マジックよりマジック
マジックよりマジック
会田さんとのいざこざが終わり持って来た段ボール箱を教壇の横に置くと授業開始のチャイムが鳴った。
チャイムが鳴り止むと同時に海パン白衣先生と会田さんが入室。こちらと目が合うと会田さんは申し訳なさそうに笑い自分の席へ戻っていった。
そのあと何事もなく授業は始まり50分後、終わりのチャイムが鳴ると海パン白衣先生の退室と同時に会田さんが近づいて来る。
「青銅君、私先生に正直に話したよ」
「どうでしたか?」
「あの壺、蟲毒を再現するためのものだったんだけど先生たちも忘れてたくらい今は使ってないんだって。だから壊しても問題なかったよ。それどころか怪我してないか心配されちゃった」
「そっか。僕のことは話したの?」
僕としては話してくれない方がいいんだけど。
「話したよ。ちゃんと謝るよう怒られた。本当にごめんね」
やっぱり……。
深々と頭を下げるのはいいんだけどみんながいる教室ではやめてほしいなあ。目立つから。
「気にしてないから大丈夫だよ。ほら、みんな見てるし、ね」
注目されるのは時に居心地を悪くする。これじゃあ僕が悪者みたいだ。
会田さんも僕が困っているのを察し急いで頭を上げた。顔が真っ赤だ。
「お詫びになるかはわからないけど困ったことがあったら何でも私に言って。全力でサポートするから」
「うん、ありがとう。頼らせてもらうよ」
そう言って視線に耐えきれなくなった会田さんは教室を出て行った。
真面目なだけに無駄なストレスをため込みやすいだろうなあ。嫌われないために行動するのもかなりストレスになるだろうし。
「お前会田と何かあったのか? アイツが頭下げてるの初めて見たぞ」
そんなことを考えていると入学式翌日に黒板消しを僕の頭に落とした仕掛け人、いや違った、空回驚助君が話しかけてきた。
「何もないよ。それよりも驚助君が僕に話しかけるなんて初めてだね。何か用?」
黒板消しのいたずらの時も僕より僕を見ているみんなに視線を向けていたから仲良くする気がないのかと思っていただけにちょっと意外だ。
「ああ。ちょっと聞きたいことがあってよ」
隣の席の背もたれに肘を乗せる形で座った驚助君は僕の顔を見てきた。
「お前、俺が黒板消しを落とした時どう思った?」
「え? それはまた今さらな質問だね」
とても一週間後に聞くようなことじゃない。
「引っ掛かった奴に一人一人感想を聞いて回ってるんだ。だけどいたずらした次の日から俺風邪ひいちまっただろ。だからすぐに聞けなかったんだよ。それにお前は最後にしようって決めてたから余計に時間が掛かった」
「どうして僕が最後なの?」
「お前がその中で断トツでノーリアクションだったからだ。その理由が聞きたいんだよ。なんでノーリアクションなんだ?」
そんなこと言われても……黒板消しが落とされるのは予想の範疇だったからなあ。
入学する前に学校についての予習はあらかじめしておいた。学校が配布するパンフレットだけでなく各部屋の名前や役割、イベント。それだけではなく子供を知るために学園を舞台とした映画まで。そうやって学習していると黒板消しを落とすいたずらがあることを知った。だから僕は浅知恵の中から起こりえる状況を予測し実際に体験しただけにすぎないと思っていたんだけど……
「なあ、なんでだ?」
どうやらこれも珍しいことらしい。考えてみれば生徒みんなが黒板消しを落とされることを予測してたら誰もいたずらに引っ掛かってないよね。
「そうだね…………面白くないから、かな」
あくまであの時驚助君を睨んでいた生徒の立場から見ての言葉だけど多分正しいと思う。ほとんどの生徒は学校に来る前に一度制服を試着してそれを家族に見せていたことだろう。そうして期待を寄せながら始まる高校生活の第一歩。それがチョークの粉で汚されたのだ。軽いいたずらだったとしても不快な気持ちになるのは仕方のないこと。そういう観点から見れば会田さんの心のない気遣いはその最悪のスタートダッシュを良い意味で変えてくれていたのかもしれない。
「マジかぁ……やっぱり面白くないのか。みんなも同じこと言うんだよなあ」
うん、やっぱり正しかった。なら僕はどうだろう。黒板消しを落とされたことに怒っているのかな。
「なあ、ちょっと放課後俺と一緒に図書室に来てくれよ。相談したいことがあるんだ」
「え」
シンプルに嫌だと思った。でもいつものように口に出せなかったのは図書室に行きたいという気持ちもあったからだ。時間は無駄にしたくない。できれば今日行きたい。でも、驚助君と一緒だと思うと足が重くなった。初めての気持ちだ。
「なあいいだろ?」
これが人を嫌いになるということだろうか。だとしたらここは断るのが定石。
「わかった。放課後一緒に行こう」
「おお、じゃあ放課後待ってるからな!」
僕の背中を叩いたあと驚助君は自分の席へと戻って行った。痛い……。
放課後。廊下で立っていると驚助君が教室から出てきた。
「お、いたいた。なんで先に行っちまうんだよ」
「行ってないよ。君が友達と楽しそうに話してたから先に廊下に出てただけ」
ムキになった反論で返す。無意識に口から出てきてしまった。なんだか僕じゃないみたい。
幸い口論になることはなく驚助君が「なんだそういうことか」の一言で済ませてくれた。
会話もなく廊下を歩き念願の図書室に入る。
