練習台
プロローグ
突然だけど、ちょっとだけ考えてくれないかな。
――正義は、自分を救ってくれるものだと思う?
あ、ちょっとだけ付け加えるね。正義って言ってもこれは自分の持っている正義のこと。
例を出すならそうだなあ……犯罪者を悪とみなして皆殺しにする人がいるとするでしょ。まあダークヒーローみたいなものかな。ああいうのって社会的に見たら粛清対象に入るのも珍しくない。でも本人にとってはそれこそが正義だと疑ってないからそういうことをする。それと同じようにあなたにも自分にしかない正義の視点から考えてほしいの。社会とか世界とか、そういう大きな視点じゃなく、ね。
考えた? 答えはイエス? それともノー? 私の答えはノーだよ。
……そう。それがあなたの答えなのね。じゃあその答えになった理由は? なんとなくかな? それとも他に何か複雑なことがあったりする?
ちなみに私の答えは、実体験からだよ。
お出かけ……それは外に出ること。
やることは買い物、食事、運動など様々。1人の時もあれば2人以上の時もある。でも2人以上の場合、誰と行くかという問題が生じてくる。家族、友達、異性、同じ人間でもここに大きな違いがあるものだ。
午前10時少し前の学校の校門前で改めてそんなことを考えてしまう。
つい昨日のこと。夕食の準備中に僕が唯一連絡先を持っている竜胆先輩から連絡があった。
内容はこう。
『カネハロー! 次の土曜日にこの前言った美味しいコーヒーがあるカフェに行かない?』
記憶を辿ってみると、初めて竜胆先輩と会ったあの部活勧誘の時、去り際そんなことを言われた気がする。社交辞令だと思ってただけに驚きだ。1回しか会ったことのない関係でそんなことあるのかな?
それに前と同じような独特の挨拶。初めて会った時はネムハロ―だったし。いつも違うのかな? それにカネハローのカネの部分だけ赤文字なのなんでだろう?
とりあえず同じ挨拶と『行けます』という意思表示をすると集合場所と時間が送られてきた。そして現在に至る。
「スズハロー、青銅君! 待たせちゃったかな?」
約束の時間の10時ちょうどになると竜胆先輩が学校から出てきた。青色の髪のせいか白いコートが空に浮かぶ雲を彷彿とさせる。
学校の敷地内は野外も含めて魔法で温度を一定にしてるから外出目的以外では見ない服装だ。もうすぐ5月になるけど北海道はまだまだ寒い。僕も久しぶりに博士がくれた黒いコートを着てきたし。
「すずはろーです。今来たばかりなので全然待ってませんよ」
「ホントに? 今のセリフ、相手に気を遣う時の定番だよ」
無意識に出てきた言葉だけど、僕が見る映画とかでも似たようなセリフが多い気がする。でも本当に今来たばかりだから他にどう言えばいいのか。
「まあその顔だと、本当のことしか言ってない感じね。良かった」
そう言って綺麗な笑みをこちらに見せる。やっぱりこの人からは『自分は生きてます』という感じが伝わってくるなあ。それにそれを感じると僕の方は安心感が湧いてきてしまう。なんでだろう?
「じゃあバスに遅れると待ち時間が長くなるからもう行っちゃおうか」
田舎だからバスの本数は少ない。それにカフェがあるのは札幌って聞いたから、バスで麻生に着いたあとは地下鉄にも乗らなきゃいけない。移動だけでも結構時間が掛かってしまう。
学校から少し歩いたところにある十字路を渡り、30メートルほど歩いたところにあるバス停。『ショッピングモール前』という名前の通り、道路の向かいにはこの前朱実さん達と行ったショッピングモールがある。
非魔法使いの乗り物だけど、箒や絨毯、魔法での移動が法律で制限されている僕達魔法学校の生徒にとってもバスは貴重な移動手段。だからよく生徒がバス停で待ってることが多いんだけど、今日はいないみたいだ。まだ午前の10時だし、これから増えてくるだろう。
バス停に着いてから1分ほど経ったあとバスが来た。
そういえば、バスに乗るのはこれが初めてだったりする。学校に来る前は博士の車しか乗ったことなかったし、入学したあとも歩いて行ける範囲までしか行かなかったから。
バスの扉が開き、竜胆先輩がスマホを機械に当てながら乗車する。さっきチラッと見た時スマホケースにピンクと白のカードが挟まれてたっけ。バスに使えるカードか……僕も今度からそうしよう。
で、カードを持っていない人は確か切符を取ってあとで料金を払うんだよね。えーっと切符はどこにあるのかな……あ、あった!
