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終幕 転生


 二人は向かい合って佇んでいた。


 自宅近くの森の中の、少し開けた場所である。

 木漏れ日と虫の鳴き声。遠くでは鳥のさえずりが聞こえた。


 普段からここを訪れるのは俺たちくらいであり、誰かに見られることはない。誰かに邪魔されることもない。


 俺の手には大鎌が握られていた。いつも使っていたものに補強を施してある。


 ナザリーの手には槍が握られていた。先ほど到着したマルティーノが用意してくれたそこそこの品である。


 多少の不公平感は覚えたが、とやかく言うのは野暮だろう。それにこの大鎌は俺の手に馴染んでいる。


 かすかな風が、妖精の囁きのように周囲の木々をざわつかせていった。



 □ □ □ 


 

 三日前。俺たちは殺し合いで決着をつけると決めたのだが、そのあといろいろと相談した結果、マルティーノに連絡を取り、協力を仰ぐことにした。


 これから俺たちは最後の戦いに臨み、勝利したほうが祖国へと帰って懸賞金を手に入れ、そして万能薬を購入してシェナーナを助けることになる。──しかし、その一連の出来事を村人たちに知られるわけにはいかなかった。


 俺たちの正体が露見してしまうし、何より尚武の気風を持たぬ彼らには、いくら愛娘を助けるためとはいえ、夫婦が殺し合うなど易々と受け入れられるとは思えなかったからだ。


 そのようなことになれば、当然この村での平穏な暮らしはつづけられなくなるだろう。それはシェナーナの今後のためにも避けたかった。


 しかし、人手は必要であった。


 俺たちが殺し合っている間や勝利したほうが祖国へと帰っている間、誰かにシェナーナの面倒を見てもらわなければならなかったからである。


 そこで思い浮かんだのが、マルティーノだった。彼なら俺たちの正体を知っている上に、俺たちが殺し合いを選択することにも相応の理解が得られると考えられたのだ。

 さらに、彼はいまそれなりの地位にいてアルフェドにもコーングレイスにも多少は顔が利くらしい。そこもまた都合がよかった。


 俺かナザリーのどちらが勝つにせよ、相手の首を祖国へと持っていき、そこで少なからず経緯を説明することになるだろう。その際にマルティーノの口添えがあるに越したことはなかった。


 そして──これは殺し合いで決着をつけると決めた時点では気づかなかったのだが、最悪、俺たちが相打ちに終わってしまうという可能性もあり得るのだった。その場合、あとのことをすべて任せられる人物がどうしても必要となってくる。もちろん、普通ならそんなに都合のいい人物などそうそう見つかるはずもないのだが──


「こうしてみると、マルティーノに再会できたのは天の配剤であったのかもしれない。あいつはまだしばらく町に滞在していると言っていた。協力を仰ごう」

 卓子の前に座るナザリーが言った。


 正直俺はマルティーノについてあまりよく知らないので、彼女ほど全幅の信頼は置けなかった。何となく粗野な口調のわりにはお人好しそうなやつであったと記憶しているだけである。しかし他に当てなどあろうはずもなく、ここはナザリーの人を見る目に任せるしかなかった。


 そうと決まると、ナザリーはすぐさま出掛けていった。村長宅で馬を借り、町へと飛ばすためである。俺は愛娘の看病をしながら、その帰りを待った。


 日暮れ前にナザリーは帰宅し、無事、協力を取り付けられたと報告してきた。彼女から事情を聞かされたマルティーノはしばらく複雑な表情をしていたが、最終的には了承してくれたそうである。


 それから三日後の今朝、マルティーノは馬に乗り、村人たちの目を避けて我が家へと訪れた。その馬は、俺たちのどちらかが祖国へと帰る際には貸してくれるそうである。また、我が家にはまともな槍などなかったので、ナザリーのためにそれも持ってきてくれた。


 断りなく、マルティーノは部下の女一人を伴ってきた。しかしそれは、俺たちの代わりに彼自身が祖国へと帰らなければならなくなってしまった場合、シェナーナの面倒を見てもらうためであった。「騎士の名誉に懸けて彼女は信用できる部下である」とマルティーノが宣誓したので、俺たちはその言葉を信用することにした。実際、俺たちが相打ちに終わった時には彼女の存在が必要となるのは確かであった。


