第二十幕 日溜まりの中のようだった
「あははははっ」
そろそろ薪を割っておかねばならなかったため、今日は狩りは休みにして庭でその作業をしていた俺の耳に、家の中から少女たちの明るい笑い声が響いてきた。
昼過ぎからシェナーナの友だち三人が遊びに来ているのだった。先ほどまではその辺で花を摘んで花飾りをつくっていたのだが、いまは中に入って妻が用意したおやつを食べているようだ。
窓越しに、ちらりと様子を窺ってみる。シェナーナは同い年の少女たちと楽しそうに話していた。
その少女たちはこの村の生まれで、根っからのサシュナータ人である。我が愛娘もこの村の生まれで、根っからのサシュナータ人──ではなかった。アルフェド人とコーングレイス人の混血である。
しかしそれは、シェナーナ本人にもこの村の人々にも秘密となっていた。シェナーナは自分のことをサシュナータ人だと思っている。村の人々も俺たち夫婦がよそから来た人間であることは承知しているが、アルフェド人とコーングレイス人とまでは思っていなかった。
そして俺とナザリーは、このままでいいと思っていた。多少の後ろめたさはあったものの、今後も教えるつもりはなかった。シェナーナがここでずっと穏やかに暮らしていくためには不必要な情報だったからだ。無論、両親が貴族であったり死神や魔女と呼ばれていたりしたことも知らなくていい。
幸い、シェナーナにはアルフェド人とコーングレイス人の特徴である、尚武の気風というものが見受けられなかった。女の子にしては棒切れを持って野っ原を駆け回っていることが多い気もするが、度を越しているわけではない。この間のように狩猟に興味を示すようなこともあるが、それも子供のよくある好奇心の範疇に収まるだろう。
俺とナザリーの血を引いているので、普通よりも色濃く出るかもしれないと心配していたのだが、村の子供たちと特に変わることなく、すくすくと大きくなってくれている。
生まれ育った環境が違うせいだろうか──?
と俺は少し考えてみたのだが、そこで思い出したのが自分の父親のことだった。
あの人は、アルフェド人であるにもかかわらず、戦いに興味を示さなかった。書類仕事と畑仕事だけをしていた。つまり、そんな父親の元で育った俺もまた、シェナーナと同じように普通のアルフェド人とは生まれ育った環境が違うことになるわけだが……俺は死神と呼ばれるほどにアルフェド人らしいアルフェド人となってしまった。
──血筋や環境の影響はあるにせよ、結局のところは個人差ということか。あるいは、シェナーナは俺の父親に似たということか。
まあ何であっても、我が愛娘がこの村に馴染めているのならば構いはしないが。
そう適当に考えをまとまると、俺は休めていた手を動かして薪を割りはじめた。しかし、三本目ですぐに止まってしまう。脳裡には、久しぶりに思い出した父のことがこびりついていた。
俺と父の関係はあまり上手くいかなかった。尚武の気風を見せぬ姿に、俺が反感を抱いていたせいだ。
ただ、戦いから遠く離れて、さらに戦いとは無縁な愛娘を授かって、ようやく自分の父親のような生き方も悪くないと思えるようになっていた。
いまさら勝手すぎる話だが……俺は北方の空を振り仰ぐ。祖国の方角にしばし黙祷を捧げた。
もう二度とは帰らないであろう場所へ。
──とはいっても、実のところ、距離としてはそんなに離れているわけではなかった。
この村からサシュナータ王国北部の国境までは馬で四日ほどで辿り着いてしまえるのだった。飛ばせば二日で、かつて俺たちが一泊したことのあるコーングレイス王国の最南端の町も望めるだろう。
俺たちはサシュナータに入ってから半年ほどあちこちを旅していたが、当時は土地勘に乏しかったため、結局は同じようなところをうろうろしてあまり南下はしていなかったということだ。
再び俺は休めていた手を動かして薪を割りはじめた。家の中から妻と子供たちが何かを話している声が聞こえてくる。おやつの時間はまだつづいているようだ。ナザリーはここで暮らしはじめるまでお菓子などつくったことはなかったはずだが、いつの間にかしっかりと用意できるようになっていた。