慣れないことに戸惑いながらも中に入ると、休日なのかそれなりに人がいる。
竜胆先輩が後ろから2番目の席が2つあるところに座ったので僕はその隣を座る。意外と狭いんだね。肩くっついちゃうし。
「青銅君、もしかしてバス乗るの初めて?」
「はい。よくわかりましたね」
「だって切符取るだけなのに乗る前から緊張が伝わってきたんだもん。横顔見ればすぐにわかっちゃうわよ」
目立たないように表情を隠してたつもりだったんだけど見破られてたらしい。
「でもバスに乗ったことないなんて珍しいね。両親がお金持ちとか?」
「いいえ。単純に僕の人生経験の浅さです。だから竜胆先輩から誘われた時は良いきっかけだと思いました」
あと、なんとなくだけど怖かったんだと思う。学校の廊下を歩いている時にわかったんだけど、人が多い場所では警戒心が強くなってしまう。後ろから触られないか、何か盗まれたりはしないか、僕はどこから見られているのか。そんなことばかり考えてしまうから、怖いんだ。
でも、今みたいに誰かと一緒だとそんなに怖くない。もし僕に友達がいて、廊下で歩く時も隣にその人がいてくれたら、きっととても安心するんだと思う。
そのあとも当たり障りのない会話を続けていると、いつの間にか終点の麻生に着いてしまった。
「料金わかる?」
竜胆先輩から前にある電光掲示板に映されている料金表と、その見方を教えてもらい財布から小銭を出す。運転席のすぐ横の機械に切符と小銭をドバっと入れるおばあさんの真似をして同じようにドバっと入れた。ちゃんと精算されているか心配だったけど、運転手さんが何も言わなかったから問題ないようだ。でもあんなお金の出し方で良いのかな。簡単に騙せそうな気がするんだけど。
3番出口から地下へと続く階段を下る。次は地下鉄の切符を買わないといけない。
バスに乗ったことがないとわかれば地下鉄にも乗ったことがないと簡単に察することができるので、竜胆先輩は何も言わずに券売機の場所と買い方を教えてくれた。高校生相手に嫌な顔一つせずこんなこと教えてくれるなんて優しい人なんだなあ。
「うわ、吸い込まれた切符が前から出てきた!」
改札口を通ってまた階段を下りるとホームがある。そこはバスの時とは違って人がかなり多かった。テレビとかで見るような仰天するほどの多さではない。それでも自分がそこにいるというだけでスケールが同じに見えてしまい、テレビ以上に感じられる驚きがある。
休みなのにスーツを着てスマホを見ている男性、部活なのかジャージを着ている高校生らしき男性集団、大きな声でお喋りする若い女性2人、車いすに座っている老人とその隣にいる駅員さん。あまりにも人が多すぎて全員を把握できない。いるのは地下鉄なのに、町を見ている気がする。
「あ、来た来た」
ホームドアの前で30秒ほど待っていると、見たことのあるあれが大きな音を立てながらやってきた。
空気が抜けるような音とともにドアが開く。
「足もと気を付けて」
地下鉄とホームの間にちょっとだけ隙間ができている。体全部が落ちるほどではないけど、転ぶには十分すぎる広さ。
「ありがとうございます」
なんだかお母さんと子供みたいだ。その優しさが嬉しいけど、ちょっとだけ恥ずかしい。
横を見ると、車いすの老人が乗れるように駅員さんが隙間に板を置いていた。だから駅員さんがいたんだね。ご苦労様です。
席に座りしばらく経つけど一向に発車しない。
「竜胆先輩、この地下鉄全然動きませんね」
「最初の駅だもん。すぐに動いたらお客さんが全然乗れないでしょ」
よく考えてみたらそうかも。じゃあテレビやスマホで見た電車はすぐに動いていたから全部途中の駅だったのか。
しばらく経ったあと、ようやく地下鉄が動き出し好奇心から窓を見る。
ほとんど真っ暗。発車してすぐの時は速度も遅いからレールが薄っすらと見えたけど、今はもう何がなんだかわからない。轟音だけでつまらない、という感想が出てきた。
目的地は札幌駅だから5駅目か。そんなに時間はかからなそうかな?
早く降りたいなという気持ちを抑えること約6分。ようやく4駅目に着いた時だった。
「凄い人の数……」
最初は多少席が空いていたのに、今は人で窮屈。僕の前では黒いコートを着た中年の男性がつり革を持って立っている。知らない人が触れられる距離にずっといるのがこんなに不快だなんて思わなかった。
「青銅君、大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です」
「あと一駅だから頑張って」
竜胆先輩って僕の心を読むのが上手いなあ。顔に出してるつもりはないのに2回も当てられちゃった。
そうしていよいよ目的地である札幌駅に着くと思われた時のこと。
「きゃあーっ‼ 痴漢‼」
女性の叫び声だった。すぐ斜め横。でも人が多くて見えない。
「誰か私のお尻触った‼」
周りの人もざわざわし始めた。みんなが女性の方に顔を向けたおかげで、僕の方からも女性が僅かに見えた。私服だけど若いな。高校生か大学生ぐらいかな?
