第九幕 遊撃戦
「昨夜はよく眠れたか?」
魔女がそう訊いてきた。
夜明け共に、コーングレイス軍の遊撃部隊は出発していた。その中央付近で俺と魔女は馬を並べて進んでいる。
「……ああ、おかげさまでな」
そこには若干の皮肉が込められていたのだが、魔女はピンと来なかったようだ。まあ確かに、昨夜俺が妙に疲れて眠ってしまったのは彼女のせいではなかった。──まったくの無関係とも言い切れないが。
「今朝の報告によると、じきサシュナータ軍を捉えられるということだ。気を引締めておけよ」
「了解した」
それからほどなくして、俺たちはサシュナータ軍の姿を確認した。だだっ広い平原の中央を、六万もの軍勢がぞろぞろと北上している。
平原の西端は雑木林となっており、遊撃部隊二百はその中に潜んだ。俺たちは少数であり、また地形の知識を活かして近づいてきたため、向こうにはまったく気づかれていなかった。
「まずはここで仕掛けよう」
周囲の地形を確認したあと、魔女が全兵にそう告げた。そして騎兵の中から二十人の精鋭を選び出し、敵軍へと向かわせる。俺と魔女、残りの兵はこの場所に伏せた。馬には枚を銜えさせた。
精鋭たちは、偵察していたらうっかり敵の大軍に出くわしてしまって慌てて逃げる──という役目を果たすことになっている。もちろん敵の一部をここまで誘導するためだが、口で言うほど簡単ではないだろう。わずか二十人で六万の敵に近づく度胸はもちろんだが、演技や駆け引きも必要となってくるからだ。
さて、精鋭たちの実力は如何に? ──と興味深く待っていると、いくつもの人馬が駆けてくる音と共に調子に乗った声が響いてきた。
「ウハハハハッ、観念せよ、コーングレイスのマヌケどもめ!」
大成功である。
一拍遅れて樹上の見張りもその旨を伝えてきたが、もはや聞くまでもなかった。
まずコーングレイス軍の精鋭たちが、俺たちの伏せている雑木林の間を走り抜けていった。
次に百人ほどのサシュナータ軍の追撃部隊が、俺たちの伏せている雑木林の間を走り抜けようとした──が、もちろんこれは許さなかった。
物陰から一斉に剣や槍を突き出す。
「ぐわっ」
「ぎゃあっ」
「ああっ」
完全に騙されていたサシュナータ軍の追撃部隊は、おもしろいほどまともに攻撃を喰らった。その兵力はほぼ一瞬で半数近くにまで減っていた。
伏兵の攻撃をどうにか免れた者たちは慌てて踵を返して逃げ出していく。反撃など思いも寄らぬようだった。
「追え! 殲滅せよ!」
魔女が鋭く命令する。
俺をはじめとする遊撃部隊はすぐに飛び出し、敵の背後から襲い掛かった。サシュナータ軍の追撃部隊の中には騎兵も多かったのだが、ひどく混乱していたために、誰一人として逃げ切ることはできなかった。
雑木林の中を、敵兵の屍が累々と埋めた。
「よし、上出来だ。──次の攻撃地点に移動しよう」
指揮官の指示に従って、俺たちはただちにその場をあとにした。いままでは敵を捉えるべくひたすら南下しつづけてきたが、これからはその進軍を妨害するために北へと逆戻りすることになる。
サシュナータ軍本隊のほうには何の動きもなかった。こちらの伏兵があまりにも上手くいったため、まだ異常を察知できていないのだ。
それにやつらにしてみれば、たかだか二十人程度の斥候部隊に対して五倍もの戦力を追撃させたわけである。まさかやられるとは思ってもいないのだろう。
しかし実際には、百人ほどの兵士がいつまで経っても戻らないことになるので、遠からずこちらの存在に気づくはずだ。そうなる前に、さっさと移動しておくべきだった。初手は成功したものの、敵はまだまだ大軍なのである。
「今度はここで仕掛けるぞ」
先ほどの場所から一時間ほど北上した頃、魔女がよく通る声で告げた。雑木林が途切れて、そこは全面がだだっ広い平原のみとなっていた。
「ここでか? 何もないように見えるが」
俺は辺りを見回して眉を寄せる。この遊撃部隊は寡兵であり、遮蔽物の一つもない開けた地形で待ち構えるのは愚策と言えた。
「死神の目にもそう見えるのなら、大丈夫だな」
魔女が満足そうに頷いた。
「どういうことだ?」
