第十七幕 交合
貪るように激しく、魔女の舌が俺の舌に絡んできた。
「っ!?」
驚きに目を剥いたが、脳が甘く熱く痺れてしまって抵抗できなかった。いや、抵抗しようとも思わなかった。
そして、口づけにしてはあまりにも長い時間が過ぎたあと、魔女はようやく俺から離れた。
「おまえの……」
抱きしめられるような距離のまま、魔女は俯いた。
「おまえのせいだ……」
「俺の……?」
わけが解らず眉根を寄せていると、魔女がそっと左肩をはだけた。
「見ろ……」
「……」
麻布の下から現れた白い肌に、思わず目が吸い寄せられてしまう。正直に言えば、肩よりもさらに下のほうにまで視線が走りそうになったのだが、どうにかとどめた。いまそこを見るのは、絶対に何かが違うと感じたからである。──仮に視線を走らせてしまったとしても、いまは魔女の後ろ側に暖炉が位置するため、そこは影となっていて何も見えなかったであろうが、たぶんそういう問題ではない。
「四ヶ月ほど前に、おまえがつけた傷だ」
魔女が呟いた。
肩から下は影となっているが、肩自体には暖炉の火で明るくなっている。そこには数センチにわたり、かなりの裂傷痕が覗いていた。
「四ヶ月ほど前? ……あれか、俺の大鎌が破損した時か」
「そう……。あの時、私は生まれてはじめて死を覚悟した」
胸の奥から言葉を手繰るように、魔女が語り出す。
「無論、それまでの戦いの中でも死の気配だけなら感じることはあった。特に、好敵手たるおまえとの戦いにおいてはな。──ただそれでも、自分が死ぬとは一度も思わなかった。私は強かったからな。しかしあの時、大鎌を振るうおまえの姿は、確かに死神に見えたよ。伝承どおり、弱き者と強き者を選別し、弱き者には死を賜る神のようだった。私は生まれてはじめて死を覚悟した」
「……」
「まあ、実際にはおまえの大鎌が破損してこの程度の傷で済んだわけだが……私が自分の敗北を認めたことには変わりない。それがどうしようもなく悔しくてな、おまえに対する殺意がいままで以上に高まった」
一瞬、魔女の声色が不穏なものになったが、それもすぐに収まった。
「そして、おまえのことばかり考えるようになった。──いや、それまでもおまえのことは好敵手としてたびたび思い出してはいたのだが、この傷を負ってからは明らかに頻度がおかしかった。四六時中だった。もちろん最初は、殺意がいままで以上に高まったせいだと思っていたのだが……ある日、ふと気づいてしまった。こんなにもおまえのことばかり考えるようになったのは、殺意とはまた別の強い感情を抱くようにもなったからだと」
「……」
下手に言葉を差し挟める雰囲気ではなく、俺はただ黙って耳を傾ける。
「そんな折、我が国がサシュナータに攻め込まれた。我が国とアルフェドは共同戦線を張り、両軍の間で交流会が開かれることとなった。私はおまえに会う機会に──戦いではなく、普通に話し合う機会に恵まれた。恵まれてしまった。私はおまえの元へと向かうこの足を止めることはできなかった。殺意とはまた別の強い感情が本当であるのかどうかを確かめずにはいられなかったからだ。そしてお前と会って、話して、酒を酌み交わして……それが本当であると確信した」
「……」
「おまえは知らないだろうが、私の好みはな、『自分より強い男』だったのだよ。つまり──」
魔女は強い目で俺を見た。
「死神よ──いや、ジェイド・リッカーよ、この傷を負ったあの日から、私はおまえに魅せられてしまったのだ」
「……!!」
「自分でもおかしいとは思う。殺意を抱く一方で、その正反対とも言える感情を抱くなど──。しかし、信じてもらえるかどうかは解らないが、その二つは私の中でさして矛盾することなく、並んで存在するようになってしまったのだ」
「……」
そのまましばらく二人して見つめ合っていた。
「俺は──」
とようやく口を動かしたものの、それきり言葉が出てこなかった。
