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斯くて忍びは棄たれたり  作者: 青砥編佳
二 うき世の民に おほふかな
11/32

赤鬼と獏 三

2025.04.17 タイトル修正

2025.04.19 さらにタイトル修正

 異形の赤鬼を倒したとて、()れで終わりとは()らず。消えつつある(うめ)き声の元へ静かに足を向ける。

「無事か?」

 無事である筈もない。滑稽な言葉を吐きつつ、赤黒い血溜(ちだま)まりに身を伏せた刺青の(かたわ)らへ膝を落とす。

 一縷(いちる)の望みを抱えて上着を破き、傷口を覗き見れば、(あら)わになるのは腹まで届かんばかりに(えぐ)られた酷い刀傷。ひと目で手の(ほどこ)(よう)が無いと分かった。

 だとしても。段平(だんびら)を捨て、手拭いで患部を(おさ)える。流れ()でる赤い濁流を止めるには程遠い。(たちま)ちに白い布が朱色へと染まるが、傷口から(あふ)れる流れは止まらない。

「痛いよぉ……」

 刺青が涙を波ゞ(なみなみ)と溜め、紫色の唇を震わせた。耳元で聞き取れぬ(かす)かな声。冷たい肌から吹き出す汗が更に身体の熱を奪っていった。

「なんでぇ、こんな目にぃ……何もぉ……してねぇだろぉ…………」

 言葉を返す暇すらない。(あま)りに大きい傷口を強く押さえ付けるが、既に手拭いは役に立たず。手や指を生暖かい鮮血が(まとわ)わりつく。

 眼前で命が消えつつあるのは十分に理解できた。だとしても、(さい)河原(かわら)へ向かう前にして貰いたい事があるのだ。

「あの赤鬼は何者か?」

 今際(いまわ)(きわ)へ旅立つ刺青を押し(とど)める。此奴(こやつ)から有益な話を何ひとつ聞かされていない。せめて、赤鬼に関する手掛かりくらいは(のこ)してくれねば困る。

何故(なにゆえ)、根城を襲われた?命を奪われるほどの大事、貴様等は何を仕出(しで)かしたのだ」

 声は届いたのか。何処(どこ)とも知らぬ(うつ)ろを掴むように、(ひど)く震える腕がゆっくりと上がり、青白い指先を伸ばす。

「誰かぁ、助けてぇよぉ……お願いだからぁ……ねぇ…………ママぁ…………」

 気付けば、警報も雨も止んでいた。

 静まり返った薄暗闇の中、(もの)言わなくなった骸から視線を外す。

 勝手我儘(わがまま)に生き晒し、誰の役にも立たず我儘なまま死んだ。天から授かりし命を全うしたなどと言えぬ、横暴な生き様。

 せめて()く前に手掛かりを遺してくれたのなら。

 疑問が疑問のまま残ってしまった。結局、胸の(つか)えを取る報せを(つい)に聞き取れず。

 いや。痞えを取る方法は、まだある。

 崩れ落ちた赤鬼に再び視線を送る。何しろ、この騒ぎを起こした張本人。知らぬとは言わぬだろうし、言わせぬ。

 深く落した(ゆえ)四半刻(三十分)は目を覚ますことはない。手応(てごた)え通りのまま、当の本人は動く気配など微塵も無かった。

 弛緩しきった上体を(かろう)うじて支える様に、その太い手を床につけたまま微動だにもしない。

 床に手を付けた?

 いや、倒れたときは支えることもなく横倒しとなった(はず)

 違和感に気付くより早く、機械に息吹(いぶき)を与える電子の単音が耳に飛び込んだ。

 赤鬼の口から放たれた音ではない。もっと奥底にある、巨躯に埋もれたの中心から鳴る音。

 と、目覚ましの電鈴(ベル)が断続的に鳴り始める。応じるように剛腕に浮かぶ鋼筋が(ふく)れ上がって地を押し返し、のそりと上半身が床から離れた。少し(ただ)れた赤黒い頭を上げ、黒く(くぼ)んだ両眼から再び赤き点が(とも)る。

 口の中が渇き、唾を()んだ。

 よもや、こう短い間に立ち上がるとは。何もかもの常識を(くつがえ)(さま)に、形容する言葉が見つからぬ。人の(なり)であるものの、()範疇(はんちゅう)で語れる相手ではない。

