グルメ医院
その年、大石は念願の医師国家試験に見事合格した。
医大で同期の連中は大学病院などに就職する者が多かったが、大石は敢えて小さな病院を選んだ。地域に密着した医療を目指したいと思ったからだ。
大石が選んだ「北条外科病院」は、医院の五代目である北条院長と院長の奥さんの英子さんが看護師長を勤めるアットホームな病院だが設備は充実していた。病院側の条件は、人手が少ないため緊急時に対応できるようにと、病院の隣にある院長の自宅続きになっている離れに住み込むということだったが、食事は北条家で面倒をみてくれるし、この街に住むことで大石はまさに自分の目指す地域に根ざした医療が出来るような気がして期待に胸を膨らませた。
そして、もうひとつ嬉しいことがあった。看護師として働いている院長の娘の美食子だ。とても美しくまさに白衣の天使だった。
大石が勤務を始めて数日が経った頃、中学生の女の子が急患で運び込まれた。問診によると数日前からみぞおちの辺りが痛み出し、徐々に右下腹部に痛みが移動してきたという。昨夜から熱を出し今日になって朝食を嘔吐したのをみて、慌てて母親が病院に連れてきたという。
「どうしてこんなになるまで放っておいたんですか!」
診察を終えた北条院長は、母親を叱った。大石は真剣に怒る北条院長に驚いた。だが驚いたのは、その声の大きさだけにではなかった。北条院長が目にうっすらと涙を浮かべているように見えたからだ。
「虫垂炎の疑いがありますね。とにかく入院して頂いて、詳しい検査をします」
直ぐに入院の手続きが取られ詳しい検査が始まった。
「院長、どうですか?」大石は尋ねた。
「危ないところだよ。もう少し進行していたら虫垂が壊死を起こして穿孔し、膿汁や腸液が腹腔内に流れ出して腹膜炎を起こすところだ。最悪の場合死ぬこともある」
「虫垂炎も放っておくと危険な病気ですよね」
「そうとも、どんな病気でも早期発見、早期治療が一番だからね」
診察のとき院長があんなに真剣に母親を叱ったのも頷ける。院長はなんて素晴らしい医師だろう。患者のことを真剣に思い医療に従事している。
ここに来て本当に良かった。と、大石は改めて思った。
数日のうちに手術が行われた。北条院長の手術は素晴らしかった。まるで料理人のような手際のよさで虫垂の摘出が行われ、手術は無事、終了した。
「院長。お疲れ様でした」
「おつかれさん。ああ、そうだ。大石君、君の歓迎会がまだだったね。やっと一息ついたし今晩にでもどうかな」
その晩、空港近くの一流ホテルのフレンチレストランで大石の歓迎会が行われた。
玉葱のタルト・アスパラガスのポタージュ・フォアグラのソテーと続いた。さすがにどの料理もすばらしく美味しかった。まだ若い大石にとっては初めて食べるものばかりだ。
「院長はこちらには良く来られるのですか?」
大石は初めて見るフォアグラを目の前にして院長に尋ねた。
「まあ、月に1・2度かな。忙しいときはなかなか来られないがね」
「凄いですね」
「私は美味しい物に目が無くてね。大石君も直ぐに来られるようになるさ。頑張りたまえ」
「はい」
大石は目を輝かせた。
院長は切り取ったフォアグラの肉片をフォークで刺しそれを眺めながら、
「フォアグラの『フォア』 はフランス語で肝臓、そして『グラ』、これは脂が多いとか肥大したという意味でその二つがくっ付いて出来た言葉がフォアグラだ。ガチョウに強制的に餌を与え脂で肥大させた肝臓のことだ。言うなれば肝硬変になった肝臓だ」
「肝硬変ですか?・・・」
「ああ、もっともフランス語で疾患の方の肝硬変を意味する言葉は別にあるがね」
と、笑いながら美味しそうに院長はフォアグラを口に運んだ。
次に出てきたコースメニューはメインディッシュの牛ロース肉赤ワインソースだ。
「大石君、君には期待しているよ」
「はい。がんばります僕は院長の病院に来て本当に良かったと思っています。今回の虫垂炎の診察のときの、院長の情熱に僕は心を打たれました」
「いやあ、あの時は久々に食べられると思ったらつい声が大きくなってしまってね、思わず目頭が熱くなったよ」
「食べられる?」
「ああいや、アッペれる。アッペれるだよ」
「アッペれる?それは、なんですか?」
「虫垂炎は英語でアッペンディサイティス。通称アッペだ。うちの医院ではアッペの手術をすることを『アッペる』と言っているんだ」
「そうなんですか」
「知っていると思うが虫垂炎は何らかの原因で虫垂が閉塞し中で細菌が増殖して感染を引き起こす病気だ。特に若い患者の場合、進行が早く穿孔しやすいので注意が必要なのだ」
「炎症が軽度であれば抗菌薬投与で治療できると医大で習いました」
「その通りだ。今回は患者が若かったし進行していたので早く摘出する必要があった」
「はい。わかります」
