恋愛天和(れんあいてんほー)
南原薫がいつものように台所で夕ご飯の支度をしていると、ほとんど音を立てずにマンションの玄関扉が開いて、北斗真奈美が帰ってきた。
「ただいま……」
「あ、お帰りなさい北斗さ――うわっ!?」
薫は振り向くや否や、まな板の上で輪切りにしている途中のネギと包丁を放り出して、両手で顔を覆った。
帰ってきたばかりの真奈美が、いきなり服を脱ぎ始めたのだ。
男性である薫の目の前で。
「ちょ、ちょっと北斗さん、せめて脱衣所で着替えてくださいよ!」
「別に着替えない……。ジャケットとセーターとズボンを脱いで楽な格好になるだけ……」
「そしたらパンツとTシャツだけになるじゃないですか! 目のやり場に困ります!」
北斗真奈美は、昨年成人になったばかりの若い女性だ。
しかし、いついかなるときも無表情を崩さないその落ち着いた雰囲気のせいか、実年齢よりもやや大人びて見える。
背が高くてスタイルが良いことも、若い、というか未熟な気配を感じさせない理由の一つである。
野暮ったい黒のロングヘアをどうにかすれば、少しはフレッシュさが出るかもしれない。
対して、南原薫は正反対の印象を持っていた。
彼は今年成人になったばかりの、真奈美より一つ年下の青年だ。
背は男性の平均より低く、真奈美よりほんの少し小さい。
特筆すべきはその顔立ちで、美人の真奈美に負けないぐらいに整った、とても女性的な顔立ちをしている。
毛先を切りそろえたおかっぱのような髪型も手伝って、かわいらしい少女、に見えなくも無い。
というか、エプロンをつけて料理をしている彼の後ろ姿は、完璧に華奢な少女のそれだ。
薫の制止など無視して、真奈美はセーターの裾に両手をかけ、万歳するように一気に脱いでソファーに放り投げた。
Tシャツの上からでもはっきりとわかる巨乳が、ぶるんと揺れながら姿を現す。
続けて、真奈美はジーンズに手をかけ、あっさりと脱ぎ捨てた。
黒のシンプルなパンティーから、肉付きの良い白い足がすらりと伸びている。
「も、もうっ!」
「ああ、やっとダラダラできる……」
薫は顔を真っ赤にしながらまな板に向き直り、意識を無理矢理ネギに戻した。
北斗さんが、自分のすぐ後ろで、あられも無い姿をさらしている……。
そう思うと、薫の心臓はどうしたって強く脈打ってしまう。
落ち着け僕、落ち着け僕と心の中で繰り返し念仏のように唱え、彼はどうにか邪念を払い続けた。
「今日の晩ご飯、何……?」
「オムライスですけど、せめて何かはいてください。そうじゃないと食べさせません」
「どうして……?」
「北斗さんがパンツ丸見え状態だと僕が落ち着かないんです!」
「……わかった」
リビングのソファーで横になっていた真奈美は、面倒くさそうに隣の部屋へ移動した。
部屋の奥から、「ジャージどこだっけ……?」という彼女のつぶやきと、何かを盛大にひっくり返すような大きな音が聞こえた。
はあ、と薫はため息をついた。
恋人でもないのに、成人した女性が男の前であんなに肌を晒しますかね……。
北斗さんは、僕のことを本当に男として見ていないんだな……。
そう思うと悲しくなったが、今に始まったことではない、と薫は自分に言い聞かせて料理を続けた。
※※※
薫が真奈美と出会ったのは、今年の夏のことだ。
その日、薫は文芸サークルの先輩に誘われて、生まれて初めて雀荘に行った。
麻雀のルールを覚えたばかりだった薫にとって、そこは別世界のように感じられた。
大人たちが重い沈黙の中で、互いに隙を伺いながら牌を繰っている。
侍が抜刀の瞬間まで気配を殺しているような。
ガンマンが抜き撃ちの合図を待っているかのような。
卓上にそんな気配が満ちた空間は、正直なところ怖かった。
一人で来ていたら、と考えると身震いがした。
先輩と来ていてよかった――
しかし数時間後、薫はまったく正反対の思いを抱いていた。
先輩なんかと来るんじゃなかった! と。
「ロンっ! タンピン三色ドラ2っ!」
「ツモォ! リー即ダブ東三暗刻ッ! あ、裏ものった!」
先輩たちだけが、次々と役を作ってあがりまくっている。
薫は負けまくった。
何かもう、逆に笑い出したくなるほど負けまくった。
ただ、笑えない理由があった。
お金がかかっていたのだ。
「どうした薫ちゃん、このままだと支払いやばいぞー?」
とかなんとか先輩はのんきなものだが、実際のところ薫は本当にヤバいことになっていた。
このままではがんばってバイトをして貯めた貯金がすべて吹っ飛んでしまう。
いったいどうしてこんなことになってしまったのだろう?
