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イバショ

作者: 裏糊めばり

 ――可哀相。

 可哀相。可哀相。

 よくそう言われた。

 可哀相って何だよ……と思った。

 だってよく分からない。生まれた時から『こう』なのだから、それを可哀相と言われても、僕には分からないし、ましてや実感なんて湧きやしなかった。

 可哀相じゃないっていうのは、じゃあ、何だ? 比較対象の無い僕は、自分のことを相対的に見るなんてことはできなかった。だってずっと一人だったから。僕は僕のことを絶対的にしか見ることができない。

 そう。

 『こう』である自分が絶対で、それが普通でいつも通りなのだった。

 だから、また、そいつらが僕の前に立って、見下ろすように、

「可哀相」

 と言ってきたところで、ああまたか、と思うくらいだったのだ。

 生きている意味なんて無い。

 苦しくもなく、痛くもない死に方があるなら、その方法で、今すぐ死にたい。

 殺して欲しい。



                              【カップル】

「ねー可哀相だよこの子、こんなに小さいのに一人で」

 その女にとって『小さい』ことと『一人』でいることは、イコールで可哀相なことらしい。何だそれ、勝手に決めるなよ――と思わなくもなかったけれど、同時に、まあ今までもそんな目で見られてきたしどうでも良いとも思った。

 芽生えた反発心のようなものは、すぐに引っこ抜けて、ぼろぼろと崩れた。

 もう、そんなことを言ったところで理解なんてしてもらえないのだろうし、そもそも、僕はどうやら喋れないらしい。

 喋ろうとすると喉のことろでつっかえたように言葉が出てこない、音が発せない。これが生まれたときから――つまるところ、先天性のものなのか、それとも後天性のものなのかは分からない。

 小さい頃の記憶なんてもうないから。

 気付いたときから『こう』で、しかもそれは僕のことを一層可哀相に見せるらしい。

「あー、ホントだなあ。すげー汚れちまってるし、うち来るか?」

 は?