──祖国が遠かろうと近かろうと、それはもはや関係ないのだろう。俺もナザリーもすでにこの村の人間だった。
ちなみに、俺たちが貴族であった頃の財産もすでになくなっていると思われた。俺の少しばかりの財産は父母の治療費によってできた借金の形に取られているだろうし、妻のそれなりにあったという財産も親族の誰かに相続されているだろう。俺たちがマドゥーカ盆地で姿をくらませてから六年、その辺りの法的処置はとっくに完了しているに違いなかった。
夕暮れ。友だちを見送ったシェナーナが、いったん自分の部屋に戻ったあと、俺とナザリーを呼び寄せた。後ろ手に何かを隠し持っているようである。
「どうした?」
声を掛けると、シェナーナは満面の笑みを浮かべて両手を前に差し出した。
「あげるー」
それは花で編まれた冠であった。
「おおっ」
夫婦揃って声を上げると、「座って座って」と愛娘が急かす。腰を下ろしたナザリーの頭の上に、シェナーナ自らが花冠を被せた。
「ほう、よく似合っている」
白い花と緑の茎で編まれた花冠と黒髪のナザリー。絵になるとはまさにこういうことを言うのだろう。
「そうか?」
贈りものに手を添えてこちらを見上げた妻がはにかむように言った。
「うむ、三十路が近いとはとても思えん」
頷いた途端、膝の辺りをパシッとはたかれた。……まあ確かに、余計な一言ではあった。
「ねー、お父さんも!」
「えっ、お父さんもかい?」
よく見れば、シェナーナの手にはもう一つ花冠が残っていた。愛娘が手づくりしてくれたもの。それは間違いなく嬉しいのだが……男に花冠というのはどうなのだろうか。正直、微妙な気持ちで腰を下ろした。
「ど、どうだ?」
愛娘から白い花冠を頂戴した俺は、隣に訊いてみた。
「フッ」
ナザリーが鼻で笑った。
「酷いな」
「いや、すまない。……目を瞑ってさえいれば、見れないこともないぞ」
「それはつまり、見るに堪えないということか」
「えー、お父さん可愛いよー!」
シェナーナが大きな声で俺の味方をしてくれた。
……しかし、大抵の男は「可愛い」と呼ばれて喜ぶような生きものではないのだった。鼻で笑われるよりははるかにマシではあるけれど。
「ありがとう、シェナーナ。この冠、大切にするよ」
本音を飲み込んで、俺はシェナーナの頭を撫でた。何にせよ、愛娘のおかげで幸福な時間を過ごせたのは事実であった。
「むふー」
よくなついた猫のように、シェナーナは目を細めて撫でられるままになっている。
「そうだな、いずれは乾燥させて壁にでも飾るとしよう」
変なツボに入ってしまったらしく先ほどからずっとナザリーは忍び笑いをしていたのだが、ようやく正気に戻ってそのように言った。
「ああ、いい考えだ」
笑われたことはさらっと流して俺は賛同する。
「わーい、かんそーう!」
たぶんよく解っていないのだろうが、シェナーナも喜んでいた。
窓の外はもう暗くなりはじめている。しかしここは、まるで日溜まりの中のようだった。
思わず微睡んでしまいそうな。
家族三人が大切に思い合っている場所。
問題など何もない。
何もない──そのはずであった。
□ □ □
時折、ナザリーが怪しげな行動を取ることを、俺は知っていた。
はじめてそれを目撃したのは、シェナーナがいまよりもう少し幼かった頃だ。
俺とナザリーは交代で近くの森にいって狩りをし、それで生計を立てていた。季節や天候にもよるし家の脇には小さい畑もつくったので、毎日かならず狩りにいくというわけではなかったが、やはり性に合っているのだろう、俺たちのどちらかはだいたい森へと出掛けていた。そして残ったほうが、家の仕事と愛娘の世話をするのである。
もちろん、この村に来た当初はナザリーが身重だったため、俺だけが狩りにいっていたのだが、シェナーナの成長が落ち着いた頃、妻も復帰したのだった。ちなみにかなり早い段階で、この村の引退していた狩人のじいさんから狩猟道具一式を安く譲ってもらえたので、単独の狩りでも十分に成果を上げられるようになっていた。
