第十九幕 新世界
「あっ、お帰り、お父さーん」
村の中心から少し外れて、森の近くにぽつんと建つ一軒家。昼過ぎ、俺がその我が家に帰ってくると、庭先で遊んでいた少女がこちらに気づき、元気よく手を振ってきた。シェナーナ・アシュール。今年で六歳になる我が愛娘である。
「ああ、ただいま。いい子にしていたか」
「してたー!」
満面の笑みを浮かべながらシェナーナが駆け寄ってくる。
俺の両手は荷物で塞がっていたのだが、それを無理やり持ち直し、空いた片手を差し伸べる。するとそこに、まるで体当たりするかのようにシェナーナが抱きついてきた。
「嘘をつけ、シェナ。勉強せずに遊んでばかりいて、全然いい子にしていなかったではないか」
娘を片手にぶら下げたまま歩いていると、家の脇で何やら片付けをしていたらしい妻がひょいと顔を出してそう言った。
「えー、勉強したもーん。ちょっとしたもーん」
シェナーナがぷいっと横を向いて頬を膨らませる。可愛らしい。それに対し、妻は小さく溜息をつく。
「たった五分ではちょっとのうちにも入らないぞ……」
「まあまあお母さん、それくらいにしておいてやれ」
俺が執り成すと、妻がジロリとこちらに視線を向けてきた。
「まったくお父さんはシェナに甘いな。──それにしても、我が娘にも困ったものだ。いつまで経っても野っ原を駆け回ってばかりいる。いったい誰に似たのだか」
「まあ、俺だろうな。俺も子供の頃は野っ原を駆け回ってばかりいた」
「いや!? 私も野っ原を駆け回ってばかりいたが!?」
妻が急に主張してきた。自分で話の流れをつくっておきながら、いざ俺がそれに乗っかってみるとおもしろくなかったらしい。勝手なものだが、シェナーナは目に入れても痛くないので、少しも譲りたくない気持ちはよく解る。
「ねえねえ、お父さん。いつもより多くない?」
俺の片手にまとわりついたまま、シェナーナは反対側の手のほうを覗き込んできた。
そこにはいろいろな道具と共に、紐で括りつけられた大量の獲物があった。十二匹の兎である。俺は自慢げに紐を掲げてみせた。
「さすがシェナーナ、お目が高い。いままでの最高記録であった、お母さんの一日十匹を越えたのだ。すごいだろう?」
「すごーい、お父さん」
愛娘が無邪気にはしゃぐ。その姿を堪能したあと、俺は視線の向きを変えてくり返してみる。
「お母さんの一日十匹を越えたのだ。すごいだろう?」
「……くっ」
妻が、せっかくの美貌を歪めて呻いた。
昔から俺と妻は何かにつけて競い合っているのだった。これで何百戦目になるのかはもう数えていないが、また一つ俺の勝利が増えたことには変わりない。
「ふふん」
大人げなくふんぞり返った態度を見せていると、妻が少しむくれた顔で言う。
「明日は、私が狩りにいく。シェナの世話は任せたぞ」
「ああ、それはもちろん構わないが。まあでも、十二匹は無理ではないかな。無理ではないかな」
「抜かせ、せいぜい一日天下を楽しんでおくといい」
夫が挑発的な言葉を吐くと、妻は挑戦的な言葉で応えた。
「ねえねえ、お母さん。シェナも一緒に狩りにいきたーい」
両親が目と目で火花を散らすのはよくあることなので、愛娘はそれをするっと受け流して願いごとをしてきた。
「ううむ。シェナにはまだ早いかな。森は危ないから」
妻が声色を優しいものに一変させて、愛娘を諭す。
「えー、またそれ~、前にも聞いたー。やー」
「嫌と言われてもな……」
妻が困ったようにこちらを見る。助け船を出せ、ということだろう。
俺は少し考えてからシェナーナに向き直る。
「よし、いいだろう。お母さんに狩りに連れていってもらえ」
「やったー!」
「お父さん!」
妻の非難めいた声に目配せを送ったあと、俺は抱えていた道具の中から一張りの弓をシェナーナの前の地面に置いた。
「しかしな、シェナーナ。狩りいくのであれば、この弓ぐらい引けるようでなくては困る」
「うん、解った!」
愛娘は素直に頷き、早速弓をいじりはじめる。しかし、弦はびくともしなかった。当然である。大の大人でもまともに引けないやつがいるくらいなのだから、小さい子供にどうにかできるはずもない。
体よく愛娘をだまくらかした俺は、妻に対して片目を瞑った。彼女は肩をすくめてみせた。
「んー、んー、んー!」
すぐに音を上げると思ったのだが、意外とシェナーナは夢中になって弓と格闘している。万が一にも切ってしまわないようにその手に布を巻くことにした。
それから俺は取り敢えず道具をしまおうと家の裏手へと回る。妻もまだ片付けが残っているらしく家の脇へと戻っていった。
よく晴れた空の下、愛娘の一生懸命な声が響きつづける。
ここは、サシュナータ王国の北部にある小さな村。