「え、うち汚れちゃうよお」

 そうだよやめとけ。

「それはこいつを洗ったら済む話じゃねえか」

「ええー、そうだけどお」

 おい、やめろ、手を引っ張るな。

「ほら、良いから来いよ」

 最悪だ。これは、誘拐ってやつじゃないのか……。

 それくらい僕だって知ってる。でも、だからって、僕がいなくなったところで騒ぐような親も友人もいないけれど。それに今は抵抗する力も出ない。

 ぐゅるるるる。

 腹減って死にそうだった。

 もう何か食わしてくれるなら、何でも良い。誘拐もされる。

 だから、飯くれ。

 ぐゅるるるる。

「くしゅん」

 僕のお腹が鳴るのと、女のくしゃみが同時に起こって、女が、

「おそろいだねえ」

 うふふ、とわらった。


                              ●


「ほらおいで、一緒にごはん食べよう」

 と、その女は言った。

 ずず、と鼻をすすりながら。

「なあ、お前病院いけよ……」

「大丈夫だよお」

 女言いながら男の心配をはねのけて、食事の準備を進めていく。てきぱきと、慣れたように――僕の分も含めて。

 男は憮然としながらも、これ以上言うと喧嘩になって自分の分の食事がなくなることを経験上理解しているからか――それ以上は何も言わなかった。

「くしゅん」

 と女は鳴いた。


                              ●


 そして女は死んだ。

 死ぬ直前に僕の首を締めて。

 締めながら。

「あーあ、駄目だったなあ。ごめんね」

 と言って、笑いながら死んだ。

 別にそこで僕も死んでも良かったのだけれど、でも女は僕を殺せなかった。殺す前に力尽きてしまったから。

 もっと早くに決断すれば良かったのに。


 あー、苦しいな。


 男は、女が死んでから声を上げて泣いていた。叫ぶように。

 ひとしきり絶望を吐き出すと、ゆっくりと僕を見て、それからまた目を見開いて泣きそうな顔を作った。

 下唇を噛んで、何かに耐えるような表情をしたまま、右手をぎゅっと握って振り上げた。知ってる。

 またあの痛いのだ。

 一人でいるときは、まるで憂さ晴らしのように、そんなふうに殴られることがあった。

 いっそ思いっきり殴ってくれたら、僕も死ねるだろうか。

 けれど男は、結局、僕を殴るようなことはしてこなかった。ぐっと、噛み締めた唇。噛み締めすぎて噛みちぎり、口の端から血を流しながら、それでも僕を殴らなかった。

「出て行ってくれ」

 代わりに。

 僕を見ながら、涙をぼろぼろこぼしながらそう言った。



                             【老婦人】

「あらあらまあ」

 それは僕が、あの家から出て一ヶ月くらいした、曇りの日。これから雨でもふりそうなそんな日。

 老婆がとろとろ歩いていて、ふと僕の方を見てそう言ったのだ。

 ――あらあらまあ。

「死にそうねえ」

 まあね。

 これから死ぬところだから、放って置いて欲しいんだ。一ヶ月とりあえず生きてみたけれど。

 殺されなかったから――自分で死ぬ勇気も無いから、とりあえず生きてみたけれど、とうとう限界らしかった。盗んだりかすめたり、漁ったりしながら生きて行くのはもう疲れたし、面倒だ。もう良い。――というか、もう動けそうにないし。

 これで良いのだと思う。

 やっと死ねる。

 そう思っていたのに。

「やあねえ、そんなところで死んだら――邪魔でしょう」

 言いながら老婆が僕を拾い上げて、でも上手くいかないのか、引きずるように。

 僕は老婆の家までつれられた。

 老婆に出会う直前、僕は結構本気で死を実感していた。どんどん身体が重たくなっていって、身体中の体温が急速に失われていって、意識も朦朧としていた。

 その時。

 何故か、僕の脳裏によぎったのは、僕の首を絞めて殺そうとした、あの女の顔だった。

 ――笑っていた。

 僕のお腹が鳴って女がくしゃみをして、「おそろいだねえ」と笑った、あの顔。

 その笑顔と一緒に、あの男の声で、何でまだ生きてるんだよ、と責めるような声を聞いた。まあもう死ぬからどうでも良いかな、と思った。

 僕が死んだことを知ったら少しはあの男も満足するのだろうか。涙を止めて、絶望を抱えて、それでも吐き出すこと無く、前を向くことができるのだろうか。

 だったら――あの男の前で死んでやれば良かった、と思った時だったのだ。

 老婆が僕に声を掛けてきたのは。

 あらあらまあ。


                              ●


「ごほごほ…………あーそこの新聞とってきておくれ」

 女はことある事に、僕に命令した。

 咳は、もう歳だから仕様が無いとか、もう身体にがたがきてるとか、この前独り言でぶつぶつ呟いていた。

「とろいねえお前は」

 おおきなお世話だ。

 そう思いながら、でも僕はその老婆が飯をくれるから、結局死にきれずにだらだら生きているのだった。

 最近よく夢を見る――あの女が出てきてただただ笑っている夢か、男が出てきてただただ呪いを吐きだしている夢を。

 交互にでもなく、ただただ繰り返しどちらかの夢を見る。だから僕は起きる度に生きていることを後悔しているのだった。

 毎日毎日――繰り返し。

 それでも、自分で死ぬ勇気は無くて、ずるずると生きてしまっている僕は、本当に如何仕様も無いクズなのだろう。生に意地汚く縋っている。

「ほら行くよ、とろとろしてるんじゃないよ、置いていくよ」

 玄関の扉を開けたまま、とろいねえ、と呟きながら老婆が外へ出て行く。

 毎日の日課だった。

 毎日、午前中に老婆は散歩に出るのだ。

 どうやら僕は老婆のその散歩道で死ぬ寸前で倒れていたらしく、老婆曰く、

「あんなところで死なれたら、毎日の私の散歩が最悪なものになるだろう」

 ということらしかった。

 それはその通りだ。反論のしようもない。死ぬのにも割と気を遣わないといけないらしかった。つくづく世界は煩わしい。

 勝手に生み出しておいて、なんで、こんなにも苦労しないといけないのか。何で死ぬのに苦しい思いをしないといけないのか。痛い思いをしないといけないのか。

「ほら、もう少し早く歩けよ。おいていくぞ」

 そんな老婆に言われてついつい足を速めてしまう自分にもうんざりだ。

 死にたいとか思っておいて、結局どうしたいのだかはっきりしない。何の為に生きているのだかも分からない。いや別に何の為にも生きていないのだけれど。

 そうして一時間から、長くて二時間近く歩いてから、老婆は家に帰るのを日課にしていた。家に帰ると、昼寝をする。

 僕も老婆の住む家の縁側に座って、昼寝をした。昼寝は良かった。昼寝の時だけは夢を見なかったし、何も考えなくて済んだから。

 そんな繰り返しの毎日。老婆も僕に命令するとき以外はとくに喋ることもなく、縁側に座る僕の横で本を読んだり、何もせずぼうっとしていたり、お茶を飲んだり、季節も何も関係無く、老婆は咳き込みながら、そんな毎日を繰り返した。