「誰⁉ 私の後ろにいた人でしょ‼」
女性が睨みつけたのは、すぐうしろに立っていた男性3人だった。
「え、俺⁉」
自分のことかと気づいた男性達は困惑しながらも否定する。でも女性は触ったと怒鳴り結局駅に着くまでに解決することはなかった。
地下鉄から降りたあとも3人は女性から解放されず駅員も間に入って話し合っている。なんだか大事になってきた。
「容疑者が3人になるのって珍しいね。我々は、鋼の第4友情ちかん部隊であります! 的な?」
「それって誰が女性を触るかで喧嘩になるんじゃないですか?」
「あ、確かに」
横で一緒に眺めていた竜胆先輩が変なことを言ってきた。
でも、3人のうち2人は無実な気がする。僕が見てた感じでは、だけど。
「青銅君はあれどう思う?」
女性達を見ながら竜胆先輩が聞いてきた。
「3人のうち、眼鏡をかけている人とスーツのおじさんは違うと思います。2人ともつり革を持ちながらもう片方の手でずっとスマホを操作してましたから。でも、あのサングラスをかけた人だけは僕からはつり革を持っていた右手しか見えませんでした」
「私も同じ。多分見えてた2人は無罪。となるとサングラスの人が女性に触った可能性が高いけど問題は……なんだと思う?」
「冤罪ですね」
「正解」
これが満員電車とかで起こる痴漢で厄介なところだ。潔白を証明するのは中々難しい。
「でも冤罪の場合ちょっと疑問なのは女性が1人に絞らなかったことなのよね。1人を指名しちゃえば簡単に痴漢扱いできるのに」
「僕もそう思います。3人が候補になったせいで話が長引くだけで誰が痴漢かはわからなくなっている。これは憶測ですけど、もし冤罪だった場合女性は――」
「初めて冤罪をかけようとしたから焦って1人に絞ることができなかった、または忘れてた、でしょ」
なんだか物凄く話がスムーズに進む。こんなことは初めてだ。多分だけど僕と竜胆先輩は根本的な考え方が似てるんだと思う。凄く気分が良い。
「このままだと解決しそうにないし、ちょっとカマかけてみよっか」
「え?」
竜胆先輩が女性達に近づいていく。
「あのー、すみません。私痴漢騒ぎの時近くにいたものなんですけど、そこの3人痴漢できる状況じゃなかったですよ。全員つり革持ちながらもう片方の手で別のことしてましたもん」
竜胆先輩の説明に3人が一斉に頷く。スマホとは言わずに別のことをしてたと言えばサングラスの人がスマホを操作していた事実が無くても迷わずこちらの言葉に同意してくれるって寸法か。
「う、嘘よ‼ だって私触られたもん‼ この人たちの誰かが犯人よ‼」
「てめっ! まだ言うか!」
怒ったサングラスの人が女性の胸ぐらを掴みかかろうとするが竜胆先輩が前に出て制止する。
「はいストップ! 焦ってるのはわかるけどここで触ったら例え痴漢じゃなくても服の繊維片が手に付着して物的証拠になっちゃうかもしれませんよ。そんなの嫌でしょお兄さん」
そこまで言われれば男性側も冷静になる。たださっきから冤罪が確定みたいな言い方だけど、もし冤罪じゃなかったら竜胆先輩どうするつもりなんだろう?
「冤罪は虚偽告訴罪で訴えることができますけど、こんなのはどうですか。もし今ここでこの人が正直に話したら許してあげるってことにする。一時の過ちってことで。ね?」
そう言って竜胆先輩は満面の笑みで男性達にウインクをした。
「ま、まあ俺は何もしてないし……」
「私も無実にさえなってくれれば……」
「僕も別に怒ってないし……」
3人とも顔を赤くして竜胆先輩から目を逸らしている。
あの人は自分の長所をよくわかってるなあ……。
「ほら、3人はこう言ってるけど、どうする?」
今度は女性と目を合わせる。しかしさっきのような笑顔ではなく心の中を見通しているような眼差しで。
女性の顔が見る見るうちに青ざめていく。
「……す、すみませんでした! 私、お金が欲しくて、つい魔が差してしまい――」
頭を下げながらの自白。やっぱりお金が目的だったんだ。
「なんだよ、やっぱり冤罪か。見たところ高校生ぐらいだし、人の人生を壊してまでそんなに金が欲しいのかよ。だから――」
「はいそれ以上はダメ―。あなた達は正直に話せば許すって言ったんだからこれ以上何も言わないの」
震える女性の背中をゆっくりとさすり落ち着かせる。
「あなた、歳は?」
「じゅうろく……です」
「そうなんだ。何があったのか知らないけどあなたの人生はこれからなんだから。お金なんかのために犯罪なんかしちゃダメよ」
あとのことは駅員が対処することになり、竜胆先輩がこっちに戻ってきた。
「おまたー」
軽い口調。さっきまで痴漢騒動を落ち着かせていたとは思えないほど明るい雰囲気だ。
「よく自白させましたね」
「相手が若い人なのはわかってたからね。虚偽告訴罪とか難しそうな言葉を言えば勝手に怖がって自白してくれるかなって思ったのよ」
確かに僕も目の前であんなこと言われたら不安になってしまう。
「もし本当に痴漢だった場合はどうするつもりだったんですか?」
「その時はあの子も痴漢されたって訴え続けるでしょ。地下鉄の中で騒げるくらいの度胸はあるんだから」
「でもあなたの圧に押されて諦めたという可能性も」
「その時は最初に出てくる言葉は『もういいです』とか諦めの言葉だよ。あの子が出した言葉は『ごめんなさい』。つまり悪気があったってこと」
なるほど。言われてみればそうかもしれない。
「じゃあなんで罪に問わなかったんですか? あの子はお金のために相手の人生を壊そうとしてたんですよ?」
「正しいけど厳しい意見ね。ま、私もできれば罪を償わせたかったけど。しょうがないのよ。先に許すとか逃げ口を作らないと、ああいうのは中々白状させられないんだから」
「僕なら許すことを反故にして冤罪を作ったと訴えます。やられたらやり返す主義なので」