森と小川が近くにあり、村人たちは決して裕福ではないが貧しくもなく、穏やかに暮らしている。
そのおかげだろう、六年ほど前によそから流れてきた俺たち夫婦にも温かく接してくれた。妻がすでに身重だったということも、もちろんそれを助長したと思われるが。
いずれにせよ村人たちの厚意によって、俺たち夫婦は住む場所だけでなく、無事に我が子を授かることもできたのだった。この小さな村には感謝しかなく、いまは多少なりとも恩を返そうと、我がアシュール家は狩人としての日々を送っている。
そう、アシュール──俺たちのいまの姓である。俺はジェイド・アシュールで、妻はナザリー・アシュール。
しかし、かつては違った。
俺はジェイド・リッカーで、妻はナザリー・ロッシュ。
死神と、そして魔女と呼ばれていた者たちである。
□ □ □
六年ほど前。
俺たちは特に問題なく、コーングレイス王国の最南端の町からサシュナータ王国の北部に入ることができた。人が住んでいない辺ぴな場所さえ選べば、国境越えは難しくはないのである。
「ここが異国、サシュナータ」
と言ったナザリーの声はとても楽しそうで、伸びやかであった。
それはそうだろう。ここはもうアルフェドでもなければコーングレイスでもない。完全に異国である。白昼堂々、俺とナザリーが手を繋いでいようとも誰に咎められることもないのだった。
「不思議なものだな、空の色が違うわけでも土の匂いが違うわけでもないのに、すべてが新鮮に感じる」
そう応えた俺の声も何処か浮ついたものだった。
「フフ。──取り敢えず、あの少し先に見える山でも目指してみようか」
「ああ、いいのではないか。獲物が多そうだ」
二人は並んで野っ原を歩きはじめた。
当面、俺たちは定住地を求めず、狩猟ができそうな場所を選んで旅をするつもりでいた。こうして無事に異国まで来られた以上は、もはや先を急ぐ理由はない。これだという場所が見つかるまでは気ままにいこうと決めていたのである。二人とも元は貴族とはいえ、戦ばかりの日々で野営も頻繁におこなってきた身なので特に問題はないだろう。実際、ここまでの道のりも大変ではあったが、苦しくはなかった。
旅商人ならぬ、旅狩人とでも言ったところか。そんな言葉があるのかどうかは知らないが、季節ごとに狩り場を変える狩人は一定数以上いる。俺たちも、そういう者たちと似たような生き方をしていくことになるだろう。
「いっそのこと、サシュナータ人だと称してしまおうか」
ナザリーがそう言い出したのは、たわいもない話をしているうちに、数ヶ月前の丘陵の戦いに行き着いたからである。
あの戦いにおいて、アルフェド・コーングレイス共同軍は、サシュナータ軍を散々に打ち破った。それからまだたいして時間が経っていないため、俺たちがアルフェドとコーングレイスの者だと知られると悪感情を持たれるのではないかと懸念を抱いたわけである。
「それもいいかもしれないな」
俺は頷いた。
先祖を同じくするアルフェド人とコーングレイス人は当然だが、サシュナータ人も外見的な特徴は大きくは変わらない。気候が少し暖かいせいか、サシュナータ人のほうが目元がやわらかい気がするが、決定的な違いというほどではなかった。言語もほぼ同じである。俺たちにはサシュナータ人の言葉は多少訛ったように聞こえるが、彼らにしてみれば俺たちのほうが訛っているということになるのだろう。いずれにせよ、気をつけてさえいればごまかせる範囲内だと思われた。
「先はともかく、まだしばらくはこの国を旅する予定だ。余計な波風を立てぬためにも、サシュナータ人として振る舞っておいて損はないと思う。ただ、俺たちの国とこの国とでは文化や風習の面でかなり異なるはずだ。その辺はボロが出ないようにしておかないといけない」
「確かに、そこは注意すべきだな。しかしまあ、神経質になるほどでもないだろう。狩猟に適した場所は大抵人里から離れている。私たちがサシュナータ人に接触する機会は少ないはずだ。狩った獲物を売りさばく時や必要な品を買い入れる時くらいだろう」
こうして俺たちはサシュナータ人を称することにし、その後、アシュール姓を名乗ることにもした。さり気なく調べた結果、ジェイドとナザリーという名はこの国でもおかしくはなかったのだが、リッカーとロッシュという姓はこの国では聞かないと知ったからである。ちなみに、アシュールはこの国ではありふれた姓であり、あまり目立ちたくない俺たちにはふさわしいものだった。
それから半年ほどは山や森を適当に回りながら旅をつづけた。好きな時に狩猟し、好きな時に飲み食いし、好きな時に眠った。無論、獲物にまったく恵まれず途方に暮れることもあったが、そういう時は二人で励まし合って過ごした。
戦いから遠く離れ、まるで休息を取っているかのようなゆっくりとした日々だった。