                              ●


「ごほごほ」

 非道い咳こみを聞いた気がして、目を開けると辺りはまだ真っ暗だった。

 まだ夜。

「ごほごほ」

 どうも聞いた咳き込みは聞き間違いとか、幻聴とかではなくて、老婆が寝ている僕に覆い被さるようにしていた。

「ごほ、…………悪いねえ」

 咳き込みながら、僕の首を絞めながら、老婆はそう言った。

 やっと。

 殺してもらえるのか。

 やっぱり死ぬのは苦しいけれど。

 でも自分で死ぬよりよっぽど良い。

 僕は身体中の力を抜いて、目を閉じた。


                              ●


 そして、僕は目を開けた。

 目を開けた。

 あれ……、死んでない?

 夢、だったのか、もしそうだとするのなら、久方ぶりの、あの女と男以外の夢を見た。なんか首のところが苦しい気がするけれど、寝方が悪かったのかもしれない。ともすれば、寝方が悪くてあの夢を見たのかもしれない。

 まあ、そんなことよりもご飯。朝、すでに老婆が夜の内に用意していたご飯を、僕が一人で食べるのも日課だった。どうしても老婆は早くに起きれないらしい。まあ飯なんて一人でも、二人でも別に何も変わらない。僕にとってご飯は、命を先延ばしにするだけの代物だ。

 それだけ。

 でも、今日は。

 いつも行っている散歩の時間になっても、老婆が起きてこないから、なんとなく部屋に入ってみたら、老婆が死んでいた。

 眠るように死んでいた。

 もしかしたら老婆は自分が死ぬことをなんとなく悟っていたのかもしれない。死ぬことを悟って、自分が死ぬ前に僕のことを殺しに来たのかもしれない。

 多分、やっぱり、僕の首を絞めに来た老婆は夢じゃなかったのだ。


 あ-、苦しいなあ。


 それから。

 黒い服を来た人達がわらわらと家にやってきて、

「おばあちゃん、おばあちゃん」

 とか言いながら死体に覆い被さっていった。その内の知らない女が僕に気づいて、

「あんた何よ! 出て行きなさいよ!」

 言って、僕は、その女にコップの中に入っていた水を思い切りぶちまけられて、びしょ濡れになりながらその家を出た。



                              【医者】

 そして僕は、案の定。

 というか当たり前の結果として。

 ――風邪を引いた。

 むしろ今までの生活を顧みてみて、病気らしい病気にかかっていないのが不思議なくらいの話ではあるのだが。

 そのツケを今払わされているかのように、とうとう、遂に。

 僕は風邪を引いた。

 死ぬほど苦しい。身体が重いし、視界はぐにゃぐにゃしてるし。流石にもう死ぬかなと思った。こんな苦しい死に方はごめんだけれど、でも、ごめんだと思うことすらどうでもいいくらいに思考は奪われて、どうでも良くなっていた。

 死にたい。

 いや、多分死ぬと思う。

 えっと、なんだっけ……そうだ、道端で死んだら迷惑なんだったっけ。あの老婆がそんなことを言っていたな。

 もしかしたら今僕がふらふらと歩いているこの道を散歩のコースに使っている人がいるかもしれない。僕がその道で死んでいたら、その散歩が最悪なことになってしまうのだろう。今更僕を恨むような感情が一つや二つ増えたところで、もう、今更な話だけれど。

 でも、増えないに越したことはないか。

 倒れてから死ぬまでに、まだ意識のあるところに、誰かが通りかかって、殴られたり蹴られたり痛い思いをするのも嫌だし。今更痛覚があるのかどうかも分からないけれど。

 とにかく。

 どこか、人目につかないところ……。


                              ●


「そんな不思議そうな顔するな」

 ああ。

 またか。

 折角、完全完璧に諦めていたのに。

 生きることを諦めていたのに。

 苦しみながらも死ぬことを受け入れたのに。

 僕は――死んでいなかった。

 苦しみ損だった。

「まあ、栄養失調で風邪を引いただけだ。ここで少しの間休めばまた元に戻るよ」

 元に戻る?

 僕の――『元』ってどこなんだ?

