記録1 とある科学者のお話
カレンナ歴二五〇〇年――
科学技術の発展により世界は平和となっていた。そして、全ての人が不自由なく暮らすことが出来ていた。
これらは多くの科学者によってもたされた恩恵であり、世界の立役者となった科学者を皆――英雄と呼んだ。
そして現代、世界最高峰の科学者であり、私の父であり、英雄候補ともされている者がいる。
その名を――アレクシウス・アーサー。
「お父さん、何やってるの?」
私は父に訊いた。
いつも作業部屋でにやにやとしながら、何かを創っていたからだ。
普段なら真剣に作業をしていたのにも関わらず、ここ最近は少し不気味な笑顔を浮かべている。
「アステラか。父さんは今、新しい研究をしていてね。これが出来たら世界はきっともっと裕福になる物を創っているんだ」
いつもなら詳しく何を創っているのか教えてくれるのに、何故か今回は具体的に何を創っているのかまでは頑なに教えてくれない。
「そうなんだ。お母さんがもうすぐ夕食できるって言ってたけど、どうする?」
「分かった。すぐ行くよ」
私は食卓に向かった。
食卓の上にはカレーライスが並べられていた。私の一番の好物であるカレーライスが。
だけど、そこには母の姿がなかった。
「おかあさん。おかあさん」
何度も呼びかけてみたが、何も起こらなかった。
私は母がどこにいるのかと探し始めた。
すると、食卓の上に一通の手紙が視界に入った。それは白い封筒に少しおしゃれなシールで封されていた。
私はその手紙を開けて、読んだ。
親愛なるアステラへ
突然のお別れとなりますが、私はこの家を出ていくことを決めました。きっと驚かせてしまうと思いますし、辛い思いをさせてしまうかもしれませんが、どうか頑張ってください。あなたならきっと大丈夫です。
今日はあなたの大好物、カレーライスを作りました。冷めないうちに食べてくださいね。少しでもあなたの心が温かくなれば嬉しいです。
これからのことについては、詳しくはお父さんから聞いてください。
それでは、元気でいてください。いつもあなたを思っています。
母より
私は不意に涙を流した。
それは唐突の別れだった。急にいなくなると誰が思うのだろうか?
私は母に対してのお別れも感謝の言葉も言っていない。そんな後悔ばかりの想いが集っていく。
「……なんで、なんで…いなくなるのよ……まだ、一緒に過ごしたいのに……」
私はただただ、ひたすらに泣き続けた。
まだ、親孝行もしていないのに、迷惑ばかりしかかけていないのに……。
感情の波が自分自身を苦しめていく。悲しい、悔しい、そんな感情が自分自身を押しつぶしてくる。
こんな気持ちは初めてだった。
私はこれが本当の悲劇だということを知った。
「大丈夫か?」
父が心配そうな顔をしながら訊いてきた。
「……お母さんが……」
「アステラ、すまない。俺が不甲斐ないせいで母さんを守れなかった。本当にすまない」
父は悔しそうな表情をしていた。
誰がどう見ても申し訳なさそうな表情だ。
だけど、私はそうには思えなかった。その深緑の瞳からは全く反省の色が感じられなかった。
父はそう告げたあと、黙って去っていこうとした。
「……お父さん」
私は立ち去ろうとした父を呼び止めた。
「……本当にそれだけなの?」
父はだんまりとした。
「……ねえ、どうなの?」
だが、父からの返事は返ってこなかった。そして、その場から去っていった。
私はしばらくその場に立ち尽くしていた。涙が止まらなかった。母の手紙の内容を何度も思い返すたびに、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われる。あの笑顔がもう二度と見ることができないなんて、信じたくなかった。
でも、私はひとつだけ確信していた。母が去った理由はただの偶然ではない。
何かが起こったのだ。父が何かを隠している。いや、隠しているのではなく、むしろ私に伝えたくないことがあるのだ。
その夜、食卓には父と私だけが座っていた。母の席は空っぽだ。
お皿に盛られたカレーライスが、いつもよりも味気なく感じられる。
母がいない食事がこんなにも寂しく思えるなんて、私は考えもしなかった。
「お父さん、これ…」
私は小さく声を発し、手紙を差し出した。
父は無言でそれを受け取ると、じっと見つめた後、ゆっくりと手紙を畳んでしまった。
「お母さんは、どこに行ったの?」
その問いに、父は一瞬だけ目を伏せた。
私はその反応を見逃さなかった。何かを隠している、そんな感じがした。
「アステラ…」
父は顔を上げ、私をまっすぐに見つめた。深緑の瞳が静かに揺れている。
「お前にはまだわからない。だが、母さんが行った場所は…お前が想像するような場所じゃない。」
「行った場所?」
私は言葉を詰まらせた。
「お母さん、何かあったの?」
父はしばらく黙っていたが、やがて重い口を開いた。
「お前の母さんは、ある意味で世界を変える力を持っていたんだ。でも、その力が今、制御できなくなってきている。」
父の言葉が次々と私の頭の中で響き、私は混乱した。
「制御できない…ってどういうこと? お母さんが…世界を変える力を持っている?」
「そうだ、アステラ。お前の母さんはただの人間じゃない。」
父は静かに告げた。
「お前も気づいていたはずだ。母さんが時々、あの不思議な光を放っていたことを。」
その言葉に、私はようやく気づくことができた。
母が時折、何もない空間に手をかざすだけで光を放っていたこと。その光は、どこか異次元から来るような不思議な感覚を与えた。
「でも、どうしてそれが…?」
「それが、危険なんだ。母さんは、ある科学的な実験に巻き込まれて、その力を手に入れた。」
父は目を閉じると、続けた。
「その力は無限だ。しかし、同時に抑えられないほどの力でもある。制御しなければ、世界そのものが崩れてしまうかもしれない。」
「それで、母さんは…」
「母さんは、その力を封じ込めるために、ある場所に身を置くことを決めたんだ。」
父は苦しげに言った。
「お前にはまだ理解できないかもしれないが、それが最善の選択だった。」
「でも、どうして私に言わなかったの?」
私は声を震わせた。
「どうして、そんなことを隠していたの?」
「お前を守るためだ。」
父は冷たく言った。
「もし、お前が知ってしまえば、危険に巻き込まれてしまう可能性があった。だから、お前には何も伝えなかった。」
私の心は、父の言葉に打ちのめされていった。
母が去った理由、父が隠していたこと、全てが繋がり始めた。しかし、同時に疑問も湧き上がった。
父が本当に言っていることが真実なのか。それとも、父自身が何かを隠しているのではないか?
「お父さん…」
私の言葉が続かない。
「お前がこのまま何も知らずにいることが一番だ。」
父は立ち上がり、冷たい声で言った。
「だが、もしお前が母さんを取り戻したいのであれば、これからの道はお前自身が選ぶことになる。」
「取り戻す…?」
「その力を持つ者は、簡単に戻ってこない。」
父は、深くため息をついて、私を見つめた。
「だが、もしお前が本当に世界を守りたいと思うのなら、決断はお前の手の中にある。」
その言葉は、私をさらに迷わせるものだった。
母が持つ力、そしてそれを制御できるかどうかという問題が、今、私に突きつけられている。
世界を守るために、私はどんな選択をすべきなのか? そして、父は本当に私を守っているのか?
私はその夜、寝室に閉じ込められるようにして眠れなかった。頭の中で無数の考えが交錯し、私はただ一つの答えを見つけようとしていた。
思えば全てはこの日から始まったのだろう。父が壊れていったのは、おかしくなっていったのはこの日からだった。