「うわ、エグいわね。どこかの誰かさんみたい」
誰かさん? 僕と同じようなことをする人を知ってるのかな。
改札口を通ったあと、切符が返ってこない寂しさを感じながらしばらく歩き、駅と直結のタワーの展望室へ行くエレベーターに入る。
中から誰かが出てくることはなく、入るのも僕と竜胆先輩だけ。狭い空間に、昔研究所にいた時に入ってたカプセルを思い出す。あの時はもっと窮屈だったけど。
最上階である38階のボタンを押すと思ったら、竜胆先輩はポケットから出した魔法学校の学生証を機械にかざした。
すると、ボタンを押してもいないのにエレベーターが動き出す。どんどんと上へ昇り、止まったのは38階ではなく、38.5という中途半端な数字。
「ここは魔法使いしか来れない階なの。しかも本来なら行くだけでもお金がかかるのに学生証を見せればタダ。良いわよねえ、子供って」
倹約家のおばさんみたいなことを笑いながら言ってきた。でもタダなのは良いことだし、子供の今だけしか使えないならそれを利用しない手はないよね。
エレベーターから降りてすぐ見えたのは、札幌の街並みを映す大きな窓が並ぶ廊下。そして少し歩くと、クラシックな雰囲気のカフェがポツン。
店名は『天の目』。
誰かの話し声や足音がない静寂な店だ。店員も見えるのに人の存在が感じられない。
「いらっしゃいませ。2名様ですね。こちらへどうぞ」
足音のない痩せた男の店員さんに声を掛けられた。肌の感じから50歳ぐらい。ニコニコしてて大人を相手にしている時の圧迫感が全然ない。
「お客様は、こちらのお部屋ですね」
案内されたのは、小さな四角テーブルがある個室だった。2人で入っても問題ないぐらいの広さ。そしてここでも窓から札幌の街並みが一望できる。
「ご注文がお決まり次第、すぐにお持ち致しますので」
どこか欠けた言葉を言ったあと、一礼をしてまた足音なく個室を出て行く店員さん。
「これこれ、青銅君に飲んでほしいコーヒー」
椅子に座った途端メニューを取った竜胆先輩が見せてきたのは、『あなたのコーヒー』という名前の、どこからどう見ても普通のコーヒーだった。もし、おかしなところがあるとすれば、メニューにはそれ以外のコーヒーが無いということ。
「あとはなに食べようか?」
別のページにはさっきとは違ってパンケーキやアイスなどのカフェの定番が書かれている。コーヒーだけ1つしかないということは、よほど自信があるということなのかな。
「私パンケーキにしよっと。青銅君は?」
「じゃあ、フルーツサンドで」
食べたことないものばかりだったから、一番最初に目に入ったものにしてみた。でも、きっと見た目通り美味しいと思う。
「オッケー」
そう言って竜胆先輩はメニューを元の場所に戻した。じゃああとは店員さんを呼ぶだけか。
「……」
「……」
「……」
「……あの、店員さん呼ばなくていいんですか?」
探しても呼び出しのボタンらしきものは見当たらなかった。ここ個室だから近くにいる店員さんに声をかけることもできないし、どうやって呼び出すんだろう。
「大丈夫大丈夫。もう注文されてるから」
「え?」
「魔法使いだもん。いちいちお客さんのところに行って注文を聞くなんてことしなくても、あっちはわかってるのよ」
だからさっきの店員さんも欠けた言葉を言ってたのか。魔法使いが経営しているお店を訪れるのは初めてだけど、こっちの世界ではこういうのが当たり前なのかな。非魔法使いの先を行ってるのではなく、魔法使いらしいやり方をしている。
「あ、見てみて。あいうえおABC教室だって。子供の塾かな」
窓の外を見てみると、そんな名前の看板が見えた。
「そうみたいですね」
可愛い動物の絵も描かれていて、塾特有の堅い雰囲気が感じられない。小さい子供を相手にするんだから当然と言えば当然かもしれないけど。
「なんで日本語って『あいうえお』って並びなんだろうね。『えいうあお』とかでも良いと思うんだけどなあ……」
遠い目をしながら竜胆先輩はそんな疑問を呟いた。
「何故でしょうね。最初にそれを考えた人にしか、わからないかもしれません」
そこで少しだけ会話が無くなった。
顔は窓に向けたまま、目線だけが僕に向いている。
「お待たせいたしました」
ちょうど話が切れたタイミングで店員さんがコーヒーとフルーツサンドを持って来た。早い……。
カップに半分程度入っているコーヒーとその横にミルク、真ん中にはフルーツサンドとパンケーキという形でテーブルに置かれる。
「こちらのミルクを『ある記憶』を籠めるように全て入れてから混ぜてください。それではごゆっくりどうぞ」
店員さんが個室から出て行く。
ある記憶って?
「初めてだから困惑しちゃうでしょ。簡単に説明するとね。なんでもいいから昔の記憶を思い出しながらこのミルクを入れると、コーヒーがその記憶に合わせて味を変えてくれるの。例えば、恋人との記憶なら甘くなる、とか」
「だから『あなたのコーヒー』なんですね。人によって味が変化するなんて、とてもメルヘンで素敵なコーヒーです」
早速ミルクを入れてみることにする。
記憶は、ウンディーネ君と初めて会った時のことにしよう。
「あ、やっぱりほろ苦い」
フルーツサンドと合わせるなら苦い方が良いと思って決めた記憶だけど、予想は当たったみたい。
美味しい……。
「フフ」
頬杖をつきながら竜胆先輩が笑みを浮かべた。
「どうしました?」
「ん? 青銅君が美味しそうにしてるなあって思って」
「それで笑顔になるんですか?」
「まあね」
特に悪意とかは感じないのでフルーツサンドの方に手を伸ばすことにする。
パンに挟まれてるのはクリームに包まれたイチゴだ。イチゴは酸味が強いフルーツだったはず。それにクリームを合わせることでパンにも合うようにしてるのかな?