 だが、だとしても。

「どうした?顔が黒いぞ」

 如何(いか)な化物でも、焼かれた顔面を治すには時が()りぬ(よう)だ。

 全身にこび付いた返り血よりも赤黒く燃えた頭部はそのまま。深い眼窩(がんか)の奥にある赤光も幾分(いくぶん)(かげ)りを見せる。

 それでもなお、荒々しい鼻息を撒き散らして深く隆起する顔の(すじ)。憤怒に支配された表情を突き出し、両肩を揺らす。

 だから何だ。満たされぬ思いを(いだ)くのは同じ。再び(やいば)(まじわ)えたいのなら、願ったり(かな)ったり、だ。

 形見となった段平を左手で拾い上げ、(むね)を噛む。右手に(あか)く濡れた手拭い、左手を空けたまま唯一の兵具(ひょうぐ)(くわ)えた奇妙な構え。

 対する赤鬼も再び肩を持ち上げ、節の無い腕を波打たせる。どういう絡繰(からく)りかは分からぬが、知ってしまえば戸惑うこともない。

 いや、油断は禁物。腕の()ぎ目を無視し自在に伸ばしたのだ。腕が増えたとて、何ら不思議ではない。

 まぁ、良い。算段は相成(あいな)った。


  ヲン・アニチ・マリシエイ・ソワカ

 

 真名(マナ)を唱え、摩利支天(マリシテン)の加護を(さず)かれば、赤鬼も巨躯を(はず)ませ差し迫った。腕に飼う二匹の怪蛇が牙を()く。

 応じて、此方(こちら)は身体の向きを相手に合わせ(かかと)を浮かせる。()いた左手を隠し物入れ(ポケット)に突っ込み、中身を怪物の足元へ放り投げる。

 赤鬼の赤点が揺らいだ。

 先の経験で疑心が(しょう)じたか、足先も(にぶ)る。残念、投げたのは只の塵芥(ゴミ)。それでも蛇飼いの鬼を警戒させるには(こと)足りた。

 一瞬だけ視線を外れたのを見計(みはか)らい、身を(かが)めて二匹の間隙を()う。遅れて鋼の鎌牙が襲いかかるが、狙いは甘い。刃に込められた殺気を不可視の網に(から)め捕って(かわ)せば、既に相手の懐の内。

 機先を奪い、赤鬼は慌てる。二匹の大蛇を再び巨腕に戻し、手首の鎌刃で両脇を固めた。背を取られるのを嫌った守りの構え。

 読み(ちが)えたな。其処(そこ)は本命に(あら)ず。

 正対したまま地を蹴れば、赤鬼の顔面へ右手の一閃。狙い(たが)わず、鮮血を吸った深紅(しんく)の手拭いが岩壁の(ごと)き顔に張り付く。

 其方(そなた)に命を奪われた者の血で染まった布だ。恨みも存分に(こも)ってるであろう。

 赤光が手拭いの奥でぼやける。視界を奪われ、苦し(まぎ)れに踊り狂う二対(につい)の凶刃を紙一重で()(くぐ)り、赤鬼の左手へと回る。目の前には大樹の(みき)を思わせる太き脚。口元に含んだ段平を右手に持ち替え、其の膝裏へと突き立てる。

 くぉぉぉぉっ!

 咆哮(ほうこう)(とどろ)いた。怒りを(にじ)ませた、熱き呼気(こき)が空気を震わせる。

 膝の(けん)を絶ち、骨と骨の間にある軟骨さえ砕かんとする一撃。惜しくも硬き骨に(はば)まれ貫くのは(あた)わぬが、動きを封じるには十分。()じり引き抜けば、穿(うが)った刺創(しそう)から濁った色の体液が湧き(こぼ)れる。

 乾坤一擲の一撃は(こた)えたようだ。重い音を立てて赤鬼の片膝が崩れる。頭の高さが揃った。目の前に姿を現した太い首元へ段平の厚い刃を当てる。

「其処までだ」

 如何(いか)な化物とはいえ、首元の経脈を()き切れば平然とは()られぬだろう。脅しではないと示す為、段平を握った手元を僅少(きんしょう)動かす。厚い刃に(つた)って赤くない粘液が流れ、切っ先から()れた。

