第十八幕 異国へ
異国で一緒に暮らすと決めたあと、俺とナザリーは早々に旅立った。
マドゥーカ盆地におけるシリン侯爵とバルルカ侯爵の決戦がどうなったのかは解らなかったが、何にせよ、いつまでも近くにいるべきではなかった。俺たちが落下した崖下には多少の荷物が残っているはずだが、それを取りに戻るのも得策ではなかった。万が一にも俺たちがただならぬ仲になってしまったことを知られれば、国や同胞を裏切ったとして激しく非難されるのは明らかだった。いや、非難だけでは済まされないだろう。
契りを交わした山小屋から出て、二人が目指したのは──南。
マドゥーカ盆地はアルフェドとコーングレイスの国境線沿いに位置していた。東西はもちろん俺たちの国であり、どちらを通り抜けていくにしても異国まではかなり遠く、しかも人目を憚りながらの厳しい道のりとなる。北はいずれ極寒の海に出るだけ。その点、南はこのまま山林を下れば徒歩でも十数日ほどでサシュナータの北部に辿り着けるはずだった。
つい数ヶ月前にかなり容赦なく返り討ちにしてやった国なので、そこを目指すことには多少のためらいを覚えた。しかし地理的条件からいって、他に選択の余地はなかったのである。とにかくサシュナータまで向かい、あとのことはそれから考えようと俺たちは決めたのだった。
旅するに当たっては、念のために山道も避け、マドゥーカ盆地から南へとつづく山林の中をひたすら掻き分けて進むことにした。
正直、徒歩にはあまり適していなかった。ただ、狩猟には適していたのでよしと考えるべきだろう。何せ二人は着の身着のままであり、食料は自分たちの手で調達しなければならなかったからだ。
ちなみに、狩猟は貴族の嗜みとされている。遊戯にも鍛錬にもなるので何処の国の貴族にも好まれていた。元々が狩猟民族であるアルフェドとコーングレイスにおいては特に人気であり、俺もナザリーも得意とするところだった。
「では、どちらが多く獲物を狩るか、ここは一つ競ってみようではないか」
旅をはじめてからしばらく経った頃、ナザリーがそう提案してきた。もちろん俺は受けて立った。
「いいだろう。あとで吠え面をかくなよ?」
「ふふん。その言葉、そっくりそのまま返してやろう」
こうして二人とも自信満々の顔で別れ、それぞれ狩猟へと赴いたのだが……二時間後に合流した時、二人揃って吠え面をかいていた。
「あれだな……狩りというものは、まともな道具があってこそなのだな」
「同感だ」
木の根元に座り込んだナザリーのしみじみとした声に、俺は深く頷いた。
二人は着の身着のままだったので、当然のことながら狩猟の道具など持っていなかった。ゆえに、唯一所持していたナザリーの短剣を利用してその辺の木の枝や棒、蔓などから槍と弓矢をつくってことに臨んだのである。どう見ても頼りない道具ではあったものの、なまじ腕に覚えのある俺たちはそれでも何とかなると思ったのだ。
何とかならなかった。
結果は惨憺たるもので、二人ともただの一匹も仕留められなかった。やはり即席の、しかも粗末な素材による道具などでは飛距離も出なければ威力も精度も低く、とにかく使い勝手が悪かったのである。
「それでも慣れれば多少はマシになるかと思ったのだが……」
「駄目だったな……」
「仕方がない。ジェイド、競うのはひとまずやめとして、二人で獲物を狩ることにしよう」
「賛成だ。──夫婦になってすぐに餓死、というのはあまり笑えないからな」
「ふっ、夫婦……!?」
俺の思っていたのは違うところにナザリーが反応を示した。照れくさそうに目が泳ぐ。……可愛いらしい。まさか彼女のこんな姿を見られるとは。
「と、とにかく! 道具の拙さは作戦で補うぞ」
「了解だ」
こうして俺たちは再び狩猟へと赴いた。今度は別々に行動せず、適度な距離を保って獲物を探す。自然の恵み自体は豊かな場所だったので目標はすぐに見つかった。兎である。
互いに目で合図を送った。獲物から遠かった俺はその場で身を隠し、木の槍を握って待機する。一方、ナザリーは足音を殺しながらゆっくりと回り込み、獲物の逃げ道が俺のほうへと向くように位置取りをする。
