城下町幽玄クラブ
この物語は、まだ巷の女子高校生たちの間に、ルーズソックスなるものが流行っていた頃のお話です。
あれは何の木だろう。暗くてよく分からないが、とても大きな木が立ち並んでいる。何れも大人二人以上でなければ回らないほどの大木ばかりだ。
今夜は全くの無風。虫の声さえも止んでいる。どうしたのだろう。真夜中の森はとても静かだ。
地上にはふさふさとした草が、櫛で梳いたようにうねっている。頭上を見上げれば沢山の枝葉が、森に分厚い蓋をしたように繁っている。
暗い。闇がたっぷりと溜まっている。
息を殺し、注意深く進んでいく。すると、闇に霞む木々のずっと奥の方に、そこだけポツンと、異様に明るい場所が見える。何だろう。
少年が一人立っていた。
全身黒ずくめの衣装で、頭にも黒いバンダナを巻いている。足元は草に埋もれていて見えない。
太い木の幹に背を預け、上を見るような恰好で立っている。しかしその目は閉じられていた。このような真夜中の森の中で、何をしているのだろう。身じろぎひとつしない。まさか、死んでいるのだろうか。
少年が見上げるその先には、葉の茂りの中にほんの少し切れ間があるらしく、その隙間から細く月光が射していた。さっき明るく見えたのは、この月の光だったらしい。
光りは一本の線のように急角度で射し込み、少年の全身に降り注いでいる。だが身体は周りの闇に溶け込みあくまでも黒く、目を閉じた白い顔だけが光りを受けて闇に浮かんでいる。生きているのだろうか。
家から学校まではおよそ二キロ。毎日歩いて通っている。入学したばかりの頃は自転車で通っていたのだが、どうもこの町は坂道が多い。
元々が山城の国と言われていて、その昔、敵国からの進入を防ぐ為に、起伏のある地形を生かして、大きな台形の断崖の上に町が創られたそうだ。
町を取り囲むように巡っているあちこちの崖が、そのまま自然の城壁になっていたらしい。
町全体が南北に長く、山の上を削ったような場所に出来ていて、その周りには大小の崖や土手が多い。もっとも、沢山の緑とそこに立ち並ぶ家並みのせいで、普通に歩いている分にはそういうことには案外気づかないで過ぎてしまう。
だがある程度の距離を自転車などで移動してみるとよく分かる。上り下りが激しすぎて、すぐに疲れてしまうのだ。
しかしその分、町外れからの見晴らしはいい。西手の町裏からは、遙か遠く那須連邦の山並みがスッキリと見通せる。古い城下町だ。
入学して一月ほど経ったところで、自転車から徒歩通学に変えた。徒歩に変わったとき、今までより十五分早く家を出ることになったことが、初めの内ちょっと嫌な気がしたが、それも慣れてしまえば何でもなかった。
この先冬になればどうなるか分からないが、近頃では、空高くから覆い被さるように茂る大木の下を、キラキラと揺れる木漏れ日を顔で受けながら歩くことが、とても気に入っていた。
町の中心地から西へ一キロ程離れた場所に、南北を結ぶ商業道路としての国道が通っている。しかしこの町のメインストリートはそこではなく、昔からの奥州街道だ。そこには今でも、昔の面影を残すような古い民家や、当時は遊郭だったらしいことが窺えるような、細かい格子造りの窓がある二階家などが、町裏の所々に残っている。
城下町だけに神社仏閣も多い。町外れを歩くと森の陰や林を背にして、いかにも古びた感じの、小さな寺や神社をよく見かける。
そんな光景を見るにつけ、アスファルトの舗装道路を除けば、それ以外のものは全部、ずっと大昔から変わっていない風景のような気がしてくる。またそう思うと、そういう深みのある景観がとても好ましく思えた。
町全体が豊かな自然の中に沈んでいるような観があり、春夏秋冬季節が移ろうごとに、メリハリのはっきりした町だと思う。
学校まで行くにも、町外れの大きな森の真ん中を横切って行く。この道も、おそらく大昔に造られた間道のような道に違いなかった。通るたびにそう思う。行くごとに、道幅が広くなったり狭くなったり不揃いで、路肩はコンクリートで土止めされてはいるが、そのすぐ崖際には細い渓流が、緩く曲りながら流れていた。
七・八メートル程の、殆ど垂直に近いような切り立った崖が両側にあるのだが、その有様は岩山の深いクレバスの谷底に、危なっかしい道路が無理矢理に造られたような感じに思えた。もし道路が舗装されていなかったとしたら、まるで宮本武蔵が修行中に歩いていた山中の獣道のようだ。
両側の岩肌の割れ目には、山水画に出てくるような形の良い松の木や楓の木などが沢山生えている。岩肌全体が深緑色の苔で広く覆われていて、そこからは無数のシダやツタの類が、暗い緑色の影を作って密生していた。
この道を通るたびに、この光景はきっと、何百年も前から殆ど変わっていないのかもしれないなどと思うのだった。
「おはよう」
光一の横に並びながら声がした。
「よっ、おはよう」
陽子だ。陽子の声はいつも明るい。横から覗き込むようにして微笑んでいる。量の多いたっぷりとした髪の毛を、肩の線で切ってある。学校の規則でそれ以上は伸ばせないのだ。
身長は一メートル六十を少し越えるくらいでちょっと痩せ形。目が大きく細面で、笑うと左の頬にだけえくぼができる。結構可愛い方だと思う。
ミニスカートにルーズソックスも規則違反の筈なのだが、全員がそのような恰好の中、自分一人だけ正規の服装をしていたら、その方がよほど規則違反に見えてしまうと、いつもうそぶいている。
小学生の頃などは光一よりもずっと背が高く、光一はそれを何となく引け目みたいに感じていたものだったが、中学二年の終わりの頃に追いついた。そして、やっと同じ背丈になったかと思ったら、三年生になると、あっという間に追い越した。その後はあれよあれよという間に、まるでゴム紐みたいに光一の背は伸び、高校一年生の今、光一の身長はあと一センチで一メートル八十になる。
男子の同級生の殆どは長髪が多かったが、光一は少し長めのスポーツ刈りにしてある。そういうのが好きなのだ。切れ長の目が優しそうだが、顔全体にはまだ童顔が残っている。体重六十五キロ。ちょっと細身だ。
陽子はすぐ近所に住んでいて、幼稚園の時からの幼馴染みだった。他にも京子という女子の幼馴染みがもう一人近くに住んでいるのだが、その子とは、近頃は疎遠になっている。
小学生の頃までは男も女も区別なく、それぞれの家を行き来したり、みんなで空き地や森などで遊んだりしたものだったが、中学生になった頃から、何故か、とくに女の子とはあまり会わなくなっていったような気がする。受験勉強のためということもあるが、それよりもそれぞれが思春期に入り、変に互いを意識するようになっていったせいだと思う。
そんな中で、陽子だけは別だった。この子は小さい頃からとても人なつっこく、気さくで性格が明るい。その明るさが、幼い頃からの無邪気を持続させているのだろうと思う。高校生になった今でも、子供の頃からと同じように互いの家を行き来しているし、受験勉強なども、机を並べてよく一緒にしたものだ。
光一は性格が暗い訳ではないのだが、何をやるにしてもよく考えてから行動を起こす質で、考える時間がちょっと長い。どちらかといえば口数は少ない方だが、傍目には何もしていないように見える時こそ、その脳は忙しく回転しているようだ。
その為か、明るい反面短絡的な陽子の牽引力につい引きずられたり、無理矢理のように押し切られたりする事が多いような気がする。光一が色々と考えている間に、横から勝手な結論を出されてしまうのだ。
しかし裏がある。シャキシャキした性格の陽子は、たぶんいつも自分が主導権を握っているように思っているに違いないのだが、でも少し遠回りしながらも、結局最後には、いつも光一の考え通りに事が収まっていることには気が付いていないようだ。二人はなかなかの名コンビなのだ。
また幼い頃からのつき合いであることから、光一は兄妹のようにつき合ってきたように思っている。でもたぶん、陽子の方では姉弟のようにと思っているのに違いないのだ。何れにしても、同い年なのに妹のようにも姉のようにも思える、不思議な存在なのだ。
志望校が同じだったのも良かったのだろう。光一は一年三組、陽子は四組、隣同士のクラスになった。
「ねぇ、光一君。今夜遊びに行ってもいい? ちょっと話があるの」
「ああ、いいよ。なんの話?」
「それは行ってから。凄い話よ。もしかしたら、逢えるかもしれないの」
目を輝かせ、いかにも凄い話しの様な口振りで言っている。
「逢える? 誰に?」
「だから、それは今夜行ったときに話す。じっくりね」
陽子はいつもこんな風にもったいをつけて、気を持たせるような話し方をするのだ。後で話すのなら、逢えるかもしれないなんて、思わせぶりなことは言わなければいいのにと思う。
もっともこんな事はしょっちゅうのことで、そしていつも大した話ではないのだ。
ついこの間も、廊下に化粧鏡を出しっぱなしにしておいたら、綺麗な鳥が二羽やってきて、鏡に向かって盛んに自分の姿を映しているみたいだったから、あれはきっと女の人の生まれ変わりに違いない、絶対そうだと言ってきかなかった。光一はすぐに、それはたぶんセキレイだと思ったのだが、そのことをズバリと言うと陽子がへそを曲げるので、そんなときなるべく遠回しに、いかにも不思議そうに分からせるのが骨が折れる。セキレイは光り物が好きな鳥なのだ。
その前には、何年もの間葉っぱばかりが大きくなって、一度も咲くことがなかった植物の花が初めて咲いたと言っては、凄い凄いとても綺麗に咲いたから是非見に来いと、夜に光一の腕を引っ張るようにして自分の家に連れて行ったのだ。それは月下美人の花だった。それは・・・ まぁ、綺麗だった。
何れにしても、いつもそんな類の話を凄い話だとか言って、鬼の首でも取ってきたみたいに得意げに話して聴かせるのだ。
でもそのように、何かにつけて楽しそうにやってくる陽子の訪問は、とても明るく華やいだ気分にもなり、内心では好きだった。光一は一人っ子のせいかもしれない。
夕方、コンピュータークラブの打ち合わせに出席しての帰り道。夏の五時半頃の太陽は、まだまだ昼間と変わらない。いつもの、渓谷のような谷間の道を戻る。
学校のすぐ周りには、小さな森や林なども疎らにあるが、その殆どは住宅地になっている。校門の前の通りにはスーパーとか書店、銀行などがあり、車の通りも結構激しい。それはどこの町にでもあるような光景なのだが、家まで帰り着くには、途中その大通りから外れて枝道に入り、今歩いている谷間の道を抜けて行く。
賑やかな感じのする町と深山幽谷が、まるで線で引いたみたいに、極端な不思議さで隣り合って続いている。始めての人ならずいぶん戸惑うと思う。
かつて開発がブームだった頃、平坦な土地ばかりが開かれた。そして、どうにもならない小山や断崖などが入り乱れている地形の場所は取り残され、結局こんな事になってしまったのだろう。でも光一は、この町のこんな極端な風景がとても気に入っている。
いつもの渓谷の道には、崖の左下に細く渓流が流れ、その際からはゴツゴツとした岩肌の崖が高く立ち上がっている。
先を見ると道が大きく右にカーブしていて、高い崖の上に茂っている樹木が、両側から大きくせり出すように被っている。分厚い緑のトンネルのようだ。そして雑木に絡みついている沢山のツルの類が下まで長く垂れ下がり、ズルズルと、今にもこぼれ落ちそうな感じに見える。今いる場所は坂の上なので、見る角度のせいだろう。
この枝道に入ってから三・四分ほど歩いたところの左側に、崖の下の部分を大きく削って造られた祠があった。それは結構な横幅があり、中には沢山の石碑や石像が並んでいる。それはもう、随分大昔からそこにあるような感じに見える。そそり立つ崖の下の部分を抉って造ってあるので、その祠の前に立って上を見ると、頭上の黒い崖がドーンとこちらに倒れてきて、今にも下敷きにされそうな威圧感がある。
今日もどこかのおばあさんが、ゆっくりと丁寧に、小さな蝋燭を手にして火を点けてまわっていた。左手にはまだ何本かの蝋燭が握られているようだ。
ついさっきのところまでは、まだ高いところにあった太陽がとても明るかったのだが、この渓谷に入ると突然のように暗くなった。この場所は断崖の切れ間の底にあるので、昼日中でもいつも薄暗く湿気っている。
いちばん手前に少し小振りの石の鳥居があり、注連縄が飾られている。大きく抉られた岩肌を背に幾つもの不揃いな石碑が立っていて、横の岩壁に掛けられている茶褐色の煤けた板に何か書かれているのが見える。
高校生になって四ヶ月目。この道は毎日の通学路であり、もうすっかり見慣れた光景なのだが、この前を通る時だけはちょっと不気味な感じがしていた。
昼なお暗い間道のような細道。木漏れ日さえも届かないほどに深く生い茂る雑木の木立。光一にとっては凡そ好きな風景なのだが、どうもこの岩窟の社だけはいかにもかび臭く、時代がかり過ぎているような気がしていた。
崖と道との間には、上流からずっと清流が続いていて、祠の前の部分にだけ、とても面積の広い一枚岩が敷かれていた。これも社と同じく、相当に古いものだろう。その平べったい一枚岩が清流を跨ぎ、祠への橋の役目とささやかな境内の役目も果たしているらしい。
その足下の岩も、石の鳥居も、またそこに並んでいる幾つかの石碑やその後ろの大きくくぼんだ崖なども、所々が緑色の苔で覆われていて、これらも大分湿気っているような感じがする。苔生したとは、こんな有様を言うのだろうと思った。