また、サシュナータでは貴族でもなければ女性が狩猟に赴くことはなかったのだが、ここはいまさら変えるわけにもいかず、「うちの妻は子供の頃から男勝りで」とごまかしておくことにした。
ともあれ、あれは二、三年前──ナザリーが森へと出掛け、俺が家に残った日のことだった。
シェナーナは最初はいつものように機嫌がよかったのだが、少しうたた寝をしたかと思ったら、急に火がついたように泣きはじめてしまった。どうやら恐い夢でも見たらしく「お母さん! お母さん!」と凄まじい勢いで呼びつづけた。
シェナーナはよく甘えて駄々をこねはするものの、このように癇癪を起こすことはいままでになかった。どんなになだめてもすかしてもいっこうに収まる気配がない。ひたすら「お母さん! お母さん!」とくり返す。俺はすっかり動揺してしまった。
「わ、解った。すぐにお母さんを呼んでくるからな、少し待っていろ」
これはもうそれしか方法がないと思い、俺は慌てて家から飛び出した。妻が何処で狩りをしているかは知っていたし、その場所も遠くはなかった。
森へとつづく小道を全力疾走していく。こんなに走るのは、戦場以来だろうか。いや、戦場では馬に乗っていることが多く、自らが走ることなどめったになかった。──焦りすぎているせいか、逆にどうでもいいような考えが浮かんできてしまう。俺は軽く頭を振ると、先を急いだ。
その足が、不意に止まった。
目的地まであと少しというところで、ただならぬものを感じ取ったためである。
森の奥からかすかに漂ってくるそれは、かつては散々に浴びせられ、散々に振り撒いたものだった。しかし、いまではすっかり遠ざかったはずのものだった。
──殺気。
しかも、この殺気は俺がよく知っているものだった。
驚きつつも気配を消し、打って変わって慎重に歩を進める。
しばらくすると、木々の隙間の先に少し開けた場所が見えた。
そこに、ナザリーがいた。
──否。いまはコーングレイスの魔女と呼ぶべきか。
彼女は広場の中心で長い棒切れを構えていた。
とはいえ、周囲に獲物の姿はまったくない。ナザリーは狩猟しているのではなかった。
一瞬後、目にも留まらぬ速さの突きが宙を貫いた。戦場を彷彿とさせるその殺気──彼女は戦闘の訓練をしているに違いなかった。
「……」
どうして、と反射的に思った。いまの俺たちにはもう必要ないはずなのに、と。しかし、それを口には出さなかった。訊くのがためらわれたというだけではない。……実のところ、俺にも身に覚えがあったからだ。
二、三回、静かに深呼吸をした。いろいろと思うところはあったが、いまは見なかったことにする。家でまだ泣き叫んでいるであろうシェナーナのほうが先決だ。
俺はわざとガザゴソと音を立てて歩きはじめた。
「──ジェイドか?」
棒切れをさっと茂みの中に隠したあと、ナザリーがこちらを振り向いた。殺気は跡形もなく消えていた。
「ああ、よかった。ここにいたのか」
声を掛けられてようやく気がついたかのように装いつつ、俺は小走りに近づいた。
「実はシェナーナが──」
手短に事情を説明すると、ナザリーが柳眉を寄せた。
「それでおまえは、泣いているシェナを一人で残してきたのか」
妻はきついことをよく口にするが、本気で怒ることはめったにない人間だ。ただ、この時の声にははっきりと苛立ちの色が顕れていた。
しかし言われてみれば、まったく以てそのとおりだった。シェナーナをここまで抱えてきてもよかったのである。
「すまない。つい慌ててしまって」
「まあいい。とにかく急いで戻ろう」
ナザリーが近くに置いてあった狩猟道具を片付けようとしたので、俺はそれを制して先にいくように促した。
「では、頼む」
短く告げると、妻はすぐに走り去っていった。
「……」
その背中を見送りながら、俺は先ほどの光景を思い出す。結局ナザリーは、戦闘の訓練については話題にしないままだった。もちろん愛娘のほうが心配でそれどころではなかったというのは確かだろう。ただ……俺の下手くそな演技が通じたとは思えないので、おそらく見られてしまったこと自体には気がついているはずだ。それでも敢えて一言も触れなかったということは──つまりそういうことなのだろう。かくいう俺も、この件については深入りするつもりはなかった。手早く狩猟道具をまとめると、ナザリーのあとを追った。