再び互いに目で合図を送った。一呼吸ののち、ナザリーが矢を放つ。道具の拙さゆえに外れるが、それは予定どおりだ。狙われた兎は驚き、矢が飛んできた方向とは反対側へと走り出す。しかし、そこは俺が待ち構えている場所だった。
兎の動きは俊敏であったが、戦場のナザリーの槍捌きに比べれば数段劣る。時機を見計らって槍を振るう。殺傷力は低かったはずだが、完全に不意を衝いたので綺麗に一撃で仕留めることができた。
「思っていた以上に上手くいったな」
満足そうにナザリーが近づいてきた。俺は頷く。
「先ほどまで、攻撃を失敗して追い掛けっこばかりしていたのが嘘のようだ」
「よし、ジェイド。この調子であと二、三匹は狩ろう」
「ああ」
それから俺たちは順調に狩猟をつづけ、一時間足らずで希望どおりに三匹の獲物を仕留めることできた。
ちょうど空も暗くなってきたので少し開けた場所を見つけて、そこで野宿することにした。俺は短剣で火を起こし、つづいて兎を捌いた。肉はもちろんすぐに食べてしまうが、毛皮はあとで換金するつもりだ。たいした額にはならないだろうが、まるで所持金のない俺たちにとってはありがたい収入源となる。その間、ナザリーはさらなる薪と調味料になる山菜を採ってきてくれた。
適当な大きさに切った肉に山菜を巻きつけて焼く。料理としては大雑把であったが、肉の脂と山菜の苦みがほどよく絡み合い、空腹の身には堪らなかった。
──二人でそんな生活をしながら、さらに三日ほど山林の中を南下した頃、俺は少し気になっていたことを尋ねてみた。
「ロッシュ家や領地のほうは……よかったのか?」
昼食後、俺はそう切り出した。
「どうしたのだ? いまさら」
「まあ、確かにそうなんだが。──我がリッカー家は貧乏だったので、捨てたところで痛くも痒くもない。むしろ、借金から解放されて身軽になったくらいだ。数年前、俺の両親は相次いで病死したのだが、それまでに結構な額の治療費が嵩んでいてな、返済に苦労していたのだ」
「そうか。ご両親のことは気の毒だったな」
「ああ」
と流れでいったん頷いたあと、俺は慌てて首を振った。
「いや、そうではなく。──自分が痛くも痒くもなかったために、その辺りの考えが足りなかったのではないかとあとになって気づいたのだ。ナザリーは……俺よりも遙かに捨てるものが多かったのではないのか?」
これまで互いの家について詳しく語り合うことはなかった。しかし、我がリッカー家とは違い、ロッシュ家がそれなりの暮らしをしていたことは何となく知っていたのだ。
「そうだな……。私が帰らぬことによって、身近な人々にいろいろと迷惑を掛ける事態になるだろう」
「やはりか……」
俺は思わず溜息をついてしまう。すると、ナザリーが強い声を出した。
「しかしジェイド、先ほども言ったが、いまさらだ。私はそれでもおまえと一緒にいくと決めて、ここにいる」
「ナザリー……」
「だから、あまり野暮なことを言って私を失望させるなよ?」
そしてニヤリと笑い、ナザリーは俺の上にのし掛かってきた。
「……おいおい、どうしてそうなる」
「私を失望させるなよ?」
「……」
彼女の心配をしたことが嬉しかったのだろうか。
「まあ……いい。目にものを見せてやろうではないか」
まだ日は高かったが、二人は草を褥に抱き合った。
□ □ □
マドゥーカ盆地から南へとつづく森林は広大なものであったが、さすがに永遠に広がっているわけではない。やがて俺たちは平原へと出た。
「私の地理感覚に間違いがなければ、この辺りはコーングレイスの南の国境付近だな。あと二日も南下すれば、サシュナータの北部に辿り着くだろう」
周囲を見渡してナザリーが言った。ずっと国境線沿いを下ってきたつもりだったが、いつの間にか西へとズレていたらしい。
「いよいよか」
俺も平原を見渡しつつ応えた。
「どうする? このまま一気に進んでもいいが、近くにはコーングレイス最南端の町もあるはずだ。立ち寄るか?」
ナザリーが訊いてきた。
「そうだな……」
なるべく同胞の目にはつきたくないので、サシュナータまで一気に南下してしまったほうがいいのは確かである。しかし、そろそろこれまでに集めた毛皮を売り払い、現金を手にしておきたかった。身なりも整えておきたい。それらはまったくの異国でおこなうよりも、多少の危険はあっても勝手の解る土地でおこなったほうが余計な手間が掛からないと思われた。
