ち鳴らしていた。
場が弛緩する様相に違和感しかない。間宮の振舞ひとつで誰もが踊らされている。というのに、誰も気付いてない。歌舞伎の立役の通り、彼の一挙一動に周りが振り回され、言い様に事を運ばれた。
「次は負けないからな」
「勝ち負けの話ではなかろう?」
腑に落ちぬまま、当惑する頭を掌が冷やす。最後に全てを攫っていった雄弁家。見境を無くしたのも、この終幕へと導く演技かと勘繰りたくなる。
「さぁ?どうだろうね」
敗者を装う者は白い歯を見せた。其の儘颯爽と、形の良い輪郭に浮かべた微笑を耳元まで寄せる。
「まさか、他人の物を掠め盗るようなヤツだとは思わなかったよ」
行き場を失い、燻っていた火が再び燃え上がった。何という物言い。肌が燃えるほど熱くなる。
「おっと、怒ったかい?でも今、手を出せばどうなると思う?」
顔を離して見える間宮の笑み。形は同じなれど、意味は変わっていた。
「仲直りしたのに、また暴力を振るうんだ。誰もが僕の味方になるだろうね。さぁ、全員を敵に回す覚悟はあるかい?」
勝った、と誇らしげに謳う美丈夫の口元を前に、震える拳を抑えるのがやっと。
此処に至り、初めて会ってから彼に抱く違和感に、ようやっと気付いた。
偽るのが抜群に上手いのだ。
清廉な外貌で魅了し、弁で虜にする。相手が見せぬ心の機敏を察し、周囲を巻き込んで自らが望む方向に誘導する。生粋の人誑しと言っても良いだろう。
「ま、赤目の健闘を讃えて今日は引いてあげるよ」
自らが持つ威を誇示する肚か、涼しげな視線を永見へと送りつつ、名残惜しそうに離れる。彼女への色目だけを残して満足し、背を翻して校舎へと歩みを進めた。取り巻き達が慌てて後に続く。美丈夫の脇に張り付いた子女が振り返って睨みつけられた。
後味の悪い幕引きに、自然と掌が頭に添えるしかない。
厄介な宣戦布告。今までのらりくらりと躱してきたが、今後はそうもいかないようだ。
一連の騒ぎが収まり、野次馬も三々五々と散り散りとなる。残されたのは二人。身を持ち崩した忍びと、押し黙ったままの少女。
「永見、大丈夫か?」
改めて声を掛けてみるものの、返ってきたのは沈黙。
初めて顔を合わせた頃より好意を隠さなかったと言うのに、此処に来て一歩引いた。突然の翻意を探ってみたいものの、下を向いたまま顔を見せぬのでは、何も察せぬ。
手を伸ばせば容易に彼女の髪へ届く距離。だというのに物憂げな空気が躊躇わせる。二人を分かつ見えぬ壁。触れると絡みつく粘り気に、彼女の輪郭を擦ろうと試みた指を引っ込めてしまった。
全く、何時から意気地なしとなったのか。靄のかかった重い頭を掻くしかない。
彼女が放った言葉だけではない。此方も正気を疑う愚行を犯した。
永見が再三、口にした心の内に便乗し、間宮に勝負を挑むとは。しかも彼女に何の承諾も取らず。
果てさて、目の前で背を丸めたままの少女はどう思ったのだろう?百年の恋も一片の失態で冷めるもの。隠してはおらぬものの、勝手に胸の内を出しに使われては、良い気もしないだろう。
後悔の溜息が口から洩れる。どうやら、思ったよりも感情がささくれ立った模様。少し離れて頭を冷やした方が良さそうだ。永見も同じく、落ち着く時間が必要だろう。
そう決め、歩き出す足先を逸らせば、後ろから裾を引っ張られた。
「しぃ君……ゴメン」
制服の端を指先で摘み、謝罪の言葉を紡ぐ永見。前に涙した時より重く沈んだ声音に、何時もの溌剌さなど微塵も無い。
「別に。永見は何もして無かろう?」
肩を竦め、気落ちしたままの御河童頭を慰める。気にしている様だが、あの場を悪くしたのは彼女ではない。
「それより、何故に間宮と?あそこまで嫌ってたというのに」
思いが固まり切らぬ儘、何とはなしに疑問を口にする。明らかな失言。少女は再び押し黙る。
「別に咎める気はないぞ」
少々、軽口が過ぎた。慌てて取り繕うべく、言葉を繋ぐ。
「誰と居ようが永見の勝手。例え間宮と一緒が良いと言うならば、口を挟む積もりはない」
「やめてっ!」
裾を強く握り、甲高い声を上げる。
「そんなんじゃないのっ!ただ、ワタシはっ!」
小さく震える顎を上げて見せた瞳には並々と溜められていた。何かを言いた気に小さな口が開くものの、次の句を継げぬまま三度口を閉ざし、目を伏せる。
泣かした。泣かしてしまった。
言葉の選び損ねに、顔を顰めるしかない。言い訳も利かぬ失態を前に、愚かな頭を下げるしかない。
「すまん。軽率だった」
心から詫びる。が、謝意は受け取られず、永見は頭を横に振った。
「いいの。私が悪いんだから」
耳に届くかどうかの小さい声。いかん、完全に塞ぎ込んでおる。生気も感じられぬ沈んだ響きに、どうしたものか、と手を額に添えて思い計る。