立ち並ぶ石碑には、それぞれに何か文字が彫られているらしいのは分かるのだが、苔が張り付き暗く霞んでいて、歩きながらではよく見えない。近づけば分かるのだろうが、光一には、こんな場所はただ陰気臭いだけで、何の興味もなかった。ただ学校帰りの夕方、ここを通るたびに、この薄暗い祠に灯る何本もの蝋燭の炎の揺らめきが、とても印象的に目に焼き付いていた。
ブーツカットのジーンズに白いTシャッ。
胸の中程にはウサギの絵が描いてあり、そのウサギがぷっくりと膨らんでいる。その上にTシャッが透けて見えるような黄色い夏用のカーディガンを羽織っていた。
豊かな黒髪が両方の頬を隠している。その輝く髪の黒さが、白い肌の色を引き立たせていた。夕食が終わって、七時ちょっと前の頃。
「こんばんはー」
ガラリと玄関を開け、左側の居間にいる筈の光一の親達に大きな声でそう告げると、構わずにトントントンと、階段を駆け上がってくる。光一の母親が、玄関に向けていらっしゃいと言ったときには、もう陽子は光一の部屋のドァを開けている。幼稚園児の時からこうしている。慣れたものだ。
「だからね、その女の人っていうのはたぶん、現れた場所から考えても三千代姫に違いないっていう訳なの。ね? そうでしょう?」
部屋に入ってくるなり少し興奮気味に、ぺらぺらとまくし立てていた。ここへ来る道々、光一になんて話すか考えながら来たのだろう。
こんな時光一には、口を挟む余地などは無い。とりあえず黙って聞いていればいい。言うだけ言えば、すぐおとなしくなる。いつもそうだから。長いつき合いの間に呼吸は心得ていた。
あらかたの話は済んだらしい。目を見張るようにして聞いていた光一はニッコリと笑って、からかうように言った。
「さて、機関銃の弾は尽きたかい?」
「んもおー なによぉ」
陽子は自分でも気が付いている。興奮するとついまくし立てる癖を。分かっていてもそうなってしまうのだから仕方がないのだ。そのことを光一に茶化されて、また恥ずかしくなったのだろう。
「ひとが一生懸命説明しているのにぃー」
頬を少し赤らめて、口もちょっととんがっていた。これもいつものことだ。
「それでどうなのよぉ。分かったでしょう? すごい話でしょう? ね? ね?」
「それで、どうするんだい? その幽霊をつかまえようって言うのかい?」
光一はいかにも呆れたような目で、陽子のふくれっ面を見ていた。
「幽霊だなんて言わないでよぉ、三千代姫だよ。この町の城主のお后様だよ。知らないの?」
光一達が通っている高校は明治時代に創立された伝統のある学校なのだが、それでいて反面、なかなか自由な校風があった。光一は、クラブ活動はコンピュータークラブに入ったのだが、陽子は幽玄クラブというのに入った。
元々そんなクラブは無い。これはつまりは歴史クラブのことで、この町に残っている古い史跡や神社仏閣などの故事来歴などを深く調べるのが目的のクラブなのだが、色々と調べている内に、沢山の悲しい物語や武勇伝、またそれにまつわる怪奇な話がぞくぞくと分かってきた。それで誰かが幽霊クラブと言い出して、その後幽玄クラブと変わったらしい。しかしあくまでも、正式名称は歴史クラブの筈なのだが、よく分からない。
クラブ顧問は松永玲子という社会歴史担当の教師だった。この先生がなかなかの美人先生で人柄も良いところから、風変わりなクラブにも関わらず部員の数も結構多く、休日などにもよく自転車部隊を引き連れて、颯爽と町外れの史跡やお寺などを訪れているみたいだ。
陽子の話ではこの玲子先生が幽霊好きの怪談好きで、顧問自ら幽玄クラブと言って憚らないらしい。
三千代姫の物語は光一も聞いたことはある。でもそれは、ずっと子供の頃に聞いた話で、大昔のお姫様が、暮谷沢の涙橋のあたりで自害して果てたと言うことを、単純に記憶しているだけだった。
暮谷沢とは、毎日学校への行き帰りに通っているあの岩の祠のある渓谷のことで、涙橋というのは、あの祠から四・五十メートルくらい離れた斜向かいにある。そこには五・六メートル程の落差の、ほんの小さな滝があって、前を通るといつもザーという水音が聞こえていた。そこに古い石橋が架かっている。それが涙橋で、その脇に三千代姫の辞世の句が奉られてあった。
「人間はば岩間の下の涙橋流さでいとま暮谷沢とは」
この辞世は道路のすぐ側にあるピカピカの御影石に刻まれているのではっきり読めるのだが、光一にはその意味は、分かるような分からないような感じで、結局はよく分からない。
またその三千代姫を奉ってある三千代姫堂という小さなお堂が涙橋の崖の上に建っているのも、毎日通学しながら見えていた。
しかし今となっては、その伝説を誰から聞いたのかも忘れてしまったが、たぶん父親だったろうと思う。
「少しは知ってるよ。戦国時代のこの町の城主が二階堂・・・ 二階堂なんとかさんで、三千代姫っていうのは、その人の奥さんだった人だろう?」
「うん、そうだよ。何とかさんじゃなくて、二階堂為氏さん。うん、それで、それで?」
目が輝いてきた。
「為氏さんか。んーと、それで三千代姫は、戦に巻き込まれて暮谷沢で自害したんだろう?」
「うん、正確には戦じゃないんだけどね。まあいいわ。それで?」
「それでって? それだけだよ」
「えー なによそれー そんなの子供だって知ってるよぉ」
その通りだ。子供の頃に聞いた記憶だけしかないのだから。
「あのねぇ、いい、よく聞いて」
座り直すようにしてテーブルに両肘をつき、
身を乗り出してきた。大きな瞳がいっそう大きく輝いている。
「ん? 機関銃に弾が詰まったな」
光一がニャッと笑ってそう言うと、菓子皿のピーナッツをひとつぶつけてきた。
口で受けようとしたが少し外れて、鼻の頭に当たった。陽子はそれを、フンと鼻で笑って、
「黙って聞きなさい。いい」
もう一粒を右手に持って、微笑みながら構えている。
「ヘイヘイ、聞きましょう」
光一は、拾ったピーナッツをコリコリ囓りながら笑っている。陽子の講釈が始まる。
「時は、今からおよそ五百六十年前の室町時代の事」
「えー ? 五百六十年前ぇー むろまちぃ?」
「うるさい。黙って聞いて」
「はい・・・」
「ある時。さっきの二階堂為氏さんというお殿様が、この町を治めるために城主として都からやって来たの。でも、それまで長い間この町の統治を任せていた当時の代官が、この町の城主は自分だと言い張って城を渡さなかったのね。つまり反逆した訳なのよ。しばらくその事で揉めていたんだけど、周りの豪族達からの意見もあって、その後代官は和解の意味を含めて、自分の娘をその正当な城主の為氏さんに嫁がせたのよ。三年後には城も明け渡すと言う約束をして。でも結局、その約束の期日が来ても城を渡さなかったの。それで為氏さんは怒って、そのお嫁さんを離縁して、その代官に送り返すことにしたの。そのお嫁さんというのが三千代姫なのよ。それでね、その三千代姫が付き人達に連れられて実家の代官の元へ帰る途中。その代官は、そんなお殿様の仕打ちが気に入らないという訳で、途中で待ち伏せをして駕籠を襲い、三千代姫だけを奪って後の者達は皆殺しにしようとしたの。三千代姫としては、旦那様には離縁されるは、父親にはそんな仕打ちをされるはで、すっかり絶望してしまったのね。それで悲しみのあまり、その襲われた場所で自害してしまったと言う訳なの。その場所があの暮谷沢なのよ。分かった?」
陽子はリズムに乗った口調で、楽しそうに話してくれる。クラブでの活動風景が分かるような気がした。でも光一は聞きながら、何だかテレビの三文時代劇のような話しだと思った。お茶の間時代劇に付きものの、悪代官もちゃんと登場しいているし。
「ふーん。けっこう複雑なんだなぁ。政略結婚のなれの果てかい?」
「言ってしまえばそうだね。でも玲子先生の話では、始まりは政略結婚だったけど、三千代姫もお殿様も、ほんとうはとっても愛し合っていて、夢のような毎日を送っていたそうよ。離縁したのも、実は為氏さんの意志ではなくて、側近の者達が腹を立てて、強引に離縁させたらしいのよね。なにしろ自害した当時の三千代姫は十七歳くらいで、為氏公は十九歳くらいだったそうだけど、三千代姫は才色兼備で優しくて、大変な美人のお姫様だったんだって」
光一があまり話しに乗ってこないらしいのを見てとると、陽子は尚も懸命に、物語を説明していた。
「なるほどなぁ。そういう話って、大概は大げさに美化されながら語り継がれてくるものなのさ。後世の者の気分のいいようにね。だって、五百六十年も前の話だろう? 誰も見た訳じゃ無し、写真がある訳も無し、そんなもんさ」
「もぉ、そんな風に言うと思った。光一君って夢が無いんだから。今度うちのクラブに来て玲子先生の話聞いてみたら。それはもう、とっても熱く、涙ながらに話すのよ。まるで自分が三千代姫になったみたいにね。感激するよ」
「変わった先生だよなぁ、あの先生。あんなに美人なのになぁ」
「あら、なによ。美人だとなにがいけないの? なにが気に入らないのよ」
陽子の目がちょっと睨んでいる。そうではなくて、自分が話しに興味を示さないのが気に入らないらしいと、光一は察した。藪蛇になりそうな雰囲気になってきた。
「いや別に・・・ 何もいけなくはないけどね。ちょっと変わってるかなぁって思ってね」
「ふん。とにかくそういう訳だから、お願いね。いいよね? ね?」
今度は大きな目が迫っていた。その三千代姫の幽霊があの暮谷沢のあたりに出たというのだ。そしてその姿がほんとうに三千代姫なのかどうか確かめたいのだが、先生と陽子と、女二人だけじゃ怖いから、光一につきあえという訳だった。
陽子は幽玄クラブの中でも玲子先生とは一番気が合うらしく、クラブが終わった後でも時折先生のアパートまで行っては何やら話し込んでいるらしい。今では沢山の先輩達を差し置いて、すっかりクラブの主力メンバーになっているみたいだった。
玲子先生は町のメインストリートの中程から、路地を東に少し入ったところにあるアパートに住んでいる。
松永玲子。二十六才。独身の美人先生だ。
この幽霊話の元は町の人の噂話だけで、他には何も根拠はないらしい。いい加減なものだ。まぁ、こんな話はそんなものだろう。根拠や証拠のある幽霊など、見たことも聞いたこともない。それでも陽子は、思い入れの強い玲子先生に引きずられるような形で、駄目で元々、二人で噂の真偽を確かめてみようと言うことになったらしい。どうせ何かの勘違いに決まっている。まぁ、それはいい。
藪から蛇が顔を出さないうちに、引き受けようとは思ったが、何だか、またうまく乗せられたような気もする。
「それで、いつ行くんだい?」
「ありがとう、光一君。つき合ってくれるのね? 嬉しい。明日まで待ってて。明日先生に話して、都合のいい日取りを決めるから。ね?」
パッと目が輝き、とても嬉しそうだ。やはりこんな時断ったら、このような陽子の笑顔は見られない。
「いいよ。でもさ、他にも男子のクラブ員だって沢山いるだろうに、どうしてわざわざ僕なんて誘うんだい?」
「うん、確かに男子も沢山いることはいるんだけどねぇ、みんな家が遠い人ばかりなのよ。いくら男だからって、真夜中までつき合わせる訳にはいかないって先生が言うから、私が光一君のことを推薦しておいたの。三人とも家も近いしさ。光栄に思いなさい」
陽子は正面から光一の顔を見つめるようにして、おどけるように言っている。
「なにが光栄なんだか・・・ え? 真夜中? 今、真夜中って言ったか? おいおい、真夜中って、いったい何時に行こうって言うんだい?」
「へへー・・・ それがね・・・ 問題なのよねぇ・・・ うーん・・・ だからね・・・ 怖いのよ。ほら、か弱い美女二人だけじゃねぇ」
益々おどけた口調になって、少しばつが悪そうな顔で言っている。
「こらこら。だからぁ、その二人の美女は何時に行くんだっつーの」
「・・・ 二時」
陽子は光一からちょっと視線をそらしながら、それでもチラチラと見ながら話している。
「何だって?」
「いいじゃん。私と光一君の仲でしょう? それに、どうせ暇でしょう?」
「おいこら、夜中の二時頃の時間を、普通暇って言うか? まともな人はみんな寝てる時間だろうが?」
「そんなこと言わないで。お願い。ね? ね? ほら、よく夜遅くまで、二人してここで勉強したじゃない。あの時は、それこそ二時どころか三時頃までだってやったのよ。覚えてるでしょう? 毎晩よ。おばさんが作ってくれたお夜食もとっても美味しかったし、懐かしいよねぇ。でもあれって、ついこの間のことよ。ね? 思い出した? ね?」
そう言われればその通りなのだが、陽子は今度は光一の顔すれすれのところまで身を乗り出してきて、両手を合わせながら、半分真顔で、半分冗談っぽく懇願している。
「しょうがねぇなぁ・・・ いいよ。分かったよ」
「ありがとうー よかったー それじゃ、日取りは明日先生と相談してから連絡するからね。夏休みも近い事だし、たぶんすぐ近い内になると思うわ。宜しくね。うーん、良かったわぁ。それにさぁ、光一君って、夜とか暗いところとか、全然平気なんでしょう? だから今回の話が出た時、すぐに光一君の顔が思い浮かんだのよ。ほら、小さい頃、よく一人っきりで夜の山の中に入って行ったりして、ずいぶんおじさんやおばさんに心配かけてたじゃない? 今でも平気なのよね? 変わってるよねー」