 どこに戻れば良いのか分からない。そんなものありはしない。ただだらだらと、ずるずると、生きてしまっているだけなのだ。死に憧れながら、自分から死ぬ勇気の無い僕は、みっともなく目の前の生に縋ってしまっているだけなのだ。

 惨めなことこの上ない。

 ともあれ。

 僕はその女の部屋に保護されていたのだった。

 その女が僕にご飯を用意しながら語った話によると、どうも。

 その女は。

 医者らしかった。

「医者である私のマンションの敷地内で生き倒れていたのだから、そんなのは見過ごせないだろう」

 それだけの理由で、何の関係も無い僕は助けられたらしい。

 それから一週間、その女は僕が動けないのを良い事に、あれこれと喋り倒した。僕が話せないのを知りながら平気で疑問をぶつけてきて、かといってこっちの答を待つでもなく、勝手に話を続けるのだ。

 何を話しているのか、大概のことに関して僕は医者の言っていることが分からなかったけれど、それでも、喋り倒す医者はどこか嬉しそうだった。

「はあー、やっぱり帰ってきたときに誰かが居てくれるって良いねえ。なんだかとても嬉しいよ。ここ数年で、専門用語を交えずに、ただただあったことをこんなにも話したのは久しぶりだ」

 満足そうにそう語った。

 何故かその医者は毎日毎日、夜寝る前に、喋り倒した後に、

「ありがとう」

 と言うのだった。

 一週間、毎日毎日。

 医者は言った。

 ――だからだろう。僕が勘違いをしてしまったのは。僕がこの場所に、もしかしたらいても良いのかもしれないなんて思ったのは。

 言葉なんて、ただの言葉にしか過ぎないのに。

 僕はつくづく自分が、如何仕様も無いと思った。


                              ●


 医者は、その日。

 帰ってくるなり、その手で僕の首を絞めた。

 僕はずっとそれを望んでいるはずだった。もう苦しいのは嫌だけれど、何よりも自分で死ぬことができないから、だから、誰かに殺されることを待っていたはずなのに。

 多分、僕は、あろうことか気を許してしまっていたのだろう。

 だから。

 首を絞められた瞬間、どきっとして、医者の手を引っ掻いてしまった。

「いたっ」

 血の滲んだ手を引っ込める医者の隙を見て、僕はその部屋から逃げ出した。今まさに医者が開け放ったドアから、僕は逃げ出したのだった。

 雨の降り出しそうな空。

 医者の住んでいたマンションを離れ、ふらふらと歩く。

 すっかり体調は元に戻っていた。まだ首に残る、苦しい感触以外は。

 もう、嫌だった。

 もう、もう、もう、もう、もう、もう、もう、もう、もう、もう、もう、もう、もう、もう、もう、もう、もう、もう、もう、もう、もう、もう、もう、もう、もう。

 嫌だ。

 なんなんだろう、僕は。

 本当に、なんなんだろう。

 生きている意味なんてないと思っていたのに、死ぬまでのただの過程だろうと思っていたのに。

 むしろ殺されたいと思っていたはずなのに――自分で死ぬ勇気も、意気地も無いから、誰かに殺されることを望んでいたはずなのに。

 何で、今更、僕は殺されることをびびったのだろうか。

 何で死ぬことを恐れたのだろうか。

 もう――嫌だ。

 これ以上は、もう。



                              【公園】

 もう死のうと思う。

 適当に歩いて辿り着いた公園。

 そこのベンチに座って、思う。もう覚悟を決める。もう揺るがない。この世界に僕の居場所はない。

 出会った人はみんな、僕に死んで欲しいと思っていた。

 つまり――そういうこと。

 勝手に死ね、とそういうことなのだろう。

 最初からそう思っているのかどうかは知らないが、少しでも同じ時間を過ごせば、僕はその人をそういう感情にしてしまうらしい。

 如何仕様も無いくらいに、災厄なのだ。

 そんなのは生きていない方が良い。

 そう、僕は死んだ方が良いに決まっている。

 もう自分で死ぬのは嫌だとか、苦しいのは、痛いのは嫌だとか、そういうことを言うつもりはない。

 そんな好き嫌いはもう捨てた。

 もう、僕は死ぬ。

 丁度良く、雨が降ってきている。

 季節は冬に入ろうかというところ。さっきから寒さで身体も震えているし。大丈夫、こういう環境で僕は死にそうになったことがある。

 雨がざあざあ降ってきた。

 このまま。

 ここで、雨ざらしのまま。

 寒さに震えながら、雨に打たれてびしょびしょになりながら、ずっとそのままでいれば確実に、僕の体調は崩れるはずだ。