答えながら大石は美味しく赤ワインソースで味付けされた牛ロースを頬張った。
デザートにはクレームブリュレが出てきた。運んできたシェフが専用のライターでクレームブリュレに火をつけるとデザートが激しく燃え上がりその表面にカラメルの層を形成した。
「通常はカラメルをバーナーなどで焼いて焼き色を付けるのですが、この店ではお酒を掛けてそれを燃やしてカラメルを焼くんです」
と院長の娘の美食子が説明してくれた。
カラメルの香ばしさとカスタードのねっとりとした食感にバニラの風味がなんとも言えず美味しい一品だ。しかし、大石は美食子のほうが気になってその味もよく覚えていないほどであった。歓迎会を兼ねた楽しい晩餐はあっという間に過ぎていった。
数日後、再び急患がやってきた。診察の結果、また虫垂炎であることが確認された。今回の患者も若く症状が進行していた。
「院長、アッペりますか?」
と、大石は先日聞いた用語を使ってみた。
「ん?・・・おお、そうだな、アッペらないと駄目だな」
「わかりました。直ぐに入院の手続きをします」
そう言って出て行こうとした大石に、
「大石君、君は覚えがいいね」
と院長は褒めた。大石は礼を言って嬉しそうに走り去った。
数日後、その虫垂炎の手術が終わった晩だった。いつものように夕食のため自宅続きになっている離れから北条家の食卓に足を運んだ。奥さんの英子さんの料理はいつもおいしかった。
「今日は寒かったし良い材料が手に入ったから鍋にしたわ」
「これは我が家に代々伝わる料理でね」
院長が自慢げに言った。
「へえ、そうですか」
「最近は薬が進歩したから、早期発見すれば薬で治ってしまうからなかなか手に入らなくなってね」
「何がですか?」
院長はそれには答えず
「やはり二つはないと良い出汁がでないからなあ…」
と、独り言のようにつぶやいて
「君は運がいいよ。次はいつ食べられるかわからないからな」
と言って高笑いをした。
大石は意味が判らずきょとんとしていたが、奥さんに勧められて鍋を口にした。
魚介類と野菜の鍋だったが魚とはちょっと違う臭みがあった。でも慣れてくると後を引く美味しさだ。
「どうだ?うまいか?」
院長が大石に尋ねた。
「ちょっと臭みがありますがおいしいです」
大石は正直に答えた。
「その臭みが癖になる。例えばカツオなどがそうだ。獲れたてのカツオはプリプリしていて臭みがなくてそれはそれでおいしい。しかし、二・三日経つと独特の臭みがでて身も柔らかくなる。これがカツオ好きにはたまらないのだ」
「なるほど。この鍋もそういった類の料理ってことですね」
「そういうことだ。ところで大石君。実は折り入って相談があってね。後で私の部屋にきてくれたまえ」
書斎に入ると座っていた院長が椅子を回転させて振り向いた。
「まあ、掛けたまえ」
「は、はい」
大石が座ると、院長は立ち上がって部屋をうろうろしながら、
「折り入って相談というのは、娘のことなのだが」
と、切り出した。
「美食子さんですか?」
「実はあの子は我が家に代々伝わる奇病に侵されていてね」
「奇病といいますと?」
「うむ・・・。その前に、君は美食子をどう思うかね?」
と、大石を振り返った。
「え?・・・。ええ、美食子さんはとても美しくて素敵な女性だと思いますが」
「この相談を受けてくれるなら君を家の婿養子にと思っているのだが」
大石は驚いて声もでない。
「いや、君はもうこの話を受けるしかないのだ」
「院長、そう言われましても、美食子さんの気持ちもありますし」
「娘なら問題ない」
「そ、そうなんですか?」
「本当だ。娘も君の事はまんざらでもないようだ。ただ問題はさっきも言ったように娘の病気にあるのだ」
大石はしばらく考え込んでいたが、意を決っして言った。
「例えどのような病気だろうと僕がきっと美食子さんを守ってみせます」
「本当かね!それを聞いて安心したよ」
大石は大きくうなずいて見せた。
その夜、大石は眠れそうになかった。院長から聞いた話がとても奇妙でにわかには信じられそうにない、衝撃的な内容だったからだ。
北条家に伝わる奇病。それは、最低でも月に一度は人の肉を食べなければ死んでしまうというものだ。その奇病のために北条家は五代前の当主が医者となり、その命を繋いできたというのだ。
「このことは美食子にはまだ伝えていない」
「しかし、どうやって食べさせるのですか?」
「大石君、君も今日美味しいといって食べたじゃないか」
「え?・・・今日ですか・・・あの鍋?」
「うむ。今日の料理はアッペ汁と言って我が医院の三代目の当主が考えた料理だ」
「アッペ・・・ってまさか・・・」
「そのまさかだよ」
「院長、これは犯罪ですよ!」
「訴えるかね?そんなことをすれば君も同罪だ。いや、同罪にはならずとも世間に君が食人をしたことが知れてしまうのだよ」
「そ、それは・・・」