中は体育館以上の広さでコンサートホ―ルのように入り口が最も高く中心に行くにつれて低くなる扇形の形をしている。中心の一番低い場所は読書兼自習スペースの机が並べられていてそれ以外は全て本の入った棚。世界の蔵書を全てここに集めたと言っても過言ではないほどの図書館だ。
「こっちだ。バレないように棚に隠れながら移動するぞ」
バレる? 目的は人だったんだ。
驚助君はゆっくりと遠回りしながら中心へ歩いていく。僕もついて行くが何故そこまでコソコソとするのだろうか。見られたらまずい人がいる? でも入口から見た時はそんな危険人物のような人はいなかったような。
「よし、ここなら大丈夫だ。青銅も見てくれ。ただしあんまり顔を出すなよ。バレたら終わりだからな」
驚助君に手招きされゆっくりと棚の陰から顔を出すとそこには椅子に座って本を読んでいる一人の女子生徒がいた。ショートの銀髪に眼鏡、それだけならそこまで変わったところのない人なんだけど、目が死んだ魚のように光がない。なんだか生きた人を見ている気がしない。読んでいる本は『魔法道具について』というタイトルだった。
「アイツの名前は魔冒詩織。俺達と同じ1年だ。お前あの顔を見てどう思う?」
耳元で僕にしか届かない声量で聞かれた。
「うーん、怖い、かな」
「だろ。だがその反面驚くと目がパアッと開いてかわいらしい面になる」
「え、そうなの」
失礼だけどあの人が驚く姿は想像ができない。たとえ幽霊が目の前に現れようとすまし顔で素通りしてそうだ。
「信じられないだろ。だが本当だ。ここで見てろ」
そう言って驚助君は詩織さんの後ろからゆっくりと近づく。驚かせるつもりなのかな。だとしたらここは図書室だし止めたほうがいいと思うんだけど。
驚助君と詩織さんの距離がみるみるうちに狭まり、手を伸ばせば届く距離まで来た時だった。
「どうしたの空回君」
「うおビックリした!」
詩織さんがいきなり振り返ったことで驚助君の方が驚かされてしまった。でも尻餅着くことはなくない?
「クッ……イッツショータイム!」
立ち上がりいきなりそんな言葉を驚助君は放った。そして制服のポケットから小さな正方形の箱を取り出す。
「なんの変哲もないただの箱。しかしこれに火をつけるとぉ……」
そう言って魔法を使い人差し指の先からマッチぐらいの大きさの火を出し箱に近づけた。あれってどんなに大きなものでも入れられる魔法の箱だよね? 日本ではプチボックスという名前で旅行とかに使われる便利グッズの1つだったはず。全然変哲じゃないしなんでそんなものに火を……。
プチボックスに火がついた瞬間『ドカーン!』という音と共に中から花火が飛び出し火花が図書室内で荒れ狂った。あれはお店で売ってるような花火じゃない。祭りとかで使われる大きな打ち上げ花火と同等のものだ。しかも形状からして冠菊。なんでそんなものを図書室に持ってきちゃったんだ……
「なんだなんだ⁉」
周りの人達は突然のことに驚愕している。まるでミサイルが飛んで来たかのような状況になってしまった。
花火の光りがあまりにも強すぎて2人の姿を認識することができない。というか生きているのだろうか。
徐々に光は弱まっていきさっきまで2人がいた席を見る。無事だったようで2人とも花火が弾ける前の状態のまま。周りを見てみると火傷した人や燃えた本もない。どうやら引火しない特殊な花火だったみたいだ。それならそうとやる前に言ってほしかったよ。
「どうよ!」
「ビックリしたか!」とでも言うようにプチボックスを詩織さんの前に出す。
驚助君の魔法を使ったトリック?のようだけど、果たして……
「それがどうかしたの?」
撃沈だ……。まさかの無反応。それどころかつまらなそうにしている。周りは大騒ぎなのに2人の間だけ冷たい。
「悪いけど話しかけないでくれる? 本に集中したいの」
「あ、はい。すみません。さよなら」
寂しい声だ。さっきよりも驚助君が小さく見える。
振り返り僕のもとに戻ってきた。
「な、見ただろ」
「何が?」
本当に何が「な」なのだろうか。全く驚かせていないじゃないか。
「見た通りだ。詩織は全く驚かない。お前に相談したいのはアイツをどうやったら驚かせられるか知りたいんだ」
「なんで僕なの?」
驚助君は仲の良さそうなクラスメイトがたくさんいる。アドバイスを受けるなら僕じゃなくてもいいはずだ。
「黒板消しを落とした時お前は詩織とリアクションが似てた。アイツを驚かせるなら似たタイプの奴に相談した方がいいと思ったんだ」
「……ああ、やっぱり黒板消しを落としたのはいたずら以外の目的があったんだ」
これで黒板消しを落とした時驚助君がしてたおかしな行動の理由がわかったよ。
「え、やっぱりって?」
「いたずらって普通掛かった人を笑いものにするものだよね。でもあの時驚助君僕だけじゃなく周りの人の反応も気にしてた。君と一緒に笑う人、君を睨む人、興味が無い人、一人残らず全員ね。一人二人ならともかく全員を見るのはさすがにおかしい。僕それがずっと気になってたんだ。多分だけどあの仕掛けは三つの意味があった。一つは君が言ったように詩織さんと似たリアクションをする人を見つけること。もう一つは周りの反応から自分に協力してくれそうな人の選別。最後に自分はちゃんと人を驚かせられるかの確認。詩織さんを驚かせられなくて自信が無くなってたんだよね。そうじゃないと僕や他の人に感想を聞く必要もないし」
あの言われ方じゃ自信が無くなるのも無理ないけど。