「国境線に近い町ゆえ、旅人も多い。見慣れぬ顔がいても怪しまれることはないはずだ。──まあ私たちは、旅人にしては荷物が少なすぎるが、その辺は笑ってごまかすしかないな」
「知り合いの貴族に出くわす可能性はないのか?」
「そこそこの規模がある町だ。よほど運が悪くない限り大丈夫だろう」
「そうか。ならば、少し立ち寄っていこう」
こうして俺たちは、十数日ぶりに自分たち以外の人間がいる場所へと向かった。
町に入ってまず探したのは、毛皮を買い取ってくれそうな店である。賑わいを見せている大通りの中で、店先に衣服も並べていた雑貨店に当たりを付けた。
「店主。いきなりで悪いが、毛皮の買い取りは可能か?」
「はい。可能ですよ」
俺が声を掛けると、中年の男が愛想よく答えてくれた。土地柄、見知らぬ客にも慣れているのだろう。ただし笑顔の下には多少の警戒感が覗いている。
「では、これを頼む」
なるべく刺激しないよう俺も愛想よくしながら、毛皮の束をごそっと預ける。木の皮を細くして縒ったものを紐代わりにしていた。
「おや、結構ありますね。確認しますので少々お待ちください」
と告げると、店主はいったん店の奥へと引っ込んでいった。
その間、俺たちは店内を見て回った。とにかく着の身着のままなので、上着や鞄など旅に必要なものを一通り揃えたかった。値段を確認してみるに、どれも高くはない。──しかし、それはいままでの感覚では、ということである。現在俺たちは所持金が皆無であり、毛皮の買い取り額次第では高嶺の花となるだろう。
しばらくすると店主に呼ばれたので、店の奥へと向かった。そこで俺たちは銅貨二十枚を手に入れた。二人ともはじめてのことなので、この買い取り額が適正なのかどうなのか判断がつかなかった。ただ、ここで欲しいものをすべて買ってもお釣りが出るくらいだったので文句はなかった。早速、買い物をした。すぐその場で金を使う俺たちに、気をよくした店主はいくらか負けてくれた。
「これでようやく人心地ついたな」
店を出て、買ったばかりのものを身につけたナザリーが満足げに言った。
「ああ。それに、狩猟さえできれば、この先どうにかなるとはっきりしたのも大きい」
「うむ」
二人して頷き合ったあと、何となく通りの先の、とある店へと目が向いた。武器店だ。しかし二人とも覗いてみようとは口にしなかった。俺たちは戦士である──いや、元戦士である。毛皮の相場は解らなくても、武器の相場は解るのだ。たとえ銅貨二十枚をそのまま持っていったとしても、弓の一張りも買えはしないだろう。弓に限ったことではないが、武器はどれも高額なのだ。まだしばらくは頼りない道具と二人の連携でやりくりするしかない。
「なあ、ジェイド。せっかくだから、まともな食事と寝床にありつきたいと思うのだが?」
気を取り直すようにナザリーが提案してきた。
「そうだな。俺も同じことを考えていた。残りの金で足りるようなら、泊まっていくことにしよう」
雑貨店を探す道すがら、食事もできそうな旅宿の看板をいくつか見掛けていたので、そのうちの一つを訪ねてみる。
扉を開け、中を確認する。左手すぐが食堂になっていて、八つほど卓子が並んでいた。もうとっくに昼を過ぎているせいか、埋まっているは三つだけだ。みな、如何にも旅人といった風情で、万が一にも俺たちのことを知っていそうではなかった。
右手の受付へと進み、まず泊まれるかどうかを訊いてみる。大丈夫だったので、その料金と食事の値段をあらためて訊いてみる。これも大丈夫だったので、俺たちは世話になることにした。
たいした荷物もないので部屋にいく前に食事を済ませてしまおうと、空いている席に座る。ナザリーが早速料理と酒を注文しはじめた。かなりの量だった。
「……まさか、残りの金を全部ここで使い切ってしまうつもりか?」
「そのつもりだが、別に問題あるまい?」
「いや……」
「狩猟でこの先どうにかなるとはっきりした以上、私たち二人ならば問題あるまい?」
