記録2 謎の少年、登場!!
一年後――
私はいつものように散歩をしていた。
家の中にいても特にやることもないので、最近は毎日のように散歩をしていた。
日差しが柔らかく、風も心地よい午後。歩道に並ぶ樹木がゆらりと揺れ、葉音が静かに響く。街はどこか懐かしく、そして少し寂しさを感じるような雰囲気を漂わせていた。
毎日、同じ景色を見ているが、それはそれで案外楽しいものだった。
街の風景も店も道も殆ど覚えているが、何か違ったものを見つけたとき、その時が何よりも楽しみなのだ。あの時見かけた小さな本屋、今でもその匂いを思い出すと心が温かくなる。知らない店のガラスのディスプレイが、新しい発見のように私の目を引くこともあった。
市松模様の看板、少し古びた公園、年季の入った建物、そんなものを視界に納めながらゆっくりと歩いていく。歩道の端に置かれた花壇には、色とりどりの花が咲き乱れていた。
少し肌寒くなりかけた季節、風に揺れる花々がどこか懐かしいものを思い出させる。
平日だからか、人通りは少なく、閑散としていて心が落ち着いた。
静かな街に足を踏み入れると、何もかもが穏やかで、まるで時が止まったように感じられる。
子供たちの笑い声や、遠くで流れる音楽のメロディーも、どこかで聞こえる程度で、私の歩みに合わせて静かに響いていた。
私は来た道を引き返し、家に戻っていく。
そろそろ夕食の時間が近づいてきた。ここ最近は自炊をしているのだが、どうにも上手くいかない。はっきり言って、不味い。
最初は何でも頑張ってみようと思ったのだが、結局は毎回失敗してしまう。
母が作った料理の味が恋しくなる一方で、なんとか自分でやらなければならないと心の中で繰り返している自分がいた。
「でも、少しは成長しないとね」
父は研究に没頭していて、話にならないし、外食でもいいけど、流石に毎日外食だと飽きてしまう。
今日は、どうしようかと悩みながら、家路を急いで歩いていた。
曲がり角を曲がると、そこには二人の男が立っていた。
一人は大柄で、一人は不気味そうな雰囲気を漂わせていた。
二人とも、どこか得体のしれない空気をまとっていて、通りすがりの人々も気づかないように歩いている。
「よお、お嬢さん」
大柄な男が声を掛けてきたが、私はそれを無視して、そのまま進もうとした。しかし、その大柄な男が腕を掴んできた。
「ちょっと待ちなよ。無視するのは酷くないか?」
私は立ち止まり、少しだけ男を見つめた。
彼の目は挑戦的で、どこか危険を感じさせるような冷たいものがあった。
身の回りには、不安な気配が漂ってきて、私は無意識に息を呑む。
「私は急いでいるので」
私は冷静に言ったが、内心では少し動揺していた。
男の手は冷たく、力強く、そしてその握り方が妙に不安を掻き立てる。
「ちょっとぐらい良いじゃねえか。俺らと少し遊ぼうよ」
大柄な男は不敵に笑いながら言い、私の肩を強く引っ張る。
服の生地が引き伸ばされ、身体が前へと引き寄せられる。
冷たい空気が肌に刺さり、私は思わず足を止める。
「やめてください。本当に急ぎの用事があるので」
必死で言葉を絞り出したが、その声は震えていた。
「はあ? 逆らうのか?」
大柄な男が低い声で問いかけ、少し強く私の腕を掴む。彼の目が鋭く、どこか狂気を帯びているように感じられた。私の心臓が早鐘のように鳴り、冷や汗が背中を流れた。
力強い手が肩を握りしめ、もう逃げられないのだろうかと思ったその瞬間。
その時、突如として声が響いた。
「そこまでだ!!」
建物の屋上に一人の少年が立っていた。
黒を基調とした服装に深い海のような青い瞳をしていた。
その姿はまるで、都市の中に突然現れた奇跡のように鮮やかだった。周囲の空気が一瞬にして張り詰めた。
「お前ら、何をしている!」
少年の声が響き渡り、大柄な男は突然立ち止まり、眉をひそめた。
彼の眼差しは鋭く、まるで全てを見透かすようだった。その一言で、男たちの動きが止まり、周囲が急に静まり返る。
「何だ、ガキか?」
大柄な男が不敵に笑いながら言う。
だが、少年はその言葉をまるで気にしない様子で、静かに屋上から身を翻し、軽やかに飛び降りた。
その動きは驚くほど素早く、まるで空気のように軽やかだ。まるで一瞬で地面に降り立ったかのような錯覚を覚えるほど、少年は見事に着地した。
「お前たち、そんなことをしている暇があれば、少しは他のことに力を使った方がいいんじゃないか?」
少年の目は冷徹であり、かつ、どこか冷ややかな輝きを放っていた。
その瞳の奥には、ただの少年には感じられないような深みと、暗い歴史を感じさせる何かがあった。
大柄な男は一瞬後ずさりしたが、すぐにその態度を改め、険しい表情を浮かべた。その顔には怒りと恐れが混じり、彼の内心が見えたような気がした。
「おい、こいつ、面倒なヤツだぞ!」