「よく見てんなお前。探偵か?」
「そんな大層なものじゃないよ。これくらい少し見て考えれば誰だってわかることさ。ただ……」
……。
「詩織さんって過去に何かトラウマになるようなこととかあったの?」
「いいや。俺幼稚園の時から一緒だったからアイツのことは良く知ってるんだ」
「ふーん」
なるほど、うん、やっぱり腹が立ってる。つまり驚助君は私利私欲のために僕やクラスメイトをチョークの粉まみれにしたってことになるもんね。
「驚助君、詩織さんを驚かせるための協力はしてあげるけどその代わり1つこっちからも条件をつけていいですか?」
「あ、なんだよ? ていうか急に敬語になったな」
僕としてはあまりこういうことはしたくないけど、このままだと損な使いっぱしりだからね。
「いたずらに掛かったクラスメイト全員に謝ってください。そしたら協力してあげます」
「は、なんで?」
「意味不明だ。なんでそんなことをしなくちゃいけないんだ」と顔から十分伝わってきたけどもう決めたことだ。
「いや当たり前ですよ。あなた自分がやったことわかってないですよね? あなたはクラスメイトをチョークの粉まみれにしたんです。あなたや同じように笑っていた人達は笑い話にすぎないと思っているようですが笑い話では済ませられない人もいます。せっかくの新品の制服はチョークの粉まみれになったしいじめられたと勘違いした人だっているかもしれない。はっきり言います。不快です。いたずらをするならせめて相手も笑わせられるようなものにしてください。それでなくても会田さんのようにアフターケアはちゃんとするべきです」
僕は人間じゃないけど人間に近しい心は持っていると思っている。だからこんな風に酷い目に遭わされてさらに無条件で協力なんて絶対にしない。協力するのは機械、いや何も考えていないことに等しいことだ。
「別にそこまでのことじゃ――」
「なら僕は協力しません。さようなら」
振り返って図書室の出口へ。
情けなどない。僕は決めたことはたとえ泣きつかれようと変えないからね。
「わ、わかった! わかったって! ちゃんと明日みんなに謝るから! だから協力してくれ! もう俺だけじゃネタ切れなんだよぉ」
足にしがみつき必死に懇願してきた。驚助君にとって詩織さんを驚かせることはそれほど大切なことらしい。
「本当ですね?」
「マジマジ! ほら、この嘘偽りない目を見てくれ」
そう言って目を大きく開いてこちらを見てきた。
「嘘ですね」
「なんでだよ!」
僕はこういうのが一番信用できないと思ってる。目を見て信じろなんて通用したら詐欺なんか起こらない。
すると驚助君の後ろから大きな男性が近づいて来た。
「さっきの花火はお前の仕業だな。どうしてくれんだ。みんな驚いて読書どころじゃなくなってるだろうが」
図書室の管理人さんかと思ったけど制服を着ていることから図書委員の生徒らしい。それにしても大きいなあ。2メートルぐらいありそう。それに顔も学生とは思えない。失礼だけど、おっさんだ。
「担任は誰だ? ソイツのところまで連れていってやる」
丸太のような太い腕で驚助君を襟袖を掴んで持ち上げる。凄い力。あんなのに殴られたら顔陥没しちゃうよ。
「いや、あの、俺は……」
持ち上げられながら驚助君は僕に助けを懇願する目をしてきた。
「1年1組。担任は験実先生です」
「ちょっ、青銅!」
当然助けない。悪いのは100パーセント驚助君だもん。
図書室の外へと連れ出されていくのを見届けたあと僕は詩織さんの方を見る。
幼馴染が大男に連れ出されていったというのに一瞥もくれずに本を読んでいた。
「幼馴染と言っても冷たい関係なんだね」
職員室の前で僕は先生から説教を受けているであろう驚助君を待つ。まだ彼に用があるから。
「いやー、魔法の授業なんですがね。毎年変化していって教師である私達は追いつくのが大変ですな」
2人の男性教師が職員室から出てきた。バッグを手に持っているから帰宅するところなのかな。
「特に魔法の名前。15年ぐらい前に一斉に魔法名の変更がされたでしょ? 私あの時にはもう教師だったので前の魔法名が根付いちゃって。まだたまに間違えちゃうんですよ」
「私もです。時代の変化は厄介ですな。この前掃除中に風魔法をビエントと言ったら生徒から『ウインドだよ』と注意されちゃいましたよ」
そんな笑い話をしながら教師たちは廊下を歩いて行った。
そういえば博士も魔法は前の名前を使うことが多かったっけ。今は昔の魔法名を使っている生徒がいたら親や教師が矯正するようになってるから名前を間違えるのはそれこそ学校に通ってない人ぐらいか。もし博士が僕に教育用の本を渡さず自己流の教育をしていたら僕はきっと放課後は矯正のための補習だらけになっていたことだろう。
そんなことを考えていると職員室から驚助君が出てきた。
「お、なんだ待ってたのか」
僕に気づいて近づいてきた。僕は無言で驚助君の胸にあるものを差し出す。
「なにこれカンニングペーパー?」
「契約書です。僕が協力する代わりに驚助君がいたずらに掛けたクラスメイト全員に謝ること、その旨が書かれてあります。これにサインしてください。あ、もし嫌ならそれでもいいですよ。その代わり僕は絶対に協力しませんから」
ペンを持たせると驚助君は呆れた表情でこちらを見てきた。
「ここまでする必要あるか?」