世界がこんなにも穏やかに見えたのははじめてだった。
──そんなふうに思っていた矢先のこと、事態が急変した。
ナザリーの体調が悪くなったのである。俺に劣らず、ナザリーも相当鍛えている。その彼女が不調を訴えてきたので、俺はかなり慌てた。
しかし折り悪く森の奥にいて、すぐに医者を探すことはできなかった。ナザリー自身が「しばらくおとなしくしていれば回復するだろう」と言ったこともあり、数日間はそこで様子を見ていたのだが、彼女の体調はいっこうによくならなかった。
俺は気が気ではなかった。そんな時、ナザリーが急に思い当たったように口を開いた。
「そういえば……月のものが来ていない」
「!!」
「私でも……魔女と呼ばれた私でも身籠ることができるのか……」
ナザリーが呟いた。その声は小さな驚きを帯びていた。
俺も死神と呼ばれた男だ、その感覚は解らなくもない。人並みの幸せを何処か遠くに感じていたのだ。
しかしいまは、そんなことを言っている場合ではない。背中にありったけの荷物を負うと、両腕にナザリーの身体を抱え込んだ。
「とにかく急いで森を出よう」
「そ、それは解ったが、降ろせ、自分で歩ける」
「気にするな。これくらいたいしたことではない。俺の体力はおまえが一番知っているだろう?」
俺は可能な限り速く、しかし腕の中のナザリーをできるだけ揺らさずに森の出口を目指した。
正直、まだ地理がしっかりと頭に入っていなかったのだが──それでも曖昧な記憶を必死に辿り、人がいると思われる場所へと急いだ。
そして数時間後、運良く森から流れる小川沿いの小さな村に駆け込むことができたのだった。
しかし、いくら俺たちがサシュナター人を称しているとはいえ、結局のところ、この小さな村から見れば「外から来た知らない人間」でしかない。面倒ごとに巻き込むなと拒絶される可能性も考えられたのだが……それはまったくの杞憂で終わった。俺たちは温かく迎え入れられたのだった。
この村には医者はいなかったのだが、優秀な産婆と出産経験者たる女性陣が何くれとなく世話を焼いてくれ、数ヶ月後、無事に愛娘シェナーナを授かることができた。村に来た当初、俺たちにはサシュナータ人らしくない言動がちらほら見られたようだが、その辺りは「各地を転々としてきたせい」ということで適当にごましておいた。
それから六年ほど経ったいま、俺とナザリーはすっかりここに居ついてしまった。旅狩人とはならず、地域に根差した狩人として生計を立てながら、愛娘のシェナーナと共に平穏に暮らしているのであった。
□ □ □
「お父さん、引けなーい。引いてー」
びくともしない弦に、それでもシェナーナは飽きもせずに挑戦しつづけていたのだが、さすがに小一時間も経つと嫌になったようだ。
「お父さんが引いたら意味がないだろう」
「やー、引いてー、引いてー」
駄々をこねはじめてしまった。
俺は一応やれやれと肩をすくめてみせたが、可愛いのでまったく問題はなかった。庭に置いた台の上で獲物の処理をしていた手を休めると、地面でジタバタしている愛娘のところに向かう。
「ではシェナーナ、もう一度弓を構えてごらん。お父さんも一緒に引いてあげるから」
「う~ん」
表情はまだ何処か不満そうだったが、シェナーナは素直に身を起こして弓を持った。
その子供らしくぎこちない立ち姿の背後に回ると、俺は愛娘の手に手を合わせて弦を引いた。
「わー、引けたー!」
シェナーナが歓声を上げた。よほど嬉しかったのか、そのまま何度も引いたり戻したりをくり返す。
俺はそれに力を貸しながら、これでは当分狩りには連れてはいけないなと苦笑した。──というか、尚武の国であるアルフェドとコーングレイスでは女性が狩人になるのは珍しくなかったが、ここサシュナータではめったにないことだ。シェナーナはまだ小さいので、母のナザリーが特別であると気づいていないのだろう。
そして俺としては、いまこうして弓を引くことに付き合ってはいるものの、シェナーナには常に危険が伴う狩人にはなってほしくなかった。できればこの国の風土に合った、ごく普通の職業に就き、ごく普通の結婚をしてほしかった。
いや、待て。
結婚……、だと!?
うちの娘は誰にもやらんぞ……!
あっさり前言を翻し、このまま弓の英才教育を施して、将来シェナーナが一人でも生きていけるようにしておくべきか、と俺が半ば本気で悩みはじめたところ──
「二人とも、そろそろ夕食にしようか」
いつの間にか食事の準備をしてくれていた妻が、家の窓から声を掛けてきた。
「はーい!」
腕の中でシェナーナが元気よく返事をし、そのまま駆け出していく。
雑に地面へと放り出された弓を見ながら、俺は頭を掻いた。我ながら親バカが過ぎる、と。




