その5
物事が劇的かつ衝撃的になればなるほど、日本人はその衝撃を内に秘める。
喜怒哀楽を表に出さないのが常であり、一般的な日本人と言える。
そう考えると、徳川家康とは、最も日本人らしい日本人とも考えられる・・・。
対極に居たのが、豊臣秀吉であろうか?
とにかくよく感情を溢れさせたという逸話が多く残っていることからも、そう窺える。
この大坂城を囲む今も、家康は特になんの感情も見せずに佇んでいるのだろうか。
そう考えながら、ふと豊臣秀頼ってのは、果たして利口か馬鹿かさえ後世に伝わっていないことを思う。
戦国時代の終焉を飾る主演の一人でありながら、とにかく無味無臭の人物という感がある。
本当のとこ、どうだったのか。
『豊臣秀頼』を演じなければいけなくなった男は、天守閣でそんなことを考えていた。
敵の兵力は少なく見積もっても20万以上。
大坂城に篭る兵力は戻ってきた明石隊を含めても10万足らず。
伏見城を落としたことにより、『まず一勝して城内の士気を高め、敵の出鼻を挫く』という戦略は成功した。
全体の戦局から見れば、ごく僅かな影響しかないかもしれないが、それでも大坂方が討って出たという事実は、徳川方に多少の警戒を抱かせるだろう。
今、大坂城の広間では将たちが敵の情報を整理し、兵の配置を話し合っている。
「では、南の出丸は問題ありませぬな」
「ええ、そこに来た敵はおまかせを。3万程度なら十分に防ぎきれましょう」
後藤又兵衛が真田幸村に確認している。
ちなみに、真田信繁は最近、幸村という名乗りを好んで使っている。
これは秀頼が信繁を「幸村」と呼ぶことが影響している。
幸村、幸村と呼ばれているうちにその名が通り名のようになっており、本人もその名を署などに記すようになった。
「幸村、と親しげに呼んで頂くうちに、気に入ってしまいましてな。今は周囲にもそう呼ばせております」
と彼は少し恥ずかしそうに人に語った。
豊臣秀頼という、新たな主君は謁見などで姿を見せるだけの存在ではなく、浪人たちに直接話を聞き、その戦略を取り入れてくれる。
気軽に声をかけ、名を呼んでくれる主君に、真田幸村という男は真の大将の器を見ていた。
彼だけではなく、他の将も「この人のもとでなら、戦えるだろう」と思っている。
本人は「真田信繁」という名前に馴染みがなかったので、通称である「幸村」で呼んだだけだが。
「さて、わしが伏見を焼いたことにより、大御所は怒っておろうの」
明石が楽しそうに言う。
「周囲に怒気を見せることによって、これ以上の失態は許さぬ、ということを知らしめるでしょうな。
しかし実際には怒りに任せて攻め寄る、などと言うことはしますまい」
又兵衛が苦笑しながら言うと、明石も同意した。
「大御所は城攻めが苦手じゃ。逆に平地での決戦では無類の強さを誇るがの。
この城を攻めること、憂鬱になっておろうな」
軽口を叩く明石。
「まあ、ここで我らが調子に乗って打って出てくれれば、くらいには思っていましょうが・・・」
「どうかな。大御所は甘い観測や楽観で戦はせん。まず、水も漏らさぬように城を囲んでから、流言や寝返りの誘いで中から崩そうとするじゃろう」
古来より、堅牢な城を崩すには内部からしかない、という事は定石である。
まして、日本一の巨城である。力押しだけで崩れるとは家康も思っていまい。
「誰の元に寝返りの誘いがあるか、それで敵の出方を図れましょう」
幸村が落ち着いて言った。
彼は兄が家康に仕えている。
寝返りを持ちかけるには適した人物だと思われているだろうが、それがいつ頃になるかで敵の焦りや内実を探れると考えていた。
「又兵衛殿と真田殿、それに土佐守殿にわしかな」
目立っておるからのぅ、と明石が笑った。
(そう、目立っているのは真田殿、土佐守殿、そして明石殿とわし・・・)
又兵衛は今までの戦の経緯と今後の展望をまとめながら、大坂城周辺の地図を見る。
地図は昔からあるものだが、今はそこに多くの敵方の将の名前が記されている。
(伊達は布陣した。これは手強いだろう。浅野家は大野殿が足元で盛大に火を煽っておる。まだ国許を離れられないようだ。
前田も来たが、今は真田殿の出丸に引っかかっている。ふむ、真田殿の指揮も見事だが、前田家はある程度の損害を受けたら陣に退いている。
外様の悲しいとこよな・・・ある程度、これくらいの損害を出すまで戦ったのだから良いだろうという気持ちが見えている。
ここまでは順調と言えるか・・・)
今、秀頼の命令で真田配下の草の者(間者)が周囲の陣を探り、どこに誰が布陣しているかを次々に情報を持ってくる。
それを地図に書き込み、戦略を練っているのだが、どう見ても敵は力押しでこちらの気魂が尽きるまで囲む気だろう。
(しかし、一年以上はこの大軍を大坂に維持できまい・・・最も、一部を国許へ返し、他の着陣が遅かった者を新たに包囲網に入れるというのもあるか?