もう一人の不気味な雰囲気を持つ男が言った。
その顔には恐怖と疑念の入り混じった表情が浮かんでいる。
「たかがガキ一人だ。ビビる必要もないだろ」
大柄な男は余裕そうな態度をとるが、その手は微かに震えていた。少年の冷徹な目に圧倒され、彼は一歩後退した。
「彼女を離せ!」
少年はその言葉にかぶせるように叫んだ。
言葉に強い決意が込められていた。
私はその言葉に驚き、視線を少年へ向けた。
少年は静かに足元を見つめると、深い呼吸を一つ。
「君たち、こんなことをしていても得られるものは何もないだろう。さっさと行くことをおすすめする。」
その冷徹な一言が、二人の男に強烈なプレッシャーを与えた。
大柄な男は一瞬躊躇し、次第に不安げな顔をして後退した。
「なんだよ、こいつ……」
「もういい、行こうぜ」
彼らは何か言いたげだったが、少年の存在に圧倒されるかのように、足早にその場を離れていった。
私の前には、今も少年が立っていた。
静かで冷静、そして謎めいた存在だ。
彼の背後に広がる空の色は少しずつ暮れゆき、夕方の温かな色合いが街並みを包み込み始めていた。その静けさの中で、彼の姿が一層際立って見える。
「ありがとう…でも、どうして助けてくれたの?」
私は思わず声をかけた。
自分でも不思議なくらい、無意識にその言葉が口をついて出た。何か、彼の存在に引き寄せられてしまうような気がしたからだ。
少年はしばらく黙っていた。
視線は私に向けられず、どこか遠くを見つめているようだった。
彼の目は深い海のようで、ただ無言で見つめているだけで心を打たれるような、そんな不思議な力を持っている。
「君が無事でいられるのなら、それが一番だと思っただけだ」
少年は淡々と答えた。
彼の声には感情があまり込められていないように感じたが、その言葉は不思議と温かく、心に残った。
「でも…どうして私が無事でいられると思ったの?」
私はさらに尋ねた。
少し不安な気持ちが胸に広がった。彼は一体、何を見ていたのだろうか。私に何か知っていることがあったのだろうか。
「それは、君がどうなるかなんて、俺には分からない。ただ、何かが起こりそうだったから、放っておけなかっただけだ」
少年はようやく視線を私に向け、少しだけ微笑んだ。
その笑顔には不思議と安心感を感じるものがあったが、同時にそれが少し怖かった。まるで彼の微笑みには、どこか隠された意味があるような気がした。
「君、名前は?」
私は思わず聞いてしまった。お礼を言いたい、そしてこの不思議な少年を知りたいという気持ちが湧き上がってきた。
少年はしばらく黙っていた後、少しだけ肩をすくめると、無表情のまま答えた。
「名乗る程でもないさ」
その言葉には、どこか冷徹で物静かな印象があった。まるで、誰かに名前を教えることが無意味だと思っているかのように。
「私はアステラだよ。君の名前を教えてほしい」
私はもう一度頼んだ。少し強引にでも、彼の名前を知りたかった。
「アステラか、いい名前だな」
少年はほんの少しだけ頷きながら言ったが、その後は黙っていた。
「だが、俺は名乗りたくない」
「どうして? 君の名前だって、きっと大切なものでしょ?」
私は思わず言った。その言葉がどこか心に引っかかって、少年の無愛想な態度に少し腹が立ったのかもしれない。
少年は静かに振り向き、わずかに視線を私から外すと、もう一度言った。
「俺が名乗る必要はない。お前が名乗っただけで、十分だろう」
その声にはどこか無機質な響きがあった。彼の言葉に、逆に私は言葉を失った。
「そんなこと言わないでよ」
私はつい強く言ってしまったが、少年は無表情で私を見つめていた。
「俺は別にお前の名前なんか聞かなくても良かったんだ。お前が勝手に名乗っただけだろ」
少年は冷静に言った。
やはりその言葉には感情が込められていないようで、どこかひどく遠い存在のように感じた。
「でも…」
私は言葉を続けようとしたが、少年はそれを遮るように静かに歩き出した。
「次に会った時、考えてやるよ」
その言葉を残し、少年は振り返らずに歩き去った。
音もなく、まるで風のようにその場から消えていった。
私はその場に立ち尽くし、しばらく少年の後ろ姿を見つめていた。
あまりにも謎めいた存在だった。
彼の言葉には、どこか隠された真実があるような気がしてならなかった。けれど、その真実を知るためには、私自身がもう少し強くならなければならないのだろうか。
そう思ったとき、心の中に一つの決意が芽生えた。
「次に会ったとき、私も彼に答えを返せるようになっているといいな」
私はそっと呟き、再び家路を急ぐことにした。
その夜、私は眠れぬまま、少年のことを考え続けていた。
彼が本当に何者で、なぜ私を助けてくれたのか、まるで謎が解けたような気がしなかった。
だが、心のどこかで、次に会う日を待ち焦がれている自分がいた。