永見の胸中は完全に岩戸の中。扉を閉ざし、外界を拒んだ。天照大御神は鏡に映る顔と見ようと岩戸を開けた折、天手力男神に引き釣り出せたが。
いや、まずは閉ざされた扉に隙間を作るのが肝要。
「腹は減らぬか?」
「えっ?」
「思い返せば、米粒ひとつも口にしておらん。時間は残っておらぬが、何か入れておいた方が良い」
地面だけを見つめていた永見の視線が心持ち上がる。神話の世界として語られぬ今世、恥部を曝け出して踊るには抵抗がある。出来るのは精々、隣で昼餉を共にする程度。それでも、少し許の気晴らしになれば最良である。
「でも……」
「何を気兼ねする。何時もの事だろう?」
真。普段から弁当片手に午後の一時を共にする仲。可笑しな話ではない。
裾元にある彼女の指を上から包み込んで握る。此度はすんなりと手を繋げた。
伏せがちだった瞼が上がり、大きな瞳に生気が吹き込まれる。視線が噛み合い、互いに顔を合わせた。艶の消えた頬に、大きな目下で浮かぶ黒い隈。表情も心なしか硬い。
「イイ、の?」
それでも躊躇する永見。今更、他人行儀は無しにして貰いたい。嘆息する吐息と共に首肯する。
「当たり前であろう?其のためにこうして――」
此処まで言っておきながら、はたと気づく。何時の間にか弁当の包みが手の内から消えていた。
落としたのかと思いぐるりと見回すが、影も形も見当たらない。恐らくはもっと前、永見を探す間にでも落としたのだろう。
が、今の今まで気付かぬとは。余りの間抜けぶりに頭を抱えてしまう。
「どうしたの?」
「いや、何処かで弁当を落としたようでな」
白状すると、御河童頭が吹き出す。先に負った心の棘もあるし、何より笑ってはいけないとでも思ったのだろう。喉の奥で我慢する様な、控えめな笑い。
「困ったな。何処で落としたか、永見は知っておるか?」
「知るわけないでしょ?もう、しぃ君ってば、意外にドジなトコロあるよね」
占めたと許りに剽げて見せれば、少女は固くなった顔を崩した。差した影が色濃いものの、ほんの少しだけ頬を綻ばせた微笑み。やはり、永見には笑顔が似合う。
「笑い事ではないぞ」
憮然とした表情で口を尖らしてみる。
「今から食堂や購買に行ったとて、間に合うとは到底思えん。それとも、腹を空かしたまま午後の授業を受けるか?」
「仕方ないじゃん」
目尻を下げた彼女の声は幾分か弾んでいた。
「見つかっても、あの味のないおにぎりなんでしょ?塩も振ってない」
「何を言う。確り振ってある」
「ハイハイ、そういうコトにしてあげるわ」
澄ました顔で手を握り返すと、そのまま手を引き二歩、三歩と進む。校舎とは逆の方向へ。
「どうした?」
「今日の勉強はもういいでしょ?午後はさ、一緒に遊ぼ」
何か吹っ切れたのだろう。片目を瞑って誘う永見。
悪い手ではない、と、沈思の支えに手を額へ置く。
次の鐘が鳴れば、永見と暫しの別れ。彼女は間宮と同じ級へ戻ることとなる。目の届かぬ場所で、宜しくない組み合わせ。
「ならば、見つからない様にせんと、な」
事が露見すれば姉が黙っておらぬだろう。が、其処は後回し。今は一致した思惑を叶えるべく、動き出すのが吉。
さて、誰にも気付かれぬ内に、逃避行と洒落込もうか。
「こらぁっ!そこぉ」
乗り気となった高揚感は、無粋な胴間声に水を差された。先の騒ぎを納めようと、遅ればせながら駆け付けたのだろう。校舎から騒がしくも近づく、やや高めの太い声。
「うっ、太田っちだ」
音の主を見た永見が肩を弛ませて下へと落とす。具合の悪い顔色が一層沈み、土気色へと変わる。
是非も無い。生徒に手を引かれて地を踏み鳴らす恰幅の良い女教師の姿に、落胆を隠せぬ顔を手で覆う。寄りにもよって最悪の人選。他の教師は捕まらなかったのか、いや、大田氏が進んで首を突っ込みに来たのだろう。
「話は聞いたわよぉっ!何やってんのよぉっ!」
息も絶え絶えながらも声を張り上げ、丸い塊が徐々に押し寄せてくる。押っ取り刀にしては鈍足な動きではあるが、確実に。
「此れは……長くなるな」
彼女に捕まれば最後、根掘り葉掘りと矢継ぎ早に尋ねてくるだろう。聖職の立場としてではなく、下世話な興味として。
ちら、と時計を見ればもう少しで鐘が鳴る頃合い。此れでは抜け出すことも、次の授業に出ることもできぬであろう。
「今日、帰れるかな?」
永見が力無く呟く。忍びの業にも未来を見渡す術は無い故、二人で困り顔を見せ合うしかなかった。
この作品はフィクションです。登場する人物や団体、事件はすべて著者の想像によるものであり、現実のものとは一切関係ありません。実在の人物や団体、場所、出来事との類似がある場合でも、それは単なる偶然であり、意図的なものではありません。