「そんなことになったら君も困るんじゃないかね。それに、私はなにも人を殺したわけじゃない。本来なら臓器処理法に基づいて医療廃棄物として専門の業者に引き渡すわけだが、それにもコストが掛かる。言ってみれば一石二丁というわけだ」
「少し考えさせて下さい・・・」
「最初に言ったが、君は受けるしかないのだよ。それとも、さっき言った娘を守るというのは嘘かね」
大石は返す言葉が見つからなかった。
数日が経ったある日、急患が運ばれてきた。救急救命士によると患者は五十代の男性で、吐血をして倒れたということだ。さっそく血液検査を行うことにした。検査の結果、ビリルビン濃度の上昇、コリンエステラーゼの低下、血清アルブミン濃度の低下、白血球及び血小板の減少が見られた。
「大石君、これはおそらく肝硬変だ」
「肝硬変ですか?」
「しかも、家族の方に伺ったのだが、この患者はかなりの酒飲みだそうだ」
「はい・・・それが?」
「いいかね、日本ではおよそ四十万人の肝硬変患者がいると言われている。そのうちの六十%がC型肝硬変、十五%がB型肝硬変だ。アルコール型肝硬変は約十一%。たった四万四千人だ。そのうちの一人がこの病院に来てくれたのだよ」
「院長、まさか!」
「何ということだ。私の父も話だけで実際に経験は無いといっていたが、祖父の話によれば、アルコール型肝炎はフォアグラより数段美味だとか・・・いや、これは美食子の為だ。仕方がないのだよ」
「あなた、ヨダレがでていますよ」
妻で看護師長の英子がハンカチを院長に渡した。
「おお、すまん」
「院長、患者を殺す気ですか!」
「まさか、そんなことはしないよ。肝臓というのは便利な臓器でね。最大七〇パーセントを切除することが出来るのだ。しかも、三ヶ月もすれば元の八〇パーセントまで回復する臓器なのだよ」
「そ、そういえばそんな講義を受けた気も・・・」
半月後、肝臓切除手術は無事に成功した。
「おまちどうさま。今晩のメニューは、フォアグラよ」
「おお、見たまえ大石君。うまそうじゃないか」
「本当、とてもおいしそうね」
美食子も嬉しそうにフォアグラを切り始めた。
「美食子さん!これは・・・」
「え?」
「ああ、いえ何でもありません・・・。僕はいりません」
「あら?大石先生、私とお母様の作った料理が食べられないっていうの?」
「ああいや、そういうわけでは・・・」
「じゃあ食べなさい。はい先生あーんして」
美食子がフォアグラの肉片を大石の口元に差し出した。
「あら、まるで新婚さんみたいね」
母の英子が冷やかした。大石はその行為自体はとても嬉しかったがそれどころではない。
しかし、美食子の視線に耐えられず大石は諦めて目をつぶってフォアグラを口に入れた。口に入れたと同時に涙が溢れてきた。
「大石君。泣くほどおいしいかね」
そう言って院長は高笑いをした。
その晩、大石はある決意を持って院長の部屋を訪れた。
「大石君、私に協力してくれる決心はついたかね?」
大石は院長を睨みながら静かに言った。
「僕には院長に協力することは出来ません」
「それでは私を訴えるというのかね?」
「そんなことをするつもりもありません」
「では、ここを去るつもりかね?」
「私がここを去っても、院長はまた同じことを繰り返すだけでしょう」
「ではどうするというのかね?」
「僕は美食子さんを守ると言いました。その気持ちに嘘はありません」
「しかし、その為には君の協力が必要なのだよ」
「協力はします。別の方法で」
「別の方法というと?」
「僕の体を提供します。見ての通り僕の身体は大柄です。この体を毎月少しずつ美食子さんに食べさせれば美食子さんは死なずに済むでしょう。だからお願いです。もうこんなことはやめて下さい!」
院長はしばらく大石を見つめたまま沈黙した。どれくらいの時間だっただろう、大石にはとても長く感じた。そしてやっと院長が口を開いた。
「本当にいいのかね?」
「はい。それで美食子さんを救えるなら構いません」
それを聞いた院長の顔色が変わっていった。
「ありがとう。大石君、本当にありがとう。いつかきっと美食子にも君の気持ちを伝えるよ」
そう言って院長は涙を流した。
(そうだ、これでいいんだ。僕はこの身体で美食子さんを守る)
大石は自分に言い聞かせた。
「院長先生。最近、新しい先生を見ませんけどどうしたんですか?」
入院患者が聞いた。
「ああ、大石先生は辞められましてね。最近の若者はちょっと我慢できないことがあると直ぐに辞めてしまうので困ります」
「そうですか、確か去年いらした先生も直ぐに辞められましたねえ?」
「そうなのですよ。うちは人手が足りないので仕事が多いものだから、若い者は長続きしなくて困りますなぁ。はっはっは」
それをすぐそばで聞いていた看護師長と看護婦も一緒になって笑った。
三人の高笑いが病院中に響いた。