「口約束は後手に回れば損をしますからね。もし黒板消しを落とすのに協力者がいるなら正直に言ってください。その人にも書かせますから」
「いねえよ。はあ……」
ため息を吐きながらサインすると僕に押し付けるように契約書を差し出してきた。
「とんでもねえ奴にお願いしちまったな。まさかこんなことになるとはな」
こればかりは運が無かったと言うほかない。もし僕に協力を依頼しなければ僕も謝らせようなんて考えなかったからね。
「ちょっと聞きたいんだけどどうして驚助君は詩織さんを驚かせたいの?」
「そういえば言ってなかったか」
赤くなった頬を掻き出した。あ、これ惚気話かも。
「さっきも言ったが俺と詩織は幼稚園の頃から一緒だったんだよ。俺は昔から人を驚かせるのが好きでさ。まだ魔法が使えなかった頃からいたずらを仕掛けたりマジックを披露したりしてた。特に詩織が良いリアクションしてくれてよ。マジックを見せた時なんか教えて教えてってせがんできやがった。だから俺も嬉しくて魔法が使えるようになってからはクオリティーの高いマジックやいたずらをするようになって、そのたびに仲良くなっていって、いつか結婚しようって約束までしちまった」
今さっき先生に怒られたばかりなのによくこんな話ができるなあ。
「でも1年ぐらい前から急に驚かなくなっちまった。それからはずっとさっきみたいなやり取りの繰り返しだ」
「喧嘩でもしたの?」
「いやしてない。だから不可解なんだよ。家族が死んだって話は聞いてねえし詩織に何か悩みがあるなんて話も聞いてない。いきなり冷たくなっちまったんだ」
それは不思議だなあ。人の急激な態度の変化は基本その人や相手に何かあるからこそ起こるものだからね。何もないのにそこまで変わるなんておかしい。
「なあ、どうしてなんだよ」
「うーん、ちょっとわからないな。でも詩織さんが驚かないのには絶対何か理由がある。それだけは確信していいと思うよ」
問題はその理由が何なのか幼馴染である驚助君ですらわからないことだ。さて、どうしたものか……。
「とりあえず今日はもう遅いからさ、また明日考えることにしよう」
「そんな悠長なこと言うなよ。俺にとっては一刻も早く解決したいことなんだ」
「外を見てみなよ。もう真っ暗だ。今行動を起こしても何も変わらないよ」
時刻はすでに7時近く。部活で残っている人もほとんどいない。
驚助君も納得したようで肩を落としながら廊下を歩いて行った。
「あ、ちゃんと明日みんなに謝らないとダメだからね。この契約書は魔法で作ったからどんなことがあろうと強制的に契約通りになるから」
「わかってるよ」
魔法で契約書を作るのは未成年では禁止されている。僕は君を動かすためなんかにルールは破らない。驚助君、ちゃんと勉強はしないとダメだよ。こういうのは常識として社会では知られているらしいからね。
翌日。
昼休みになるまでに驚助君はいたずらに掛かったクラスメイト達に謝罪して回っていた。僕はサボらないよう遠くから監視してたけど、あの謝りたくもないのに仕方なく謝っている風な顔を見て心に感じたものがある。怒りだ。予測はしてたけどそれでもこれほど頭に来るとは。
とは言っても契約書に書かれたことを履行した以上今度は僕が働かなければいけない番。昼休みが始まり自分で作った弁当を食べながらどうすれば詩織さんを驚かせられるか考える。
目の前で図書室全体を覆うほどの花火を破裂させても微動だにしないほどの胆力。驚かせるのは相当難しいだろう。しかも僕は人を驚かすなんてことをしたことがないから余計にわからない。今までは不意に破裂音とかを鳴らせば人は驚くものだと思っていた。それが昨日の詩織さんを見てちゃぶ台返しのようにひっくり返された気分だ。
「なあ、黙ってないで何かアイデア出してくれよ」
机の反対側でおにぎりを食べる驚助君。さっきから「なあなあ」とうるさくて思考に集中できない。
「ちょっとトイレ」
このままだとろくなアイデアが浮かびそうもないのでトイレで考えることに。問題は個室で考えるか壁掛けトイレで放尿しながら考えるか。悩むなあ。
「「あ……」」
トイレの入り口のすぐ横まで来た時だった。
「やあ。さっき空回君とお昼を食べていたのを見たけど、どうやらまた面倒事に巻き込まれたみたいだね」
トイレから出てきたウンディーネ君と目が合った。いつものようにニコニコと笑顔のままだ。
「うん、そうなんだよ」
一昨日友達申請して断られたけどウンディーネ君と話せるのはちょっと嬉しい。
「大変そうだけど僕からは頑張れしか言えないかな」
そう言ってウンディーネ君は僕の横を通り過ぎていく。もう少し話したかったんだけど……
「ちょっと待って。聞きたいことがあるんだ」
僕が呼び止めるとウンディーネ君は止まった。
「何かな? さっきも言ったけど僕は頑張れとしか言えないよ」
「わかってる。僕が聞きたいのは君ならどうするかって話だ。もし君が人を驚かせるなら、どんなことをする?」
「急に変な質問してきたね」
ウンディーネ君なら何かヒントになるようなものを持っているかも知れない。
「そうだなあ……僕なら相手の知らないもので驚かせるかな。それなら相手が知ったかぶりをしない限り絶対に驚くことだからね」
やっぱりそうだよね。それは僕も最初に思いついた。でも詩織さんを驚かせるならそれじゃあダメだ。彼女を驚かせるのはもっと発想を飛躍させたものを…………あれ?