「……あ、これも美味しい」
イチゴの甘みとクリームの甘みそれぞれを感じつつ、パンが甘すぎない程度に抑えてくれてるおかげで食べやすい。
「なんだか初めて食べた子供みたいなリアクションでこっちまで癒されちゃうわね」
そのあとも欲しいままに食べ進め、フルーツサンドはあっという間に皿の上から消えてしまった。
「はあー、お腹が膨れてとても満足です」
食事にここまでの充実感があるのは久しぶりな気がする。この前のカレーもそうだったけど、最近は味の分析よりも好みを見つけるようになってきてる。多種多様な味の知識を蓄積したことで、食べるという行為がもう一段階上になったってことだね。
「喜んでくれて良かった」
まるで自分のことのように喜ぶ竜胆先輩。
「あの、竜胆先輩、どうして僕を誘ってくれたんですか?」
なんだか僕を見る竜胆先輩に違和感を覚えたので、思い切って今日2番目に気になっていることを聞いてみた。
「そうねえ……青銅君が面白い人だと思ったからかな。当たり前のことに疑問を持ったりするところとか」
「それは面白いのでしょうか?」
自分の中では普通だと思ってることゆえに面白いとは感じない。僕からすれば、なんでみんな周りのことに疑問を持たないのか、と気持ち悪いものを見る目になってしまう。
「面白いよ。少なくとも私にとってはね。青銅君は、多分世間の常識に触れたことがあまりないんじゃないかな? バスや地下鉄の時もそうだったし。でも博識で疑問を持つものをある程度冷静に選択できる。そういう人ってとても貴重なのよ。部活勧誘の時あなたが言ったこと、憶えてる? 私、制服のスカートが寒いと思ったことはあるけど、なんで女子生徒の制服はスカートなのかなんて、そこまで深く考えたことなかったもん」
竜胆先輩と初めて会った時僕は、なんで女子生徒は制服はスカートなのか、という疑問を投げかけたことがある。今でもあの疑問は晴れていない。人の作る伝統というものは年代を重ねるにつれ消えていくので貴重なものだ。残せるのなら残したい気持ちに理解はできる。でも、それは誰にも害が無い場合だ。実際、女子生徒はスカートという理由で寒い思いをしていることも少なくない。いつまでも伝統伝統と言い続けるのは、ある意味社会というものの成長を停滞、いや阻害を意味しているのかもしれない。更新し続けてこそ、人はここまで発展できたのだから。何故自分達が不利益を被ってまで残したいと思うのか、僕にはわからない。
「ホント、あなたは面白いよ」
もう空っぽのカップの中を、何か強い気持ちを込めた目で見つめている。
「あの、もう1つ聞いてもいいですか?」
なんだか、話すべきことなんじゃないか。そんな思いに駆られ今日1番気になったことを聞いてみることにした。
「竜胆先輩、何か悩んでいませんか? それも、法に触れることで」
「……どうしてそう思うの?」
カップを置いた瞬間、竜胆先輩の目が変わった。こっちを試すような、助けを懇願するような、とにかく複雑すぎる。
「凄く無理矢理な推理なんですけど、今日のあなたの発言で2つほど気になることがあったんです。1つは痴漢騒動の時の『鋼の第4友情ちかん部隊』、もう1つはさっき塾の時に質問してきた『えいうあお』の順番です。本当に無理矢理なんですけど、ちかんという言葉を犯罪の痴漢ではなく、置き換えるという意味の置換にしたとします。でもこれだけだと何に置き換えるかわかりません。それで、さっきのあいうえおABC教室に注目して、日本語を英語に置き換えてみました。鋼を英語に置き換えるとSTEEL。読み方はスティールです。それと『えいうあお』も同様に置き換えるとEIUAO。僕はどうして『あ』と『え』だけを入れ替えているのか疑問だったのですが、置き換えることでAとEを入れ替えれてほしいという意図に繋がると考えてみました。でもSTEELに当てはめてもSTAALで特に意味があるようには思えません。だから、第4友情痴漢部隊の4に注目し、STEELの4番目だけをEからAに変えます。するとSTEALという単語になり、意味は『窃盗』です。なので、最初はあなたが窃盗をしていて僕に伝えようとしているのかと思ったのですが、ならわざわざ友情という言葉を入れる必要はない。とすると、友達の誰かが窃盗をしていて、あなたはそれに悩んでいるのではないか、という結論に至ったからです」
話してみると本当に無理矢理な推理だ。千切れかけたロープぐらい繋がりが弱い、まさにこじつけ。この答えを導き出すのにかなり時間が掛かってしまった。でも、当たっていると思うと放置できない怖さがある。
聞かなきゃ、竜胆先輩に何か悪い影響を与え別人になってしまうかもしれないという恐怖。
「……本当はね、地下鉄に乗るまでこんなことするつもりなかったんだ。私1人で答えを出そうって思ってた。でも青銅君、見れば見るほど死んだパパにそっくりでさ。頭が勝手に動いて助けを求めてた。咄嗟に考えたこじつけなのにわかるなんて凄いよ。そういうところもパパにそっくり」
涙目。父親のことを思い出してるのかな。
「少しだけ、私の話を聞いてくれる?」
間を置かずに頷く。否定する理由なんてない。