陽子は不思議なものを見るような、変な目で見ながら言っていた。何だか、褒めてるんだか貶してるんだかよく分からないような、変な言い方だった。
山の中といっても本当の山ではない。家の裏の辺り一帯が、ずっと後方およそ五百メートルくらい先の川の土手の処まで、広々とした森になっていて、子供の頃から光一達の絶好の遊び場所になっていた。全体的には平坦な地形で、山というより、やはり森なのだが、子供の頃の光一や陽子達には、こんもりと大きく茂るその巨大な緑のかたまりが、大山に思えたのだろう。今尚そんな記憶が残っているらしい。
駅前から出ている広い道路と、町から続いて来ている新しくできた道路が斜めに交差している。そこに横から大きく湾曲しながら川が流れているのだ。殆ど三角に近い、大きな変形四角形地帯が残されている。その一番長い一辺が、川に遮られているのが不都合らしく、この部分だけがなかなか発展出来ないでいるらしい。そのことが幸いしてか、町の中心地域近くなのに、まるで置き去りにされたかのように、大きな自然が残っていた。
森の周りには住宅地が広がっていて、車の往来も結構激しい。特に近年は住宅も増える傾向にあり、パン屋に書店、コンビニなど、新しい商店もたくさん出来て、今風の建物が目立つようになってきている。それだけに尚更、こんなところに大きな森があることがとても不思議な感じがするのも否めないのだが、森は光一達が子供の頃から、今もずっとそのままで残っていた。
駅前からの大通りを真っ直ぐに歩いて来て大きな橋を渡る。道の左右に歩道があり、そこにはずっと向こうまで、長々と欅並木が続いている。真夏の暑い日などには、その緑の木陰がとても嬉しい。
歩道には化粧タイルが敷かれ、年々町が綺麗になってきている。その橋を渡って少し行った左側、道路から一筋後ろに引っ込んだ新しい家並みの中に光一の家があり、同じ並びの十軒ほど先に陽子の家がある。そして家のすぐ裏側にある細い道筋には、古い桜の並木があって、その並木から後ろが森の始まりになっていた。
またその他の幼馴染み達も、みんなこの辺りに住んでいるのだが、何故か近頃は、子供の頃のように頻繁には会わなくなっていた。小さな頃には毎日のように、皆で森に入って遊んだものなのだが。
椚、欅、楢、楓、楠、栗、それとアカシヤなどの木が多くある。そしてそれらはずっと昔からあるものらしく、一様に背の高い大木ばかりだった。森の周りには灌木が茂り、少し離れた処から見ると、森全体が茫々とした深い藪に包まれているように見える。
外側から見るとちょっと入りにくい感じがするのだが、ほんの数メートルも奥へ入ってみると、中は割合すっきりとしている。ひんやりとする木陰が、真夏の散策などにはもってこいの憩いの場所となる。
光一達がそうだったように、この近所の子供達は今でもこの森で遊んでいるらしい。何れも優に十メートルは越す高い木々の間を沢山の木漏れ日が降り注ぐ中、木登りをしたり、隠れん坊をしたり、今も昔も、この界隈の子供達の遊びは変わらないようだ。
あれは小学校の四年生の頃だったか五年生の頃だったか定かではないが、もう何度目かの霜が降りたある秋の日の夕べの事だった。その日理由は忘れたが、たぶん何気なしに外に出て夜空を見上げた時だった。
森は光一の家のすぐ裏手から始まっているのだが、その森の上に上がっている銀色の月が、とても明るく森を照らしているのが見えた。そのまま家の裏に回ってみると、まだ少し明るさを残した群青色の空をバックに、森の輪郭がとても綺麗だった。森のシルエットは、沢山の大きな竹箒を逆さにして、ずらりと立て並べてあるような感じに見えたものだ。そして、少しだけ青さを残す夜空のスクリーンを背にして、森全体がとてつもなく大きな、一塊りの大木になっているようにも見えた。
真っ暗な森の中に目をやると、殆ど葉を落としている木々の隙間を縫って、明るい月明かりが森の中に落ちていた。幾筋もの光線が、夜空から射している。そんな様子が、立ち並ぶ木々の根本のあちこちに見えていた。
森の中が輝いていた。今いる場所はこんなに暗いのに、森の中があんなに明るいなんて不思議だった。月光は大木の幹がひしめき合う隙間を上手にすり抜けて射し込み、まるでスポットライトのように森の落ち葉を照らしていた。
その時小学生だった光一には、その光景がもっと幼い日に絵本で見たことのある、お伽話の世界がそこにあるように見えたものだ。
西風がヒューっと吹くと、道路際に集まって来ている沢山の枯れ葉が、あちこちで幾つもの塊になって、カサコソ、カサコソ、音を立て始める。それは、何かひそひそ話でもしているように聞こえた。
やがて西風は小さな渦を巻きながら、森の奥の方へと枯れ葉を運んでいく。するとまた、今度は別の枯れ葉が、カサコソ、カサコソ、遠くの方から転がってくる。その枯れ葉の乾いた音が、こっちへ来いと、光一を呼んでいるように思えたものだ。
でも改めて目の前の大きな森を見ると、月明かりに照らされている場所は、確かにとても明るく昼のようだったが、森全体はやはり暗い。すぐそこの、いつも昼間に入って行く入り口の楓の木のところだって、今はとても暗くてどうなっているのかよく見えないのだ。怖い。その中に一人で入っていくなんて、怖くてとても出来ないと思った。
それでも、ジーッと目を凝らして森の中を見つめていると、月光が射し込む森の奥の方へ、次々と枯れ葉が風に吹かれて入っていくのが見える。カラカラ、コロコロ、絡み合い転がりながら、枯れ葉が幾筋にもなって集まり流れて行く光景は、小さな生き物が蠢いているようにも見える。転がるたびにキラキラ光る。
枯れ葉達は、まるで数千数万の小さな兵隊のように、森の入り口で太い帯状に隊列を組み、弾むように駆け足で森に入っていく。そんな感じだった。
そしてまた、カサコソ、カサコソ、何か話しかけてくるのだ。
入ってこい。
楽しいぞ。
あちこちから誘う声が聞こえてくる。
恐る恐る、少しだけ近づいてみる。そーっと、静かに聞き耳を立てながら、何か変な物はいないかと目を凝らしながら、耳を澄ましてゆっくりと森に入って行った。
入り口の楓の大木が闇の中に薄く見えた。思い切って、スッと、見慣れた楓の幹に身を寄せ、強く背を幹に着けた。なんだか、ほっとした。怖くない。背中を楓の大木に強く押しつけていると、ちっとも怖くなかった。
さっきまで、自分の身体が月明かりに晒されていたときには、この楓の作る暗い闇がとても怖く感じていたのに、今こうして闇の中に身を置いたら怖くない。今暗闇が自分の全身に覆い被さっているのに、ちっとも怖くなかった。今いる場所は自分の腕さえも見えない程の暗闇なのに、何だか、楓の木と自分が一体化したような気分だ。不思議な感覚だった。
そしてここまで来たら、森の奥の様子がさっきよりももっとはっきりと見えていた。暗闇の中にいると、少しでも明かりのある場所はとてもよく見えるものだ。
森の中にも道がある。本当の道ではないのだが、いつもみんなが歩いている処が自然と通りやすい道になっている。森の中の獣道のようなものだ。子供道と言ってもいいかもしれない。イヌビエやオオバコ、ネコジャラシ。道の周りには、そのような雑草がびっしりと隙間なく生えている。
その道筋は、木と木の間隔が比較的広くなっている場所に通っていて、樫や欅の大木の下に大きく蛇行して続いていた。そしてもっと森の奥へ入ると、道はまたあちこち気儘な方向へと枝分かれして続いている。道筋と言うよりも、草が倒れている跡のようなものだった。
そんな道の両側にはツツジやヤマボウシなどの低木が多く、これらが重なり合い、大木の下に一段と深い闇を作っている。しかし、今は遙か天空から冴えた月光が降り注ぎ、地上の草むらを照らしていた。月の木漏れ日だ。
それは上空で網目のように交錯する小枝の隙間を見つけては射し込んでくる。とても明るく、緑の草の色がはっきりと見えていた。周りが暗い分だけ、月光の照らす場所が、より明るく見えるのだろう。
でもこうして見ていると、明るく見える場所はかえって怖く感じられてくる。楓の大木に身を寄せながら、光一はそう思った。何故だろう。たぶん、はっきりと見え過ぎるからだ。あの場所に身を晒したら、周りのどこからでも発見されてしまう。
このころになると光一は、さっきから異次元の世界にいるような気分になっていた。暗闇はそこに溶け込んでしまえば、自分の身体も闇と一体化してしまい、恐怖感は無くなるのかもしれない。
闇に溶ける。
それは身も心も黒に染まり、無になることだ。闇に身体を晒し、風に心を飛ばす。心を闇に溶かすことだ。心身の全てを影にしてしまえばいい。
まだ子供だった光一があの時どう思ったのか、正確には覚えてもいないのだが、今から思えばそう言うことだったのだろう。
西風の小さな渦巻きに押されるように、一歩ずつ慎重な気持ちで森の中へと入って行った。闇から闇へと、なるべく月光を避け、暗がりを選び、足音を潜めて静かに歩いて行く。少し歩いては立ち止まり、またちょっと歩いては止まって、樫の木に身を寄せ、楠の太い陰に隠れ、周りの様子を慎重に窺った。
さっきまでカサコソ何か話していた枯れ葉達は、もう何も言わなくなっていた。森の随分奥の方まで入ってきたために、西風もここまでは届かないのだろう。
大きな木が沢山立っている。なんて大きいんだろう。こんなに大きかっただろうか。元々が遙かに見上げるような背の高いブナや楠だったが、怪しく光る月夜には、昼間の二倍にも三倍にも太く高く見えた。
昼間に見る光景とはまるで違う場所にいるみたいだった。相変わらず近くの大木を背にしながら、首をぐんと上に持ち上げて上空を見上げる。細い木の枝が、高いところで無数に複雑に交差しているのが見える。そして、細かく枝が交錯しているその向こうには、網目模様の満月が、銀色に光っていた。
そのようにして、随分長い時間森に入っていたような気がしていたのだが、後で家に戻ってから時計を見たら、ほんの二十分くらいの間だった。
そんなことがあってからというもの、光一は夜の森の散歩が好きになった。月夜の晩になると一人で森を歩く。自分で密かに、闇歩きと称していた。
でも夜の森に入るのは、必ず月夜の晩に限られた。月明かりのない夜の森は、それこそ真っ暗闇の世界で何も見えなくなる。最初のうちは、明るい月明かりの下に身を晒すことが、とても不安で軽い恐怖を感じていたのだが、だからといって、真っ暗闇の中はもっと怖いということが分かった。
しかし慣れるに従い、闇の中から眺める月明かりの光景は眩しいほどに幻想的で、お伽の国をそっと覗き見しているような気分だった。そして森の中で、色々なことを覚えた。楽しい感覚を身につけた。
九時頃に陽子を家まで送り届けた道すがら、光一はそんなことを思い出しながら帰ってきた。あの時の森は、今もあの時のままの姿で、今歩いているすぐ右手に大きな黒い影を作っている。
次の日の昼休みの時間。教室で弁当を食べていると、隣のクラスの陽子が顔を出した。陽子は光一のすぐ脇まで来ると、屈み込んで耳元に顔を寄せ、小声で言った。
「光一君、お弁当を食べ終わったらすぐに生活指導室まで来て欲しいの。玲子先生が待ってるから。いいわね?」
目が輝いている。
「昨日の話だな? 分かった」
さすがは幽玄クラブの顧問だ。昨日の今日とは話が早い。行ってみると玲子先生と陽子が、長テーブルの前に並んで座っていた。
玲子先生は肩の少し下まで垂らしたたっぷりとした黒髪で、身体は細い。背丈は陽子と同じくらいだろう。立ち姿はすらりとしている筈だ。白いブラウスの上にベージュ色のブレザー姿で、間近で見ると目元の涼やかな先生だと思った。
目の大きなところとか華奢な身体つきなどは、並んで座っている陽子と似ている。ブレザーを来て、薄くピンクの口紅を引いているから教師だと分かるが、もしセーラー服でも着ていたら、隣の陽子と同級生に見えてしまうところだ。女子高生がブレザーを着て座っているようにも見える。そんなところも、生徒達が取り付きやすい理由なのかもしれない。人気のある先生なのだ。
かねてから美人の誉れ高い先生だが、こんなに近くで顔を合わせたのはもちろん始めてだ。特別な話は何も無かったのだが、幽霊探検に行くのは今夜と決まった。ただ、出かけるにあたっては、親達にはちゃんと訳を話して、出かけられるようにしておいて欲しいという事だった。なにしろ夜中の二時に外出するのだから。
それにしたって、夜中の外出理由を幽霊探検に行くからと親に話しなさいと言うのも凄い話だと思った。流石は幽玄クラブ顧問だ。
また決行日を今夜にしたのも、明日は土曜日で学校は休みだから、多少夜更かししても、その後は家でゆっくり休めるということも考慮に入っていたらしい。
今夜の、いや、明日の午前二時ちょっと前に、玲子先生が車で迎えに来ることになった。
私達三人だけで行くからね。男性は君だけなんだから宜しくね。なんて、美人先生にニッコリ微笑んで言われると、なんだか照れてしまう。光一のそんな顔色を、玲子先生と並んで座っている陽子が、どこか茶化すような睨むような、悪戯な視線で見ていた。