そもそも、なぜこんなレートでの賭け麻雀など承諾してしまったのか……。
ああくそ、きっと飲み屋でほんの少しだけ酎ハイを飲んでしまったからだ。
自分が酒に弱いことは二十歳になって早々にわかっていたので、薫は極力酒を控えていた。
しかし、今夜は先輩に「俺とは酒が飲めないのか!」と迫られて、ほんの少しだけ飲酒した。
きっとすべてそれのせいだ。
いけない、そろそろ勝たないと。
今月の生活費まで無くなってしまう。
しかし、勝てない。
逆に負け続けていく。
もう駄目だ――
泣いて謝ったら許してもらえないだろうか――
麻雀なんて二度と――
「君、私が代わりに打とうか……?」
「はぇ?」
涙目で振り向いた薫の目の前に、長身の黒髪美人――北斗真奈美がいた。
「え、あの」
「どいて……」
「でも」
「いいじゃん薫ちゃん! なんだかよくわからんけど美人のお姉さんじゃない!」
「一緒に打ちたいならどうぞどうぞ! 大歓迎です!」
呆気にとられる薫をよそに、先輩らは「美人が来た!」と湧いた。
真奈美は薫を立たせて卓につき、そして――
「……ロン。18000点」
「ええっ!?」
「お姉さん、そこっすかぁ!?」
神がかったあがりを連発し、周囲を圧倒。
そして朝が来る頃には、薫の負け分は完全に無くなっていた。
「きょ、今日はそろそろこのあたりでお開きにしようか、なぁ?」
「お、おう、そうだな。店員さーん! これでラスにしまーす!」
あれだけ麻雀をやろうやろう言っていた先輩たちが、そそくさと逃げ出すように雀荘を去っていった。
勝負が終わったあと、真奈美はぐっと背伸びをして、薫に「それじゃ……」と一言。
颯爽とドアを開けて見えなくなった。
「……すごい」
信じられない勝負だった。
麻雀というものは、打ち手がかわるとあそこまで化けるものなのか。
彼女が綺麗な手で牌を掴み、切る。
一定のテンポで、安定した呼吸で、その淀みの無い動作で。
ぴんと伸びた背筋が、凜とした横顔が、とても美しかった。
「……しまった!?」
何をぼーっと立っていたのだろう。
彼女の美しさを思い出している場合ではない。
追いかけて、お礼を言わないと。
薫は慌てて店を飛び出し、彼女の姿を探した。
果たして、いた。
北斗真奈美は、空がうっすらと白くなってきた明け方の土手を、一人でのんびり歩いていた。
「お姉さん!」
「……? ああ、さっきの……」
「先ほどはありがとうございました!」
薫は大きく頭を下げながら謝辞を述べた。
「別にいいよ……。君、あの男の人たちに絡まれて、無理矢理打たされてたんでしょ……?」
「えっと、まあ、そんなところです」
「泣きそうになってて、かわいそうだから代わりに打ってあげようと思ったの……。お金もかかってたみたいだし……」
つまりあなたは、正義感で自分を助けてくれたのか。
そう感心する薫だったが、これには真奈美は首を振った。
「ちょっと違う、かな……。だって君、あのまま終わってたら確実に麻雀を嫌いになってたでしょ?」
「え? あ、はい、そうかもです」
「私、麻雀が好きなんだ……。これでもプロ雀士やってて、本当に麻雀が好きなんだ……」
プロ雀士!