「もう2カ月くらい前になるのかな。友達の千得がクラスメイトの部屋から物を盗んでることがわかったんだよね。青銅君も一度会ってるよ。ほら、部活勧誘の場であなたといた時に話しかけてきたテニス部の女の子」
思い出してみるとそんな先輩がいたような気がする。確か竜胆先輩にお昼を奢る代わりに部活勧誘の手伝いをする約束をしていた。
「千得とは小学校からの付き合いでね。意見が合うことも多いし、同じ夢を持ってたからすぐに仲良くなった。夢を叶えるために助け合おうって約束もした。だから、日増しにクラスメイトの私物が増える千得の部屋を見て失望しちゃった」
友達がそんなことしてるんだ、無理のないことだね。
「竜胆先輩達の夢というのは?」
そう言った瞬間、竜胆先輩は儚い笑みを浮かべた。
「私ね、昔から探偵のパパに憧れてたんだ。困ってる人を助け、誰かを苦しめる人は赦さないっていう典型的なヒーロー。でも1年前に自主的に横領疑惑のある政治家を追ってたら通り魔に刺されてそのまま死んじゃった。そのあといろいろ調べたら、通り魔はその政治家に雇われてたらしくてね。ホント、千得もそうだけど人間って汚い生き物だよ」
「……その政治家を恨んではいないんですか?」
僕だったら赦さない。多分、殺しに行ってると思う。
「恨むに決まってるよ。でもパパは私が復讐して牢屋に入ることを望まない。だから、ちゃんとその罪を償わせる資格を持ってから復讐するつもり。私の夢は刑事だから」
刑事が夢、か。
素晴らしい夢だと思うけど、牢屋に入れることが復讐と呼べるのだろうか。
刑期が終われば釈放されてしまうし、仮に死刑になっても執行されるまでの間は僕達の税金で生きる。
僕はこれを復讐とはとても思えないけど、竜胆先輩はそうだと思ってるらしい。
「でもパパの意思を継ごうとしてるわけじゃないよ。私はね、自分のために正義を掲げて刑事になりたいの。犯罪者を捕まえて自分が理不尽な死に出会わないようにするために。どんな相手だろうと容赦しない。捕まえて、少しでも長く生き残る。それが私の正義」
死への恐れ。それはあらゆる生き物が持つもの。
竜胆先輩もその例には漏れない。いや、こういう自分の人生を限りなく謳歌してそうな人ほどその気持ちは強いのかな。
僕だって、できるなら人の寿命で死にたい。
「汚い世の中、人の汚さに嫌気が差すことなんて何百回もあったし、生まれなきゃよかったって嫌というほど考えさせられた。それでもパパのように自分の持つ正義を信じて前に突き進む。そうすることで私が少しでも救われるなら、それでいいと思ってた。でも……千得が犯罪に手を染めてるとわかった瞬間、もう私の正義は自分を救ってくれるものじゃなくなってた。法で裁いてもらおうとしても体が動いてくれなかったの。きっと罪悪感で辛くなるからだと思う。なのに見て見ぬふりをしてる今も胸が苦しくてしょうがない。そこで気づかされたんだ。正義を信じて生きることは、私が求めてた生き方とは程遠いものなんだって」
上を向く竜胆先輩。
「青銅君、私どうすればいいのかな……」
涙……。
この人は心の中で今日までずっと悩んでいたのか。
友情を壊すことで刑事の夢を持つ者として相応しい道を歩むか、夢を裏切り友達を守るか。
今までの話から察するに、きっと竜胆先輩なら友達を選べば刑事になろうとは思わなくなるだろう。つまり夢を捨てなければならない。
「残酷な選択肢ですね」
人は時にそれを強いられることがある。客観的に見れば逃げられるのに主観的に見ると逃げられない選択。そしてその選択をすることで人は大きく変化する。
「竜胆先輩、あなたは慣れたいですか?」
「え……」
これは大きな分岐点だ。僕が何を言うかで竜胆先輩の今後に大きな変化を及ぼしてしまう。
慎重に、かつその中にある1つにヒビを入れるように。
「竜胆先輩が刑事になったら、多分犯罪者を追う日常になると思います。その日々の中でいろいろな人と出会うことになる。時には同じ人間とは思えない吐き気を催すような人とも。そんな人達を相手にする生活は、はっきり言って苦痛です。でも刑事を長く続けてる人は、今もそれを苦痛と感じているのでしょうか。本人は感じていると回答するかもしれませんが、無意識に慣れているんじゃないかと僕は勝手に思っています。なぜなら、そういう日々を送ることでメンタルが鍛えられたから。さっきの慣れたいとは、竜胆先輩はそういう刑事になりたいのか、という意味です。もし慣れたいのであれば、今回の相手はあなたにとって最適と言えます。つまり、練習台です」
竜胆先輩に足りないのは割り切りだ。誰でも容赦しないという冷酷な正義を持っているけど中途半端な心のせいでそれを実行できていない。痴漢騒動の時もそうだった。
今なんとかしないと今後も同じように迷って自滅してしまうことになるだろう。
それは僕の望むことじゃない。
「僕のような考え方をする人を世の中では鬼や鬼畜と呼ぶと思います。でも、僕みたいな人がいるからこそ今の社会が成り立っていることも事実です。刑事ともなれば、この考え方は絶対条件ともいえるんじゃないでしょうか?」
「……そうかも、しれないわね」
親しい人が逮捕されてほしくないと思うのは当たり前のこと。僕だって博士に手錠がかけられる瞬間を考えると胸が痛くなる。