 寝台に臥せったままのシェナーナは、はじめて見るマルティーノたちに少し警戒心を示したが、それも長くはつづかなかった。自分の母親が二人と親しく接していたためと、何より発熱によって頭がぼうっとしていたためだろう。


 俺は寝台の横に膝をつくと、なるべく優しい声で語り掛けた。

「よくお聞き、シェナーナ。これからお父さんとお母さんは、もっとよく効く薬を買ってくるために、数日間どうしても家を空けなくてはならない。その間、このおじさんとお姉さんが面倒を見てくれるからね、困らせてはいけないよ」


「んー……」

 気怠げなシェナーナは解ったような解らないような、曖昧な返事をした。


 俺は微笑んでその頭を愛おしく撫でてやる。愛娘は弱々しくも無邪気に喜んだ。



 ──これが最後になるかもしれない。



 心が震えそうになったが、敢えてあっさりと立ち上がった。


 これが最後になるのは俺ではないからだ。これからおこなわれる殺し合いに勝つのは俺だからだ。


 入れ替わるように、ナザリーがシェナーナのそばに寄った。何となく二人の会話を聞くのが憚られた。マルティーノたちに黙礼すると、俺は先に外へと出た。


 しばらく時間が掛かるかもしれないと思ったが、さほど待つこともなく玄関の扉が開き、ナザリーが姿を現した。どうやら彼女も同じように考えて、同じように行動したらしい。


「では、いこうか」

 ごく普通に声を掛けてくると、ナザリーはそのまま森へと向かって歩きはじめた。


「ああ」

 短く応えて、俺も彼女の背中を追った。


 数分後、森の中の少し開けた場所に辿り着く。俺は広場の入り口付近で立ち止まった。ナザリーは奥まで進んだあと、ゆっくりと振り向いた。


 ここで勝利したほうが、急ぎ祖国へと帰ることになる。


 馬を飛ばせば、コーングレイスまでは二日、アルフェドまでは四日である。おそらくこれは特殊な部類に入るだろうから、マルティーノの口添えがあっても、懸賞金の受け渡しまでに掛かる時間は通常よりも長くなると思われる。


 どうして六年間も行方不明になっていたのか。どうしていきなり殺し合いとなったのか。さらに、どうしてそこにマルティーノが居合わせたのか。いろいろと聞かれるに違いなかった。


 しかし、それはたいした問題ではない。シェナーナのためならば、いくらでも嘘をつけるし、いくらでもはったりをかませられるからだ。取り返しがつかなくなってしまう前に、かならずやシェナーナの元に万能薬を届けてみせよう。──俺たちが相打ちになった場合には、その役目をすべてマルティーノにやってもらうことになるのだが、そのことも含めて彼は承知してくれていた。本当にお人好しであった。感謝しかない。


 俺とナザリーは佇んだまま、しばらく見つめ合っていた。


 風が吹き、少しだけ森が身じろいだ。


「悲劇的よな、まさか夫婦で殺し合うことになろうとは」

 ナザリーが軽く槍を振り、柄のしなり具合を確認しながら言った。悲劇的と口にしながら、しかし、その口調は湿っぽいものではなかった。いやむしろ──


「同感だが、シェナーナのためだ。やむを得ない」

 と応じた俺の声も、特に湿っぽいものにはならなかった。


 愛する者と殺し合うことにも、その結果として愛娘を片親にしてしまうことにも、この六年間の幸福が失われてしまうことにも、もちろん悲しみや葛藤を覚えているのだが……その奥底からどうしても滲み出してしまうものがあるのだった。



 歓喜。



 結局俺たちは、骨の髄まで「尚武の気風」という病に蝕まれていたのだろう。後遺症などではなく、現在進行形で。ただ、愛情と幸福の日々がそれを抑制してくれていただけにすぎないのだ。ゆえに、こうして一皮剥いてしまえば──