 そこから少し苦しいけれど、空腹を我慢して、何も食べずに……そこさえ超えれば。

 後は、死んでいくだけだ。

 もう誰にも見られることのないよう。

 間違っても誰かに助けられてしまうなんてことのないように。

 体調が悪くなったらすぐにどこかの茂みにでも、姿を隠そう。

 そして、ゆっくり死のう。

 ゆっくり――

 雨が、止んだ。

「…………」

 僕の隣に腰を下ろした男のせいで、僕と男の真上だけ雨が止んでしまった。

 男が持っている傘に雨が当たって。

 ばちばちと喧しい。

 もう、邪魔なんてさせない。

 僕が死ぬのを――邪魔はさせない。

 ここが駄目でも公園にはまだいくつもベンチがある。いや、なんなら別にベンチじゃなくったってどこだって良いんだ。とにかくこの雨に濡れて、身体を冷やして、体温を失って、身体さえ壊せれば、どこだって。

「待ってくれ」

 と。

 僕がベンチを降りようとした時だった。

「頼むから、待ってくれ」

 男は言った。僕に――言った。

「なあ、お前は……あいつなんだよな」

 やっと見つけた、と男が僕の方を見て泣きそうな顔を作りながら呟いた。

 ああ。

 そうか、この男、死んだあの女と一緒に居た、僕を殴ろうとして、でも殴らなくて、出て行けと言った男だ。

「やっぱりそうだ。お前なんだな」

 言いながら男が僕の首に手を伸ばす。

 何だ、まだ僕を殺してくれる人が居たのか。だったらひと思いに今この場で死ぬのも悪くない。折角立てた計画は台無しになってしまうが、大事なのは過程じゃ無くて結果なのだから。

 僕が死ぬという、

 結果。

 だったら、この男が殺してくれると言うのなら、それでも良い。

「ああ」

 でも男が伸ばした手は僕の首を優しく撫でるだけで、全然苦しくない。

 ゆっくりと、優しく撫でながら。

 男の顔はびしょびしょになっていた。

 傘は差して、僕と男には雨は届かないはずなのに。

 男の顔は――自分の流した涙でびしょびしょになっていた。

「あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 男が泣き叫ぶ。

 死んだ女の名前を叫びながら、男はぼろぼろ泣いた。

 意味が分からなかった。

「誰も、誰も、お前を殺そうとなんてしてないんだよ」

 は?


                              ●


 涙を袖で拭きながら男は言う。

「誰も、お前を殺そうなんてしていないんだ」

 はっきりと、同じ言葉を、男は言った。

「あいつも、お前のことが大好きだったんだ。本当に心の底から大好きだった」

 嘘だ。

「俺達の間には子供ができなかった。彼女の方に病気があってな、子供ができない身体だったんだ。だから、最初は面倒だとか言っていたあいつだったけど、すぐに、それこそ俺がお前の世話をしようとするのをやめさせて、自分でしちまうくらい――お前の事を愛していたんだよ」

 嘘だ、嘘だ。

「嘘じゃない。本当にお前の事を家族だと思っていた。俺だってそうだ、俺達は家族だった。でもなあ――」

 男が堪えていた涙を、またぽろぽろこぼし始めた。

「あいつ、猫アレルギーだったんだよ」

 ――お揃いだねえ、うふふ。

 あの時、女は言った。

「勿論それだけじゃないけどさ、でもあいつお前を飼いだしてから咳が止まらなくなったし、鼻水もずっとすすっているような状態で、体調が全然良くならないから、何度もお前の他の飼い主を探すようあいつに言ったんだ。猫アレルギーの人間が猫のお前を飼っていられるはずがないって」

 じゃあ――。

「でもあいつ、やだ、って。絶対にやだ、って。お前はもう家族だから……折角できた家族だから、飼うとか、飼わないとかじゃなくて、一緒に生きていくって」

 じゃあ、じゃあ――。

「もう、それを聞いてから俺はあいつに何かを言うのをやめたよ。俺も覚悟を決めた――つもりだった」

 じゃあ――僕があの女を、殺したのか。

 僕を家族だと言ってくれたあの女を。

 お揃いだと言って、僕に微笑んだあの女を。

 僕が殺したのか。

「違う! そうじゃない、お前が殺したんじゃ無い。誰も、あいつを殺してなんかいない……。そういう運命だったんだよ。俺達は一緒に生きて、そして死んだんだ」

 ……。

「分かってる、分かってるつもりだったんだ。これはあいつの意思なんだって。だけど実際にあいつの死体を前にして、それからあいつの付けたお前の首輪を見たら、もう自分でも如何仕様も無かったんだ。嫉妬だったのかもしれない、恨みだったのかもしれない…………何にしろ、俺は、お前に当たった」