「どうしたの青銅君?」
ウンディーネ君からそう言われて思い出したことがある。そういえば詩織さんはあの時……。
「ありがとうウンディーネ君。参考になったよ」
「え、う、うん。どういたしまして」
僕はウンディーネ君の横を通り過ぎて教室に戻りおにぎりを口に咥えてる驚助君の前に座る。
「驚助君、詩織さんが驚かない理由についてなんだけど――」
なぜ詩織さんが驚かないのか、その理由がわかった気がする。
「なるほど。確かに詩織ならあり得るな」
全て伝えると驚助君もその理由に納得してくれたみたいだ。
「ね。これなら詩織さんを驚かせられるかもしれない。早速準備しよう。放課後すぐに試すよ」
「ああ」
人を驚かせるには下準備が重要だ。僕達は急いでマジックの準備を始めた。
放課後。驚助君と共に図書室に赴きいざ本番へ。
昨日とは違い驚助君は棚に隠れず堂々と詩織さんがいるであろう机へ向かう。僕は2人の邪魔になったらいけないので昨日と同じルートを辿り棚の陰から見守る。僕はあくまで下準備だけ。ここからは驚助君次第だ。
「また来たの空回君。今日は何するの?」
冷たい目つき。何も期待していない、そんな思いが伝わってくる。
しかし驚助君は怖気づかない。好きな人のために。
「詩織。イッツショータイム!」
驚助君がポケットから出したのは2枚の丸めたティッシュ。何も仕掛けはないと証明するために詩織さんの間近まで近づける。
驚助君と僕が昼休みにスマホで検索したマジックが始まった。練習通り2枚のティッシュを左手に乗せる。
「この2枚のくしゃくしゃに丸めたティッシュ。1枚を俺の右手に渡して握ります。そしてもう1枚はそのまま左手で握ります」
そう言って少し硬い動きをしながら一連の動作をする。
「では右手を開きます。するとあら不思議。右手にあるはずのティッシュがありません。左手も開けてみると……あ、こっちに2枚入ってました! 不思議だなあ」
……マジックは成功してるけど口から出る言葉は失敗だ。あんなの今時幼稚園児でもあくびをしちゃうよ。
「……」
詩織さんは黙ったままだ。
「で、では次はもう一度右手にティッシュを渡して握ります。残った方はあなたの左手で握ってください」
少し怖気づいているが驚助君は続けるようだ。
詩織さんにティッシュを渡しいよいよクライマックス。
「では僕の右手を開けます。するとまたティッシュが消えました。もちろん僕の左手にもティッシュはありません。となると――」
詩織さんは驚助君が自分の左手に視線を向けていることに気づくとゆっくりと左手を開く。出てきたのは2枚のティッシュだった。
「またまた不思議。今度は詩織さんの手に僕の右手にあったティッシュが移動しました。これが瞬間移動マジックでーす!」
決めポーズを取り終了を知らせる。
今のマジックはフェイクパスを利用しティッシュを瞬間移動したかのようにみせるものだ。驚助君が最初に右手にティッシュを渡した時、渡したように見せかけて本当は渡していない。だから左手からティッシュが2枚出てきた。詩織さんにティッシュを渡した時もそうだ。最初に驚助君が右手にティッシュを渡した時本当は渡していない。そのまま詩織さんにバレないよう2枚のティッシュを握らせることで詩織さんの左手からティッシュが2枚出てきたということだ。
練習さえすればティッシュ2枚でできるお手軽なマジック。放課後までに習得するのはギリギリだったけどなんとか成功させることはできた。
昨日とは比べ物にならないほど地味なマジック。なぜこんなものを選んだのか。
僕は最初詩織さんが花火を見て驚かなかったのは単に詩織さんは肝が据わっているからだと思っていた。でもそれは違う。詩織さんは肝が据わっているわけじゃない。昨日詩織さんが図書室で読んでいたのは魔法道具に関する本だった。そして驚助君が見せたのはどんな大きさでも中に入れられる魔法の箱、プチボックス。詩織さんは驚助君が見せてきた箱がプチボックスだと知っていて自身を驚かせるものが中に入っていることをあらかじめ予測していたから驚かなかったんだ。普通の人ならプチボックスを見ただけでは予測はできない。でも詩織さんは驚助君が人を驚かせることが好きなのを知っている。そして自身も何度も驚かされている。相手が驚助君だからこそ予測できていたんだ。
なら驚助君が今までやったことのないものを見せればどうだろうか? 彼の記憶が正しければ今やった瞬間移動マジックは見せたことがない。つまり詩織さんにとっては初見の可能性が高い。もしも僕の考察が正しければ驚くはず。
「……」
詩織さんは何も発しない。間違っていたのか……。
僕が失敗したと思っているのを察したのか驚助君は僕に目だけを向けて静かに頷く。どうやらあれを作動させろと言うことらしい。
「――ふふ」
詩織さんが少し口角を上げて笑った。
「空回君って本当に人を驚かすのが好きなんだね。よく次から次へとこんなことを思いつくよ」
これは成功、と言えばいいのだろうか。終始無表情だったのが今は少しだけ笑顔。でも相変わらず死んだ魚のような目は変わらない。
「そ、そうかな……」
照れくさくなったのか頬を赤らめる驚助君。どうやら彼基準では成功らしい。
「今日のマジックなんて今までと違って地味なのに昔を思い出しちゃったわよ」
そう言ってゆっくりと立ち上がる詩織さん。その立ち方がやけに見覚えがある。確か博士も同じ立ち方だった。そうだ、あれは腰痛が酷くて腰を気にしながら立つ時のやつだ。詩織さん腰痛持ちなのかな。よく見ると猫背だし重心も踵寄りだ。本の読みすぎでそうなったのかな?