 魔女は妖艶な笑みを浮かべ、死神は唇の片端をつり上げるのだった。



 □ □ □ 



「そろそろはじめようか」


「ああ」


 まるでいつもの朝の挨拶を交わすかのように、最後の戦いの幕は上がった。

 俺は大鎌を、ナザリーは槍を、何気なく構えた。


 しかし、自然は敏感であったようだ。虫の声は消え、鳥は何処かに羽ばたいていった。

 風すらやんだ広場の中、互いにゆっくりと距離を詰めていく。


 ナザリーとは──いや、コーングレイスの魔女とはこれまで何度も殺し合ってきたが、徒立ちで戦うのはこれがはじめてとなる。しかも、平服だ。当然のことながら、馬に跨がり甲冑を着込んでいた時とは、機動も防御もまったく違うものになるだろう。


 つまりこの戦いは、互いに手の内を知っている部分とそうではない部分とが混在する展開になるということだ。


 ──さて、どのような体捌きや足捌きを見せてくれるのか。

 俺が警戒心と好奇心を抱いていると、たんと軽やかに地面を蹴る音がした。と同時に、迸る銀光。


 記憶にあるよりも速かった。


 やはり不安定な馬上よりも力が込めやすいからだろう──大鎌を横薙ぎにしながら、俺は思った。


 ギンと鈍い金属音を残すと、二人は共に引いて踏み込む前と同じくらいの距離を取った。


「ふむ。さすがにこの程度ではやられはせんか」

 コーングレイスの魔女が何処か楽しそうに呟いた。


「この程度とは言うが、とても実戦から離れていたとは思えぬ鋭い攻撃だったぞ。ここ六年の間、俺に内緒でいったいどれだけ槍を振るっていたのだ」


 俺が呆れた声を出すと、魔女が皮肉な表情を返した。


「その鋭い攻撃を難なく弾き返しておきながら、よくもぬけぬけとほざいたものよ。おまえこそ、いったいどれだけ訓練していたのか」


「まあ、互いに腕は鈍っていないということだな」


「よくも悪くも、そういうことだな」



 ──そしてその腕を、二人とも何の躊躇も未練もなく発揮していた。度しがたいとはこのことか。



「はっ!」


「せいや!」


 裂帛の気合いと共に、穂先と刃が唸りを上げた。空中で弾け合う。


 つづいて魔女は踏み込んだ右足を軸にして、くるりと左回転。次の瞬間、横殴りの一閃が襲ってくる。大鎌の柄で跳ね上げる。するとその反動を利用して、今度は右回転からの一撃が叩き込まれる。地面を思い切り蹴って、後方へと下がってかわした。


 馬上ではついぞ拝むことのなかった槍の動きだ。まるで輪舞のように美しく、激しかった。俺はいきなり殺されそうになっていた。


「せいやっ」

 しかし臆せず、むしろ嬉々として、俺はすぐさま前方へと走った。大鎌を振り下ろす。


 穂先に弾かれた。ただ、反撃としては半端であった。走った分の加速が付いた刃に、魔女の身体がやや押されたのである。容赦なく、二撃目を叩き込む。空を切った。魔女が形振り構わず、地面をゴロゴロと転がって距離を取ったのだ。


 俺もそうだが、魔女も回避は大きめにおこなっている。甲冑を着込んでいた時は多少の損傷など気にせずにいられたが、この戦いでは一撃でも喰らえば、それが致命傷となり得るからだ。


 背筋がゾクゾクとする。好敵手と一撃を競う殺し合い。それは食事の席に二つの好物が同時に出されたようなものだろう。


 立ち上がった魔女が、ぱんぱんと身体についた埃を払う。隙だらけのようだが、さすがにこれには引っ掛からない。

 俺は大鎌を軽く構えながら、相手の出方を窺った。


「何だ、誘いには乗ってくれないのか」

 コーングレイスの魔女がわざとつまらなそうな声を出した。


「そこが寝台の上だったなら、喜んで飛び込んでいったのだがな」

 俺は用心したまま、肩をすくめてみせた。


「フフ、寝台の上か。そのようなことを言われたら、つい思い出してしまうではないか。おまえの厚い胸板を、逞しい両腕を」


 おそらく、森の中で一番美しい獣が目を細めた。


「この手でこの唇で何度も何度も慈しんだ──その一方で、いつもずっと壊してみたかったということを」


 もともと俺たちは好敵手であり、互いにどうしても殺したいと執着していた。しかしなかなか殺せずに、それがやがて相手に対する尊敬の念を生み──さらに、それらがいつの間にか度を越して、混ざり合って、焦がれる心にまでになってしまった。余人はどうだか知らないが、俺たちにとって殺意は愛情であり、愛情は殺意でもあるのだ。ゆえに、愛し合う夫婦のままでありながら、殺し合う好敵手にも戻れるのだった。


