第十三幕 決戦
マドゥーカ盆地の東側に到着したとはいえ、アルフェド軍はすぐに平地部分に乗り込んでいったわけではない。周囲に広がる山林の中で、ここまでの行軍の疲れを癒していた。
通常、敵を目の前にしてこのような動きづらい場所で休息を取るはずはないのだが、「開戦は明日」と両軍の指揮官の間で取り決められているために例外的に許されているのであった。
もちろん最低限の警戒はしている。ただ斥候の話によれば、コーングレイス軍も反対側ですっかりくつろいでいるらしい。行儀の悪い真似をして、自分たちの指揮官の顔に泥を塗るようなやつはどちらの軍にもいないというわけだ。
決戦前とは思えぬ穏やかさであった。そんな中、俺は逸る気持ちを抑えられずにそこら辺をフラついていた。不調の反動だろうか、いままでにないくらいに魔女と戦いたくなっていて落ち着かなかったのである。
アルフェド軍内には物資が溢れていた。実力者たるシリン侯爵が二ヶ月も掛けて準備したのだから、当然といえば当然だ。武器や糧食、飼葉まで充実している。おかげで兵士たちの士気も高かった。
俺は気を紛らわせるべく、荷車がいくつか並んだ場所を眺めて回った。荷台には山のように武器が積載され、ちょっとした武器庫と化している。すでに自分の武器を所持している者がほとんどではあるが、せっかくなので新調しよう予備にしようなどとそれなりに賑わっていた。
剣や槍、盾などが用意されている。中でも数の必要な矢が大量に積まれているのは、弓兵にとってはありがたいことだろう。
矢の次に多かったのは、やはり需要の高い槍であった。次に剣。大鎌は──そもそも一振りも置かれていなかった。
「……」
まあ、新調したばかりなので構いはしない。
それから何とはなしに手近な剣を取ってみた。聞けば、さほど高価なものではないという。しかし、どう見ても俺の予備の剣よりも上等なものであった。思わず乾いた笑いが漏れてしまう。肩の力が少し抜けたようである。
俺はその剣を遠慮なく頂戴すると、自馬を繋いでいる場所へと戻ることにした。
□ □ □
一夜明けて、早朝。
決戦当日。
アルフェド軍一万二千は、山あいの間道を通って平地部分に入った。
時を同じくして、コーングレイス軍一万二千も反対側の間道から盆地内に姿を現した。
両軍は三キロほどの距離を置いて対峙する。
シリン侯爵は、アルフェド軍をまず三つに──右翼三千五百、中央三千五百、左翼三千五百と分けた。彼自身は親衛隊一千を率いて中央のやや後方にて全体の指揮を執る。奇をてらわぬ標準的な陣形と言えよう。
さて、俺がその四つのうちの何処に配属されたかというと、何処でもなかった。シリン侯爵のさらに背後に置かれた予備隊五百に配属されたのである。
予備隊とは、戦いがはじまっても前線には出ずに待機して、同胞が好機を捉えた時や、あるいは危機に陥った時にその場へと派遣される戦力のことである。
一方、バルルカ侯爵率いるコーングレイス軍一万二千も、同じような陣形を取っていた。あちらも正攻法で臨むつもりのようである。
「魔女は右翼か……」
俺の最大の関心は、魔女が何処にいるかということにあった。なので先ほど斥候に訊いてみたのだが、彼女の紋章は敵軍の右翼で確認できたらしい。
もちろん、今回の俺はアルフェド軍のもっとも後方の部隊に配属されているので、魔女が何処にいるかを知ったところでいきなり襲い掛かれるわけではない。しかし実は、そのことはあまり心配していなかった。
魔女の強さを知っているからだ。魔女が率いる部隊の強さを知っているからだ。魔女──ないし魔女たちは、まず間違いなく我が軍の脅威となるだろう。そしてそうなれば、俺たち予備隊の出番となるのだった。
それに、まったく別の戦場にいるというのならばどうにもならないが、こうして同じ戦場にいる以上はどうにかなるだろう、というふうにも思っていた。いままでの経験上、俺たちが戦闘中に遭遇する確率はかなり高かったのである。何かしら引き合うものがあるのだと、俺は少しだけ信じていた。