どうりで強いわけである。
「麻雀を嫌いな人が、増えてほしくなかったから……。それだけだったの……」
「そう、だったんですか」
無表情だったが、彼女は本当に麻雀が好きなんだなあ、と伝わってくる言葉遣いだった。
ともかく、どんな理由にせよ彼女は自分を助けてくれたのだ。
「あの、何かお礼をさせてください!」
「え……いや、別にいい……」
「そんな! 僕、あなたのおかげで破産のピンチを脱することができたんです! お願いですから、何かさせててください!」
「うーん……。君、何か得意なことある……?」
「と、得意なことですか? えっと、家事全般は、他の人よりちょっと好き、かもです」
特に得意なことなど思いつかず、苦しまぎれに放った言葉だった。嘘ではないが。
しかし――
「え……? 君、家事ができるの……? 家事ってあの、料理を作ったり洗濯したり掃除したりするやつのことだよね……?」
「はい、そうですけど」
「信じられない……。ちょっとうちに来てくれない……?」
「え?」
そこからは怒濤の展開だった。
薫は真奈美に手を引かれて、彼女が住む3LDKのマンションの一室につれてこられた。
そこは、食べ終わったカップ麺や弁当のゴミが散乱し、衣類が足の踏み場を完全に隠す、典型的な汚部屋だった。
「なんですかこれー!?」
「私の部屋……。お礼って言うなら、これを綺麗にするの、手伝ってくれないかな……?」
「言われなくてもやりますよ! こんなの信じられない! 許せない!」
「おお……」
薫は何時間もかけて、真奈美の家を徹底的に掃除した。
結果、ゴミはすべてなくなり、使う衣類だけがクローゼット等に収まり、埋もれていた全自動雀卓などが顔を見せる、プロの雀士っぽい部屋を取り戻すことができた。
「君、すごいんだね……。ありがとう……」
「さ、さすがに疲れました。そういえば、昨日から寝てなかったような――」
「この家ってこんなに広かったんだ……。これはもう、祝杯をあげよう……。君が掘り出してくれた日本酒飲もうよ……」
「いえ、帰って寝ます」
「もう電車ないよ……?」
「あ!? いつの間に!?」
「泊まってきなよ……。ほら、飲んだ飲んだ……」
「いえ、僕お酒はあまり――」
「いいからほら……」
薫にはそこからの記憶がない。
気がつけば、ベッドの上に寝かされていた。
日付を見ると、なんと二日が経過していた。
真奈美いわく、日本酒を飲んで大暴れした後、糸が切れたように動かなくなってそのまま眠っていたのだという。
※※※
真奈美と知り合ってから、薫の生活は大きく変わった。
まず、サークルを辞めた。
今だからこそわかるが、自分から金を巻き上げようとしていたサークルになんぞもはや一秒たりとも在籍していたくなかったからだ。
そして、大学とバイトに行っている時間以外は、ほとんどを真奈美の部屋で過ごした。
と言っても、色っぽいことなど何もない。
真奈美が片っ端から部屋を汚くしていくので、それを片っ端から掃除していくのだ。
それに加えて、あまりに不摂生すぎる彼女の食生活をよくないと感じた薫は、料理も作るようになった。
「北斗さん、ゴミはちゃんと分別して捨てるようにって言ってるじゃないですか!」
「北斗さん、いい加減服はクローゼットにしまうようにしてください!」
「北斗さん、食べ終わったお皿は流し台に!」
「ほ、北斗さん! 裸でうろつかないでください! ていうかちゃんと体拭いてから出てきてくださいよ! ああ、水滴が!」
一ヶ月も経つ頃には、薫は完全に真奈美のお母さんになっていた。
真奈美は一向に言うことを聞かない。
というか、ここ最近、甘えっぷりに拍車がかかっているような気配すらある。
「薫、今日の対局すごく疲れたから足揉んで……」