 赤鬼も馬鹿ではないようだ。相手は肩を震わし憎悪を含んだ剣幕を向けるも、片膝をついた姿勢から()()()とも動かぬ。まるで生きた彫像、いや動く岩塊だ。

「何を意図して(いたずら)に人を(あや)める?(いく)ら斬り捨てたか知らぬが、流石に目に余る」

 物言いが(かん)に障ったか、亀裂と見えた眉間の(しわ)が削れ、更に深い(ひび)が入る。口の端を歪めるのは痛みか、それとも悔しさからか。

何故(なにゆえ)に黙る?其の口は(ただ)の飾りか?それとも答えられぬ何かがあるのか?」

 だんまりを決め込んだ手負いの鬼に対し、段平を握る右手の小指を軽く動かす。切っ先から落ちる(しずく)が段々と速くなり、やがて線へ変わる。

「何処まで手に掛ける(はら)であった?淡緑だけを相手にする積もりだったか、それとも建屋(たてや)に居た者は誰彼(だれかれ)構わず、か?」

 生殺を握られているにも関わらず、動じぬままに沈黙を貫くの赤鬼。図体(ずうたい)通り、肝が据わっている。

 とは申せ、此方(こちら)も命を張っているのだ。勝負に降りる訳にはいかない。

「逃げた者は如何にする気であったか?答えよ。さもなくば――」

 容赦はせぬ、と言い切る事はできなかった。

 丹田より周囲に(めぐ)らした不可視の網に何かが触った。急いで目を向ければ、赤鬼が背にする薄闇の向こう、上り階段の途中に人の影。

 はっきりと見えるのは膝から下だけだが、薄灰色のくたびれた背広から男だと認められる。だが、視線を上げるにつれ影が打ち(つど)い、首から上は輪郭さえも(うかが)えぬ。

「いやいや、大変申し訳ございません」

 言葉は残るが話した声音は忘れてしまいそうな、(つか)み所のない声であった。




「本件につきましては、(すべ)て弊社の不手際。深くお詫び申し上げます」

 男の声音は明朗(めいろう)なれど、余りにも特徴が無かった。

 ともすれば、闇の向こうから届く肉声は外耳(がいじ)に奪われ、鼓膜に届く頃には言葉だけが残る。何も残す気のない、思い出すのも難しい響き。

 姿もそうだ。目に()められるのは足元を飾る黒い革靴の他、手元の白い手袋だけ。正体は夜闇の中に溶け、顔形の境目すら不明にした。影の濃淡を見て立ち位置を決めたのか?いや、影が(この)んで()(あつ)まったか。

「何者?」

 赤鬼の助太刀に対し、左手を隠し物入れ(ポケット)へと伸ばす。と、声の主は慌てて(てのひら)を向けた。

「自己紹介が遅れ、大変失礼(いた)しました。ワタクシ、(ばく)と申します」

 胸の(あた)りなのか。影に隠れた男は左の手袋を上にあげ、手の甲を見せる。

 獏。割れた禁裏(きんり)がひとつとなり(なが)らも戦乱へと向かう頃、中国より伝来(でんらい)した空想上の生物。象の鼻、(さい)の目、牛の尾に虎の四足を持つ、悪夢を喰らう妖怪。

「どうも情報伝達に(あやま)りがあったようでして。弊社としましては、これ以上の対立など望んでおりません。つきましては、円満な解決を(はか)りたく」

 つらつらと機械的に言葉を繋ぐ、太古より伝えられし物怪(もののけ)の名を告げる男声。

「どの口が言う」

 勝手に襲い掛かり、戦況が悪ければ勝手に()める。相手の都合ばかり良い言い分に、目を細めて口角を上げてやる。

「で、万事(ばんじ)解決した後は?用済みとばかりに背から襲われるのは(かな)わん」

「いえいえ。そのように進めますと、弊社の信頼失墜に繋がりかねません」

 少し慌てた口調で白い手袋が薄闇の上でひらひらと舞う。

「弊社としましては、対立は回避すべきと考えております。こら、その物騒な物を仕舞(しま)いなさい」

 半ば夜影に隠れた男が命令すれば、手前で腰を落とした赤鬼は明白(あからさま)に委縮し、両腕から生やす鎌刃を身の内に引っ込めた。刃を()わし合った相手とは思えぬ、何とも従順な姿。赤鬼の妙な仕掛けより、獏という男に素直に従う聞き分けの良さが気になった。