「そうだろ。最近お前が素っ気ないから原点に返ってみることにしたんだ」
僕がアドバイスしたおかげなのにまるで自分のことのように自慢する驚助君。うん、やっぱり僕は君が嫌いだ。
僕はあらかじめ作っておいたもう一つの仕掛けを魔法で作動させる。すると驚助君の制服の胸部分に仕込まれていた風船が破裂し中に入っていたチョークの粉が詩織さんを真っ白にした。
「は?」
困惑する驚助君。しかし仕掛けが作動したことに驚いている場合じゃない。
「空回君……」
目の前にいる詩織さんはチョークの粉まみれにされて鬼の形相だ。
「ち、違う、これは――!」
「何してんだよ!」と訴えるように驚助君は棚の陰に隠れている僕を睨んできた。それもそのはず。今作動した仕掛けはティッシュの瞬間移動マジックが上手くいかなかったときのために念のためと僕がアドバイスして驚助君自身に作らせたもの。マジックが成功した以上作動させる必要はない。これは僕の仕返しだ。
黒板消しの件、君は確かにみんなに謝った。それであのいたずらの件は解決……するわけがない。謝罪なんて適当な言葉を並べれば簡単に成立してしまう。そんなもので許されるのなら人は争いを起こさない。加えて君は嫌々謝罪していた。ならば同じ、いやそれ以上の苦しみを味わうべきだ。だけどその苦しみは君に直接与えても笑って水に流してしまうだろう。なら、君にとって自分と同等かそれ以上の存在の人に同じ目に会わせる。そうすることで君がしてきたことの罪の重さを実感させる。
心にもない謝罪だけで済ませるなんて、僕は絶対に認めない。それは被害者が泣き寝入りしたのとほとんど同じだ。
ま、そんな大層なこと言っても仕返しだと悟られるわけにはいかないので、誤作動を起こしたように慌てた表情をする。仕掛けが勝手に作動したと思わせるために。そうすれば僕を責めることはできない。まあ、そもそも責める余裕なんて今はないと思うけどね。
「空回君あなた……いたずらするにしても限度ってものがあるんじゃないの?」
詩織さんが睨む。
驚助君は必死に弁解し、「青銅がやったんだ」とまで言うが詩織さんは聞く耳を持たない。
そのあと驚助君はかなり詩織さんから説教されたあと、今度は図書室にチョークの粉をぶちまけたということであの大きな図書委員の男子生徒にまた襟を掴まれたまま職員室に連行された。図書室の扉が開かれた時僕を睨んでいたが気づかないふりをした。
昨日君から相談に乗ってくれと頼まれた時、僕は驚助君という人間が嫌いなんだと自覚した。だけど相談には乗った。なぜなら嫌いという感情を受け続けることで僕という人間をもっと知ることができるかもしれないと思ったからだ。そして今自分という人間が少しわかった気がする。僕は一度でも敵対的なことをされるとその人を絶対に許さないし報いを受けさせなければ気が済まないということだ。仏の顔も三度までと言うけどあれは赦し過ぎなんだと今の僕なら思う。
「ありがとう驚助君。君といたこの2日間は今までとは別の意味で有意義な体験だったよ」
閉められた図書室の扉に僕は囁いた。
結果は上々、いや、それ以上かな。スッキリする仕返しができたからね。
驚助君と図書委員がいなくなるとこの空間にいるのは僕と詩織さんの2人だけだった。
「もー制服が粉だらけ。風魔法で掃わなきゃ。『ビエンド』」
そう言うとチョークの粉は魔法で作られた風で窓の外へと運ばれていった。
……やっぱり僕の考えは間違っていなかった。
棚の陰に隠れるのを止め詩織さんの前に出る。
「あれ、あなたは空回君と一緒にいた……」
気づかれてたのか。よく周りを見てる。いや、当然のことか。
「こんにちは。僕の名前は青銅錬磨です。ちょっと聞きたいことがあるんですけどいいですか?」
「ええ、いたずらじゃなければ」
ついさっきやられた手前警戒しているようだ。もちろん僕はそんなことは考えていない。
「大丈夫です。僕そういうことに興味ありませんから。ただ、ちょっとあなたと驚助君の関係が気になってまして。幼馴染らしいですね。それにかわいらしい約束もしたとか」
「え、もしかして空回君から結婚の話聞いた? あんなの子供の頃の話だから真に受けないで。そんなことありえないから」
「わかっています。というか絶対あなたと驚助君は結ばれません。だって……」
「あなた、詩織さんじゃないですよね」
「……」
彼女は黙った。何故? どうしてわかったの? そんな気持ちを隠そうとしているのが顔から伝わってくる。
「ずっと気になってたんです。なんであなたが驚助君のことを空回君と呼んでいたのか。幼馴染の驚助君はあなたのことを詩織と呼んでいたのに。図書委員の人が驚助君を連れ出した時だってまるで他人行儀だった」
「そんなのよくあることでしょ」
「そうですか? あなたに対する驚助君の接し方や幼い頃に結婚の約束までした話を聞くと喧嘩も無しにそんな素っ気ない態度になるとは思えません」
「それは……」