魔女が薄く微笑んだ。そっと視線を逸らしながら、何処か夢見るように言葉をつづける。
「あの交流会の夜は本当に楽しかったな。結局、戦闘の話ばかりしていたが、本当に楽しかった。平静を装うのが大変だったよ」
「……」
あの夜は、俺も本当に楽しかった。
「そしてそう、おまえは最後に遊撃戦のことを話題にしたのだ。……まったく、ただでさえ楽しかったというのにあんなに頼もしいところまで見せられてしまったら、これはもう舞い上がるしかないだろう。──表向きには上手く隠せていたとは思うがな」
「……」
「ともあれ、おまえを遊撃戦に誘ったのはそれが理由だ。両軍の象徴のためとかおまえの提案だったからとかいうのも嘘ではなかったが、実のところ、おまえと一緒にいたかったのだ。おまえと一緒に戦ってみたかったのだ」
「……」
「そのあとも、おまえは私の一方的な期待を裏切らなかった。やりづらい環境であっただろうに、私の戦術に当たり前の顔をしてついてくるし、当たり前の顔をして戦果を出すしな。──特に、サシュナータ軍に対して夜襲を仕掛けた時だ。あの時、どちらのほうが多く敵を倒すか、競い合っただろう? 憶えているか」
「あ、ああ」
夜営しているサシュナータ軍六万の守りが薄いところを狙って、俺たち遊撃部隊二百は夜襲を仕掛けた。その際に二人で競い合ったのである。
「倒した敵の数、私は『途中から数えていなかった』と言ったが、あれは嘘だ」
「嘘?」
「ああ、実は最後までしっかりと数えていた。そして、勝ったのはおまえのほうだった」
自分が負けたというのに、魔女は嬉しそうだった。
「そ、そうだったのか」
つられて、俺も少し笑った。
「その後、我ら共同軍は見事サシュナータ軍を追い払って勝利の宴を催したわけだが──」
そこで魔女が、じろりと恨みがましい目つきをする。
「おまえは、上層部の宴に顔を出さないだけでなく、体調不良というではないか。ついこの間までは殺しても死にそうもなかったというのに、いったい何があったのかと本当に驚いたぞ。まあ、いざいってみれば、ただの面倒臭がりが仮病を使っていただけだったのだがな」
あの時魔女は、「弱った死神を肴にして一杯やるのも一興か」などと言っていたが、やはり心配してくれていたらしい。
「悪かった。堅苦しいのは嫌いでな」
俺は素直に謝罪した。
魔女は苦笑したあと、すぐにやわらかく目を細めた。
「あのあと、交流会の時と同じように、おまえと二人きりで杯を酌み交わすことになったわけだが──」
「ああ」
「楽しかったな」
「ああ。楽しかった」
焚き火と雨が優しい旋律を奏でるようにして二人を包む……が、それも長い時間ではなかった。
「しかし──」
何処か少女のあどけなさのようなものを覗かせていた魔女が、口調を一変させて言った。
「私はコーングレイス、おまえはアルフェド。生まれながらにして宿敵同士だ。殺意のほうは報われても、もう一つの感情のほうは報われるはずもない」
「……」
「ただ──それでもいいと思っていたのだ。私も先祖から尚武の気風を受け継いだ、根っからの戦士だったからな。殺意だけを見て、もう一つの感情には気づかぬ振りをすることもできた。おまえを倒せれば、おまえの首さえ取れれば──あとはもうそれだけでいいと割り切ることもできたのだ。……できていたはずだったのだ、あの崖から落ちるまでは」
「……」
「あの時、おまえが私を助けたから……! あんな無茶までして……! あんなことをされたら……されてしまったら……!」
急に昂りを見せた魔女は、しかし、すぐにうなだれる。
「おまえのせいだ。宿敵同士にもかかわらず、おまえが私を助けたから……私の中の天秤が逆に傾いてしまった。いや、天秤そのものが壊れてしまった。おまえに対する殺意と愛情がぐちゃぐちゃになってしまった。おまえのせいで、自分が何をしたいのか、自分が何をしているのか、もうさっぱり解らない……!」
