記録4 何でも屋と名乗る少年
――寒い。
古びた教会の中に一人、私は隅っこに身を寄せるように座っていた。
絶望の淵に立たされているようだった。
人の声も鳥の鳴き声も虫の鳴き声も聞こえない静寂な空間。
時が止まっているので誰も動けないはずのこの世界で外から鈍く響く足音がした。その足音は段々と大きくなっていく。
私はその音に気付き、顔を上げ、教会の入り口の方を見る。
足音が消えた。そう思えば、次の瞬間には扉を開けようと何度も叩くような音が鳴り響く。
扉には凹凸が出来て、吹っ飛んでいった。
教会の中に入って来たのは三メートルの程の大柄な化け物。見た目は黒く、筋肉がある牛のような姿をしている。
化け物はゆっくりと歩きだし、私の方へと向かっきて、私に向かって手を伸ばす。
「これでようやく死ねる」
私は誰にも聞こえないようにつぶやいた。
化け物の手を怖がることなく、避けようとさえしなかった。
その時、化け物は突然動きを止めた。
私が顔を上げれば、化け物の顔は紅い炎に燃やされていた。化け物は地面に崩れ落ち、跡形もなく、燃え尽きた。
「大丈夫か?」
私の目の前には一人の少年が立っていた。
整った顔立ちに深い海のような青い瞳をしており、それを際立たせるかのような陰影を帯びた黒髪。黒を基調とした服装に黒いマントを羽織っている。この前、私を助けてくれた少年だった。
彼は私に手を差し伸べる。
「…なんで……」
私は今にでも泣きそうな顔をした。今この瞬間、感情の全てが溢れ出てくるように涙が零れ落ちるかのように。
「……なんで、たすけたの……」
問いかけるような、恨むような、何かに悔いているように私は訊いた。
「それは君が襲われていたからだよ」
「なんで、たすけるの! なんで死なせてくれないの!」
私は不満そうな顔をして怒り狂ったように言った。
その言葉を聞いて驚いたのか、彼は笑い出した。
「なんで笑うのよ!」
私は自分が馬鹿にされたのかと思い、不服そうな目で彼を見つめる。
「いやいや、まさか、あの科学者の娘がここまで責任を感じているものだから、少し安心してな」
私は彼を睨みつけた。
「なんで、私の父のことを知ってるの?」
「……秘密だ」
彼は含みがあるように言い、もう一度手を差し伸べた。
「……何よ?」
「少しついてきて欲しい。お前に見せたいものがある」
彼がそう言うと、私は嫌々ながらも差し伸べてきた手を握り、立ち上がった。
彼が走り出せば、私はそれに引っ張られるようについていく。
彼は教会から出た辺りで私をお姫様抱っこをするように持ち上げた。
「い、いきなり、何するのよ!」
「少し危険な場所だからな。下ろしてやってもいいが、ついて来られるか?」
そう言われると私は何も反論ができないのかだんまりした。
彼は瓦礫を避けながら進み、軽々と建物を飛び越えながら進んで行く。まるで無重力空間にいるかのような動きだった。
彼は足を止めた。目の前に化け物の群れがいたからだ。
私をゆっくりと下ろし、彼は化け物のいる方向へとゆっくりと歩きだす。
「少し待ってて、すぐ終わるから」
彼がそう言えば、次の瞬間、高く飛び上り、黒い手袋をポケットから取り出した。
黒い手袋を装着すれば、化け物に向かって手を伸ばす。すると、手袋が光だし、化け物を燃やしていた。次々と化け物を燃やし尽くし、彼は手袋をポケットの中にしまった。
私はそれが何かを知っていた。漆黒の貴重に手のひらの部分には花形の模様。ただの噂でしかない呪いの手袋。それは紛れもなく、『悪魔の手袋』だった。
「見せたいものはすぐそこだ。ついて来い」
彼は私にそう言い、先に進む。
彼は足を止め、私の方に振り向く。
「見せたいものってこれ?」
「ああ。まあ、見せたいものというよりも話たいことがある、って言った方が正しいかもな」
彼はゆっくりと私の目の前まで近づいていく。そして、私の頬をつねった。
「痛っ! ちょっ、何するのよ!」
私がそう言うと、彼は愉快そうに笑いだした。
「今、死にたいと思っているか?」
彼が私に問うと、私は何も言えずに、だんまりしている。