「薫、今夜はすき焼きが食べたい……」
「薫、面倒くさいから代わりに私の爪切って……」
「薫、どうしたの……? 別にいいよ、薫になら見られても……」
ドタバタと忙しない、騒がしい生活だ。
だが――
薫は真奈美と過ごす毎日を、いつしか好きになっていった。
真奈美のことも、大好きになった。
面倒見のいいオカン役などではなく、男性として、真奈美のことを好くようになった。
もしかしたら、出会った瞬間から惚れていたのかもしれないけれど。
助けられたあの日から、ずっと。
「だけどきっと、北斗さんは僕のこと、なーんとも思ってないんだろうなぁ」
夕飯を終えた後。
皿を洗いながら、薫は独りごちてため息をついた。
真奈美は隣の部屋で、全自動雀卓の上に牌を並べて何かやっている。
真剣な表情だから、きっと麻雀の勉強中なのだろう。
後でわかったことだが、真奈美は雀士の中でも相当な実力者らしく、参加したトーナメントではこれまで無敗を誇る賞金王だった。
雀荘を経営する実家に生まれた彼女は、父に教えられた麻雀が大好きで、大好きで、気がついたら大学も行かずプロ雀士として活動していたそうな。
とくにこれといった目標もなく、情熱を注いだものもなかった薫は、そんな真奈美の人生を素直にかっこいいと思った。
彼女が牌に向き合うたびに見せる、あの真剣な眼差し。
それを、とても美しいと思う。
だけど同時に、切なくもなる。
彼女の興味は麻雀にだけ向いていて、きっと自分のことなどどうでもいいのだろうな、と。
ほとんど同棲のような生活を送っていても、まったく態度が変わらないし。
遠慮無く、裸やそれに近いかっこうでうろうろするし。
思い切って告白してみようか――いや、無理だ。
こんな、家事しか取り柄の無い自分では。
自分はまだ親に甘えている大学生で、彼女はすでに自立しているプロ雀士で。
自分は見た目も男らしくない華奢な弱者で、彼女は美貌と確立した人格を兼ね備えた強者で。
どう考えても釣り合わない。
自分に彼女は似合わない。
叶わないとわかっているのに思いを伝えて、迷惑がられたくない。
この居心地のいい関係を崩したくない。
一生片思いでもいいや、と薫は思った。
この生活をいつまで続けられるかはわからないけど、北斗さんに恋人ができたりしない限りは、いつまでも傍で彼女を支え続けたい。
「ふぅ……」
「お疲れ様です北斗さん。お茶、飲みますか?」
「うん、もらう……」
麻雀の勉強を終えリビングに戻ってきた真奈美に、薫は無理矢理笑顔を作って茶を出した。
ソファーでくつろぎだした真奈美の隣に薫も腰掛ける。
「北斗さんって本当にマイペースですよね」
「そうかな……?」
「そうですよ。まあ、そこがいいとこですけど」
「そんなこと言ってくれるのは、君だけ……。私、他の人からはよく変人って言われる……」
まあ、わからなくもないが。
生活能力がゼロに等しい雀キチ、と捉えられればそれまでだ。
「北斗さんは麻雀が大好きで、その気持ちに従って生きてるだけでしょう? 別に、変人でもなんでもないですよ」
「ありがとう……。あ、そうそう、思い出した」
そして、北斗は。
お天気の話題でも口に出すように、なんてことないように、言った。
「すっかり言うの忘れてたけど、私、妊娠したかもしれない」
「――」
薫は北斗が何を言っているのか理解するのに時間がかかった。
妊……娠……?
それはつまり、北斗さんが、誰かと性行為をしたということだろうか?
自分以外の、誰かと。
「君に言わなきゃって思ってたんだけど……」
「妊娠、ですか?」
「そう……。確かめたわけじゃないけど、生理来てないからもしかして、と思って……」
頭の中が真っ白だ。
いつ? どうして?