いや、どちらにせよ、補給が追いつくまい・・・。となると、囲んだまま、降伏勧告と交渉でどうにかしようとするはずだ・・・)
彼らの考えている作戦の第一弾。それは相手が交渉してくるまで、勝っていることである。
相手がどんなに兵力が多く、様々な恫喝をかけてきても、勝っている限り交渉で下手に出る必要はない。
そこで、家康を、その本隊を前面に引きずり出す。
(それまで、ある程度勝っておくことだ。真田殿、土佐守殿は十分に守っている。
これに明石殿とわしが加われば、そうそうこの城は小揺るぎもせん・・・)
そして、その状況で、いつか近い未来に行われる交渉後、自分達は勝負を賭ける。
どう計算しても、どう考えても、『勝つ』にはそれしかない。それしかなかった。
(我らが目立っておれば、その他の部隊にまで気が回るまい・・・。
大御所よ、我らの全身全霊を賭けた大勝負、受けていただくぞ)
彼らが考える作戦の要となる部隊は、ようやく部隊の人集めが始まった頃である。
その部隊を率いる者の名は毛利勝永。
塙団右衛門、福島正守、青木久矩、浅井井頼、福島正鎮、大谷吉治などを集めている部隊である。
彼らは今は大坂城内で訓練している。
この戦争で『万が一』の奇跡を掴むために編成された部隊である。
それはまだ、この時点では牙を研ぎ続けていた。
天守閣の秀頼は毛利勝永が直々に見て回って集めている部隊の訓練を上から眺めていた。
先に延べたような元大名や大名の子の他に、自らの力を試したい武芸者なども入っている。
(宮本武蔵も紹介しておいたけど・・・どうだろう)
腕は確かだろうが、乱戦で功名に目もくれずに駆け抜けることができる人物だろうか?
そこが少し不安ではあった。
(ま、使うかどうか決めるのは勝永だ。どうにかするだろうさ)
天守閣から遥かに大坂城を囲む軍隊を見ながら、彼はぼそりと呟いた。
「簡単にはいかさない。そして・・・乾坤一擲を見せてやる」
攻城戦は長い。
そもそも短ければ、それはどちらかが負けている場合であり、決着がついているということなのだが。
基本的な攻城戦というのは、城を部隊で囲み、幾重にも塀や堀を急造で作って、相手に心理的な圧迫を与え、準備を整えてから本格的な戦闘となる。
これが一般的な流れだが、たまに一気に大手門に大軍が押し寄せて、雪崩のように乱入、火を放って大将の首を取る、という場合もある。
ものすごくうまく行った場合のみ、成功することであり、大抵は城側の頑強な抵抗にあって撤退することになる。
城、とはそれ自体がまず居住空間であり、権威の象徴である。
しかし、それ以前に城とはまず要塞である。
兵が一気に攻めあがれないように通路は入り組んでおり、防御側は常に有利な位置で戦えるように工夫されている。
「虎口」とかがいい例であろう。
大坂城も、これはすさまじい要塞である。
力押しで落ちることは考えられない、と建設当時より言われ、海内一の堅城と名高かった。
大きさ、広さ、戦闘を想定した場合の仕組みも全て設計者である秀吉が工夫を凝らしている。
家康は城攻めが苦手、と世の評判にあるが、城攻めが得意な武将でも真正面から力押しでこの城を破ることはほとんど不可能といえる。
家康はこの城を搦め手から落とす、つまり内応・離間・政略によってどうにかしようと思っている。
すでに何人かの将に内応の使者を密かに送っている。が、これは全員に断られている。
これは予想できたことである。
いまさら徳川に内応したところで、どれほどの高待遇を約束されようと守られる確証などまったくない。
又兵衛に50万石、真田に23万石などと言ってはみたが、どちらにも興味もなく断れた。
ここまではいい。ある程度想定内である。
浪人者がこの城に篭った限り、ほとんどの者は「最期に何か一花」と思っているものが多いだろう、と家康も考えている。
しかし、それ以外の降伏を勧める使者などもまったく効果がない。
降伏を勧める使者は当然のことながら、正式の使者と秘密の使者があるのだが、なんと大坂方ではどちらの使者も秀頼本人が謁見するという。
そして「なんぞ、大御所は勘違いをしているのか。別に我らはまだ負けてもおらぬし、今すぐに糧食がなくなるわけでもないぞ?」と言い放つという。