夕方、クラブ活動が終わって帰り道に就く。大概は五時半を少し過ぎた頃に暮谷沢を通る事になる。するとあの崖の祠の所に、いつも決まってあのおばあさんがいるのだ。何本ものローソクと線香を手に持ち、ひたすら御燈明をあげている。信仰篤い近所の人なのだろうか。それとも祠の主と縁のある人なのだろうか、その辺の処はよく分からない。
今までは別に興味も無かったのだが、今夜遅くにまたここへ来るのかと思うと、少し気になってくる。ちょっと立ち止まって、祠の様子を眺めてみた。
二・四・六・・・ おばあさんの献灯は既に終わり、ローソクは全部で十二本灯っていた。おばあさんは石の鳥居の下に屈み込んで、神妙そうに手を合わせている。なにやらブツブツ言っているから念仏を唱えているのだろうが、よく聞こえなかった。背はとても低く、ちょっと小太りな感じの人だ。
そもそもこの祠に何が奉られているのかなどということは、昨日陽子に説明されるまで何も知らなかった。またこの町のあちこちにやたらに神社仏閣がある事は、子供の頃からの遊びの中で自然に知っていたが、それぞれに何が奉られていて何の意味があるのかなどということは、今まで興味がなかったし、知ろうとも思わなかった。
岩屋に近づいてみると、岩壁を大きくえぐったその中には大明神が奉られ、更にその奥の岩壁には、その岩肌に直接掘られた数体の仏像や、思い切り深く彫られた大きな文字がいくつか見える。何と書いてあるのかは読めない。仏教独特の呪文のような文字が幾つも刻まれていた。不思議な形のこの書体は、たぶん梵字と言われている宗教文字だろう。一文字一文字に、何かの菩薩という意味があると、いつか誰かに聞いたことがある。
またそのまわりには、一体ずつの独立した石仏も七・八体見える。しかしそれぞれの目や鼻、身体全体の衣の線などが、風化したのか倒れて欠けたのか酷く崩れていて、はっきりとしているものは少ない。
鳥居の両側には石の狛犬が座っていて、神社の形式になっていた。またそのすぐ左脇のごつごつとした黒っぽい岩壁にも、太い文字が深々と彫られているのだが、下半分は欠け落ちたみたいになっていて、こちらも全部は読めない。
大日・・・ までは分かる。このような場所で大日とくれば、たぶん大日如来の事だろう。そのくらいの見当はつく。陽子が言っていた通り、御不動様らしい。不動尊が大日如来の眷属であると言うことくらいは光一も知っていた。
しかし、大日如来といえば仏教だが、それが神社の中にあるのはなんだろう。そう、これは本で読んだことがある。日本の国は元々は神がかりの国だったのだが、奈良時代の頃より神も仏も一緒くたになり、いつしか神仏混淆の国になっていた。それが明治時代の初期に神仏統合令というのが発布され、神と仏は分離されたのだ。
しかしその分離というのが、実のところは一方的な仏教弾圧で、全国の神道家などが中心となり、全国の寺院を取り壊したり僧侶の還俗を強制したりした事があったらしい。
還俗というのは、坊さんをやめて普通の人になるということだ。なんとも乱暴な話だ。これらを廃仏毀釈という。神様も時には随分と激しい行動に出るものだと、あの時本を読みながら思った。そういうことが、印象深く記憶に残っている。
ただいくら分離されても、その場所に神と仏が同居していることには変わりがない。それこそ神代の昔からそうなのだ。奉られているということには形がないのだから消滅はしない。とくに信仰篤い地域の人々の心から消すという訳にはいかなかったのだろう。結局本質は以前と同じなのだから、分離された後も神仏混淆の形は変わらなかった。表向き神教の中に仏教が、元通りの形でここにある。
またよく見ると、そこからちょっと離れた左側にも何か奉られていて、そこにもローソクの灯りが二本揺れていた。しかし岩壁伝いに繋がってはいるが、何となく雰囲気が違う。長いこと下げられているような感じのする千羽鶴やお菓子のお供え物。奥の岩壁の前には真新しい花も飾ってある。
近づいて目を凝らすと、無縁仏という文字が苔生した石碑に見えた。十方観世音菩薩と刻んである。そして脇に、三十三観世音菩薩ともあった。更に、無縁一切の供養塔と刻んである。
どういう意味だろう。無縁仏なのだろうが、普通の無縁仏とは違うのだろうか。まあ、似たようなものだろう。さほど深い興味も湧かない。それにしても、無縁仏とはなんて寂しい響きだろう。でも今は縁あって、こうして供養されている。
昨夜陽子が遊びに来て、その後家まで送る道すがら陽子が話してくれたのだが、岩窟のお堂の一番右側に奉られているのが二階堂家最後の城主、大乗院という女城主らしい。
なるほど、祭壇の右端に小さな石碑がある。須賀川城主の文字も薄く読める。この人は今から四百年程前の人らしいが、完全な男社会の戦国の時代に、女城主というのはとても珍しいことだったらしい。
また今から四百年前の時代というのは、大ざっぱに言えば、秀吉とか家康の時代だ。当時二階堂家は、陸奥の武将伊達政宗と交戦して結局は破れてしまったらしいが、大乗院という人は政宗の叔母にあたる人だったというから、流石に情けも容赦も無い戦国時代であると思った。
一番左側に奉ってあるさっきの無縁仏の方は、おそらくずっと後年になってから誰かがくっつけたもののような気がする。石碑も、岩と一体化したような他のものと比べて見ると、大分新しいような感じに見える。
大乗院。大日如来。無縁仏。ここには三千代姫はいなかった。夕べ陽子が話してくれたように、このお姫様は、この町の城主としてその開祖的な存在である二階堂為氏公のお后様で、大乗院よりも更に百五十年ほど前の時代の人らしい。ここにはいないが、ここよりほんの四・五十メートルほど下った所の崖の上に、三千代姫堂という御堂が建立されていて、そこに立派に奉られている。
おばあさんは、さっきから光一が後ろでうろうろしているのもとくに気にする様子もなく、神妙に合掌を続けている。タバコ一本分くらいの、細く華奢なローソクの灯りが薄暗い岩肌に揺れる中、光一は念仏を唱えているおばあさんの背中を横目で見ながら、ゆっくりと通り過ぎて行った。
暮谷沢の夜は暗い。このような間道のような道には、街灯もお印程度にしか点いていなかった。二百メートルごとに一つくらいだろう。それも随分以前に設置されたような、旧式の細長い蛍光灯の灯りが、ボーッと薄白く、くすんだようにぼやけているだけだ。しかも周りを取り囲んでいる沢山の木々の緑が、少しばかりの光などすぐに吸収してしまって離さない。
もっとも今時は誰もが車で移動するし、ましてや夜中に、このような寂しい道を徒歩で利用する人など滅多にいないのだろう。
町の方から来ると、暮谷沢の祠の六・七十メートルくらい手前のあたりの道路が、少し三日月形にへこんでいる場所がある。午前一時四十五分。玲子先生と陽子が約束通りに迎えに来て、今そこに車を停め、渓谷の道を三人で歩き始めていた。
光一の家から暮谷沢までは、車なら三分もかからないくらいだ。もっとも町の中心地以外にはそんなに多くの信号機も無いので、三分と言ってもなかなかの距離を走ることができる。全くの山奥でしか見られないような渓谷の風景が、しっかりと町中にあるところが面白い。
光一は三千代姫の幽霊のことなど端から本気にはしていないが、先生と陽子は大真面目らしく、三千代姫を刺激しないように、足音を忍ばせて静かに行こうという二人の提案に従うことにした。もちろん懐中電灯も持っては行くが、帰る時までは使わないことになった。しかし二人とも、そんな強気なことを言っているわりには、どうもびくびくしているみたいなのが可笑しかった。
二人とも内心後込みしているくせに、互いにそれを隠しあっている。そんな二人の健気な虚勢心が、光一にはよく伝わってきていたのだが、勿論それを笑ったりはしない。口の端でちょっとニヤッとはしたが、真っ暗闇の中なので、そんな光一の様子に二人は気がつきはしなかっただろう。
その事より、今と同じような事を子供の頃によくやった事を思い出していた。家の裏手に広がる森の中で、陽が落ちてからの遊び、肝試しだ。近所の幼馴染み達と、今一緒にいる陽子と、よく遊んだものだ。光一はそんなことを懐かしく思い出しながら、ちょっとわくわくしていた。
始め車から降りた光一がスタスタと先を歩いて行くと、すぐに二人が小走りに追いかけてきて、自分達が先になるから光一にはすぐ後ろを来て欲しいと言う。ちょっと慌てているらしい様子が意外だったのだが、その時は、まさか怖くてそう言っているのだとは思ってもいなかった。
切り立った崖になっている道の両側は真っ暗で、その左側の下の辺りは、ずっと向こうまでもくもくとした藪になっている。そこには真の闇があった。
虫が鳴いている。暗闇の中にそびえる両側の断崖は、昼間見るよりもいっそう身に迫って感じる。右側には低いガードレールがあり、そのレールのすぐ下が川だ。
苔の湿気った臭い。蒸れる草いきれ。崖の土の臭い。水の音。虫の声。この道は朝夕三人とも通い慣れている道なのに、こんな真夜中に歩いてみると、なんだか始めて歩く場所のように感じる。もし万が一、何かが突然襲ってきたとしたら、逃げ場は後ろしかない。
人間は誰しも、暗闇の中では背後が不安になるようだ。それは光一にも覚えがあった。光一に背中を見張っていて欲しいのだろう。前を行く二人はがっちりと腕を組み、顔を寄せ合い、ひそひそと何か話しながら歩いている。成る程、二人はずいぶん仲がいいらしい。でもいくら気が合うとはいえ、先生と生徒がまるで姉妹のようににつき合えるなんて、光一には不思議だった。女同士だからだろうか。二人は時折、代わる代わる後ろを振り返っては光一の姿を確認していた。
光一はこんな時の常として、二人を通り越して、ずうっと前方を注視しながら歩いていた。闇歩きには慣れている。すぐ近くの身の回りばかりに気を取られていると、先が読めなくなるのだ。
先とは闇の先ではない。自分の心の先のことだ。今身の回りを包み込んでいるこの全ての暗闇の中に、静かに心を溶かしている。この暗闇こそが、今光一の心になっている。すると、闇の中が手に取るように見えてくる。
切り立った崖が左右からせめぎ合い、崖のその上は鬱蒼とした森になっている。歩いている道の頭上は、崖の左右からせり出している木々が分厚く覆っていて、深いトンネルの下を歩いていた。
今夜はきれいな満月の筈なのだが、ここには月の光などは届かない。それでも真の闇という訳ではなかった。届かないように思える月明かりでも、木々の間を巧妙にすり抜け、空気を渡り風を揺らして、少しは闇を薄めているものだ。目を凝らせば、気配が見える。淡い光を心が捕らえる。慣れれば結構見えるものなのだ。光一には見えていた。
サーッと低く、水音が聞こえてきた。少し先の左側に小さな滝がある。暮谷沢の滝だ。通称、岩間の滝と言う。そこに架かる小さな石橋を涙橋と言った。この滝が落ちてくる左の崖の上に、三千代姫のお堂が建っている。
滝の真横に来たときに、突然ザーッと大きな水音に変わり、飛沫が飛んできて涼しくなった。そして先へ進むとすぐに、水音はスッと消えた。周りに茂るたくさんの木の葉と闇が、音を吸収してしまうのだ。
それにしても暑い。車から降りて歩き出したとたんに、首の周りから背中のあたりが、しっとりと汗ばんでいた。このところ真夏日が続いている。夜になってもまだ気温は下がらなかった。
緩い右カーブをゆっくり曲がると、ずっと向こうにぼんやりとした蛍光灯の灯りが見えてきた。さっき車を停めてきた処から最初の街灯だ。あの灯りは今いる場所から百メートルくらいは先だろう。ほんの微かにぼやけて見えている。そう思いながら歩いているうちに、またフッと灯りが消えて、闇だけが残った。岩か木の陰に入ったのだろう。
右カーブが直線に変わっていた。ということは、崖の祠はもうすぐそこ、七・八メートル先の筈だ。毎日通い慣れた道だ。いくら暗くても感じで分かる。両側の道幅。足下の傾斜した感じ。カーブの雰囲気。黒い崖の張り出し具合。よくは見えないまでも、見覚えがある。祠はすぐそこの右側だ。
見えた。闇が見えた。祠は深くえぐられているので、その場所だけは真の闇になっている。たっぷりと闇が溜まっていた。
光一が立ち止まった。目の前の二人もそろそろだと思っていたのだろう。光一よりも五・六歩先行していたが、すぐに立ち止まり、少し後ろにいた光一の方へ戻ってきた。
「先生、どうするんですか?」
光一が息を吐くような小声で訊いた。
「そうね、あんまり近くにいたら駄目よね? 見た人の話だと祠のすぐ前に現れたそうだから、もうちょっと離れた場所で待っていることにしましょう」
そこから少し戻った所の、斜向かいの崖下で待つことにした。先生と陽子はまだ互いにがっちりと腕を組み、身を寄せ合っている。二人はクラブ活動の調査のためなのか、それともただの怖いもの見たさなのか、よく分からない。分からないが、いよいよ緊張しているみたいだ。
この辺りは道幅が四メートル位で、垂直の壁が祠に向かって緩く右にカーブしている。三人は祠を右側前方にしたずっと手前の、左側の崖下にいた。結局、祠からは凡そ二十メートルくらい離れている筈だ。この辺の崖際には、がさがさした感じの植物が沢山生えているので、崖のすぐ側までは寄れない。寄ると、棘のある野バラや雑草のツルのようなものが、ジーンズの太股や腰の辺りにまでガリガリとひっかかる。
