第十三話 妖狐と黒猫
さて、だいぶ引き離されたな。ディマの逃げ足も大したものだが、今のノワールから逃げることは出来ないだろう。早急に追いつかないとな。とはいえ、獣人とはいえクズハの身体は身体能力が高いとは言えない。それに、なんだろうか、胸がすごく重い……。走ったりしたら肩がもげそうだ。
まともに走って追いかけることは出来ないな。この身体の能力を使わせてもらうとしよう。俺は目を閉じ意識を集中させると、周囲のグリムウィルを感じる。不思議な感じだ。まるで全てが自分自身のような、意のままに動かせるような気さえする。これが、クズハの力なのだろうか。
「……捕まえた」
禍々しいウィルの動きを捉えた。あれがカオスか、変貌したノワールだろう。ディマがどうなっても構わないが、ノワールがカオスに飲まれたり、これ以上手を汚すことだけは防がないとな。片腕の袖で顔を隠すと、ディマを追うノワールの姿がぼんやりと見える。
「転移送身」
「――ッ!」
急に何を言ってるんだと思うだろうが、これは瞬間移動のような魔法だ。周囲のグリムウィルと身体のウィルを一体化。リンクして覗き込んだ転移先のグリムウィルと位置を入れ替えた。魔法というより狐だから妖術と言ったほうがしっくりくるな。ノワールは目の前の急に現れた俺に面食らって後ろに飛び退く。
俺の後ろにはディマが、片足を折られ、股を小便で湿らせている。半べそをかきながら、まるで希望を得たように俺を見つめていた。
「おっ……おぉ、クズハ、遅いぞ! 隠し玉があったなら早く使って俺を逃がせ!」
足元に縋りついてくるが、正直不愉快なので触れられないように躱し、汚いような物を見る目で見降ろした。
「触れるな、下郎が。苦境を己の力でどうにかしようとした意気は認めよう。だが、いささかやりすぎた」
「だ、誰だお前は! クズハじゃない……のか?」
「グリグリ! ドイテ! ソイツコロセナイ!」
ふむ、さすがに感覚が鋭い。クズハの姿だというのに一目で俺だと気づくか。しかし、カオスに飲まれかけているのか、言葉のたどたどしさが悪化し、息も荒い。
「娘同然のお前に、これ以上手を汚させはしまいよ。拘束結界」
「うぁ! なんだこりゃ! だしやがれ!」
「ガァァ!」
魔法を唱えた隙にノワールが飛び掛かるが、まるで鳥かごのような物に捕らわれたディマに、その爪は届かなかった。
「ジャマ! シナイデ!」
理性を失いかけているのか、俺のことを認識しながらもカオスによって黒く変貌した腕の爪を上段から振り下ろす。今はディマを殺す上での障害としか考えられないようだ。だが甘い。
「方向転化」
「――ガッ! ナ、ナンデ」
指を俺の左後方へと向けると、ノワールの爪はまるで引っ張られるかのように指を指した方向へと反れる。勢い余って地面に叩きつけられた。グリムウィルに流れを作ることで、攻撃を受け流したのだ。
「ウアアアアア!」
「ほいっ――ほいっ――ほいっと」
頭にきたようで滅茶苦茶に襲い掛かってくるが、その攻撃は俺を掠めることもせず右へ左へ、地面へ上へと反れ続ける。クズハがヴァイスの攻撃に対して行おうとしていた魔法のようだが、無効化されると危険だ。しかし、冷静に物を考えられない今の状態なら効果的なようだ。
しかし、ふいに攻撃が脇腹の服を切り裂く。受け流せる魔法とわかっていても、反射的に体を反らしたりして避けていたのが功を奏したようだ。ノワールの爪に黒い粒子状の物が纏わりつき、魔法を無効化したようだった。
「くっ……魔法無効化の付与か」
「グルアアアア!」
無意識で行っているようで、反らせたり反らせなかったりとするせいで、逆に対応に困る。ノワールも息切れをしているが、どんどんカオスの浸食も進んできているようだ。半身だけだった身体の変化も、今や全身に広がっている。双眸は赤くギラギラと輝いており、見た目はまるで悪魔のようだ。この距離で無効化付与の攻撃を拘束結界に当てられたら終わりだな。距離を稼がないと……。
「ハア……ハア……、グルルルル」
「ははっ! すげぇ! 早くそいつをなんとかしてくれ!」
「うるさい黙れ! ノワール、落ち着け。混沌に飲まれるな」
さっきまでピーピー泣いていたディマが五月蝿い。お前の為に戦っているんじゃないというのに。カオスの浸食が始まった条件であろうディマがいる以上カオスの浸食が悪化する一方だ。頃合いだな。