言いたいことがあるようだが寸前で止まった。なら僕から話すまで。
「最初にそう思ったのは驚助君の瞬間移動マジックが終わった後あなたが椅子から立とうとした時です。あの時あなたはやけに腰を気にしていた。僕はよく見てるから知ってるんです。あれは腰痛を抱えている人の立ち方だった。それで気になって姿勢を確認してみたら案の定猫背。それに重心が踵に寄ってました。これらはヒールをよく履いている女性に起こる症状と似ています。なのであなたは外出をする時ヒールをよく履く女性なんだと思いました。でもそれってちょっと変ですよね?」
「何が変なの? 女ならヒールを履くことなんてよくあることでしょ?」
必死に逃げようとするがそれが僕を更なる確信へと歩かせていく。
「確かに大人の女性ならヒールを履くことが多いです。でも、僕らは学生です。この学校はヒールでの登下校は禁止ですし校内は上靴なのでヒールを履くこと自体ありません。まあ頻繁に夜遊びしてるような女性は別ですが。詩織さんはそんな不純なことをする女性ですか?」
「そんなわけないわ! 詩織は勉強熱心で真面目で私はいつもあの子を見てき――!」
外出ではなくあえて夜遊びという言葉を口にしたのは正解だったみたいだ。
詩織さんの皮を被った女性がしまったというように口を手で押さえるがもう手遅れ。
詩織さんを想う一文。僕は女性に笑顔を向けた。安心させるため、もう逃げられないという思考に至らせるため。
「もちろんこれだけではあなたが詩織さんじゃないと決めつけるのは難しいです。休日である土日にヒールを履いて外出しただけでも重心が変わってしまうことは十分に考えられます。決定的だったのはさっきあなたがチョークの粉を掃った時です。あなたは風魔法をビエントと言いましたよね。それは15年前、魔法名が変更される前の言い方で今はウインドです。詩織さんの年齢、つまり僕らの世代は風魔法をビエントを呼ぶはずがないんです。なぜなら教えられていないから。それに間違っていた場合学校から矯正もされます。ここまで揃えばあなたが詩織さんではなくもっと年上のそれこそ先生ぐらいの年齢の女性という答えにたどり着くことができますよね」
「……もしかして、私をチョークの粉まみれにしたのはあなたの仕業? 空回君は戸惑ってたからおかしいなって思ってたんだけど」
どうやらもう逃げる気はないようだ。
「はい、僕です。あの仕掛けには別の意図がありましたけど、あなたが詩織さんじゃないという確信を得るためにも使わせてもらいました」
結果オーライだったけどね。もし僕が驚助君への仕返しを考えていなかったら詩織さんのことは疑問に思うだけで正体まではわからなかった。
「……降参ね。もう逃げようもないわ」
両手を上げて諦めたように息を吐く。そして変身魔法を解いて本来の姿に戻った。
髪色はさっきと同じだけど肌艶が全く違う。40代か50代。詩織さんを産んでいるならそれくらいが妥当かな。
「さっきの発言から考えると、あなたは詩織さんのお母さんですよね」
「ええ。私の名前は魔冒優子」
「本物の詩織さんは?」
答えは出ているけど一応聞いておこう。もしこの人が人殺しなら僕が危ない。
「詩織は死んだわ。1年前に交通事故でね。私は変身魔法で詩織の姿になっていただけ」
ホッ、とりあえず僕の命の心配はなさそうだ。でもよくそんな長い期間驚助君を騙せていたものだ。……いや魔法使いなら朝飯前かな。交通事故ならニュースにならずとも詩織さんに近しい人は知っているはずだ。でも驚助君が知らないとなると、まず事故として警察の捜査すら行われていない可能性が高い。おそらく通報される前に事故現場を目撃した全ての人に対して優子さんは記憶消去の魔法をかけたのだ。そうすれば警察が来ることはなく、あとは詩織さんの遺体を家の庭にでも埋めれば詩織さんが死んだことは誰も知らないことになる。他に考えられるとしたら驚助君の両親がグルで彼に知られないよう隠してたぐらい……かな。どちらにしても優子さんが目撃者の記憶を消したことに変わりはない。手が込み過ぎている。どうしてそんなことをしたのだろうか。
「気になるでしょ。なんで私が詩織の姿になっていたのか。変態に見えるでしょ。だってしょうがないじゃない。詩織が死んだなんて言ったら空回君どんな顔をするか……想像したくもないわ」
「だからあなたは驚助君に対して素っ気ない態度を取ったんですね。向こうから諦めさせるために。諦めさせれば詩織さんが死んだことを隠し通せると思ったから。それと、その言い分だとあなたは詩織さんと驚助君が両想いなことを昔からご存じだった」
知らなかったら驚助君の絶望見たくなさにこんなことはしていない。
「ええ。あの子たちが小さい頃に結婚する約束をする前からね。私も夫も空回君なら詩織を任せてもいいと思ってた。空回君がいてくれるおかげで詩織の未来は幸せなんだと思ってた。でもそれは勘違いだった。あんな、非魔法使いごときが作った乗り物で死ぬなんて……どうして……」