それほど遅れなかったはずであるが、俺が家に着いた頃にはもうシェナーナの泣き声は聞こえなくなっていた。部屋の中を覗いてみると、母親の腕の中でしっかりと抱きついている愛娘の姿があった。まだ多少はぐずぐずしていたが、先ほどに比べればはるかに落ち着いている。俺はホッと胸を撫で下ろし、二人を見守った。
「……お腹空いた」
半刻ほど母親にへばりついたままであったシェナーナが不意に呟いた。
「では──」
「いや、俺がやろう。お母さんはそのままでいてくれ。元々今日は俺の当番だしな」
立ち上がり掛けた妻にそう言って、俺は台所に向かった。凝ったものはつくれないが、それなりのものは用意できるのだ。
「お父さん、美味しー」
しばらくして、肉と野菜を煮込んだスープとパンを卓子の上に並べると、シェナーナは嬉しそうに頬張った。そのあとはすっかりいつもの調子を取り戻し、俺とナザリーに遊んでくれとせがんできた。
今日はもう仕方がないという雰囲気となっていたので、二人ともシェナーナに付き合うことにした。最初は家の中で積み木をしていたのだが、そのうち庭に出て追い掛けっことなった。
そろそろ日が暮れそうになった頃、当番の俺は夕食の準備のために先に家の中へと戻ろうとしたのだが、「夜はお母さんの料理が食べたーい」という愛娘の一言で、あっさりお役御免となった。
代わりに家の中へと戻った妻のあとにシェナーナもついていってしまったので、俺は一人庭に取り残された。
「今日はいろいろあったな……」
小さく溜息をつくと、家の脇にある小さな納屋に目を向けた。そこには狩猟道具や農機具がしまってある。
……大鎌もだ。戦闘用にはまったく調整していない、ごく普通の草を刈るだけのものだったが、大鎌には違いなかった。
そして俺は、妻や愛娘の目を盗んで、時折それを振るっていたのだ。先ほどのナザリーのように。
いまの暮らしに不満があるわけではない。むしろ幸福だと思っている。──にもかかわらず、それでもどうしようもなく身体の奥が疼く時があるのだった。たぶん妻も同じなのではないだろうか。
シェナーナ・アシュールは、シェナーナ・アシュール以外の何者でもない。
しかしジェイド・アシュールとナザリー・アシュールは、それら以外の何者かがいまもなお潜んでいるということなのだろう……。
□ □ □
「えへへー、お揃いっ」
俺の花冠を被せてやると、シェナーナは母親に顔を近づけて喜んだ。妻も微笑んでいる。
「……」
あれからもナザリーは、戦闘の訓練をひっそりとおこなっているようだった。わざわざ確認しにいったわけではないが、何となく雰囲気で察せられるのだ。
俺も俺で、妻が愛娘を連れて何処かへ出掛けている時、大鎌を振るいつづけていた。それを見られた覚えはなかったが、畑で本来の使い方をしている時にナザリーから意味ありげな視線を向けられたことがあった。もしかしたら何かの拍子に気づかれたのかもしれない。
しかし俺たちの中でそのことが話題になることは一度もなかった。互いに怪しげな行動を取っているとはいえ、それを追及したところで何かいいものが出てくるわけではないと解っているからだろう。
結局のところあれは、戦いばかりしてきた人間の性──あるいは、後遺症とでも呼ぶべきものだと思われた。
「ねー、お父さん」
妻にじゃれついていた愛娘が、今度は俺の前に立って少しおしゃまな姿勢を取った。
一瞬首を傾げてしまったが、すぐに察する。
「ああ、よく似合っている。とても可愛いよ」
俺は愛娘から学んだ、満面の笑みというやつをつくってそう言った。
「えへへー」
シェナーナは頭の花冠に両手を添えて、その場でくるくると回ってみせた。
まるで日溜まりの中のようだった。
思わず微睡んでしまいそうな。
家族三人が大切に思い合っている場所。
この光景がいつまでもつづけばいい、と俺は思った。