そりゃ北斗さんは美人だから、男性に声をかけられることもあるだろう。
いつかは恋人ぐらいできるだろう、ということも想定はしていた。
だけど、ショックだった。
すごく、ショックだった。
「それは、おめでとう、ございます」
ロボットみたいな声が出た。
だって、そうだろう。
証明されてしまったのだ。
彼女は本当に、自分のことなど欠片も男としてみていなかったのだ。
こんなに一緒に生活していても、家事ができる便利なペットとか、その程度の認識だったに違いない。
外に出かけている間は、大好きな麻雀に没頭して、そしてどこの誰とも知らない男と会っていたのだ。
なのに、平然と帰ってきて、自分に掃除をさせてご飯を作らせて――
「え、薫……?」
「僕、帰ります」
薫は立ち上がり、ふらふらとした足取りで歩き、荷物をまとめ始めた。
肩から斜めがけできるバッグに、タオルやら歯ブラシやらを詰めていく。
真奈美の家に置かせてもらっていた品をバッグに収めていくのは、彼女に対しての想いを引き剥がしてゴミ袋に詰める作業のようだ。
そんな錯覚が、薫の胸をより強く痛めた。
「急にどうしたの……? やっぱり、迷惑だったかな……?」
「迷惑っていうか――」
どういう反応をすると思っていたのだろう?
薫と一緒に暮らしていながら、薫の想いには一切気づかず、そんなことを言うなんて。
「北斗さんにも恋人がいたんだなって、驚きました」
ああ、今やっとわかった、と薫は思う。
北斗さんは、自分に出て行ってほしくて妊娠の話を出したのだ。
妊娠したかもしれなくて、どこぞの恋人との関係をしっかりしたものにしたいから、誤解を生みかねない自分という存在を末梢したかったのだ。
「いや、恋人、いるし……」
真奈美は、彼女にしては珍しく、どこかうろたえたような様子で応えた。
その言い草だと、どうやら自分と知り合った頃には既に付き合っている人がいたらしい、と薫は予想した。
「そうでしたか。今まで気づかずにすみませんでした」
薫は、自分でも驚くほどに冷たい声を出していた。
今すぐ、この部屋から出て行きたかった。
おろおろする真奈美をよそに、薫は五分足らずで荷物をまとめ、靴を履いて玄関に立った。
「じゃあ、お邪魔しました」
最後に――
最後にこれだけは言っておきたかった。
「僕、北斗さんのことが好きでした。真剣に麻雀を打つあなたの眼が、とても好きでした」
一生言うまいと決めたのに、あっさり言った。
吐き捨てるように、言ってしまった。
最低最悪の形で。
「何言ってるの薫……待って……。本当に妊娠してたら、私、どうしたらいい……?」
「それは僕じゃなくて、恋人さんに相談してくださいよ。料理を作ったり掃除したりとはわけが違うんですから」
「だから相談してるじゃない、今……」
「いやいやだから、僕じゃなくて恋人さんに言ってくださいって。その言い方だと僕と北斗さんが恋人同士ってことになっちゃいますよ」
「え……?」
「ん?」
はて?
何かがおかしい。
北斗さんは、どうしてこんなに首をかしげているのだろう?
「薫、何か勘違いしてない……?」
「何をですか?」
「私の恋人は薫だよ……?」
「え?」
「もしかして、覚えて、ない……?」
「な、何をです?」
※※※
あの日――
薫が初めて真奈美の部屋を訪れ、大掃除、という言葉だけで片付けるにはあまりにも苛烈すぎた超大掃除を完遂した日の真夜中。
薫は大喜びの真奈美に迫られて、しかたなく日本酒を口にした。
そして、覚醒した。
悪い方向に。
酎ハイを少し舐めただけで冷静な判断力を失ってしまう薫が、日本酒などというアルコール度数の高い酒を飲んでしまうとどうなるのか?