顔を伏せ、暖炉の明かりを背に受けた魔女の表情は窺い知ることはできなかった。ただ、裂傷痕が刻まれた白い肩は小さく震えていた。
俺の脳裡にいろいろなものがよぎった。
二人の関係や立場。二人の国の常識や理屈。生まれながらにして宿敵同士であること。彼女の同胞を多く殺してきたこと。俺の同胞を多く殺されてきたこと。俺たち自身がこれまでさんざん殺し合ってきたこと。
しかし──それもほんの一瞬のことだった。
いまは、すべてどうでもいいことだった。
いつも淡々としていた女が、こんなにも自分を曝け出しているのだ。
これを受け止めずして、いったいどうするというのか。
俺は。
「ジェ、ジェイド・リッカー……!?」
すぐ耳元で魔女の慌てた声がする。
俺は、彼女を抱きしめていた。
「魔女よ、ナザリー・ロッシュよ。俺のせいで解らなくなったというのなら──俺が答えを出してやろう」
そして、そのまま押し倒す。
「お……んっ!?」
何かを言おうとした彼女の唇を、俺は自分のそれで塞いだ。
頭と胸と息が苦しくなるまでつづけてから、ようやく解放する。
「この答えが気に入らなければ、いつでもそこの短剣で刺してくれて構わない」
「ジェイド……」
ナザリー・ロッシュの返事を待たずに、俺は覆い被さったまま、その身体にまとわれた麻布を取り去っていく。
彼女の技術があれば、この状態からでも俺を振り払って短剣を手にすることはできるはずだ。
──無言。押し殺すような、熱い息遣いだけが聞こえる。
抵抗はなかった。
暖炉の明かりに、ナザリー・ロッシュの裸体が露わとなる。肌は白いが、全体的によく引き締まっていて何処か野性味を感じさせる。
美しい。──ただ、左肩の裂傷痕とは別に、あちこちに生々しい傷が見える。数時間前に俺が刻んだものである。
「痛くはないのか?」
「……痛くはないな。先ほどまではそこそこ痛かったのだが、いまはまったく気にならない。おまえこそ大丈夫なのか?」
「ああ、大丈夫だ」
「なるほど、性欲というものはたいしたものだな」
「せめて愛欲と言ってくれ」
「さほど変わりはないだろう? それよりも、あまりジロジロと見るな」
「先ほどは、確か『見ろ』と……」
「うるさいぞ。それとこれとは違うだろう」
背中に彼女の両手が回されて、引き寄せられた。
俺はそのまま頬ずりし、首筋を舐め、ほどよい大きさの双丘に手を這わせる。
甘い喘ぎ。切ない吐息。
「いい面構えだな」
ふと、彼女が俺の顔を撫でながら囁いた。
「……野蛮だとか見飽きたとか言っていなかったか?」
「何だ、気にしていたのか。あんなのは売り言葉に買い言葉だろう? いまの言葉こそが真実だ」
それから、もう何度目になるのか解らない口づけ。
「ナザリー……」
「ジェイド……」
互いに名を呼び合いながら抱きしめ合った。
互いに獣のように貪り合った。
心と身体から発した炎に理性が焼かれていく。
激しく、激しく、激しく。
赤黒く熱されていく。
……そんな中、俺は思った。
もっと完全に。もっと完璧に。ナザリーを俺のものにしたい。誰にも渡したくはない。
死を与えることによって、最後にして絶対の存在になりたい──
殺意に似た愛情。いや、殺意と愛情が混ざり合っているというべきか。
そしてたぶん、それは俺だけではなかった。どうしようもなく潤んだナザリーの双眸にも、時折妖艶な光が覗いていたからだ。
普通の男女とは違い、歪な出会いをして、歪な経緯を歩んで結ばれた俺たちは……やはり何処か狂っているのかもしれなかった。
□ □ □
扉の隙間から光が細く差し込んでいた。鳥たちのさえずりも聞こえてくる。
いつの間にか、夜が明けていた。
あのあと、俺たちに呼応するかのように外も土砂降りとなったのだが、いまはもうすっかり止んだようである。
ちらりと横を見た。ナザリー・ロッシュが同じ麻布にくるまって、寄り添うように眠っている。