拳を握りしめ怒りを露わにする優子さん。目からは悔し涙が溢れている。
僕ら魔法使いは常に非魔法使いの陰で生きているけど、中には彼らを下に見る魔法使いもいる。でもこの人の場合はおそらく……後天的にそうなったのだろう。そして詩織さんを殺した運転手はもうこの世には……。
「おしまいね。煮るなり焼くなり好きにするといいわ。詩織のふりをして空回君を悲しませないようにしようと決めた時から覚悟はしてたから」
諦めるように力を抜くがそんなことは不要だ。
「僕は警察ではないのであなたがどうしようが気にしません。先生に言うわけでもないのでこれからもその芝居を続けたいならどうぞ好きになさってください。その代わりとして1つだけ聞かせてもらいます。今、詩織さんはどんな顔をしてあなたを見てると思いますか?」
「ッ! なによそれ……よくそんなこと平気で聞けるわね。良心は無いの?」
良心、か。
「人の悲しみを見たくないという理由で亡霊になり偽りの幸せを作り与えた人間。そんな人は死んだ人のことをどう考えているんだろう、と単純に気になっただけです。僕としては、詩織さんは今あなたを見て失望していると思いますよ。お母さんってそんなことする人だったんだって。あなたもずっとそう思いながら詩織さんに化けていたんじゃないんですか? それともまさかとは思いますが笑っているとでも? 驚助君を悲しませないでくれてありがとうと感謝しているとでも?」
「それは…………私はただ空回君を悲しませたくなくて――」
「それはあなたが逃げているだけです。詩織さんのためでも驚助君のためでもない。自分のためです。驚助君が悲しむ姿を見たくないと思っているあなたのためだ」
僕は善人じゃない。良心なんてものもあるかわからない。やられたらやり返さなきゃ気が済まないし相手を赦すようなこともしない。ただ、それでもこの人のしていることが良心からではないことだけはわかる。
悲しませたくない? そんなのは言ってみなきゃわからないことだ。彼が詩織さんの死を知ってただ悲しむだけとは限らない。
「僕ならこう思います。驚助君なら悲しんで泣き崩れてもまた立ち上がるだろうって。だから正直に言って詩織さんのことは心の奥にしまってもらおうって」
「私は……」
少し感情的になりすぎてしまったみたいだ。でもここまで言えばもう十分だろう。あとは優子さんが決めることだ。正直に告白するか、しないのか。
言うならタイミングは考えてほしいな。今言えば先生からの説教の後もあって何をしでかすかわからな――
「あ、見つけたぞ青銅! お前のせいで俺停学処分になっちまったじゃねえか! どうしてくれんだよ!」
突然開いた図書室の扉から入ってきた驚助君が僕を見た途端指を差して睨んできた。最悪のタイミングで来ちゃったね。
「空回君……」
怯える優子さん。僕だってまさかこんなに早く戻ってくるとは思わなかった。多分2回目ということもあって海パン白衣先生も怒るのが面倒になったんだろう。停学処分を出してあとは知らんってところかな。
「あれ、詩織のお母さん。どうしてここにいるんだ? それになんで学校の制服?」
状況を理解していない驚助君を誤魔化すにはこれしかないかな。
「この人驚助君に話があるみたいだよ。急ぎの話みたいだから僕は図書室の外で待ってるね。君の恨み言はそれを聞いた後ちゃんと聞いてあげるから」
そう言うと怯えていた優子さんは目を大きく開いて僕を見てきた。「なんでそんなこと言うの⁉」という訴えが伝わってくるが仕方のないことなんだよ。友達の、しかも好きな異性の母親が学校の制服を着て図書室にいることに理由がないのは逆におかしい。それこそ学校に侵入してまで驚助君に直接伝えなきゃいけない大切なことがあるぐらいの理由がね。
「あとはあなたに任せます。逃げるか逃げないか。2人のためになることはどういうことなのかちゃんと考えてから決めることです」
そう言い残して僕は驚助君の横を通り過ぎ図書室を出て行く。途中驚助君が僕を見ていたような気がするが無視した。
僕にとって彼が詩織さんのことを知ろうが知らなかろうがどうでもいいことだ。知らなくても今回のことで懲りて僕に関わろうとはしないだろうし、知って不登校になろうと自殺しようと嫌いな人を見なくて済むという喜びしかない。
嫌いな人はどんな背景があろうと嫌いだ。悲しむならいくらでも悲しめばいい。こっちはそれが喜びに変わるのだから。
エントランスホールへ向かうために廊下を踏む足が今はとても軽やかだ。
数日後。同学年の他クラスの机が1つ無くなり驚助君は停学期間を終えて戻ってきた。彼が教室に入るなり仲の良かった生徒は喜んだりからかったりして彼の周りに集まっていたが本人はなんだか疲れた顔をしている。そしてもう、彼が誰かにいたずらを掛けたりマジックを披露する話は聞かなくなった。
僕のせいで停学になったことへの恨み。そんなものを持つ余裕など彼にはもうなかった……。