「北斗さんっ! 僕はっ! 麻雀を打っているあなたが本当にかっこいいと思いました! 助けてくれてありがとうございます! 好きです! お付き合いしてくださーいっ!」
「ああっ、駄目、薫……あっ……」
なんと、ヤっちまった。
あろうことか薫は、普段の乙女チックな風体からは考えられないような強引さで真奈美に迫り、彼女の貞操を完膚なきまでに奪っていた。
もはや、真奈美の体で薫が見ていない箇所が無いほどに、完全に攻略してしまった。
「すごいね薫……何回したっけ……?」
「がーっはっはっはっは!」
「とってもたくましかったよ……私なんかが恋人で、いいの……?」
「かまへんかまへん!」
その後、薫は糸が切れたように動かなくなり、そのまま深い眠りに落ちた。
真奈美は破瓜の血やらいろいろな体液やらでびしょびしょになったシーツを燃えるゴミの袋に混ぜて、彼と一緒に眠りについた。
※※※
「私、男の人を家に上げるなんてしないけど、薫は優しそうだし見た目も女の子っぽいから大丈夫だと思ってた……。でも、全然大丈夫じゃなかったね……。薫、ベッドの上ではオオカミだったよ……。あっという間に手込めにされちゃった……。嫌じゃなかったからいいけど……」
「マジですか?」
「うん、マジ……」
「すると、真奈美さんの恋人というのは、僕?」
「そう……」
「真奈美さんを妊娠させたかもしれないのは、僕?」
「そう……」
「えっと――」
薫は玄関前に立ったまま思考停止した。
何を言うべきなのか、何から考えるべきなのかまったくわからない。
ただ――
「……薫は、私と一緒にいるの、嫌……? 私が妊娠したら、迷惑……?」
そんな風に。
不安そうに彼の様子を伺う真奈美を見て。
「それは絶対ないです!」
自然と言葉が溢れた。
「最初は酔った勢いだったのかもしれませんけど、僕、北斗さんが本当に好きです!」
あなたの凜とした横顔に惚れた。
ずぼらな一面を知って放っておけないと思った。
ずっと一緒にいたいと感じた。
「無理矢理襲ってごめんなさい! あの、あらためて言わせてほしいんですけど、今更こんなこと言うの変かもですけど、僕と結婚を前提にお付き合いしてください!」
薫は初めて会った頃のように、真奈美に深く頭を下げた。
自分はまだ大学生だけれども。
こんな、華奢な見た目をしているけれども。
でも、そんなことは関係ない。
関係なかったのだ、最初から。
彼女が誰にも負けないほど麻雀を大好きなように。
自分は誰にも負けないほど彼女のことが大好きだ。
これからも、ずっと傍で彼女のことを支えていきたい。
真奈美は少しの沈黙のあと、彼女にしては珍しい、柔らかな笑みを浮かべて応えた。
「うん、いいよ……。私も薫のこと、大好き……。これからもよろしくね……」
※※※
それからしばらくして、薫は自分の住んでいたアパートから本格的に真奈美の部屋に引っ越し、そこで生活するようになった。
昼は大学に行って、バイトに勤しみ、夜は真奈美のために家事をこなす。
真奈美は相変わらず、麻雀をやりに外へ出て、家に帰ってきては薫に甘えていた。
ちなみに、妊娠はしていなかった。
生理が遅れていただけのようだ。
よって二人は、これまでと変わらず騒がしい、けれども楽しい暮らしを続けていた。
ただ、変わったこともある。
「ねー薫……」
「どうしました、真奈美さん?」
「今日はさ、ちょっと、お酒、飲まない……?」
時折、真奈美がうっすらと頬を染めながら、薫をお酒に誘うようになったそうな。
「少し、だけなら」
その誘いに、誘いの意味に、薫はいつも顔を赤くしながら、こくりと頷くのだった。
(完)
最後までご覧いただきありがとうございました。
この小説は、私がブログで小説創作方法について触れた折に編み出した、誰でも簡単に掌編・短編小説を書くことのできるテンプレート――「ひのさか式小説創作テンプレート」を応用して作成しました。
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