「口で説明するより、その目で確認してもらったほうが早いだろう。そこから私の姿をよく見ておけ」
言うなり、魔女は単騎でだだっ広い平原を進みはじめた。
「?」
よく解らなかったが、取り敢えず俺はその姿を目で追った。ややあって違和感に気づく。俺の視線が上がっていくのである。
そして、百メートルほど先で馬を走らせている魔女がその足元から徐々に消えはじめた。
「ああ……そうか」
俺は納得した。この場所はただの平原ではなかったのである。
□ □ □
コーングレイス軍の遊撃部隊が二番目の攻撃地点に着いてから一、二時間が経過していた。
もちろん、すでにサシュナータ軍は自分たちの追撃部隊が殲滅されたことを把握している。現在、四方に斥候部隊を放ちながら慎重に行軍していた。
俺たちは、その斥候部隊の一つを狙っている。先ほどと同じように精鋭たちがここまで誘導する手筈となっていた。
二度もつづけてこちらの誘いに乗るのかという懸念があったが、精鋭たちは自信ありげに出発していった。
そしてしばらくすると──
「待ちやがれ、このコーングレイスの犬どもが!」
「ふざけやがって、叩き切ってくれるっ」
「殺す殺す殺す!」
南方から馬蹄と人声が響いてきた。明らかにサシュナータ軍のものである。
俺たちが潜んでいる場所までまだ距離があるのだが、敵が相当頭に来ているのが伝わってくる。今回精鋭たちは、演技ではなく挑発で以て誘導してきたようだった。
どんな罵詈雑言を吐けばこんなに怒らせられるのだろうか、と少し興味を覚えたが、いまはそれどころではない。出番までじっと身を屈めて待つ。
敵の斥候部隊は、精鋭たちを追ってこちらにまっすぐ向かってきているようだ。しかし俺たちの存在にはまったく気づいていないことがその気配から察せられる。──ここはだだっ広い平原で、視界は良好であるというのに。
「いまだ!」
一人だけ地上で伏せながら、時機をはかっていた魔女が命令を下した。
その瞬間、遊撃部隊は潜んでいた窪地から一斉に立ち上がった。
「うわっ!?」
「伏兵!?」
「何処から!?」
敵の斥候部隊が驚きの声を上げたが、それはすぐに悲鳴へと変わった。俺たちが襲い掛かったからである。
不意を衝かれた敵は防御も反撃もままならず、次々と地に伏していく。俺たちと同じくらいの人数はいたのだが、あっという間に全員が動かなくなった。
大鎌に着いた血糊を払うと、俺はあらためて周囲を見回した。やや後方に、先ほどまで潜んでいた窪地がある。二百人が身を隠せるほどなので決して小さくはない。だだっ広い平原にこんなものがあれば、普通、遠くからでも気づくだろう。しかし数時間前の俺も、いまの敵の斥候部隊も気づかなかった。
どうしてか? 簡単である。この辺りは南方から北方に向かって一部が上り坂になっているのだ。ただし上り坂と言ってもかなりなだらかなものなので、少し見たくらいでは判別するのは難しい。冷静さを欠いていればなおのことである。そして窪地が広がっているのは下り坂のほうだった。つまり、この場所に南方から近づくと坂が邪魔して窪地が見えないのである。無論、北方から近づいた場合は問題なく見えることになる。
ここは、コーングレイス。やはり魔女たちは地の利を心得ているのだった。
「みな、よくやった。十分な成果だ。──今日はここまでにして、安全な場所まで戻るとしよう」
魔女は同胞たちを褒めたあと、離れた場所に置いていた馬にまたがった。そこに近づいた者がいる。マルティーノだ。
「ナザリー卿。日暮れにはまだ時間がある。立てつづけの成功で俺たちの士気も高い。もう一回くらい仕掛けてみては?」
魔女は少し考えるふうにしたが、結局は首を左右に振った。
「いや、さすがに敵もいままで以上に警戒を強めるはずだ。無理をする必要はないだろう。──それよりもさっさと引いたほうがいい」
ここで魔女は意地の悪い笑みを浮かべた。
「しかし敵軍は、私たちが引いたことなど知りようもない。これからも警戒を強めたままで過ごす羽目となる。勝手に無駄な労力を払いつづけてくれるというわけだ」
かくして、コーングレイス軍の遊撃部隊はひとます安全な場所まで撤退したのであった。