とはいえ、この戦いは一万二千もの軍勢同士がぶつかり合うものであり、俺の思惑など容易に吹き飛ばされてしまうかもしれない。しかし、その時はその時だ。是が非でも魔女の元へと辿り着いてやろう。たとえ命令違反を犯してでも。──そう。普段なら決意しないようなことをしてしまうくらいには、俺は魔女の存在に飢えていたのだった。
それからしばらくすると、不意に湿った風が吹き抜けていった。
マドゥーカ盆地の空は、正々堂々、雌雄を決しようとする両指揮官の心を反映したかのように朝からよく晴れていたのだが、ここに来て雲が出はじめていた。
──まだ、降りそうではないが。
何となく雨の心配をした俺の耳に、その時、角笛の音が響いてきた。
低く籠ったような旋律が、盆地内の空気を震わせる。
開戦の合図であった。
機は熟したと判断したのだろう、両指揮官がほぼ同時に攻撃命令を下したのである。
やや翳りを帯びた空が、アルフェド軍とコーングレイス軍の矢によって埋められた。喚声が上がる。歩兵が軍靴を鳴らし、騎兵が馬蹄を轟かす。
両軍が、ついに激突した。
干戈を交える物騒な音が盆地内に沸き起こる。
怒号や悲鳴が飛び散っていく。
しかし、俺にはそれ以上の詳しい戦況は解らなかった。予備隊は前線からもっとも遠い場所で待機しているからだ。騎乗しているので多少は目線が高いものの、同じく騎乗している騎兵たちの頭や背中でやはり視界は悪かった。
ゆえに、かなり大雑把にしか敵や味方の動きが摑めない。ただ、どうやら両軍のぶつかり合いはほぼ互角であるらしい。どちらも何処かの部隊がいきなり崩れるということはないようだった。
俺たちの一番近くにいるのはシリン侯爵の部隊であり、そこには次々と前線の状況が報告され、逆にシリン侯爵からは前線への指示が発せられていた。だいたい伝令もシリン侯爵も大声なので、距離が離れていてもある程度は聞き取ることができた。切れ切れの情報を総合してみるに、やはり両軍の間では、押しては戻され、戻されては押し返すという戦いがくり返されているらしい。
激しい接戦がつづき、負傷兵たちが後方に送られてくる。しかし、負傷兵たちは治療を終えるとすぐに復帰していく。シリン侯爵の高待遇によって上げられた士気の効果であろう。そしてこれに対抗できているということは、おそらくコーングレイス軍の士気も相当なものに違いない。
両軍の激突から一時間が経過する。
相変わらず金属音や馬のいななきで溢れ返りながらも、前線にはいまだ大きな動きは見られない。
この間、俺たち予備隊はどうしていたかというと、まったく何もしていなかった。
とはいえ、さすがに漫然としていたわけではない。戦況の変化はいつ何処でどのように生じるかは解らない。すぐかもしれないし、まだかもしれない。自軍の右翼であるかもしれないし、中央であるかもしれない。突破するかもしれないし、突破されるかもしれない。いずれにせよ、どんな変化にも対応できるように臨戦態勢を取っていたのである。
そんな中、俺は自軍の左翼のほうばかりを見つめていた。その先では敵の右翼が──コーングレイスの魔女がすでに戦っているからだ。
しかし、その彼女の情報がなかなか伝わってこない。よもや彼女が倒されることはないはずだから、この場合、伝わってくるとしたら彼女の活躍となるのだが……それがないということは、我が軍に上手く抑え込まれてしまっているのだろう。
──コーングレイスの魔女よ、しかしおまえは来るのだろう? 有象無象など蹴散らして。
心中で呟く。それは自軍の左翼に対してかなり失礼であったが、それでも俺は魔女の登場を、確信に似た期待を持って待ちつづけていた。
そして、数十分後──
ついに戦況が動いた。アルフェド軍の左翼がいままでにないほど後ろに押されはじめたのである。
俺は目を凝らし、耳を澄ませた。
「魔女だ! 魔女がまた突撃して来たぞぉっ!」
「慌てるな! 今回も防げ──ぎゃあっ」
「だ、誰かっ、止め、止め──うわぁっ」
無数の悲鳴が高らかに鳴り響いた。黒いマントが戦場に翻っているであろうことを告げる喇叭のように。