またその辺りは道路がカーブしているために視界が岩陰に入り、問題の祠も半分くらいしか視界に入っていない筈だった。懸命に目を凝らしても、真っ暗で祠もその辺りも何も見えない。墨のような闇だ。それでも毎日見慣れた風景だ。見えなくても大体の見当は付く。光一は小声で玲子先生に聞いてみた。
「先生、三千代姫のお堂は通り越していますけど、ここでいいんですか? それと、見た人って、それが三千代姫だって何で分かったんですか? 話でもしたんでしょうか?」
三千代姫堂は三人の二十メートルくらい後ろの崖の上にある。お堂の処には比較的勾配の緩い岩肌に、斜めに階段が造られていて、上れるようになっていた。光一は冗談のように訊いたつもりだったのだが、今夜の玲子先生には通じなかったようだ。
「ううん、まさか。今から十日程前の話しなんだけどね、その人はね、夜中にバイクでここを通りかかったらしいんだけど、そこの祠の前に近づいたときに、ヘッドライトにボーっと、赤っぽい和服を着た女の人が映ったんですって。それで、あんな時間にこんな処に一人で立っている女性なんて、幽霊以外に考えられないっていう訳なのよ。それも場所が場所だけに、三千代姫に違いないって言う訳なんだけど・・・ まぁ、あんまりはっきりした話しではないのよね。でも私もその目撃者に会って直接話を聞いたんだけど、嘘を言っているようには思えなかったの。それで、出来ることなら確かめてみたいって思った訳なんだけど、半分は駄目で元々っていう気持ちかな」
「ふーん。それは随分驚いたでしょうねぇ。それが夜中の二時頃だったんですね?」
「ええ、そうらしいの。そしてその後は、もうアクセルをいっぱいにふかして、一目散に逃げてきたんだって」
「ふーん。でも、いくらこんな田舎町だからって、和服を着た女の人だっていない訳じゃないですけどね。たまには見かけるもの。でもそんな時間に、こんな寂しい場所に女性が一人っきりでというのは変ですよね」
「そうでしょう? 光一君もそう思うでしょう? 変よねぇ? そう、変なのよ。こんな時間によ、こんな寂しい場所に女が一人でなんて、絶対おかしいと思うわ。何かあったら大変だもの。普通はいないわよ。だから、ね? 是非確かめたいの。それにここなら、岩間の祠と三千代姫堂の丁度中間頃だから、何れにしても丁度いいでしょう? でも本命はやっぱり祠ね。ああいうものは大概同じ場所に出るものよ。私の経験では」
先生は前にも何か見たことがあるのだろうか、変に確信ありげに言っていた。それでも、陽子などが言うよりも、大人の玲子先生が言うと本当に出るように思えてくるから不思議だ。
暗がりの中息をひそめて、玲子先生と光一は顔と顔がくっつく位に接近して話している。それでも玲子先生の白い顔が、ぼんやりとしか見えないのだ。光一は先生が話す息を、喉のあたりで感じていた。先生が話すたびに首のあたりが涼しくなる。暑い夜だ。先生の口振りからも本気らしいことは分かるのだが、それでもまだ光一には、今ひとつピンと来なかった。
「陽子、何時になった?」
陽子は大きな懐中電灯とは別に、手のひらに入るくらいの小さなライトも持って来ていた。それで腕時計を照らしている。
「二時五分前よ。間もなくかしらね? 私なんだか怖くなってきちゃったわぁ。光一君、何かあったら助けてよね。光一君だけが頼りなんだからね。間違っても、私と先生を置いて自分だけ逃げて行ったりしちゃだめだからね。分かってるわよね?」
そんな事を、陽子は本気で言っているみたいだった。
「ふふふ・・・ はいよ。分かってるよ」
いつものことながら、陽子の言い方には笑ってしまう。幼稚園児のころからちっとも変わっていない。光一は思わず、鼻で笑っていた。それにしても、二人とも三千代姫は二時に現れると決めてかかっているのが可笑しかった。映画の開演時間でも待っているようだと思った。
時折、崖の上の方とかすぐ後ろの方で、ザワザワと木の葉のざわめく音がする。間道の樹間を吹き抜け谷間を渡る風が、途中から上昇して崖上の木々を揺らしているのだろう。そのたび事に先生と陽子は、互いに身体を強く寄せ合い、上の方を見上げたり周りをきょろきょろしたりして、後ろにいる光一に背中をぐいぐい押しつけてくる。光一は自然と、二人の肩を両側から抱くような恰好になってしまう。ちょっと恥ずかしい気がした。
虫の鳴き声だけが一定のリズムで小さく繰り返している。二人とも昼間はずいぶん剽軽な口振りだったのに、現実に真夜中の祠の前まで来たら、さすがに怖くなってきたらしい。でも必死に怖くないふりをしているところが可笑しかった。
暗闇から湧く恐怖心は、時が経つに連れ募ってくるものだ。恐怖が恐怖を増幅する。有りもしないものを見せたりもする。疑心暗鬼が映像を作り出すこともあるのだ。
シンと静まり返っている暗い谷底で息を潜めていると、周りの木々のざわめきが、誰かが、それも一人ではなく何人もの誰かが、崖の上のあちこちで手分けして木を揺すり、からかっているのではないかと思えてくる。
そんな風に勝手な想像を始めてしまうと、もう際限なくたまらなくなってくるものだ。そしてそのうちにどうにも耐えられなくなって、逃げ出したりしたらもうお終いだ。必死で逃げるその後ろには、きっと幽霊が迫っている。必ず迫っている。怖くて後ろなど振り向けない。見たいけど見られない。もしも、つい振り向いてしまったら、そこには本当に髪振り乱した幽霊がいる。いる筈もなかった幽霊が現れてしまう。そんなものだ。
先生と陽子の心理が手に取るように分かる。
光一は前にいる二人とはまるで違って、さっきから平気だった。子供の頃からこんな光景には慣れている。変なヤツと思われそうなのが嫌だから、今まで誰にも言ったりはしなかったが、実はこんな雰囲気が大好きだった。さっきから胸がわくわくしていた。
子供の頃は、初めの頃こそ恐怖心に襲われた事もあったが、それよりも、夜の森の不思議な光景に強く心惹かれた。胸をドキドキさせながら、恐る恐る近づいていった暗闇の世界だったが、少し慣れてからというものは、月明かりと夜の森が織りなす不思議な闇の世界に、自然に溶け込んでいた。そして、いつしか闇に漂う精気の中に身を置くことが、とても楽しく思えるようになっていた。
先生と陽子は先程から随分無口になっていたが、光一はゆったりとした気分で、祠の真っ黒な壁や、周りの黒い木々のざわめきを楽しんでいた。すっかり見えていた。
一瞬、虫の声が止んだ。そして突然、バタバタと、すぐ目の前の崖の中段あたりで大きな音がした。鳥が飛び立ったのだ。人の気配を感じて、驚いて飛び立ったのだろう。しかし玲子先生と陽子は、その鳥よりももっと驚いたらしい。二人同時に、ヒャァっと小さな叫びをあげ抱き合っていた。
光一もその瞬間、ドキリとした。しかし鳥のせいではない。そして、ドキリとしながらも、おやっと思っていた。それはとても不思議な感覚だったのだ。
夜の森で鳥が急に飛び立ったり、狸や狐の光る目と遭遇したり、そんなことは今まで何度となく経験していたし、充分予測もしている。今飛び立った鳥がそこに止まっていたことも、さっきから分かっていた。驚いたのはそんなことではなくて、二人が光一に背中を押しつけながら悲鳴をあげた時、二人の背中から何かヒヤリとしたものが、瞬間的に光一に伝わってきたのだ。何だろう。妙に冷たい感じのものが胸の深い処まで届いて、すぐに消えた。
「あぁー 驚いたあぁー・・・」
「ほんとよねぇー 心臓がドキンと鳴ったわぁ。あぁ、まだドキドキしてるぅ」
「あぁーん、光一くーん。怖いよぅ・・・」
陽子が半分振り向きながら身体を押しつけてくる。さっきから二人してぐいぐい押して来るものだから、バランスを保つために二人の肩に両手をかけて、光一もちょっと押し返すみたいにしている。なんだか二対一で、押しくらまんじゅうをしているみたいだった。
さすがに玲子先生は怖いとは言わないが、背中を押しつけてくる力は、陽子よりも少し強いような気がする。
「先生、どうしよう。どんどん怖くなってきちゃったよぉ」
「しっかりして。もうちょっとだけ我慢しよう。せっかくこんな時間にここまで来たんだもの。ね?」
二人で顔を寄せ合い、盛んにひそひそ、ぶつぶつ言っている。馴れない者にとって、こんな場所でのこんな時間はとても長く感じるものなのだろう。
その後、時間が経つに連れ増してくる二人の恐怖心が、じんわりと光一に伝わってくる。これだ。さっきの感覚だ。周りはこんなに蒸れて暑いのに、胸の奥がヒンヤリとする。さっき瞬間的に感じた冷たい感覚は、二人の恐怖心だったらしい。こうして身体に触れていると、二人のそれぞれの恐怖の量が分かるような気がする。
そして、三十分くらい経っただろうか。二人にはたぶん、一時間ほどにも感じられている筈だ。すぐ脇を流れる渓流の水音。数種類入り交じった虫の声。木々を揺さぶる風の音。湿気った空気の臭い。そしてこの暑さ。もう何も話すこともなくて、さっきから三人とも黙り込んでいた。そして、
「ねぇ? 今夜のところはそろそろお仕舞いにしようか。大分夜も遅いし、二人のご両親もご心配だろうし、ね?」
玲子先生がこちらを振り返りながらそう言った時、光一は突然感じた。突然だった。その感覚は、夜の森で時折感じるのと似た感覚だった。
例えばどんな事なのかというと、とくにブナの大木など、その幹に耳をあてて静かにしていると、ゴゴーっと低く響くような音が聞こえる事がある。それは木が水を吸い上げる音だと言われているのだが、静かに目を閉じて、幹にしがみつくようにしてその音を聞いていると、とても気が休まってくる。そしてもっと森に慣れてくると、今どの木がその音を発しているのか、少しくらい離れていても分かるようになってくる。更に、その木の上に鳥が何羽止まっているとか、それが今まさに飛び立とうとしている事とか、すぐそこの草むらの中をネコが歩いている事とか、相手が何かしらの気配を発してさえいれば、たとえ目には見えなくても、何となく分かる。
長い年月を生きてきた大木の気配や動物達の気配、そして森全体が持つ気配が、まるで目に見えるように身体に伝わってくる。その感覚は言葉では表現しにくいのだが、光一は子供の頃からの経験で、いつの頃からかそういうことを感じ取れるようになっていた。
正に感じだ。感じでそれとなく分かる。見えない夜の森が見える。どんなに暗くても全てが見えているから、闇に対する恐怖というものは湧かない。そんな感じが今突然やってきたのだが、突然なのが意外だった。何かいる。祠の中に何かいる。感じる。
白い顔を寄せ合って、またヒソヒソびくびくと話し始めた二人の後ろから、二の腕を掴んでいる指にちょっと力を入れ、二人の身体を真ん中に寄せるようにした。そして真っ直ぐに、じっと、真っ暗な祠の中を睨むように目を凝らした。
「シーッ。静かに」
低い声で二人の頭の間から囁いた。
「え? なに? どうかした?」
二人はドキッとしたように光一の方へ首を捻り、半身を寄せてきたが、光一が祠を見ているのに気付くと、また不安そうに祠の方に目を移した。
光一もこんな経験は初めてだった。夜の森の中では、すぐ近くにいるらしい犬やネコ、フクロウなどの気配を感じたり、遭遇したことは数えきれない程ある。そんなとき動物達は、いつも恐る恐るためらいがちに、光一の神経に呼びかけてくるのだ。自らの持つ気の大小によって、自然に優劣が出来ているのかもしれない。自分はここにいるからと、まるで挨拶でもするかのように呼びかけてくる。だからそのような感覚は、身をもって分かっている。しかし、いまそこの祠の中から感じる見えない闇からの気配は、それらのものとは少し違っていた。
人だ。誰かそこにいる。祠から真っ直ぐに、身体に突き刺ささってくるような気を感じる。これは視線に違いない。静かに、息を殺して、しかしその目はこちらを凝視しているのが分かる。これが三千代姫なのだろうか。実際にはそこには闇があるだけで何も見えないのだが、光一にはそこにいるらしい人の有様がよく分かっていた。
やはり恐怖心は全く湧いてこない。相手はただ強く自身の存在を示しているようだ。しかし、敵意はないような気がするのだが、うっすらと挑戦的な気配も伝わってくる。この気配は何だろう。
暗闇の中で視線を交わしているだけなのに、不思議なことに、そのような相手の気持ちが伝わってくる。誰なんだろう。何か言いたそうだ。何が言いたいのだろう。何かを訴えかけるような視線だ。
発している気の強さにおいては、今目の前にいる相手よりも自分の方が遙かに上回っていることを感じていた。だから恐怖心も湧かない。
光一の今の心持ちを分り易く表現するとすれば、白昼煌々とした陽の下で誰かと対峙しているのと同じようなものだ。そして相手は、物理的に自分よりも力の弱い人だということが分かっている。それは先生や陽子の感じ方とは全然違っていた。
別に何て事はないのだ。ただ、ついさっきまで連続して闇の気配を探っていた筈なのに、その時には何も感じなかったものの気配が、突然祠の中に出現したことに驚いた。そして、それが人の気配であることが意外だった。いつの間に、どこから来たのだろう。
「光一君、何? 何なの? 何かいるの?」
玲子先生も陽子と同じように、背中をぐいぐい光一に押しつけながら、それでも顔だけはまっすぐ祠の方を見ていた。闇だ。暗闇が感覚を狂わす。そして時間も。それらがいたずらに恐怖心を誘うのだ。
