眼鏡‐大阪雑感その6
父方の遺伝らしいが、強度の近眼である。
現在はどうか知らないが私が小学生の頃は学年度初めの健康診断で視力の、しかも裸眼まできっちり測定する規定となっており、検査表の一歩手前まで近づかなければ何も見えないと言う私を嘲笑う同級生たちの顔を今でも思い出すことができる。なんせ小学校一年生の冬から眼鏡をかけ始め、数年の後には裸眼で0.06前後というとんでもない近眼へと化したのだから、中学校二年生の夏にコンタクトレンズへと変えるまできっちり6年間はこの視力と、まだ珍しかった児童用眼鏡でからかわれたものだ。そのような原体験があればもちろん人前で眼鏡をかける気になどさらさらなれず、以降はコンタクトがメインで眼鏡はサブ、帰宅してから翌朝に出勤するまでのつなぎでしか使わなかった。
ところが30代にさしかかった頃、長年のコンタクトレンズの装用がそれなりに角膜に負荷をかけてきたのだろうか、眼の充血や強い眼精疲労が気になり始めた。特に充血は角膜の酸素不足によるところが大きいこともあり、コンタクトを装用しなければ軽くなることが判ってからは眼鏡への切替をそれなりに真剣に考えるようになった。とはいえ、なにぶん度を越えた近視なものでどうしてもレンズが分厚くなるし、そんなビン底をかけていては、当時は対面接客による販売業に就いていたこともあり、お客様からの印象が良くないことが容易に想像できたので、なおもコンタクトを使い続けた。
31歳で引っ越した先は浪速区の外れだったが、ある日、大通りに面したビルの1階にメガネ店があることに気づいた。
その数年前に入手したレイバンのサングラス、ウェリントンが手元にあり、日差しの強い日にかけて眼をいたわるようにしていたのだが、神戸の地下街で購入した際に何の調整もされずにポンと渡されたこともあって、まつげとレンズがことあるごとに触れるのが煩わしくて仕方なかった。他の店で購入したサングラスの調整をお願いするのは若干気がひけもしたが、専門店として営業しているのであれば有料で引き受けてくれるであろう、という甘えもありつつ、休日の昼下がりにウェリントンを手にこのお店を訪ねた。
迎えて下さった店主はウェリントンを開いてみるなり、あぁ歪んでますね、と独り言のように呟いて店の中の作業スペースに入り、数分もしないうちに出てくると、どうぞ、と言って私の顔に載せた。それだけなら驚きはしないのだが、装着したこのサングラスがついさきほどまでの、まつげがレンズにあたって不快な、偏光レンズが重いのかやたらとずり落ちてくる扱いづらい代物だったのが信じられないぐらいに私の顔にフィットしたのである。まるでこのお店で新品をあつらえたかのような完璧な装着感に、レンズの奥の私の眼は点になっていたに違いない。一度も私の顔に当てずにこれだけの調整が出来たのか、いまだに謎である。あ、ありがとうござます、と上ずり気味の声で調整料を払おうとすると、壁に貼られた料金表を示される。私の想像の半額以下、当時の昼食代とほぼ同額の料金に、再び眼を点にしたのを今でもよく覚えている。
それからしばらく後にボーナスが支給された時、私の頭に浮かんだのはタレックス(TALEX)の偏光レンズを使ったサングラスを誂えることだった。先のウェリントンも偏光レンズだったがどうにも重く、またフレームのサイズが私の顔や頭に合っていなかったのだろう、かけていても落ち着かないし疲れるのである。
先述のお店を再び訪ね、タレックスでのサングラスを、という希望を伝えると店主はすぐにレンズとフレームを選び出してくれ、しかも3日の後には完成を伝えてくれた。勧められたフレームはチタン製で軽く、レンズを付けた状態でもメガネのツル側つまり使用者の耳側に重心がくるよう配慮されているそうで、たしかに装用感は快適そのものだった。ビルの窓ガラスの反射光が周囲から降り注ぐ真夏の大阪市内を歩いていても眼が疲労を感じずにすんだのはこのタレックスのおかげであり、しかもさらに後に流れ着いた勤務先への自転車通勤が始まると簡易なゴーグルとしても重宝した。
その年の冬だったと思うが、ボーナスかなにかで懐が暖かくなったのだろう、ついにコンタクトに替わる眼鏡をつくることに決めたのである。前回は店主にほぼ全てを任せた注文内容も、この時はかなり無理とわがままを言わせてもらった。向かい合った相手に奇怪な印象を与えないようレンズを極力薄くすること。週6日8時間の勤務で装用し続けられるようフレームは軽く細いもの使うこと。さらに、買い替えを意識せずに何年でも使い続けられるような、シンプルで飽きの来ないデザインにまとめること。
結論からいえば、店主の力作のこの眼鏡を勤務中にかけることはほとんどなかった。最初のひと月ぐらいは周囲への自慢を兼ねて仕事中にかけていたが、コンタクトレンズに慣れてしまった眼には眼鏡の視界は狭く、また遠くと近くで見え方に若干なりともギャップが生じる近視用眼鏡の特性は頭で判っていてもあまり喜ばしいものではなかった。さらに、コンタクトレンズを交換すると眼への負担がグッと軽くなったこと、加えて眼精疲労の重さは眼鏡とコンタクトでそれほど大きな差が無いことに気づいたこともあり、眼鏡は再びサブへと戻っていった。