さらに「そも、仕掛けてきたのはそちらじゃ。降伏したい、というのならそのために何ぞ証を持ってまいれ」とまで言われたこともある。
(・・・女どもが全てを決めている、という噂もあった。それが真実であったのは・・・途中まで。そう、あの鐘の件で大野という若侍が来たとき。
あの前後から、明らかに秀頼本人が全てを取り仕切っているようだ。そうとしか考えられん)
たとえ浪人達が奮戦しようとも、顔を見せようとせず、公家のように振る舞い、女どもからの言葉しか受けない者の下では長くは戦えん。
それが、豊臣家を滅ぼすと決めたときの、一つの判断材料だった。
(・・・難しいか・・・旗本どもでは)
家康は最近、機嫌が悪い。周囲は調略も戦闘も思い通りに進んでいないからだろうと思われている。
が、そもそも家康は何事においても、自分の思い通りに、計算通りにことが進むと考えたことなどない人物である。
いまさら、調略が失敗していることなどで悩んだりはしない。調略は仕掛けるべきときは今ではない、と割り切れる男である。
家康の不機嫌の理由。それは三河武士・・・つまり家康直参の譜代・旗本たちの劣化にあった。
関ヶ原、それより以前の小牧・長久手、三河武士と言えば全国に響いた精鋭達である。
個人の功名よりも、主人の手柄。死を恐れることなく圧倒的な結束力と強力な団結力で戦場に錐のように打ち込まれる精鋭。
それが旗本たちであり、譜代の家臣たちであり、その配下の武将・足軽であったはずだ。
(それが今やどうだ。当主どころか侍頭や足軽まで代替わりし、さらにそこから代替わりしたものまでいる。
やつら、戦場に来るにあたって煌びやかな装備だけは整えたが、まるで”赤気”がない。
使い物になるのか、驕り上がった馬鹿な者たちめ)
徳川の旗本が驕るのも無理はない。
自分達が使えている徳川家は、この大坂の陣の前から征夷大将軍を頂点に武家を全て支配しているのだ。
長年の辛抱が報われた、当然、三河の山深い場所より付き従ってきた者は特権階級と呼べる旗本・譜代となる。
どんな大名がいようとも、彼らにしてみれば徳川家の下に連なる者達である。
千石級の旗本に万石を有する大名が頭を下げて通る時代が来ているのだ。
彼ら譜代のものにしてみれば、当然我が世の春。本気で戦争などする気になれないのは当然である。
父や祖父が命を散らしての奉公によって、自分達の地位は安泰である。
そうなれば、無駄に戦場で命を散らすことなど、彼らは考えない。
徳川家は他家を戦わして、自分たちはそれを監視する立場がふさわしい。
そう考える者・・・特に若い世代に多い・・・には家康は苛立っていた。
(三河武士も最早権力の中で出世を願う世代が中心か・・・次代のためにも豊臣家だけでなく、引き締めねばならん。
そのためにも、攻撃側は譜代に行わせ、無理押しでも手柄を立てる機会を作ったというに・・・)
家康は元から今回の出兵一回で大坂城を廃墟にできるとは思っていない。
今回は相手に心理的な圧迫と損害を与えた上で、相手をある程度立てた講和を持ちかける。
そして、次の戦こそ、一挙にこの戦国時代に幕を引く戦にすると考えていたが・・・。
ところが、どうにも相手に損害を与えるどころか、こちらばかり損害が増えている
家康は爪を噛みながら、思案した。
まず、南の出城。通称「真田丸」。
真田幸村、と名乗る男が信州兵を中心に五千ほどがそこに立てこもり、神業のような防御戦術で前田家の軍勢を貼り付けている。
その技量、兵の掌握術を見ても、父、真田昌幸並みの男か。
その近く、八丁目口を守る長宗我部盛親。
あの元土佐国守、長宗我部家の嫡男だが、ここに集った土佐兵と苛烈な盛親の指揮によって、井伊直孝、松平忠直などがいいようにやられている。
その他、松倉重政、榊原康勝などもこの八丁目口に布陣しているが、松倉はそれなりに働いているが、井伊や松平に遠慮があるのだろう。
関ヶ原から徳川についた経歴から、この二人には強く意見は言えまい。榊原康勝は猛将型だが、配下の者が驕っている。
榊原康勝自身が全指揮を執れば火の出るように攻め立てることもあろうが・・・井伊直孝がこの方面の主将。勝手はできまい。
その他の古田重治、脇坂安元などはそれこそ遠慮しておろう。今回の戦は譜代に手柄を立てさせること。いわば、彼らは予備兵なのだ。