「先生。そこに・・・ その祠の注連縄の左側に誰か立っています。さっきから、じっとこちらを見ています」
言い終わる前に、陽子がグィッと身体を押しつけてきた。
「やあだぁー・・・ やめてよぉー 嘘でしょう? こんな時にからかっちゃやだよぉー 光一くーん。怖いよぉ。何処にいるのよぉー・・・ なんにも見えないよぉ。真っ暗だよ。冗談でしょう? ねぇー 光一くーん」
陽子は身体を左右に細かく揺さぶりながら、そして地団駄を踏むように、光一に背中を擦り付け、小さく囁くような声で、それも泣きべそをかくように言っていた。でも顔だけはずっと祠の方を向いている。恐くて目が離せないのだろう。
今この場所は真昼の太陽の下だと思えば何でもないのだが、この二人にはなかなかそういう訳にはいかないだろう。
「ほんとなの? 私にも何も見えないわ。だいいち注連縄って何処? 真っ暗よ。何にも見えないわ。ねぇ、光一君。君には見えるの? ほんとなの? ほんとに誰かいるの? 君、どうして見えるの?」
玲子先生も囁くようにそう言いながら、陽子としっかり抱き合うようにして、必死に祠の方に目を凝らしている。
その時、漆黒のバリヤーがほんの少しだけ薄れた。全く変化は無いように思われたくらいのものだが、月光の射す位置が少し変わったのだろう。沢山の木々が覆い被さっているこの谷間には、あたかも一条の光も届いていないように思われるのだが、それでも光が皆無ではない筈なのだ。
幾重にも重なり合って空を覆っている無数の葉っぱや大枝小枝にも、月光はささやかに、微かに反射しながら、それは人の目には感じられない程であったとしても、少しは届いている。その少しの変化が、闇に慣れている光一の勘には見えるのだろう。
・・・ 見えた。女だ。暗すぎるし距離もあるので、目鼻立ちまではよく分からないが、その姿形からおおよそ女であることは分かる。
光一は胸いっぱいに、漂う森の精気を吸い込んだ。そして、ゆっくりと吐いていく。吐く息と共に視界が開けてくる。少しずつ、はっきりしてきた。
こんもりとした髪型に紅色の和服を着ている。髪型は時代劇などで見るような日本髪だ。さっき玲子先生が話してくれた目撃談と同じようだ。漆黒の闇の中なのに、その女の周りだけが、まるでその輪郭を象るように、ボーッと白く浮き出るような感じに見えてきた。
だいぶはっきりしてきたが、二人にはまだ見えていないようだ。
「光一くーん」
「しっ、黙って・・・ 大丈夫だよ。二人とも一度目を閉じて下さい。しっかり閉じて。そして、胸いっぱいに息を吸って。たっぷりと吸って。そのまま・・・ ゆっくり吐いて・・・ はい。目を開けて」
光一はそう言いながら、二人の肩を両側からちょっと強く抱き寄せてやった。二人の震えるような恐怖心が、両方の手からスーッと、光一の背筋のあたりに吸い込まれてくる。光一は軽く武者震いをした。
何故だか分からないが、そうすると二人にも見えるような気がしたのだ。やってみたら案の定だ。二人の恐怖心がさっきと同じように、光一の身体の中に染み込むように入ってきた。見える筈だ。
「あ、あぁ・・・ いる。誰か立っているわ。陽子ちゃん、見える? ほらそこよ。すぐそこ・・・和服の女性」
「あ・・・ はい・・・ あぁ、あ、見えます。それでしょう? そこの・・・ それが鳥居かしら? そこの左側。ボーッと白っぽいの・・・ あ、ほんとだ。人だわ。人の形。あ・・・ 見えた。赤い和服・・・ 三千代姫」
二人はしっかりと抱き合うような姿勢のまま、胸の前で小さく指差しながら小声で話している。声が少し震えていた。
消えた。
闇の中で、しばらくの間光一と目と目が見合っていたが、突然くるりと後ろを向くような仕草をしたところで、フッと消えた。
何だろう。ほんとうに幽霊なんだろうか。あれが幽霊っていうものなのか。光一はそんな気は全然しなかった。見えた時も消えた時も、突然だった。何だろう。
「あれ? 見えなくなっちゃった」
「ほんとだ・・・ ねぇ、光一君。まだいるの? 君にはまだ見えているの?」
「いいえ、先生。つい今しがた消えました。フッと、瞬間的に消えてしまいました」
「そう・・・ すごい・・・ すごい、すごい。こんな事って・・・ あるのねぇー・・・」
暗くて見えないが、きっと先生の目は思い切り見開かれている事だろう。
「あーん、怖いよう。戻ろう。戻ろう。ねぇ、先生。光一君。とにかく、一旦戻ろうよぉ。怖いよぉ」
玲子先生は多少の怖さの中にも、とても感激している様子だったが、陽子といったら、子供が駄々をこねるみたいに身体を上下に揺さぶって、可愛そうなほどに声も身体も震えていた。
戻るときには、二人とも背中を抱いたまま歩いて欲しいと言うものだから、光一は美女の真ん中に挟まって、両手に花だ。今更ながら、すごく恥ずかしいような嬉しいような、変な気持ちだった。
「私正直言うとね、ほんとうにあそこで、こんなに簡単に逢えるとは思っていなかったのよ。今とっても感激してるの。ねぇ、光一君。君って不思議ねぇ。さっきは君が見せてくれたのよね? そうなんでしょう? なんで? なんで君にはそんなことができるの?」
玲子先生の瞳には少女漫画の主人公みたいに、キラキラと星が輝いているように見えた。
「さぁ、僕にもよく分かりません。さっきはなんとなく、あんなふうにすれば二人にも見えるような気がして、それでやってみただけなんです」
「言ったでしょう、先生。光一君って、小さい頃から暗がりが大好きでぇ、変な子なの」
「こらこら、暗がりが好きっていうのとは、ちょっと違うんだけどなぁ」
ついさっきまで、あれほど震え上がっていた陽子は、車の中に入って扉を閉めたとたんに元気になっていた。こんな時には、狭く囲まれた場所にいると安心できるのだろう。三人でそんな事を話しているうちに、玲子先生の運転する車はもう陽子の家の前に着いていた。
とにかく今はもう遅すぎるので、今夜の事は明日の土曜日に、いや、もう土曜日になっている。先生のアパートでよく話し合おうということになった。今日は第二土曜日で、学校は休みだ。
そして、事件はそこから始まった。
「光一、光一、起きて。起きなさい。こ・う・い・ち・・・ こら、起きろ」
母親が肩を揺さぶって起こしている。夕べ家に帰って来てからも、暮谷沢で逢った変な幽霊のことを考えていて、しばらくの間眠れなかった。そのうち突然のように眠りに就いたらしいが、それはたぶん三時半を過ぎた頃だったろうと思う。今時計を見ると、朝の九時をちょっと回ったところだった。まだ眠い。
「なんだよぉ・・・ もう少し眠りたいよぉ・・・」
ぼんやりしながら、しかめっ面で母親を見ていた。
「それどころじゃないのよ。起きて。お前もみんなと一緒に健一君を捜してあげて。さぁ、早くしなさい」
「健一君? 健一君って誰? なに? 何の話だよ」
「ほら、下がりの京子ちゃんとこの健一君よ。森でいなくなっちゃったんだって。さっきからみんなで捜しているのよ。お前も知らない人じゃないんだし、捜してあげなさい。いいわね。早く起きなさい」
今日も朝から暑いみたいだ。首の周りや背中の辺りがびっしょりと汗に濡れている。ガラス戸の向こう側からは、カーテン越しに強い光が差し込み、遠くにセミの鳴き声が聞こえていた。
母親の話はよく分からなかった。光一もまだ半分眠っているようなボーっとした頭なので、なおさら理解出来ない。無理矢理起こされて、いきなり結論だけを聞かされても訳が分からない。それでも何か一大事らしいので、とりあえず寝床は諦めて服を着た。台所でご飯をかっ込みながら、詳しい話を訊いた。
下がりの京子ちゃんというのは、陽子と同じく光一の幼馴染みで、住まいも光一達と同じ並びにあるのだが、ちょっと先の、坂道の始まりの処にある。それで母親は、子供の頃から下がりの京子ちゃんと呼んでいた。
小学生の頃までは、京子とも、その他の幼馴染み達も含めて、よく一緒に遊んだものだ。京子は国道の向こう側にある女子校に入学していた。陽子などは、家もほんの三軒隣で近いせいもあり、今でもたまに会ったりして親しくつき合っているみたいだが、光一は中学生になった頃から今まで、殆ど話しをする機会も無く、たまたま町ですれ違ったときなどに、ちょっと挨拶を交わす程度だった。
その京子に、健一という小学五年生の弟がいる。そして陽子にも同じ五年生の妹がいるのだ。陽子の妹は幸子と言うのだが、つまり、健一と幸子は子供の頃の光一と陽子みたいに幼馴染みな訳で、よく二人一緒に遊んでいる。その事は光一もよく知っているし、その辺で会えば、ごく希に話しをしたりすることもあった。
その二人が、今朝もいつものように森の中で遊んでいたらしいのだが、どういう訳か健一の姿が見えなくなってしまったというのだ。一緒に遊んでいた幸子は、初めは健一がふざけて隠れているのかと思っていたらしい。だがいつまで経っても出てこないので途方に暮れてしまい、家に戻って親に報告したという訳だ。それでさっきから、陽子と京子と、それぞれの親達が捜し始めているという訳だった。光一の父親もついさっき捜しに行ったところだから、光一にも一緒に手伝えという訳だ。
まだ見えなくなったばかりだし、この森にはとくに危険な場所はないので、おそらくその辺にいるのだろうと思われた。それで、まだ警察に助けを求める程ではないだろうということになり、とりあえずみんなで手分けして捜すことになった訳だ。
ガラリと玄関を開けると、セミの声が突然大きくなって飛び込んでくる。スニーカーを履いて森へ向かう。森へ入ると、セミの声は酷い耳鳴りのようになって聞こえてくる。奥に進むに連れ、それが益々唸りのように、うねりながら迫って来た。耳が変になりそうだ。
いつもの大きな楓の下を通って行く。この森には落葉樹が多く、冬になれば随分見通しが良くなるのだが、逆に今の季節には沢山の木の葉が幾重にも重なり合い、それがたっぷりと森中に溢れている。ツルやツタの類もあちこちで絡まりあっていて、場所によっては三十センチ先だって見えやしない。
森は一番長い一辺が五百メートル位で、三角形に近い変形四角形の地形になっているのだが、川の近くにこんもりとした丘があり、その上に神社がある。それ以外は全体的にはほぼ平らで、あまり激しく隆起しているような場所はないのだが、この森の何処にいるのか分からないとなると、隅々の藪の中まで捜すのはちょっと大変かもしれないと思った。でも深い藪になっているのは森の周辺の部分だけであって、中程には低木は少なく、意外にカラッとしている。
森の中に入るとひんやりとする。いよいよ凄いセミの声だ。四方八方から共鳴するように降ってくる。森全体が唸っている。色んな種類のセミの声が混じり合い、ワーン、ワーンと聞こえている。中でもミンミン蝉の声は頭に響く。近所の子供達だろう、虫取り網を持った姿があちこちの木の間隠れに見え隠れしている。
みんながどの辺にいるのか捜しながらしばらく奥へ進んでいくと、陽子が光一の姿を見つけ駆け寄ってきた。
「光一くーん」
ブルージーンズに紺色のTシャツ姿で駆けてくる。
「陽子どうした。まだ見つからないのか?」
夕べの挨拶もそこそこに、健一の事を訊いていた。
「うん、まだみたいなの。私もさっき来たばかりで、まだ十分くらいしか捜していないし、みんなもそれぞれに、手分けして捜している最中みたいよ」
「おかしな話しだよなぁ。小学五年生にもなれば、この森で迷子になる筈もないのになぁ。いつも遊んでいて、馴れてもいるんだし」
「そうなのよねぇ。さっき母さんもそう言ってたんだけど、困ったわねぇ。うちの幸子も、ちょっと後ろを向いた隙に突然いなくなっちゃったなんて、おかしなことを言うし。幸子が一緒だったから責任感じちゃうわ」
「え? 突然いなくなったって?」
「そうなの。知ってるでしょう? あのドングリの森。あそこの真ん中辺りでいなくなっちゃったんだって」
ドングリの森というのは、太い椚と楢の木がまとまって生えている所で、光一達も子供の頃によく遊んでいた場所だった。木と木の間隔は、それぞれ十メートル位ずつあり、大木が十数本程生えているだけなので、それらの幹の周辺はカラリとした広場のようになっている。
秋になれば、みんなでどんなに欲張って拾っても拾いきれない程、沢山のドングリが落ちている場所だった。春夏秋冬いつも誰かしらかが遊んでいる場所なのだが、たまたま今朝は、健一と幸子しかいなかったらしい。
今の季節は木登りや隠れんぼ、それと、セミ捕りにはもってこいの場所になっている。いちどセミに逃げられても、しばらくしてから戻ってみると、また同じ場所に何匹も止まっているのだ。
それにあのドングリの森のあたりはいつも子供達がかけずり回っているせいか、地面には太いドングリの木以外、目立つようなその他の木も深い草もろくに生えてはいない。むき出しになっている茶色の土と、ゴワゴワとした竜のヒゲが、濃い芝生のように広がっているだけだ。
もし隠れようとするならば、それらの太い木の陰とか、木の上に登って隠れる以外には隠れようがない筈なのだ。あのどんぐりの森の真ん中あたりで突然いなくなるなんてことは、自分の意志で隠れる以外にはあり得ない。不自然だと思った。
「とりあえず、僕はドングリの森へいってみるよ」
「あ、私も一緒に行くわ。今まで京子ちゃんと二人で、ずっとこっちの東の川沿いの方を捜していたんだけど、見つからなかったしね」