二人ともケガ人ではあったが、もともと鍛えているので、夜通し求め合ってしまった。途中から「どちらが先に音を上げるか」みたいになっていたのは、俺たちらしいと言えるだろう。ちなみに、その勝負がどうなったのか、いつ眠ってしまったのかはよく憶えていない。
それにしても、まさか魔女の──ナザリーの寝顔を見る日が来ようとは。遊撃戦の時に幾晩か一緒に過ごしたが、もちろんあの時は同衾したわけではない。心地よい疲れを感じながら見つめていると、ぱちりと双眸が開かれた。
ナザリーは少し驚いたような顔をしたあと、眩しそうに微笑んだ。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
それから寝転がったまま、二言、三言を交わす。互いに柄にもなく甘酸っぱい時間を味わった。
しばらくして──
「これから、どうするつもりだ?」
ナザリーが口調をあらためて訊いてきた。
「どうするとは?」
「……私たちがこうなってしまったことは、まだ誰にも知られていないだろう。二人して戦場を離脱したところは目撃されているが、まさかこのような関係になっていようとは誰も思うまい」
「まあ、俺たち自身も思わなかったからな」
「ゆえに、このことは一夜限りの過ちとして、何食わぬ顔でそれぞれの領地に戻ることもできるはずだ。二人で口裏を合わせて、それなりの言いわけを用意しておくべきかもしれないが」
「それはあり得ない選択だ」
麻布の中で、彼女の手をぎゅっと握った。
「な、ならば、何食わぬ顔でそれぞれの領地に戻りはするものの、時折、人目を忍んで逢瀬を交わすというのは?」
「それもあり得ない選択だ」
俺は天井を見上げながら白状する。
「実はな、あのアルフェドとコーングレイスの共同戦線以降、俺はすっかり調子を落としてしまっていたのだ。戦場でうっかり死にそうなくらいの腑抜けになっていた。おまえと過ごした日々が充実しすぎていた反動だな。──このような関係になる前でもそうだったのだから、このような関係なった後ではもう、片時でも離れるのは無理だろう」
麻布の中で、彼女の手をさらにぎゅっと握った。
「い、いまからでも、どちらかがどちらかの首を取って、超高額な万能薬──パナケイアが買えそうなくらいの懸賞金をいただいてしまうということも考えられるぞ?」
照れたのか、ナザリーが冗談めかしてそう言った。
俺は隣に視線を向けて、問う。
「もしかして、おまえは後悔しているのか?」
「いいや」
ナザリーは即答し、俺の手を握り返してきた。
「ただ……どうすればいいのか困っているのは事実だな。おまえを連れて領地に戻るわけにはいかないし。もともと死神の存在は有名だった上に、共同戦線の際にしっかりとおまえの顔を記憶した者も多いだろう。いくら隠したところで、いずれは正体を知られてしまい、取り返しのつかないことになるのは間違いない」
「まあ、そうなる可能性は高いだろうな。──同じ理由で、俺がおまえをアルフェドに連れていくこともできない」
「そうだな……」
そのまま二人して、山小屋の天井を見上げて黙り込んだ。
ややあって、俺はゆっくりと口を開く。
「生まれた国は変えられなくても──」
たぶん、これはいま思いついたことではない。この三年間のいつか何処かで、おぼろげに見た白昼夢。そう……あまりにも現実味がなさすぎて、いままでは一度も真剣に考えてこなかったが──
「これから生きていく国は変えられるのではないだろうか」
こちらを向いたナザリーを見つめながら、俺は告げる。
「アルフェドもコーングレイスも捨てて、死神や魔女であることも捨てて、貴族や戦士であることも捨てて……ナザリー・ロッシュ、俺と何処か遠くへ──そう、異国へといって、そこで一緒に暮らさないか?」
「……」
ナザリーはしばらく双眸を揺らしていた。それから、綻ぶようにして言った。
「ああ。そうだな、それも悪くない。──二人で異国へといって、そこで一緒に暮らそうか」
どちらからともなく、唇を寄せた。
誓うように。
祈るように。
口づけを交わした。