沈黙の時間が過ぎていき、私はやっと口を開く。
「……お、思って、ない、かも……? ……それで、何が言いたいの?」
「簡単に死のう思うな。お前が責任を感じる必要もない。どうしても責任を感じるのなら、俺が守ってやる」
「あなたって、何者なの?」
「俺の名はノワール。ただの何でも屋だ!」
「……何でも屋?」
私は眉をひそめた。
この状況でその肩書きはどうにも信じがたい。
「化け物を倒すのが何でも屋の仕事だっていうの?」
「そういう仕事もあるってだけさ」
ノワールは気軽に肩をすくめたが、その深い青い瞳は私を真剣に見つめていた。
彼の存在が、私の心に微かな安心感を与えているのを感じる。
「まあ、それはいい。とにかくお前をここに連れてきたのは理由がある」
ノワールはそう言って先に進む。
私は少し不安になりながらも、彼の後ろをついていった。
目の前には大きな建物の廃墟があった。
かつては何かの施設だったのだろうが、今は崩れかけた壁と瓦礫だらけだった。
「ここは……?」
「お前の父親の、別の研究所だよ」
「え……?」
思わず足を止める。
私の父がこの場所で何をしていたのか全く知らなかった。
ノワールは振り返り、私の驚きをよそに静かに説明を始めた。
「お前の父親は一つの場所だけで研究をしていたわけじゃない。保険ってやつさ。この施設には、まだ役立つ情報が残ってるかもしれない」
「どうして、そんなこと知ってるの?」
私の問いかけにノワールは一瞬だけ口をつぐんだが、すぐにまた口元に微笑を浮かべた。
「俺は何でも屋だって言っただろう? 知りすぎるのも仕事の一環なんだよ」
その曖昧な答えに納得できないまま、私は彼に連れられて施設の中へと足を踏み入れた。
施設内はひどく荒れていて、床や壁のあちこちにひびが入っている。
廃墟特有の湿った空気が漂っていたが、何かがここにまだ生きているような、奇妙な感覚もあった。
「気をつけろ。この辺りにも化け物がいるかもしれない」
ノワールが注意を促す。
私は彼の背中に隠れるようにして歩きながら、心臓の鼓動が速くなるのを感じていた。
奥へと進むと、一つの部屋が現れた。
部屋の中央には、今にも動き出しそうな機械が置かれている。
「これは……」
私は見覚えがあった。
父の研究室で見た装置の一部に似ている。
「これがお前の父親が残したものだ」
ノワールが装置の前で立ち止まり、私に向かって言う。
「どうやらこの装置は、時間を再び動かすための鍵になるらしい。ただし――」
「ただし?」
「完成にはまだ程遠い。お前の父親もここまで作り上げたところで力尽きたんだろうな」
私は装置を見つめながら、再び父の姿を思い出した。
あのとき父が最後に言った言葉――「お前に託す」という言葉が胸に重くのしかかる。
「……私にできるのかな」
その呟きに、ノワールが力強く答えた。
「できるさ。お前の父親が信じたんだろう? だったら、お前も自分を信じてみろ」
その言葉に、私は小さく頷いた。
装置の調査を始めた私たちだったが、突如として施設全体が震え出した。
壁が崩れ、瓦礫が降り注ぐ。
「まずい、化け物が近づいてきてる!」
ノワールが叫ぶ。
「でも、この装置が……!」
私は装置から目を離せない。
これを動かせば、世界の時間を取り戻せるかもしれない――そんな思いが頭を支配していた。
「装置は後だ! お前が死んだら元も子もない!」
ノワールは私を抱き上げ、施設の出口へと走り出した。
「……でも、私は――」
悔しさと無力感に涙が滲む。
「諦めるな」
ノワールが鋭い声で言った。
「生きていれば、また挑戦できる。お前の父親だって、そう思ってたはずだ」
その言葉に、私はただ黙って頷いた。
***
外に出た私たちは、振り返ると廃墟が化け物の群れに飲み込まれるのを見届けた。
装置は失われた。
「次はどうするの?」
私はノワールに問いかける。
彼は静かに微笑み、前を指さした。
「新しい手がかりを探すさ。それが何でも屋のやり方だ」
その笑顔に、不思議と希望が芽生えた。
たとえ失敗しても、また立ち上がればいい。
そう思えたのは、彼の言葉と背中のおかげだった。