上手(うま)(しつ)けられてるな」

 妖鬼を手懐(てなず)ける手腕を揶揄(やゆ)してみた。が、相手は乗って()ず。

「部外者である赤目様に危害が(およ)んでしまいました問題、明らかに弊社の落ち度になります。ご迷惑をおかけしました事、重ねてお()び申し上げます」

 基督の祈りよろしく胸の前で手を組む。頭を下げるのを手で表現したのか。だが、疑念は其処ではない。

「何故、名を知っている?」

 名乗った覚えはないのに(うじな)を呼ばれた。(まった)く、次から次へと疑問を挟ませてくれる。言葉の端から気疎(けうとげ)さが漏れたとて、仕方ないだろう。

 獏を示す手袋が何処からともなく汗拭き(ハンカチ)を取り出すと、手首と共に影の中へと消えた。歯切れ悪い回答からも、受け入れぬ姿勢が見て取れる。

「このご時世(じせい)でございますから。対応を(あやま)りましたら、軽微な過失でも批判を(まね)きかねません」

「謝罪は不要。()いに答えよ」

 見当違いの言い分に、語気が(あら)くささくれ立つ。通り一遍(いっぺん)の、弁解にも満たぬ芝居掛かった所作。しかも演じるのが大根役者となれば、信を置けるはずもない。

「襲った動機は?淡緑の(やから)だけでなく、別の用で来訪した者さえ問答無用で(やいば)を向けたのだ。さぞ後ろめたい理由があると揣摩(しま)するが、違うか?」

 一気に(まく)し立てると、返ってきたのは沈黙だった。

 月に掛かる薄雲が通り過ぎたか、窓から漏れる夜光が(にわ)かに強まる。赤鬼が期待を込め、もぞりと肩を動かした。

「申し訳ございません。守秘義務の観点から、詳細についてご説明(いた)しかねます」

 影の向こうから絞り出される声に、初めて心情が乗る。陳謝(ちんしゃ)の皮を(かぶ)った、明らかな拒絶。

 納得いかぬ言い分を聞き届ければ、次なる手とばかりに右手の指先に力を込める。切れ味の(にぶ)い刀身が厚い皮膚の中へと沈む感触が指(つた)いに分かった。

此奴(こやつ)の命と引き換えだとしても?」

「ええ」

 即答。獏はにべもなく言い切る。命より話せぬ報せ(情報)とは中々。(しの )びでは(あら)ぬというのに、忍びめいた拝察をする。

「左様か」

 赤鬼の首元から段平を離す。人質にならぬのなら使い道などない。

 然れど、開放したのにも関わらず手負いの邪鬼は微動だにせず。勝負は終わってない、と荒々しく睨みつけたまま。

「来なさい」

 獏が命を(くだ)して、ようやっと片足を引き()りながら足元へと移動した。追い打ちを掛ける必要などない。

「ありがとうございます」

「勘違いするな」

 感謝の念を捧げる獏に向け、切っ先を合わせる。

 別に仏心を出した積もりなどない。戦う相手は、ひと(まと)めにした方が良いと思ったまで。

「何もかも話せぬと言うなら、()わりの物を差し出せ。出来ぬと申すならば、もう一戦」

 赤鬼だけでなく、新たに獏も相手となる。手負いも含むとは言え、()が悪いのは明白(めいはく)。ともすれば命を落とすかも知れぬ。

 それも良かろう。仮に力が及ばぬとて、目的の幾許(いくばく)かは果たせる。躊躇(ためら)(いわ)れなど何処にあろうか。

 だが慌てたように、獏の手袋が左右に゙振られる。

「いえいえ。先に申しました通り、弊社は対立する意向(いこう)などございません」

 闇に浮かんだ白い手が(せわ)しなく宙の上で踊り()ねる。ともすれば三文芝居にも見える、滑稽な動き。

「赤目様のご意向に沿()えるよう(つと)めますので、解決に向けた条件をご提示いただけますでしょうか?」

「ならば、二度と関わらぬと誓え」

 力を()め、大きく言い放つ。

「家族や友人を含め、今後の手出しは一切許さぬ。この先は(かか)わること無き他人。良いか?」

「承知いたしました。弊社は今後、赤目様と接触する事はございません。また、本件に関わるアフターケアも十二分にさせて頂きます」

 一転して明るい口調となり、左手の甲に右手を添えた。礼のつもりか?