 俺は畏まって応える。

「ああ。憎しみなどひとかけらもないが、俺もずっとおまえを殺したいと思っていたよ。最後にして絶対の存在になりたいと思っていたよ」


「~~~~っ!」

 途端、我が意を得たりとばかりに、魔女の殺意が、歓喜が高まった。広場の空気が張り詰めていく。全身全霊を込めて殺しに掛かることが、この場合、最大限の礼儀となるのだった。



 狂っているのかもしれないが、だとしても、二人揃って狂っているので問題はなかった。──愛娘だけには見せられないが。



 柄のしなりを利用して、こちらに向けられた槍の穂先がゆらゆらと揺れはじめる。


 不安定な馬上ではなく、二人ともしっかりとした大地に立っているがために、やけに気になる動きであった。


 俺の視線を惑わす小細工だとは解っていても、完全には無視できずに目の端で追ってしまう。


 その一瞬の隙を、俺の心臓ごと貫かんとして銀光が迫り来る。受けは間に合わない。横っ跳びでかわす。数回転がったあと、すぐさま地面を蹴りつけ、低く走る。


 魔女の足元に横薙ぎの一閃。しかし、そこにはもう何もなかった。視界の隅に銀色の煌めき。俺は空振りを無理に止めずにそのまま身を捻って、再び大鎌を振るう。


 激突音が鳴り響き、森の中に木霊する。


 二人とも距離を取って睨み合う──が、それも一瞬のこと。俺はただちに踏み込んだ。また穂先を揺らされるのを嫌ったためだ。


「せいや!」


「む!?」


 ただ、この速攻が意外に魔女の虚を衝いたらしく、それが反応の遅れとして現れた。


 大鎌を振り下ろし、その美しい黒髪を叩き割る──寸前、刃の根元にゴンと木のぶつかる音がした。


 槍の柄の中央で防がれたのだ。しかし、体勢としては俺のほうが整っていた。なので、そのまま力を込めて刃を押し下げていく。魔女は柄の端と端を持ってそれに耐える。


「くっ……」

 しばらく押し合いがつづいたのだが、やがて低く呻いたのは俺のほうだった。


 最初は確かにこちらが有利であったはずなのに、じりじり、じりじりと位置関係をずらされて、気づけば大鎌のほうが押されはじめていた。相変わらず、この辺りの技術は見事と言うほかない。


 これ以上の長居は無用──というか、不利になる。俺は敢えて大鎌に込めていた力を抜いた。


 急につっかえ棒が外れたように、魔女の上半身がわずかにつんのめって崩れる。その時にはもう俺は右足を半歩引いており、そこに全体重を溜めていた。次の瞬間、すべてを大鎌に乗せて解き放つ。


 渾身の一撃。


 ギン、と鈍い金属音。これも防がれてしまった。しかし、さすがにまだ魔女の体勢は崩れたままだった。


 ここぞと畳み掛ける。右斜め斬り、刃を返して左横薙ぎ、左足で踏み込んで、後方から大鎌を引き戻すようにしながらの斬り上げ。さらに、さらに攻撃を加える。俺が出せる最速の技で刈りつづける。