「私が隣にいたのが悪かったのかな。千得はよく周りから私と比較されてたし。気にしたことなかったけど、あの子にとってはそれが苦痛だったのかもね」
「良い友情ですね。自分が追い込まれても友達の隣にいようとするなんて。簡単にできることじゃありません。1回だけしか千得先輩を見てませんけど、あなたを見ている目からわかります。千得先輩はとても楽しそうでした。あなたがいなければよかったなんて、これっぽっちも思っていないと思いますよ」
「……ありがとう、青銅君」
靄が晴れたような表情。きっと選択を終えたんだ。
どちらを選んでも辛い未来が来ることは変わらないけど、支えがないわけじゃない。家族、クラスメイト、先生。必要なら僕だって小枝ぐらいの支えになることができるかもしれない。
この世は孤独なようで、意外と頼れるものが多い。結局、どれだけそれを見つける視野を持てるかが重要なのだ。
「失礼します。お帰りの前にもう一杯いかがですか? お代はいりませんので」
突然個室に入ってきた店員さん。その手に持つトレーには、頼んでもいないコーヒーが2つ。
本当に全部お見通しなんだね。
「ごゆっくり、その味を理解してください」
店員さんが出て行ったあと、またさっきと同じようにミルクをコーヒーカップに入れる。
興味本位だけど、今度は竜胆先輩のことを考えてみた。
僕を頼ろうとしたその選択が最善だったと思えるような未来が来てくれることを信じて。
「ほろ苦い……。さっきはよくわからない味だったのに」
先に口に入れた竜胆先輩から出た言葉。誰のことを考えていたのか、想像するのは難しくない。
「そうですか。それは良かったです」
「えへへ」
涙を拭きとりもう一杯。美味しそうに飲んでいる。
「ねえ、もしかして。私の悩んでることに気づけた理由ってもう1つあったりする?」
「どうしてそんなこと聞くんですか?」
「だってあれ痴漢騒動を見て偶然閃いたものだもん。滅茶苦茶すぎて私に悩みがある噂とか耳に入らないと、推理なんて絶対にしないでしょ」
それは違います。あなたは自分を隠してるようですけど、無意識に助けを求めている。
僕はあなたと初めて会った時から、あなたは何か悩んでいるとわかっていました。
「そうでもありません。これが意外と気づけるものなんですよ」
でもここでは言いません。言ったらあなたは次からは出さないようにして、僕でも気づくことができなくなるから。
竜胆先輩と初めて出会ったあの部活勧誘の時。あなたは自分の時間を有効に使えてるか、はっきりイエスとは答えられないと言った。あれだけ胸を張り自信に満ち溢れた人物が、なぜ、そこだけはっきりしない言い方をしたのか。おそらく千得先輩のことを考えすぎて充実した時間を過ごせてなかったからでしょう。どんなに楽しいことをしてても、フラッシュバックを起こせば楽しい心なんてすぐに壊されてしまいますから。
普段の態度が良すぎるあまりにちょっとした違和感があると気づきやすい綻び。
かっこ悪いと思われるかもしれませんが、隠す必要なんて本当はないんです。
なので、あなたはこれからもそうやってSOSを出し続けてください。そのたびに支えを作るつもりですから。
「……」
なんだか僕らしくない気持ちに困惑する。
家族でもないのに、なんで助けたい気持ちと成長させたい気持ちが混在してるんだろう。
わからない。それに客観的に見て気持ち悪いよ、こんなの。
気を紛らわすために僕もコーヒーを口に入れる。
なんだか甘酸っぱくて感想に困る味だった。
日が落ちかけたぐらいの時間に学生寮に戻った。
竜胆先輩からは、「また今度遊びに行きましょう」って手を振られながら言われて嬉しかったけど、確認しなきゃいけないことがある。
「図書室の本を借りるのはこれが初めてかな」
竜胆先輩と別れてからすぐに図書室で借りてきた花について書かれた本。博士の家ではよく読んでたけど、ここに来てからほとんど読んでなかったから知識が間違っている可能性があるもんね。
あてはまると思われる花のページを読んでいく。
「……」
赤いカーネーションが書かれたページをそっと閉じる。
「……僕も相談しようかな」
スマホを取り出して登録した連絡先にビデオ通話で繋ぐ。出るかな。
『あれ、錬磨? 今日はやけに早い連絡だね。何かあったのかい?』
画面に博士が移される。
験実優博士。験実楽先生のお兄さんで、僕を助けてくれた恩人。
相変わらず室内なのに分厚いコートを着て首にはマフラー、頭にはニット帽を被っている。さらにその上に白衣。寒がりかと思えばそうではなく、おそらくいつものようにコートの中には何も着ていない。
験実先生といい、この兄弟は露出狂か何かなのかな。個を優先する魔法世界じゃないと即逮捕だよ。
「いえ、少し博士に聞きたいことがあるんです。実は今日ある女性の先輩とカフェに行ったんです」
「え――――ご、ゴホン! ほう、そうか。それは人間関係を構築する上でとても良い進展だね。その女性の名前は? その人は優しいかい? あと周りにはヤンキーみたいな人がいたりするのかな?」
博士らしくない質問攻めだ。目も怖いし何を気にしてるんだろう。
「名前は竜胆咲生先輩です。優しいし、多分ヤンキーとは仲良くしてはいないと思います」
「りんどう…………」
「先生?」
今度は急に考え込んでしまった。
