その8
片倉重長という武将が伊達家にいる。
父は伊達政宗の片腕と言われた片倉景綱。通称は小十郎。片倉小十郎、と言えば伊達の軍師としてその才を振るった名将である。
その子である重長も通称を小十郎と言う。片倉家では代々の当主が小十郎という通称を世襲している。
重長は美男子としても有名で、かつて上洛し幼き豊臣秀頼に拝謁した際、男色家だった小早川秀秋がその美貌に目をつけ、追いかけまわしたとの話が後世に伝わるほどである。
その涼しげな容貌からは想像もつかぬ、豪胆にして知勇兼備の名将と評判が高い。
この大坂城攻めでは病床の父に代わり、片倉家の当主として参陣している。
伊達家はこの戦いに大軍を率いて参陣しているが、当初はさして動きを見せていなかった。
大坂城の南方に布陣したが、井伊直孝や松平忠直がしきりに攻撃をかける様を見物していただけである。
大将の伊達政宗は大御所である家康の考えを把握しており、外様大名が大功を立てるのを家康が喜ぶまい、と見て下寺町付近に布陣して以来、まともに戦闘をしていない。極論すれば、彼の仕事はこの大坂の戦いに大軍を率いて参加しただけで終わっており、積極的に動いて功を立てようなどという気は最初からなかった。
が、状況は変わった。井伊直孝や松平忠直が八丁目口を守る長宗我部盛親に何度も跳ね返され、多大な犠牲を出した。
結果、家康は譜代を下げて歴戦の将に戦を任せるように方針を転換した。
伊達家が前に出たのはそういう事情による。
そしてその先鋒を任されたのが片倉重長である。
八丁目口は真田丸に近い。
当然、両者は連携して防衛戦を戦っており、単純に八丁目口に攻め寄せれば真田丸からの援護により多大な出血を強いられる事は明白であった。が、
「さて、まずはひとつ、当たってみるか」
そう言って重長は自ら軍を率いて八丁目口に攻撃を仕掛けた。
今までは他家の戦いを眺めているだけだった。ゆえに、八丁目口を守る長宗我部盛親がどれほどのものか、実感が掴めない。
そう考えて、まずは威力偵察として単純に八丁目口を襲ったのだ。
片倉重長の配下には勇猛な者が多い。重長の号令一下、八丁目口へと殺到した。
守る長宗我部盛親は殺到する伊達の兵をさんざんに銃撃し、弓矢を送り、それでも取りつこうとする伊達の兵を叩いた。
重長は自ら最前線にまでやってきて、つぶさにその様子を見ていた。
(この八丁目口は城の南方にかかる橋としては大きいが、それでも正面から行けば詰まるだけだな。それにしても、この土佐兵の強さよ)
銃撃だけでなく、自らの側を飛び過ぎていく矢の強さを眺めながら、重長は土佐兵の強さを再認識していた。
(天下に聞こえた強兵と言えば四国か九州、それに我ら奥州と言った所だ。なるほど、噂にたがわず)
重長は敵の強さを測りながら、最前線で指揮をしている。
絶妙な采配で八丁目口に緩急をつけた突撃を繰り返す事で、長宗我部盛親が門を開いて討って出る機会を躱していた。
やがて、
(そろそろか)
と思い、引き揚げの命令を発した。これも絶妙の間であったため、盛親は追撃を諦めざるを得なかった。
「まずは一手、と言った所か」
派手に突撃を繰り返した様に見えて、その実、重長の部隊は大した被害を受けていない。重長としては、あくまで威力偵察であり、長宗我部盛親の強さを肌で感じるための戦闘であった。いわば見せかけの突撃と本気の退き際を見せただけに過ぎない。本陣へと戻りながら、重長は八丁目口を振り返った。
「……出てこぬな。長宗我部盛親、これはなかなかの……」
そう呟いて馬の速度を上げた。敵の強さは分かった。戦はこれからである。
そのことは守る盛親にも分かっていた。
「さすがに、奥州の伊達は一味も二味も違うな」
そう言って盛親は下がっていく重長の部隊を眺めていた。眼前の部隊がその背後の大軍に吸い込まれるように退いて行く。見事な進退に、盛親は追撃のために門を開く事が出来ない。やれば、伊達の大軍は一斉に八丁目口に殺到し味方が崩される事になりかねない。
「難しくなるな、これからは」
盛親はそう言った後、兵に交代で休みを取らせる事にした。
初戦は終わった。互いに相手の力量を測り、容易な相手ではない事を知った。
(今は兵を休ませよう。次に動きがあれば、最早休む暇はあるまい)
そう盛親が考えた通り、この二日後から伊達軍の攻撃は盛んになり、八丁目口の西の谷町口にまで攻撃を仕掛けてくるに至って、盛親と土佐兵は休む間もなく戦い続ける事になる。