 にもかかわず──あと一歩届かなかった。


 結局、魔女は死の旋風をすべて凌ぎ切り、最後は地面を転がって俺の攻撃範囲から脱していった。


 堪らなかった。まったく以て堪らなかった。噛んでも噛んでも旨味がなくならない肉のようである。


 互いに荒い息をつきながら、あらためて向かい合う。


 視線と視線が交わされた。


「フフッ……」

 コーングレイスの魔女は妖艶な笑みを浮かべ──


「フッ……」

 アルフェドの死神は唇の片端を釣り上げた。


 二人ともこのままギリギリの殺し合いをつづけていたいと思っているに違いなかった。


 ──ただ、それは許されないことであった。


 この戦いを長引かせることは、すなわち、愛娘の苦しみを長引かせることになるからだ。


「……」

 俺は左肩と左足を前に出し、大鎌と右足を後ろに引いて半身となった。


 完全に後の先を狙う構えである。


 追っても追っても追いつけないのならば、ここは相手の攻撃を待とうというわけだ。そしてその攻撃をかわし、決定的な反撃を叩き込むのだ。


 もちろん、そのためにはこれまでのように大きく回避しては意味がない。それだと、いままでと似たような攻防をくり返すだけとなってしまう。ゆえに、ここでおこなうのは最小限の回避──紙一重の見切りである。


 実力が大きく離れている場合は、紙一重の見切りなど難しくはない。俺も戦場でさんざんおこなってきたことだ。実力が伯仲している場合でも、甲冑を着込んでいるのならば、その恩恵を当てにして強行することも可能である。実際、魔女との戦いにおいて用いたこともあった。しかしいまは、どちらでもない。むしろ、実力が伯仲している上に甲冑なしという悪いところ取りである。


 失敗すれば──死、であろう。確実に勝利を狙うのであれば、推奨できない手段である。


 ただし、成功すれば利点は大きい。紙一重の見切りでかわせた時、相手はまだその攻撃姿勢のままであり、そこにいままで以上の速さ──最速の最速で反撃をおこなえるからだ。


 俺の構えから、こちらの意図していることは魔女にも読み取れたはずである。


 先手を決められればコーングレイスの魔女の勝ち、それをかわせたらアルフェドの死神の勝ち、と。


 しかし、魔女がこちらの意図に付き合うとは限らなかった。彼女には彼女の戦い方がある……と思ったが、魔女はすんなり近づいてきて槍を構えた。


 そうだった。俺に勝負を挑まれて、逃げるような彼女ではなかった。


 二人は無言のまま正対した。


 木漏れ日が儚く刃と穂先に反射する。

 森の広場が静寂に包まれる。

 二人の息遣いだけが響き──やがてそれも溶けるようにして消えていく。


 俺は目と耳と肌を研ぎ澄ませ、心は凪いだ水面のように広げた。


 どれくらい経っただろうか。


 一瞬で夢から覚めるような感覚。


 その刺突は迅雷のようだった。


 閃いた時にはもう奔っていた。


 目ではほとんど追えなかった。


 しかし身体は反応していた。反応してくれていた。



 すべてを貫く死の一閃を、俺は紙一重の見切りでかわしていた。



 肌も触れ合わん距離に空振りしたままの魔女がいる──と認識したのは、半身の体勢を元に戻すようにして大鎌の柄を叩き込んだあとだった。


 ゴッという鈍い手応え。と同時に、魔女が吹っ飛んでいった。さすがに至近距離過ぎて刃での攻撃とはいかなかったが、それでも十分な損傷を与えられたはずである。


「かはっ……」

 実際魔女は、吹っ飛んでいった先の地面で腹部を押さえたまま、ろくに身動きもできずに転がっていた。


「……」

 万感胸に迫る──が、敢えて無視する。俺はとどめを刺すべく、スタスタと魔女の元へと向かった。ふと、その足が止まる。


「くっ……」

 美貌を歪め、槍を杖代わりにして、コーングレイスの魔女が無理やり立ち上がったからである。


 しかし、ふらふらしていた。どう見ても限界であり、演技であろうはずもなかった。──それでも驚くべきことに、彼女は槍を構え、小走りでこちらに向かいはじめたのであった。


「……」

 最後まで戦いを諦めない姿には尊敬の念を抱くが、先ほど刺突を放った時に比べれば、その動きは悲しいほどに遅かった。


 俺は足を止め、ゆったりと大鎌を構える。


 そのような苦しまぎれの攻撃、通じるはずもないのに。



 ──と思ったのが、俺の油断だったのだろう。



 ゆえに、槍の穂先が自分の立っている場所から数メートル手前の地面に突き刺さったのを見ても、それは魔女が途中で力尽きてしまったためだと判断したのだ。


 違った。


 地面に穂先を突き刺したまま、槍の柄が三日月のようにしなった。そして柄尻を握ったコーングレイスの魔女は、その反発力を利用して──



 跳躍していた。


 