今日は二人で玲子先生のところに行って、夕べの出来事について相談する事になっている訳だが、約束は午後の一時だった。帰ってきたのが遅かったし、夕べの心づもりでは、今日は十時頃まで寝ていて、その後朝食兼昼食を済ませ、ゆっくりしてから出かける予定だった。
さて、この後どうなるのかはまだ分からないが、何れにしても今はこちらの方が重要だし、まだ九時半を少し回ったばかりなので時間的には余裕がある。
そんなことを二人で話しながらドングリの森に着くと京子がいた。京子は二人を見つけると駆け寄ってきた。
「光一君、お久しぶり。ごめんね、お休みなのにこんなことになっちゃって」
眉根に心配そうな皺を寄せて、挨拶をしながらも声がおろおろしている。無理もない。
「やぁ、京子ちゃん、しばらく。そんなこと気にしなくていいさ。それより大変な事になっちゃったな。それでどうなんだい? どの辺まで捜したの?」
「あのね、さっき陽子ちゃんと二人で、東の川の処からずうっと堤防沿いに、向こうの西側の突き当たりまで捜してきたんだけど見あたらなかったの。父さんと母さんはいま道路沿いの竹藪の方を見ているわ。陽子ちゃんのお父さんと光一君のお父さんはどこにいるのか分からないけど、あちこち捜してくれている筈よ。どうしたんだろう、健一のヤツったら。困った子だわ。ごめんね、みんなに迷惑かけちゃって」
「そんなことはいいんだよ。でも変だなぁ・・・ 何かありそうだ」
「何かって? 何? 何がありそうなの?」
光一は自分でもうまく説明はできそうになかったが、さっきから夕べの一件が胸に渦巻いていた。光一はちょっと躊躇ったが、自分のすぐ脇に立っている、このドングリの森で一番大きな椚の木に背中を付けてみた。
実は今でも、気持ちのいい月夜には、ちょくちょくこの椚の木に、こうして背中を付けに来るのだ。その同じ椚の大木だ。
いつもは暗闇の森の中でこうしていると、大木がたくさんの精気を飛ばしているのを感じることができる。それらの精気がたっぷりと身体に流れ込んでくるのだ。それがとても心地よく、頭の芯がすっきりと冴えてくる。体中に力がみなぎってくる。
そんなことをこの二人は知る筈もないが、ただ、昼間の時間にこうしてみても、あまり強い精気は出ていない。それは分かっていた。しかし、もしかしたら何かが分かるような気がしてやってみたのだ。そびえ立つ大木に背中をぴったりと密着させると、自ずと姿勢がしゃんとなる。頭も木に付けて、目を閉じる。
「なに? ねぇ、光一君」
「・・・ どうしたの?」
陽子も京子も、こんな時に変なヤツだと思っていることだろう。そんなふうに思われるのが嫌で、今まで誰にもこういうところは、見せた事も話したこともなかったのだ。しかし、今はそんなことを言ってはいられない。
案の定精気は薄いが、胸いっぱいに吸い込み、静かに吐いていく。何度か繰り返す。蝉時雨の間をすり抜けて、遠くで健一の名を呼ぶ声が小さく聞こえた。光一の父親の声みたいだ。
・・・ 感じる。とても弱いが、気配を感じる。この周りのどこからか発せられている微弱な気を、大木の精気が辛うじて増幅してくれているのだ。それにしても昼間の精気は弱い。夜ならば木の側に寄るだけで、すぐに分かるのに。
・・・ 何だろう。何の気配だ。これは・・・ 人だ。やはりあの女だ。さっき、健一が突然消えたと聞いた時から、何となくそんな予感がしていた。夕べと同じ、あの日本髪の女の気配だった。夕べの今だ、間違える筈はない。
光一は木にぴったりと身体を付けたまま、横に身体をずらし始めていた。ずりずりと背中を木に擦り付けながら、木の周りを回る。少しずつ、ゆっくりと回る。初めの場所から時計回りに五十度くらい回ったところで身体を止め、ほんの少し戻った。ここが一番強く感じる。目を開けてみた。陽子と京子が両側から、きょとんとした顔で覗いている。目の前五十メートルくらい先のところには、沢山の葛のツタが、山のように盛り上がっていた。
そのあたり一帯はずっと先まで、幅広く背の低い雑木林になっている筈だ。その雑木の上にツタやツルの類が絡み合い重なり合って、大きく盛り上がっている。気はその中から出ていた。
夕べと同じ、あの女の気だ。でもどうしてこんなことが分かるのだろう。夕べもそうだったが、自分でも不思議だった。いつもはただ、静かな森の精気で精神を癒され、ちょっと怪しげな夜の光景を楽しんでいただけのことで、こんな事は今までになかった。向こうから勝手に飛び込んでくる動物達の小さな気配なら分るが、人間のことなどは分らなかったのだ。もっとも、そういうことは改めてやってみたことも無かったのだが。
「ねぇ、光一君。どうしたの? 何か分かったの? ねぇってばぁ」
陽子が気をもんで、少しじれたような声で言っている。陽子も夕べの事を思いだして、もしかしたらと思っているのだろう。光一にしてもまだ何の事なのかよく分かっていないのだから、説明の仕様がない。
「あの中を捜してみよう」
ただそう言って、スタスタと早足で歩き出していた。二人も不思議そうにして、小走りについてくる。
「この茂みの中は捜したかい?」
京子に訊いてみた。
「ううん、この中まではまだ捜してない筈よ。この周りでは何度も何度も大声で呼んでみたし、こんなに近くなんだから、もし健一がいればとっくに出てきているだろうしね。それに、いくら子供でもこんなガサガサの処には入れないだろうって、みんなそう言ってたわ」
確かにその通りだ。地べたからずっと上まで厚く葉っぱが覆っていて、いくら小さな子供でも簡単には入り込めそうになかった。
ここは背の低い雑木が広範囲に生えている場所なのだが、冬になって木が葉を落とせば、細かい枝が重なり合う合間から、何とか向こう側まで見通せるようになるような処だ。でも今は、地べたには雑草が生い茂り、上の方は沢山の葛の葉と山芋の大きな葉っぱが完全に覆っていて、それは人など入れる隙間もないほどに、こんもりと茂り、大きな緑のドームのようになっている。
ツタの茂みに神経を集中する。周りには相変わらずセミの鳴き声ばかりが、うるさく響いていた。
光一は目の前の葛のツタを葉っぱごと鷲掴みにして、グィッと横に引っ張った。緑のドームの上の方が、ユサユサと大きく揺れる。分厚い葉っぱの扉が、ガサゴソと音を立てて開いた。ツルが千切れて独特の青い臭いがする。いい臭いではない。両手で左右交互に、二・三度引きちぎるように繰り返すと、ポッカリと中が見えた。
薄暗く、湿気った臭いがする。胸が詰まるような草いきれだ。中を覗いてみると、茂みの中は思った通り、細い枝の雑木ばかりで、ツタが覆っているのはほんの表面だけなのがよく分かる。葛と山芋の葉っぱは、それぞれが浮かび上がるように立体的に重なり合っているので、見た目には、いかにも分厚い葉っぱの壁のように見えていたのだ。
ドームのずっと高いところには、たっぷりの葉をつけた楠や欅の大木が、空を覆い光を遮っているし、そしてその下がこの有様なので、一歩中に入ってみると、ドームの中はずいぶん暗かった。
更に二・三歩進んで見渡すと、そこは濃い緑色のシートを被せてあるような感じで、内側の様子はなお暗く、隅々まではよく見えない。木の枝を両手で避けながら奥へ進む。地べたには落ち葉が厚く湿気っていて、歩く度にふわふわ弾む。蒸れるような暑い草いきれが肺に入り込み、呼吸するのが嫌になる。とても変な臭いだ。
・・・ いる。あの女だ。間違いなかった。
目には見えていないが、感じ方が夕べと全く同じだった。でもどうしてこんなふうに感じるのか、いよいよもって分からない。夕べといい、今といい、不思議だった。こういうことは始めての経験だ。とにかく、すぐそこにいる。
「光一くーん」
二人は入りにくいらしく、ドームの外から中を覗き込むようにして光一を呼んでいる。
「二人とも来るな。来ちゃいけない。そこで待っていてくれ」
光一は気が発せられている方向を睨んだまま、大きな声でそう言っていた。何故なのかは分からないのだが、今二人の呼び声を聞いた時に、瞬間的に二人には危険な気がしたのだ。
でも、自分は大丈夫。その事ははっきりしている。何故だか、自分に対しては威圧するような気は少しも発せられてはいなかった。
五歩。六歩。薄暗い草のドームの中を、雑木の枝を避けながら気配に向かって進む。七歩。八歩・・・ 気配が下がっている。十歩・・・・ 消えた。夕べと同じだ。スッと消えた。そして、そこには健一が立っていた。気配が消えた瞬間に、突然健一がそこに現れた。
「光一にいちゃん。あ、あ、光一にいちゃーん」
健一は大きく目を見開いて、驚きと恐怖の表情で光一の胸に飛び込んできた。屈んで受け止めてやった。そのまま抱き上げて、ドームの外へ出る。
「健一。健一、何してたの? 何よお前は。何でこんなところにいたの? 何なのよ、いったい」
京子も驚きの表情で健一を抱きしめていた。
「みんなとっても心配して、さっきからずっと捜していたのよ。お父さんもお母さんも、他の人達だって、みんなで大きな声で、何度も何度も呼んでいたのに、どうして返事をしなかったのよ。えぇ? どうなの? こんなところで何してたの?」
京子は健一の両肩を握りしめて、揺さぶるように話していた。
「わぁーん。知らないよぉ。怖かったんだよぉ。何にも聞こえなかったよぉ。わぁーん」
安心して気が緩んだのだろう。泣き出してしまった。
「京子ちゃん、そんなに急に叱らないで。ね、何か特別な訳がありそうだし、もう少し落ち着いてからにしましょう。ねぇ、光一君」
陽子も、健一を後ろから抱きしめるようにして言っていた。
「うん、とりあえずはみんなに知らせなくちゃね。僕行って来るから、君達は家に戻っていろよ。健一君を休ませてやらなくちゃ。いいね。任せたよ」
そう言って、さっき父親の声が聞こえた方向へと走って行った。
しばらくして、全員が京子の家に集まり、何はともあれ、無事健一が戻ってきたことに安堵していた。だいぶ落ち着いてきた健一に話を聞く。
「僕ね、あのとき幸ちゃんを脅ろかしてやろうと思ってね、それであそこの真ん中の、一番大きな木の陰に隠れたんだ。そして木の後ろに行って、グルッと半分くらい回ったら急に周りが真っ暗になって、そしたら、あのお姉さんがいたんだ」
「あのお姉さん? お姉さんって? ねぇ健一、お姉さんって誰? どこの人? 知ってる人なの? 光一君、あなた見た?」
光一はもちろん知っているが、見はしなかった。気配は感じていたが、見えなかった。
健一には見えていたのだろう。しかし、今その事をここでみんなに説明するのは、ちょっとややこしくて難しいような気がした。とりあえず知らないと言っておいた。
健一の母親が、健一を自分の目の前に座らせ、顔を間近にして訊いている。
「ううん、知らないお姉さんだよ。着物を着ている人だった。髪の毛もこう・・・ 盛り上がっていて、テレビの昔の話しに出てくるみたいな形だった。真っ暗で何も見えないのに、そのお姉さんの姿だけは見えるんだよ」
「日本髪ね。あんな処に和装をした女の人がいたの? 誘拐しようとしたのかな? うちの子なんて誘拐しても、お金なんて取れないのにね。それで何か話はしたの? どんなこと話したの?」
「あんまり話はしなかった。怖かったし。こっちへおいでって言って、僕の手を引っ張って少し歩いて行ったんだけど、ずっと夜みたいに真っ暗で、何も見えないんだ。すごく怖かったよ。なんで急にあんなに暗くなっちゃったんだろう? 僕、幸ちゃーんって大きな声で叫んだんだよ。何度もだよ。幸ちゃん聞こえなかった?」
「何にも聞こえなかったよ。セミの声がうるさいだけで、あとは何にも聞こえなかった。私だって、何度も何度も健ちゃんの名前を呼んだんだよ。あの辺りをあちこち歩きながら、何度も何度も呼んだんだよ。健ちゃんも私の声聞こえなかったの?」
健一が見つかったことを聞いて、幸子も健一の家に来ていた。
「健一、その話し本当なの? 何だかおかしな話だわねぇ・・・ 真っ暗になったって、どういう事よ」
「ほんとだよ。おかあさん疑ってるの? 僕の話信用しないの? 嘘ついてるって思ってるの?」
「そういう訳じゃないんだけどね・・・ だって、変な話しなんだもの・・・」
「ほんとだって。急に真っ暗になって、あの目の怖い女の人が出てきて、僕の手を引っ張って行ったんだよ。ずっと真っ暗で何にも見えなくて、僕、どこにも行けなかったんだ。走って逃げたかったんだけど、どっちに行ったらいいのか、何も見えないんだもの。でもそのうちに、急にパッと明るくなって、そしたら目の前に光一にいちゃんが立っていたんだ。あのとき、とっても嬉しかったよ」
健一は感謝の目で光一を見ていた。
「光一君、ほんとうにありがとう。良かったわ、あなたがいてくれて。皆さんにも協力して頂いて、あんなに隅々まで捜したのに見つからないんだもの。もうこれ以上はどうしようもないから、警察に届けて捜してもらいましょうって、みんなで話していたところだったのよ。ほんとに良かったわ。どうもありがとうございました」
健一の母親も、光一が日頃からあの森に入っていて、あそこには詳しい事を何かの折りに、京子や陽子の噂話からでも聞いて知っているのだろう。うっすらと涙を浮かべた顔で礼を言っていた。安心したのだろう。
「いいえ、たまたま見つかったようなものですから。健ちゃんの運が強かったんですよ」