自信と信頼に満ちたナザリーの問い掛けだった。
そんなふうに訊かれてしまったら、俺ももう情けない台詞は返せない。
「よし、宿代以外、料理と酒に代えてしまおう」
「そうこなくてはな」
かくして俺たちは、明日のことは明日に放り投げて次々に注文した。
卓子の上いっぱいに並べられた料理と酒を二人してガツガツと食べていると、やがて食堂に新たな客が三人ほど入ってきた。気軽な服装と店員との親しさから、この町の住人だと察する。よそ者である俺たちを特に気にしたふうもなかったので、こちらも気にせず食事をつづけていたのだが──その客の一人がふと持ち出した話題に耳をそばだてざるを得なくなる。
「知ってるか? ついこの間、マドゥーカ盆地で大きな戦いがあったって」
「ああ。うちらのバルルカ侯爵様とアルフェドの……シリン侯爵だったか」
尚武の国の人間らしく、平民でも戦いの話には反応が早かった。
「そうそう。双方譲らぬ大激戦らしかったが、最後の最後にうちらのバルルカ侯爵様が勝ったってな」
「アルフェドの指揮官は討ち取られたんだろう? 確か、かなりお高い懸賞金が付いていたはずだ。誰が討ち取ったかは知らないが、うらやましいねぇ」
「一攫千金だもんな」
酒を飲みながら、三人の客は笑った。
──そうか、シリン侯爵は亡くなられたのか。俺はそっと黙祷する。
「そういや、懸賞金っていえば、その戦闘中にコーングレイスの魔女様とアルフェドの死神が行方不明になったらしいな」
「聞いた聞いた。その二人もかなりお高い懸賞金だったんだよな。シリン侯爵とやらよりもさらに上だったはずだ。どうなっちまったんだろう?」
「さあねぇ。ただ、マドゥーカ盆地ってのは一つ外れると険しい地形だからな。不慮の事故にでも遭ったんじゃないか」
「だとしたら、死神は別にいいけど、魔女様は悲しいなあ」
……。
「そういや、行方不明になった場合、懸賞金ってどうなるんだ? 取り消されてしまうのか?」
「いや、確かそのままになるはずだ。昔、数年間行方をくらませていたアルフェド貴族がいたんだが、そいつに偶然出会って討ち取ったやつにも懸賞金が支払われたって話を聞いたことがある。一度、懸賞金一覧に名前が載ったら、その死が確認されるまではずっと載ったままらしいぞ。戦意高揚のため、何処の国でも懸賞金一覧ってのは重視されていて、軽々しく変更するものではないそうだ。特にうちらは尚武の国だからな、よそよりいろいろ手厚いらしい」
「ふ~ん、そうなんだ」
「まあ何にせよ、俺たちには直接関係ない話だな。取り敢えず、バルルカ侯爵様の勝利に乾杯。あと、魔女様の冥福に献杯ってところだな」
「おいおい、魔女様はまだ行方不明だろ、って、まあいいか。乾杯に献杯」
「おう、乾杯に献杯だ」
三人の客は笑いながら杯をかざしたあと、別の話題に移っていった。
その間も俺たちは素知らぬ顔で食事をつづけ、卓上の料理と酒を綺麗に平らげていた。それから借りておいた部屋へと向かった。
室内に入ると、ナザリーが少し気にしたような視線を送ってきた。シリン侯爵の件だろう。俺は肩を一つすくめてみせた。シリン侯爵とは特に親しかったわけではない。それに、彼は正々堂々と戦って死んだのだ。残念ではあったが、悲しくはなかった。
──しかし、俺たちも正々堂々と戦っていたはずなのだがな。運命というものは解らぬものだ。いつの間にやら、こうして二人で異国を目指すことになっているのだから。
何となく唇の端を歪めてしまう。
ナザリーが小首を傾げた。それに対し俺は言う。
「明日は国境を越えてサシュナータに入る」
「いよいよだな」
ちょうど南側に窓があったので、二人で覗くことにした。もちろん、ここからではまだ異国が見えるわけではなかったが、想いを馳せるには十分だった。
二人ともサシュナータの地を踏むのははじめてとなる。右も左も解らない。通り過ぎるだけにせよ、留まるにせよ、いろいろと戸惑うことになるだろう。不安は間違いなくこの胸にある。しかし──
「楽しみだな」
「ああ」
そこにいけばもう、いまのように他人の目を気にしなくてもすむのだ。
俺とナザリーは窓辺で手を握り合った。
何よりも頼りになる感触だった。