 勢いや体重に耐えきれず、槍が折れてしまう可能性もあったはずだ。仮に跳躍できたとしても、槍から手が離れて攻撃手段を失ってしまう可能性もあったはずだ。そもそも俺がまったく油断しない可能性もあったはずだ。そこはおそらく賭けだったのだろう。


 すべての賭けに勝利して、コーングレイスの魔女はいま猛禽の如く頭上に羽ばたいていた。鋭い爪を振るわんとしていた。


 予想外の動きに、俺は完全に固まってしまっていた。


 舞い降りてくる魔女の姿はしっかりと見えている。にもかかわらず、身体が言うことを聞いてくれない。大鎌は間に合わない。飛びすさることもできない。


 どうにか首だけを右にねじ曲げた。


 左肩に凄まじい衝撃。


 世界が真っ白になり、平衡感覚が失われた。


 立っているのか倒れているのか、自分の状態が把握できなかった。


 しかし、魔女がとどめを刺しに来るのは確実だったので、本能的に大鎌の感触を指先に求めた、次の瞬間。



 腹部に灼熱の痛みが走った。



 ゆっくりと、視界が戻ってくる。


 そこには──透きとおった空と、冷々たる美貌。


 コーングレイスの魔女は両手で槍の柄を握りしめており、その穂先は深々とアルフェドの死神の身体を貫いていた。



 ついに殺し合いの決着がついたのだ。



「……」


「……」


 二人して乱れた呼吸をしながら、そのまましばらく見つめ合っていた。


 やがて魔女は、仰向けに倒れた俺の真横に腰を下ろして言った。

「……私の勝ちだ」


「ああ……、俺の負けだ」


 腹に槍が突き立ったまま会話するというのはなかなかに不思議な光景だった。しかし、いまそれを引き抜かれると激痛と大量出血であっという間にあの世行きであろう。もちろん、このままでも遠からずあの世行きであろうが、もう少しだけ魔女と言葉を交わしておきたかった。おそらく彼女もそう思ってくれているのだろう。


「最後の最後で油断したか」


「そうだな、油断したな」


「まったく……今日に限ったことではないが、ジェイドよ、おまえには詰めが甘いところがあるぞ」


「……」


「丹精込めた農作物の収穫時期を間違えたり、上物の毛皮をいつの間にか店主の口車に乗せられて安く買い叩かれそうになったりとかな。子供の教育でもそうだ。最初はいい具合に厳しくしつけられていたのが、気づけばシェナのご機嫌取りになっていたこともあった」


「……お、おいおいナザリー、ちょっと待ってくれ。もうすぐ死にそうだというのに、まさか説教されるとは思わなかったぞ」


「まあ、そう言うな。私は生まれ変わっても、かならずおまえの元に行くからな。ゆえに、いまこうして説教しているのも決して無駄にはならないさ」


「……! そうか。生まれ変わっても、か。悪くないな……」


「それと、次は私に負けるなよ。私の好みはな、『自分より強い男』なのだからな」


「ああ、そうだったな。ならば、それも肝に銘じておこう。……ただ、その肝から絶賛出血中なので少し心許ないが」


 俺は笑おうとした。喉の奥から別の熱いものがこみ上げてきて咳き込んでしまった。


 急速に視界が霞みはじめる。


「ジェイド……」

 額を優しく撫でられたようだったが、それもよく解らなくなってきた。


 ──ここまでか。



 窓から差し込む光の中、あどけなく欠伸する愛娘の姿が思い浮かんだ。



 最後の力を振り絞って告げる。

「ナザリー、あとのことは頼んだぞ」


「ああ、任せておけ。絶対にシェナは救ってみせる。どんな困難があろうとも、絶対にだ。だからおまえは何も心配しなくていい。何も心配しなくていいのだよ」


 その口調は力強くありながら、何処か子守歌のようでもあった。



 俺は微睡みを覚えて──



 完。

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