健一の言う「着物を着た、目の怖いお姉さん」の姿などは誰も見ていないし、皆今ひとつ釈然としない様子ではあったが、肝心の健一が無傷で戻ってきたのなら、まぁいいだろうという気持ちもあり、とりあえず解散することになった。
しかし陽子も気になるらしく、さっきからちらちらと光一の方を見ていた。夕べ玲子先生と三人で見たあの女の幽霊の事を思い浮かべているに違いなかったが、十二時半頃に家に寄るからと陽子に言って、一旦家に戻ることにした。
時計は十一時に近い。もうとっくに眠気などは消えていたが、目が覚めてから今まで、ずいぶんと慌ただしい一時間だった。健一には気の毒だったが、玲子先生にはいい土産話しになるだろう。
この町の中心地は高台にある。メインストリートは近年とくに整備され、道幅もここ数年かけて拡張された。電線は全て地下に埋められ、歩道にはずっと向こうまで、背の低い行灯のような洒落た感じの街灯が、ずらりと並べられている。邪魔な電信柱と煩わしい電線が空中から無くなっただけで、町中がとても広々として見える。すっきりし過ぎて、殺風景なくらいだ。
繁華街の中程から東へ横道に入り、細い横路地を三本過ぎた左角に、玲子先生のアパートがあった。高台のいちばん東の外れになる。
そこは崖っぷちのような処にあった。そこから下への斜面は、すり鉢の底へ落ちるみたいな急な下り勾配になっていて、いちばん底に細い川が流れている。そしてまた、すり鉢の向かい側の斜面も急な上りの山肌になっていて、その右端に、丘の向こうへと道路が消えているのが白く見えた。
アパートの東の窓からは、緩く右カーブを描きながら昇っていくその坂道と、その道を昇り切った右側に、松林に囲まれてこんもりと盛り上がっている山が見える。五老山だ。
窓から見えるその五老山辺りまでの、たっぷりとした深い空間がとても立体的で、川沿いに悠々と茂る古木ばかりの桜並木や、山肌を埋める芝の緑が、真夏の日差しに熱く照らされている。
向こうの斜面の中程には、くねりながら遊歩道があり、その道筋通りによく手入れされた幅広いツツジ垣の列が見える。そしてその山肌の所々に、灰色の岩塊がゴツゴツとむき出しになって点在する風景が、不思議に綺麗だった。
「ねぇー 貴方たちぃ。どうして私を呼んでくれなかったのよぉ、もぅ。陽子、気が利かないんだから」
本気でむくれているのが可笑しかった。陽子は、おそらく玲子先生はこんな風に言うだろうと、道々話しながら歩いてきたのだが、この様な結構複雑な言い回しが、どんぴしゃり、一言一句間違いなかった。
流石は姉妹のような二人だ。その台詞を聞きながら、陽子と二人で大笑いしてしまった。
この先生はなんでこんな事が好きなんだろう。こんなに美人なのに。あ、それを言うとまた陽子に睨まれる。何れにしても、変わった先生だと思った。
「うーん、それにしても光一君。君ってほんとに不思議な人だわねぇ・・・ 夕べといい、今の話しといい、どうして君にはそんな能力があるの? ねぇ?なんで? 今日はたっぷり時間があるわ。ねぇ、聞かせて」
洒落たガラスのテーブルに、二人にコーヒーを出しながら訊いている。
「能力ですか? いやぁ、そう言われてもですねぇ、僕にもよく分からないんですよ。ただ・・・」
「ただ? ただ何? 何でも言って」
「ただですね、恐怖心を消すことだと思います。例えば、昼間だと何でもなくて、一人でだって平気でいられる場所なのに、夜になって周りが暗くなると、怖くて一人ではいられなくなる。いや、ひとりでなくても、何人でいても恐怖心が湧いてくる。ほんとは何にも起こりっこないんですよ。昼が夜に変わっただけの事なんだから。そうでしょう? そんなこと分かりきっているのに、人は自分で勝手に、自分の心に恐怖心を作りあげてしまうんです。だから、その変な恐怖心を消すことだと思うんです」
「変な恐怖心って・・・ そんなこと言ったって、ねぇ先生? たとえば夕べの暮谷沢のような場所によ、夜中にたった一人でいたとしてよ、怖くないようにしろったって、そんなの無理ですよねぇ? 誰だって怖いし、気味が悪くなるのが普通だと思うわ」
陽子が先生に同意を求めながら、抗議するように言っている。
「暮谷沢でなくたっていいんだよ。例えば学校の校庭の真ん中に、今の時間に一人でいたとしても何でもないだろう? なのに夜になって、辺りが真っ暗になると、もう怖くなってくる。だろう? つまり、怖いのはその場所が怖いんじゃなくて、暗闇が怖いんだよ。闇が恐怖心を誘うのさ。闇を恐れないことだね」
「・・・ 光一君? 君はあそこに、暮谷沢に、真夜中にたった一人で行けるの? 例えば夕べあんな事があった後の今夜でも? 夕べのあの女性がまた出るかもしれないのに、そういうことは怖くないの? ん?」
玲子先生は光一に顔を近づけ、大きな目をいっぱいに見開いて聞いている。甘いような化粧の臭いがして、何だか恥ずかしくなってしまう。
「はい。あの女性には、僕に対しては敵がい心はありませんでした。あの時、そう感じました。それに今になれば、ちょっと興味もあります。変ですか?」
「ふーん。そう。闇を恐れないこと。そうか、場所が怖いんじゃなくて、闇が怖かったのか。そう言われてみればその通りだわ。だって真っ昼間だったら、誰だって一人で暮谷沢の祠の前に何時間立っていても平気だものね」
先生は不思議そうな顔でうなずいていた。
「先生、光一君は変な子なの。子供の頃からずっと変なんです。この人の真似はできません」
陽子がおどけた感じで言っている。
「陽子はね、臆病すぎるんだよ。いつまで経っても幼稚園児の時と同じなんだから。何にでも、すぐにキァーキァー騒いで」
「なによー 幼稚園児ってぇ。失礼ねぇ」
「陽子、黙って。ねぇ光一君。君の言うその恐怖心を消すことが出来れば、例えば私にも、自分の力だけで夕べの女性を見たり、気配を感じたりできるのかしら?」
陽子は蚊帳の外に出されてしまった。
「ええ、たぶん。いや、絶対に見られます」
「初めはどんな風に見えてくるの? 感じるの? どんな風に思ったら見えるの?」
「何も思う必要はありません。動物でも人でも、近くにいれば自然に分かります。何かいるなって分かります。そしてそう感じたとき、その方向を見れば、そこにちゃんといるんです。そのときに、闇が怖くてその事に自分の気持がいってしまえば、怖さが先に立って何も感じないのだと思います。ほら、時代小説なんかによく出てくるでしょう? 侍がいて、自分を殺そうと思っている敵がすぐ側まで近づくと、殺気を感じて事前に危険を察知する事ができるっていうの。僕はあれって作り話じゃなくて、本当のことだったんじゃないかと思うんです。常に気力を集中して鍛えていれば、人間には誰にでもそういう能力はあるんだと思うんです」
「うん、なるほどね。君にそう言われるとそんな気がしてくるわ。そぅ。そうか。分かったわ。闇の恐怖ね・・・ 私もやってみる。感じるのね」
「えぇー 駄目だよぉ。危ないよ、先生。一人でそんなことして、レイプとかされちゃったら大変だよぉ」
「大丈夫。陽子も一緒よ。もちろん光一君も。だから大丈夫。ね?」
「え?」
玲子先生は綺麗な笑顔を光一に向けている。
「僕もですか?」
「もちろんでしよう。今や君だけが頼りなんだから。ほら、陽子からもお願いして。幼馴染みなんでしよう?」
「あーん、怖いことは嫌だけどなぁ。でも三人一緒ならあんまり怖くないかもね。面白そうだしぃ、光一君が側に付いててくれるんなら、大丈夫かもね。よし、決まりね」
「えー・・・」
「よし、その事は決定ね。じゃぁ、次の議題に入ろうね」
何が決定されたのかは知らないが、決められてしまった。陽子は短絡的なところがあるが、元々がはきはきした性格だし、玲子先生も、どうも似たような性格らしい。ぼんやりしてると、どんどん押されてしまう。
「私ね、夕べあれからずっと考えていたの。あの女性は本当に三千代姫なんだろうかって。それで光一君の意見を聞きたいの。どう思う?」
「いやー 僕にはそういうことは、何だかさっぱり分かりません。大体が三千代姫っていう人が、どんな人だったのかが分かりませんからね」
「そうかぁ。それじゃ、あらましは陽子から聞いていると思うから、簡単に話すね。あのね、彼女は代官のお嬢様で、何の苦労も知らない文字通りのお姫様なの。旦那様との暮らしは凡そ三年とちょっと。でもピカピカのお姫様とはいえ、離縁された帰り道に見事に自決して果てたところは、流石に武家の女だと思うわ。彼女はその時一七才前後だった筈よ。今の君達と殆ど変わらないの。凄い覚悟だと思うわ。私はそういうところに凄く興味があるの。惹かれるのよ。同じ女性として。勿論自決した事に興味があるんじゃないわよ。自決を決心するまでの、その覚悟に興味があるの。そしてその後、離縁された為氏さんの夢枕に何度も何度も現れたと言うから、最後には深い恨みが残っていたのかしらねぇ。それともそれは、為氏さんに対する未練心だったのかしら。もっともその辺りは、たぶんに作り話だと思うんだけどね。でもその人が、五百五十年も経った今、何で現れたのかしら? もう十分に、しっかりと供養はしてもらっている筈なのに」
「この間、学校からの帰りにあの社を見たら、一番右の端に須賀川城主という小さな石碑がありましたが、あの石碑は?」
「そうなのよ。君もそう思う? もしかしたらあの女性は、場所から言っても大乗院かもしれないよねぇ? 三千代姫のお堂はもっと下だもの。私達はあの女性が三千代姫だと、勝手に決めてかかっていたんじゃないのかしら? ねぇ、陽子」
「そう言えばそうですよねぇ。だいいち、ほんとうに三千代姫が奉られているのは、和田の姫宮神社でしょう? 暮谷沢からは大分離れているわ」
「そうなのよ。その事もあるから、まだどっちなのかよく分からないの。ねぇ、光一君。大体そんなところなんだけど。君、感じで分からないかなぁ?」
「んー 変におどおどしていたんです」
「え? おどおど? あの女性の事?」
「はい。何か迷っているように感じました。何か言いたいことがあるような、無いような。戸惑っているというような感じがして、でもそのくせ、妙に隙を窺っているような視線も感じました。ころころと、心が移り変わっているような気が伝わってきたんです。何だったんだろう、あの落ち着きのない気は。あの時、僕に対しては全く敵がい心は無いようだったけど、先生と陽子には隙があればかかって来そうな、そんな気配が少し見えていました。幸い力関係では僕の方が勝っていたから大丈夫でしたけど、とても鋭い視線だったんですよ。見たでしょう」
「えー 今頃そんなこと言うんだからぁ・・・ 見たことは見たけど、そんな視線のことまでは分からなかったわよぉ。あんなに暗かったんだもの。嫌だよう、そんなの。何でよぉ。それはないでしょう? 何で今頃そんなこと言うのよぉ。怖すぎるよぉ。あ、それでさっきも京子ちゃんと私に、来るなって言ったのね」
「そうなんだ。さっきも、二人にはとても危険な気がしたんだ」
「どうしてよぉ? 三千代姫か大乗院様か知らないけど、何で私達に危害を加えようとするの? 光一君にはどうして何でもないの? ねぇ? なんでよ」
「知らないよそんなこと。あの幽霊に聞いてくれよ」
たぶん恐怖心につけ込んでくるのだと思っていた。あのような場面では、光一には恐怖心などは全く湧かない。それがいいのかもしれないが、しかしその事はまだよく分からない。光一自身が、今度の事は初めての出来事で戸惑っている。
「恐怖心ね。さっき言ってた」
さすがに幽玄クラブの顧問は飲み込みが早い。ずばりと答えを言った。
「はい。たぶん」
「そう・・・ よし。それじゃ今夜も行きましょう。いいわね二人とも」
「えー 今夜もですかぁ? 先生怖くないの?」
「怖いわよ。今の光一君の話を聞いたら尚更ね。だから行くんじゃないの。早く馴れるために。肝試しよ。いいわね? それに、あの女性が誰なのか早く知りたいわ。この目で間違いなく見たんだもの。見た以上はきっちりと片を付けないとね。ほっとけないのよ。陽子、貴方もそうでしょう?」
そう言われて、陽子は目を見開くようにして軽くのけぞった。まさか違うとは言えない。
「光一君、頼むわよ。ちゃんと私達を守ってね。か弱き美女を二人残して、一人で逃げちゃったりしたら駄目だからね」
「へっ、誰がか弱きだって?」
「なによ」
「いつだって逃げやしないだろう。お前こそ一人でギャアギャア騒ぐんじゃないぞ、やかましいから。だいいち近所迷惑だよ。夜中なんだからな」
「またあんな事言ってるぅ。私がいつ騒いだ? いつだって、できるだけちっちゃな声で、ひそひそ話しているだけでしょう。それに、近所迷惑ってなによ。どこに近所があるのよ。あんな山奥で。もぅ・・・」
陽子はいっそう大きく目を見開き、口をとがらせて盛んに抗議していた。
「まあまあ二人とも。でも今夜は暮谷沢じゃなくて姫宮神社に行ってみたいの。どうかしら光一君。暗闇に馴れる練習だから、なるべくなら何も問題のない処がいいわ。もっとも、問題があるかどうかは行ってみないと分からないだろうけど」
「姫宮神社? だったら、今度こそ三千代姫が出てくるかもね?」
「はい、いいですよ。僕はどこでも。でも姫宮神社ってどこにあるんですか? 和田って、どこだっけ?」