それから何年経ったか思い出せないくらいの年月が経った夏のある日、自転車で転倒した際に右腕上腕を骨折した。タレックスのサングラスはこの事故の際にも着用しており、道路脇の花壇の縁に激突したマヌケな持ち主の顔面を、身を挺して護ってくれた。主の左眼の上にはフレームが食い込んだ傷跡が残ったが、幸い眼や頭、その中のくたびれ気味の脳はなんとか無事ですんだのはひとえに軽量ながら高い剛性を秘めていたタレックスのサングラスの、チタン製フレームのおかげである。レンズは割れフレームは修復不可能なくらいに歪んでしまったので泣く泣く廃棄したが、位牌のひとつでもつくって朝夜に手を合わせるべきだったのではなかったか。
眼鏡と共に近所の病院に入院し、全身麻酔の手術で骨はつながったが、どうやらその際に看護師さんに預けた眼鏡が手荒な扱いを受けたらしく、左側のツルが外に大きく開いて戻らなくなった。さらに一年ほど使い続けていると、今度は左の鼻当てが根元からポキリと折れてしまった。これは寿命であろう、と、思い切りの悪くケチな私でもさすがに諦めがついた。
しかもここにきて私に、現在勤務する会社の新プロジェクトへの参加が認められ、昇格と同時に転勤が決まったのである。20年を過ごした大阪に別れを告げる前にしておきたいことはあれこれあるが、まずは新しい眼鏡をつくることにした。強度の近視に合った、しかも長く使い続けられる高品質なものをきっちりと仕上げてくれるお店や技術者に出会えることなどなかなか望めないだろうし、そうなれば大阪にいるうちにあのお店に行っとこうか、と決心したのである。
大型連休が終わった平日の昼下がりに現れた私の顔を見ても、過去に2つの商品を提供した相手であることを店主が思い出していただくまでにしばらくかかった。無理もない、最後に訪れてから2年は経ってしまっているのだ。
ええと、前回は、という店主の言葉とともにかつてオーダーした眼鏡の内容がプリントアウトされて差し出される。表の隅には当時の料金が記されており、それが当時のマンションの家賃とほぼ同額、しかも現在の住居の家賃よりも高額であることに気づき、当時の自分の金遣いの荒さに思わず怯む。そのさらに横には受注日が記されているのだが、よく見ればちょうど10年前である。まぁ十分モトは取れたわな、と自分に言い聞かせ、平静を装う。
前回に比べれば要望はかなりシンプルである。もはや対面接客の仕事には就かないし、倉庫スペースでの作業になるので見た目よりも装用感と視界の広さを優先したい、ただし可能なかぎりレンズは薄く、と伝え、プラスティックでやや厚めのフレームを先に選ばせてもらう。前回はレンズを極力薄くするためにレンズが小さいフレームを選んだのだが、視界が狭まるぐらいならと今回は大ぶりなフレームに決める。
自宅から装用してきたコンタクトを外し、検眼用の眼鏡をかけられて何度も検査表を見る。と、柄付きの虫眼鏡のようなレンズの、表と裏をそれぞれ当てられ、どちらのほうがくっきり見えますか、と問われる。しばらく後、これでどうですか、と、眼鏡に数枚はめられたレンズの向こうの視界が現在の眼鏡の何倍もシャープなことに思わず言葉を失う。それどころかコンタクトレンズよりもクリアなのである。驚きを隠せない私に店主は、「乱視の軸」をちょっとね、と事も無げに言う。乱視と聞いてドキリとするが、大なり小なり大抵のヒトにはあるんです、左右でその軸を揃えると、両方の眼の焦点が合いやすくなって見え方が変わるんです、と、まるで自転車のタイヤかなにかのように訥々と言うのを聞いても、私の眼はまだ信じられない。「自分の眼で確かめる」などと人は格好つけてほざいたりするが、少なくともこの人の前では黙っていたほうが良さそうだ。
フレームは私が選び、レンズの度数も決まったので、あとはレンズ選びである。我がほろ苦き青春時代から見ても光化学技術は発達しており、高い屈曲率を実現しながら軽量なレンズも多く市販されている。しかし、限られた厚みで強い度数を実現するのは今もなおプラスティックよりガラスであり、どうしても高額になる。今回も選んだのはガラスレンズでありその価格は現在の家賃と同額であった。フレームの代金などその前では毛ほどの重さも無いくらいである。
レンズの度数がアレなんで5日ほどいただきます、出来上がったらお電話を、という店主に、いえいえ、来週の前半にうかがいますのでご連絡はけっこうです、と愛想よく言う。情けないことに給料日前で料金を全額前払いできるほどの持ち合わせがなく、今回に関しては完成後の後払いでお願いしたい旨を最初に伝えていたのである。高い技術には高い評価、をモットーにしている私としてはなんとも、みっともないかぎりだが仕方ない。引越しを含めた日程も押し迫っており、この時期しかなかったのである。
お店を出てしばらく行った先のビルの入口に自販機を見つけたので缶コーヒーを選ぶ。香りのとびかけた安出来の微糖を口に運びながら、ふと、もし子供の頃にあのお店の、あの店主と同等の技術をもった眼鏡店に出会えていたら、と考える。
もちろんそのような問いが不毛なものであることぐらい、中年とよばれる歳にさしかかった私には分かっている。最初の眼鏡は母の、次は父のつてで連れていかれた店で仕立てられたのだし、そのいずれもが山陰の寒村からクルマで40分近くかけて出向いた先にあった。父はともかく視力の良かった母には、出来の悪い三男の度を越えた近視が信じられなかったようだし、成長期の子供にかけるコストとしては十分すぎるくらい大きかったはずだ。
この街を離れる前に間に合ってよかった、という一抹の安堵が思わずため息を呼び、缶コーヒーの湯気と混じり合って大阪の空に吸い上げられていく。
(了)