「ノワール、お前の手を、こんな奴の為に汚したくないんだ。それに、死ぬだけなんて罪が足りないと思わないか?」
「……ウ?」
「お、おい……なんの話だ?」
どういうことかと疑問の目でノワールが見つめ返し、ジロリと睨みつけたディマは、先ほどまでの威勢がなくなり、青白くなっている。その一瞬の隙を見逃さず、俺は袖で目の前を隠し、転移送身でノワールのすぐ後ろに転移した。
「敵意転身」
懐から出したボロボロのグリム人形で、そっとノワールに触れ魔法を唱える。敵意に敏感なノワールも、ただタッチされるだけだと思わず反応が一瞬遅れたようだ。振り向きざまにノワールは腕を振り回してくるが、すぐにバックステップで距離を置き、グリム人形を遠くに放り投げた。
意図が不明な行動にノワールは目を細めるが、すぐに駆けだし、追撃を……することなく人形のほうに走っていった。敵意転身は対象の攻撃意識を触れたものに強制的に向ける魔法だ。一度でも触れた対象に攻撃を加えれば解除されるが、十分時間が稼げる。しかし、あの身体能力の高さではすぐに戻ってくるだろう。急ぐとしよう。
「我が名はグリム。眷属たりえる同胞を不当に使役し、高潔なる精神と身体を弄んだ罪を、神の名において罰する」
「ひ……、ひぃぃ! 神様!? 俺は悪くないんです! あいつらが!」
「弁明の余地なし。その身に彼らの苦しみを刻め!」
クズハに憑依したことで、その力を十全に奮うことが出来る。本来の力を取り戻した魔法を、ディマに向けて放つ。
「世界意志の慟哭」
「……? ぎゃぴっ! ぎゃぁぁぁぁ、ああああああああ、うわぁぁぁぁぁぁ、あばばばばばば」
囚われた鳥籠の中で、ディマが叫びながら痙攣。涙を流したかと思えば、急に笑い出したり、身体中を抱きしめるようにしてうずくまったりしている。糸の切れた人形のように光の無い目で中空を見つめていたと思えば、また様々な苦しみの様相で騒ぎ出す。
「コレ……ハ?」
「もう過ぎてしまった苦しみを無くすことは出来ない。気休めかもしれないが、グリムウィルに刻まれた獣人達が受けた様々な苦しみの責め苦を、ディマに受けさせている。精神が壊れることのないおまけ付きでな」
ノワールがグリム人形を爪に突き刺して、呆然とした様子でディマのほうを眺めている。複雑な気分だがまぁいいか……。ディマへの強い憎しみと怒りからカオスを取り込んだノワールは、その対象が責め苦を受けることで暴走状態から一先ず落ち着きを取り戻したようだ。
しかし、姿が戻ることはない。カオスがどんな悪影響を及ぼすか分からない。グリムウィルに自身のウィルを混ぜ合わせるように意識する。
「じっとしてろ。神の息吹」
「――ウ!……ウゥ……わタ……しハ」
ふぅっと息を吹きかけると、ノワールを包んでいたカオスが霧散していく。瞳にも理性の色が戻り、真っ黒に変貌していた身体も元に戻るが、大人の姿が戻ることはなかった。神の息吹をもってしても、血肉と化したカオスを取り去ることは出来なかったようだ。
「完璧には無理か」
「特性、かナ、カオスも、もうわたシの、一部」
なんだこの言い知れぬ不安は、大切な何かが遠くへ行ってしまうような。ノワールがこっちを見ない。伏し目がちにこちらを向いているだけだ。俺は縋るように声を掛けようとした。
「ノワ――」
「五里霧中――ごめんネ、もう、もどレない」
――瞬間。ノワールは魔法を唱えた。黒い靄が立ち込め、周囲の認識を阻害させてくる。なんでだ。どうしてだノワール。
「戻ってこい!」
「イかなキャ、弟ヲ、よろシく、グリム様」
「神の息吹!」
「バイバイ……」
黒い霧を晴らすが、そこにノワールの姿はなく、ただ狂ったように笑うディマだけが取り残されていた。
突然のノワールとの別れに呆然としてしていたが、その後もドタバタだった。
まず、ハクアは囮どころか、その容姿から神の御使いと崇められ、ぞろぞろと獣人達を引き連れていた。元々獣人奴隷化に否定的だった人間もいたようで、懺悔や後悔をしたのちに、解放を謳いながら一緒に集落を回っていたようだ。それに恐れをなした奴隷肯定派は一目散に逃げるか隠れ、手を出してくるようなことはなかったようだ。
ソールに至っては、襲いかかる獣人達を千切っては投げを繰り返し、気絶者を量産。そして、アウレの短剣が首輪の自殺機構を破壊出来る事が判明したらしい。その後のアウレの活躍はどこぞのアサシンかという程の大活躍だったそうだ。