 ごめん、と涙をぼろぼろこぼしながら、男は僕の首を優しく撫でた。

「ああ、お前、自分の首に何が付いて居るのか知らないのか」

 知らない。

 ただ、苦しいとしか、思ったことが無い。

 でも何でこの男だけは、僕の思うことが分かるのだろう。まるで、会話をしているみたいに――。

「ああ、それは俺が占い師だから。占いなんて猫のお前は知らないかもしれないけれど、まあ、お前の気持ちが分かって、お前が出ていってから今までどうしてたかも分かる力を、俺は持っているっていうことだ」

 ほら、と男が僕の前に差し出してきた、四角いモノの中には、猫が映っていた。

「お前だよ」

 これが――僕。

 真っ白だった。

 僕はこんなにも白い猫だったのか。

 そして僕の首。

 そこには輪っかのようなものが巻き付けられていた――首輪、男がそう呼んだものが三つも付いていた。

「一番下のはあいつが付けたやつだよ。時間を掛けて、真っ白なお前にどれが似合うかなって、悩んで悩んで、まるで自分の子供にプレゼントをするかのように、楽しそうに悩んでそして、お前に買った首輪だ。お前が、喜んでくれるかなあって、呟きながら、買ってたんだ」

 そうか。

 僕は首を絞められていたんじゃ、なかったのか……。

 女は僕にこれを、この首輪を付けてくれていただけ、だったのか。

 なんだよそれ。

 僕の居場所なんて、世界にないんじゃ、

「その後にお前を拾ったばあちゃんも、お前が嫌いなら、殺したいと思うなら、そんな長い時間一緒にいなかっただろうよ。並んで座ったり、一緒に散歩したり、昼寝したり、しなかっただろうよ」

 ――とろとろしてるんじゃないよ。

 僕を待っていてくれた。

「あいつの付けた首輪の上にある、いかにも古そうなやつが、そのばあちゃんの付けてくれたやつだろうな」

 僕を殺そうとなんて、していなかった。

 初めから、最後まで。

「お前が今出てきたばかりの、その部屋に一緒にいた女の人も、そうだよ。きっとお前の事友達みたいに、あるいは、家族みたいに思っていたんじゃないのか」

 ――ありがとう。

 毎日僕に言ってくれた言葉。

「一番上にある、その真新しい首輪がそうなんだろうな…………はは、お前はどこに行っても愛されてるな」

 僕は。

 僕は僕は。

 もう、言葉は無かった。何も分からない。頭の中が滅茶苦茶だ。ぐちゃぐちゃだ。

「あのさ、ごめんなあ」

「にゃあー」

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 ――ごめんなさい。

 僕は最低だ。

 殺そうとする、なんてそんなの間違いだった。みんな、僕にくれていた。

 愛を。

 居場所を。

 ここにいても良いんだと、言ってくれていたのに。

「なあ、今更だけれど、勝手な話だけれど、お前さえ良ければ戻ってこないか…………俺と一緒に暮らさないか」

 そして、この男も。

 僕に居場所をくれようとしている。

 ああ、僕は愛されているんだなあ。

 きっとこれが、幸せなんだなあ。

「にゃあー」

 ああ、嬉しいなあ。

「そっか分かったよ。じゃあ待ってるから。絶対に戻って来いよ。また一緒に暮らそう」

 うん、うん。

「いってらっしゃい」

「にゃあ」

 行ってきます。


                              ●


知っている。

 『行ってきます』という言葉は『ただいま』と帰ってきたときに言えるからこそだということを。

 だから僕は帰る。

 あの男の下に。

 でも、その前に。

 謝りたい、お礼を言いたい。

 僕に居場所をくれていた人に、愛をくれていた人に。

 しっかりと、言いたい。

 まずはあの老婆のところに行こう。もうあの老婆は居ないけれど、それでも、僕達が一年以上過ごしたあの家に行こう。

 その後は医者の家にも行かないと。傷つけてしまったことを謝らないと。そしてありがとうを。

 それから帰るんだ。

 あの女と男と、一緒に過ごした場所へ。

 ただいま、って言いに。

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