「今回の件に関する全ての出来事は、赤目様のも含め記録を消去させて頂きます。そのため、今夜の件も含めまして一切の証拠は残りません」

「其れは 其方(そなた)らの都合では?」

「そうでしょうか?最初から貴社との接点は無い方が、双方にとって有益なご提案かと存じますが」

 闇から言葉だけが届き、自然と顔の半分を手で覆う。

 つまり、此処で起きた一連の出来事を闇に葬るが(ゆえ)、口外するべからず。黙っている限り、此れ以上の手は出さぬ。

 獏の言い分はこういう事か。

「良かろう。話に乗ってやる」

 元より断れる筈もない。向こうが差し出した条件は飲めるものであったし、相手は先に言い分を飲んだ。此れで首は横に振れぬ。

「では、無事に成約とのことで。誠にありがとうございます」

 (うやうや)しく手が下がったのは一礼の積もりだろう。結局、顔を影から出さぬまま。彼の声音すら、(すで)に耳から消えていた。残ったのは()り取りした言葉だけ。

「約定、(たが)うな」

 念押しの言葉を如何様(いかよう)に受け取ったのか?獏は何も返さず、靴の先を闇の先へと向ける。

「それでは、弊社はここで失礼致します」

 白い手袋が消え、続いて窓明かりに照らされた足元も影の中へと消えた。ぎこちない動きで赤鬼が続く。

 奇妙としか言えぬ。天地がひっくり返らぬ限り、上階に出口があるはずもなし。ならば、何処(いずこ)へ向かったのか?

「待てっ!」

 慌てて追いかけたものの、踊り場に(いた)る頃には影も形も消えていた。

 やられた。

 漠然と広がる薄闇を前に、考えが足りなかった頭に手がいく。丹田に気を込め、不可視の触覚で探っても隠れた人の気配すらも無し。獏はともかく、(したた)かに膝裏を斬り裂いた赤鬼も、だ。

「くっ!」

 喉まで出掛かった悪態を飲み込み、薄く浅い呼吸を繰り返して頭を冷やす。

 身に降り掛かってきた火の粉は(すべ)て振り払った。淡緑は烏有(うゆう)に帰し、死を振りまいた元凶にも二度と会わぬと約束させた。

 なのに釈然としない。

 分かっている。相手を見くびった浅慮への怒りだと。

 淡緑を横柄な烏合の衆と決めつけ、(ろく)な下調べもせず乗り込んだ過ち。

 赤鬼の力量を測り切れず、幾度も危機に(おちい)った過ち。

 ひとつ間違えれば、今、こうして息をしていない。

 自然と手が髪を掻き(むし)り、唇を()み締めた。

 何が神忍の孫だ。何が今世(こんせい)の名人だ。何も知らぬ、自惚(うぬぼ)れた餓鬼(がき)なだけではないか。

「!?」

 異臭が(すす)の衣を(まと)って鼻腔を(くすぐ)る。紙、木、鉄、建材、そして人。他にも()ぎ慣れぬ焼けた匂いが嗅覚に届く。肌を()める熱気から火の手が上がったのだと容易に飲み込めた。

 どうやら、悔しがってばかりも居られぬようだ。

 誰が付け火をしたか、などは愚問だろう。獏とやらは一切を消し去る気でいるらしい。階上から忽然(こつぜん)と消える男だ。()ぐに階下に回り焼き討ちにするなど、造作もないだろう。

 此処までやって、最後に焼き殺されるなど死ぬに死に切れん。(きびす)を返して死闘を繰り広げた渡り廊下に戻れば、明かり取りの窓へと手を伸ばす。

 が、力を込めても窓は開かず。手入れを怠った(ため)か、窓枠が(ゆが)んでいた模様(もよう)。仕方なく、残っていた手拭いを手に巻き、硝子(ガラス)を叩き割る。

 ふと、物言わぬ刺青と目があった。

 赤鬼との切り結んだ勢いで押されたか、横倒しとなり鮮血の沼へ沈んだ哀れな骸。(うつ)ろな瞳は助けを求めたまま、時を止める。

 悪人であろうとも、(とむら)いの言葉ひとつも送るべきだろう。が、時間もなく、仏門に帰依(きえ)した過去もない。故に念仏のひとつも唱えてやれぬ。

 せめてもの手向(たむ)けとして南無(ナム)とだけ呟き、窓の外へと視線を戻す。

 (またた)く間に黒煙が顔を襲った。焦げ付く匂いに()せ返りつつ下を見れば、階下から沸き立つ旋風(せんぷう)に煽られ、細く立ち(のぼ)る炎の舌が見える。

 異様に火の回りが早い。()(あた)りも顔を見せぬまま立ち去った男の仕業だろう。

 いやはや、約定を(むす)んだ相手を即座に焼き殺そうとは。(いささ)かの怒りを込めて窓枠に足を掛けると、勢いを殺さぬまま野外へと身を(おど)らせた。

この作品はフィクションです。登場する人物や団体、事件はすべて著者の想像によるものであり、現実のものとは一切関係ありません。実在の人物や団体、場所、出来事との類似がある場合でも、それは単なる偶然であり、意図的なものではありません。

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