なんだか今日の博士は反応がいろいろだ。
「すまない。竜胆だね。魔法使いだと数人有名な魔法使いがいるからすぐにわかったよ。で、その竜胆さんとカフェに行ってどうしたのかな?」
「その、僕は生まれてから様々な人の感情に触れ合い、時には僕自身にそれが備わっていくこともありました。毎日が新しいものに溢れていて、楽しいことばかりじゃないけど生きていられるのが嬉しく感じます。はっきり言って、今の学校生活は面白いです」
一度呼吸を置いて覚悟を決める。
「博士、この感情は好きというものなのでしょうか。竜胆先輩の近くにいると心が落ち着くんです。それだけじゃなく、安心させてあげたい、傍にいたい、見守りたいという気持ちが止まりません。もっと具体的に言うなら……博士の家で子供が初めておつかいに行く映像を見た時と似てる。いや、それよりももっと強い気持ちです。でも、何故か鼓動は全く動きが変わらないんです。好きな人といる時は胸がバクバクすると聞いたのに」
多分、僕は竜胆先輩を他とは違う特別な目で見てる。でもそれがよくわからない。好き、とは違うし、かと言って他に言い表せそうな言葉が浮かんでこない。
「……人の感情は、言葉で表すことができないほど複雑で形のないものだ。君のその感情を言葉で言い表すのは難しい。ただ、類似点があるものをあげるなら、母性、または父性だ。母性は受け入れること。父性は逆に少し離れたところから見守ることを言う」
「でも、僕は竜胆先輩より年下です」
母性や父性は小さい子供に対しての感情だ。竜胆先輩は僕より年上。逆ならまだしも僕が持つのはおかしい。
「そうだね。なんで君がそんな感情を先輩に持つのか。好意から来るものか、はたまた成長によるものなのか。わからないけど、拒まず大切にしてあげなさい。その感情がある小さなきっかけで本当に好意に変わったり、反転して嫌悪になったりするかもしれない。軽い気持ちで向き合おうとすると、後悔することになるよ」
好きになるか、嫌いになるか、か。
「わかりました」
僕の答えを聞いたあと、博士はニコッと笑った。
「それにしても君も少しずつ変わっていってるね。弟のことを海パン白衣先生からちゃんと験実先生って言ってたし」
「最初は見た目からそう呼んでましたけど、話してみるとちゃんと自分の甘さを自覚しながらも生徒のことを考えてる先生だということがわかりましたから」
全てを尊敬しているわけじゃないけど、お手本にすべき部分が多い人だった。
「あんな格好からは想像できないぐらい子供好きだからね。そういえば楽からも君の話をよく聞くけど、もうすでに何回かアクシデントに巻き込まれてるらしいね。イヤなこととかないかい?」
「大丈夫です。そのたびに自分の中にある本性が理解していってますから。むしろ歓迎したいぐらいです」
「強いね。君が高校に行きたいと言った時は心配でしょうがなかったし今もそうだけど、少し過剰だったようだ。高校生活3年間。悔いのないように生きなさい」
「はい」
そのあとはいつも通りバイタルチェックの結果を送って長い1日が終わった。
次の日の放課後。
ほとんどの生徒は部活か帰宅している時間。
誰もいない、夕日に照らされた校門前に竜胆先輩は立っていた。
「見送りできましたか?」
さっき、誰かの話し声が聞こえた。
3年の先輩が窃盗をして退学処分を受けたらしい。
「うん」
こちらを振り返ることもなく、ただ、そう答えた。
「あの子、誰が告げ口したかわかってたと思う。それなのにここを出るまでずっと笑顔だった。恨みなんて、全く感じられなかった」
「それはきっと、竜胆先輩が終わらせてくれたからですよ」
千得という元先輩は、竜胆先輩なら自分の悪事を止めてくれると信じてた。そうじゃなきゃ、わざわざ部屋に盗品を飾る必要はない。
僕にも、そんな友人が欲しいな。
「……」
静かに竜胆先輩の隣に立つ。
身長も歳も僕の方が全然下。どうしてこの人に僕は親みたいな感情を持っているんだろう。
「青銅君、繋いで」
繋ぐ?
「ここ」
「でも――」
「お願い……」
躊躇いながらもゆっくりと手を近づける。指と指が当たる直前、先輩の方から繋いできた。
「……あ、の……」
出ようとした言葉を急いで引っ込める。
初めて見る、子供の泣き顔。
初めて聞く、子供の泣き声。
高校生の泣き方ではない。小さな、小さな子供が口を開いて大きな声で泣く姿にそっくりだ。
まだカプセルで育成されていた時ですら聞けなかった、本来そこにあるはずのもの。死に様ですら僕の同類達は一言も発さなかった。
僕だけだった、カプセルから出たいと思ったのは。外の世界を見たがったのは。
本当に僕だけだった。死を忌避、恐怖したのは。
泣きじゃくる彼女に僕は何も言えなかった。それなのに手を離そうとはしていない。
居心地の悪さに息が詰まりそうなのに離れたいとは思えなかった。
ただ安心させたい。いくらでも泣いていい。そんな親みたいな衝動に駆られている。
僕には慰める方法なんてわからない。経験したことがないから。泣くよりも先に逃げることで生き残った存在だから。泣いたって何も解決しないってあの研究所で嫌というほど学んだから。
でも、今この手を離すことだけは、絶対にしちゃいけない。
それだけは、わかっていた。