ガハハハ笑いながら獣人をぶん投げるドワーフと、いつの間にか忍び寄り、首を掻っ切るちびっこというコンビは、ひどく恐れられたという。アウレ曰く……
「首を掻っ切るだけの簡単なお仕事です!」
恐ろしい子である。
ルシファーに関してはそれを呆れたように見ていたらしい。暇だったので花火を打ち上げまくっていたらしいが、それなら手伝いに来て欲しかった。結局誰一人自重しない上に、俺の事は心配していないという現実にげんなりした。
「グリム様は無敵です!」
うん、根拠がない信用程怖いものはないね。
「お前がそう簡単にくたばるかよ。くたばるならその前に一発殴らせろ」
まだ根にもってますよヤダー。
「曲りなりにもあんたは神なのよ? 殺されるようなことしたら私が滅してあげるわ」
わお、死んだらもれなく滅ぼされるおまけがついてくるようだ。
「んふー」
いいから君は短剣をしまいなさい。
それぞれが言葉をかけてきたが、信用ともわからないセリフと、物騒なセリフ、ちびっこに関しては、興奮冷めやらぬ感じで、いろいろな意味で危ないんじゃないかと危惧するようなセリフが返ってきたが、気にしたら負けだと思っている。
ノワールのことも話したが、これまた反応が予想外だった。
「ノワちゃんはいい子だからきっと理由があるんですよ」
のほほんとハクアは答える。
「猫っ子一人心配しすぎだっての、そのうちひょっこり戻ってくるだろ」
娘を心配しすぎで魔物化した奴のセリフですかね?
「過保護か! あんたよりはしっかりしてるから大丈夫よ」
俺ってそんな頼りないのか……? ……ないな。
「首切ればいいの?」
OK。そこから離れようか?
俺がおかしいのか? そうなのか? 正直どんよりとしていた気持ちが馬鹿らしくなってしまった。気を使ってくれたのだろうか。いや、考えすぎだな。あれは素だわ。さすがにヴァイスは心配してると思ったが。
「まったくよー。手間のかかる妹だぜ。兄ちゃんが探してやらないとな!」
お互いに相手を自分より幼いと思ってるっていうのが分かっただけだった。なんでちょっと嬉しそうなんだよ。手のかかるイコール自分より幼いって安直な考えっぽいな。
かくして獣人騒動は、クズハという新しい仲間を迎え、ノワールという家族を見失ってしまう結果となったのだった。
後日、俺とルシファーは概念として、クズハと一緒に集落の見回りを行っていた。
「やはり、ここも……」
「鋭利な爪跡ね」
多くの獣人達は救出されたが、集落のあちこちで獣人や人間の死体が発見された。色々な意味で見せたくはなかったので、ハクア、ソール、アウレは連れてきていない。
「ノワールだろうな」
「そうね」
「しかし……これは」
「あぁ、言わなくてもわかる」
獣人達はみな安らかな表情をして息を引き取っていた。まるで幸せな夢でもみるかのような表情だ。人間に至っては恐怖を張り付けたような表情で死んでいる。いや、認めよう。殺されている。四肢を切り裂かれるなど、いたぶったような跡が見られた。
「この人間たちは、特に獣人を嫌っていた者達です。何人もの獣人達が心を壊されました……」
「そう、なるべくしてなった、とでも言った方がいいのかしら」
人間達の傍には、揃って未使用の首輪が落ちていたり、その手に首輪を握りしめていた。罪を説いたノワールにさえ、懺悔することなく使役するべく襲いかかったのだろう。
ふと獣人達の衣服に目を向けると、真新しい涙の跡が見て取れる。
「救うために、殺す。なかなかに、出来ないことです」
「そうね。綺麗ごとでは、すまないわよね」
クズハとルシファーのつぶやきに、俺の頬にはいつの間にか、涙が伝っていた。すまない、ノワール。君は優しすぎる。鋭敏すぎる君には聞こえていたんだな。彼らの叫びが、助けてという声が。もう手遅れになってしまった現実が。
狂気に飲まれディマを殺すことは防いだ。だが、正気でありながら断罪し、救うために同族ですら殺すことを止められはしなかった。結局ディマの件なんて俺の自己満足で終わってしまったんだろう。
悲しみや苦しみを背負うのは君だけである必要はないはずだ。未熟な神である俺に代わって引き受けてくれたその慟哭。いつか俺が、迎えに行って、一緒に背負うからな。