長宗我部盛親、土佐兵だけで四千を揃え、さらに四千の兵を秀頼からあてがわれているようである。
この調子では、八丁目口を抜くことなど夢のまた夢か。
東では後藤又兵衛がなにやら豊臣譜代の若者達と、様々な国の浪人衆をまとめて指揮しているとのこと。
その数はどうも一万ほどらしい。又兵衛のみではなく、なになら涼しげな若者を側におき、副将としているようだ。
この副将もよく働く。本多忠朝が何度も手ひどくやられた。時に城壁によって撃退し、機を見ては門を開いて打って出てくる。
本多康俊や、酒井家次もいるが・・・この顔ぶれではどうにも、か。
抑え、予備兵に強力な大名を配しているが、彼らをうまく使えるほどの器量もなさそうか・・・器が違う、か。
北・・・天神橋付近では明石全登が守っているか。伏見城を焼いた老将め。あやつのせいで城方の士気が下がらん。
おまけに一万の兵と大筒まで持ってきている。本多忠政に各諸将をつけているが、一歩も進めておらん。
こちらの持ってきた大筒は相手に心理的な圧迫を加え、不眠にさせること、かの城の女どもをして講和に走らせることのために砲撃しておるが。
やつら、こちらが砲撃した弾は拾っていって鉄砲の弾の材料に使っていると報告が入っている。実際にやっているかどうかしらんが、
大筒が何の効果ももたらしていない、と宣伝しておるのだ。
本多忠政以外の外様の将は抑えのみ。松平信吉などの者と協力して当たっているが、被害は増えるばかりか。
西には豊臣方の譜代や縁深い大谷吉治、さらには御宿勘兵衛が指揮を取っている。
ここは終始睨みあいのみ。ろくに戦闘も起こっていない。
攻めにくい上に配置されている兵も多い。さらに外様を多く張り付かせているから、せいぜい言葉合戦程度か。
潮時だな。
三河武士も落ちたものだ。
一度、何らかの処置を持って譜代の者達を立て直す必要がある。
が、それは戦後のことだ。
すでに城を囲んで4月。
これ以上待っても、譜代の者達では、古豪たちにはなす術なし。
兵糧の問題もある。
「やむなしよな。
誰かある!」
この日、家康は譜代の家臣たちを前線から下げる決定を下し、各方面の主力を変更する命令を下した。
譜代たちはこの命令により家康の怒りを恐れて縮こまったが、それがまた家康の感に触った。
が、それを外部に見せるほど軽薄な男ではなかった。
「決着をつけるためにも、大坂には損害を与えねばな・・・しかし、浪人連中がこれほど結束して力を発揮するとはな。
やはり・・・豊臣秀頼。世間で言われている阿呆ではない、か」
--大坂城南方・真田丸--
(ほう、前田が積極的にうごいてくるとは)
今までは、それなりの”戦闘”をしていて損害が大きくならないうちに退いていた。
それが明らかに兵の動き、その動作から幸村は”変わった”ことを感じ取っていた。
(本気でくるか、加賀の前田!)
槍を掴んで立ち上がると、大声で兵を配置に着かせる。
「来るぞ、これまでのまやかしではない、本物の前田家がな!」
--大坂城南方・八丁目口--
榊原・井伊・松平の旗が下がって消えていく。
それを怜悧な眼で見ながら、盛親はその部隊を見ていた。
「殿! 追撃を行いますか!」
部下の土佐人が叫ぶが、盛親はそれを止めた。
「出て行けば、百の首を取れるだろうが、千の味方を失うだけだ。
どうやら、部署替えがあったようだな」
盛親が指差した先。
「九曜の旗に竹に雀の旗。伊達政宗と伊達秀宗だ」
--大坂城北方・天神橋--
「本多め。下がるか。あの世の忠勝にわびるのじゃな」
かっかっか、と快活に笑っていた明石全登だが、眼は笑っていない。
「本多が下がった。さて次の相手は誰じゃいの?」
確かに本多とその馬周りなどは下がったが、その他の諸将の軍はまだ前線にいる。
「この方面の主将を変えるか・・・ははぁ、なるほど、さすがは大御所じゃの。思い切ったものじゃ」
本多が去った後、その布陣と戦場の空気を見て、歴戦の士である明石は一つの旗を指差した。
「あれが主将になったということじゃろうよ。これは面白くなってきた」
その旗に描かれた家紋は「祇園守」。
立花宗茂のものである。
--大坂城東方面・平野川--
又兵衛の率いる部隊の前に平野川がある。
その川を挟んで相対する敵の陣地が動いた。
今まで一歩も動かず、ただそこに佇んでいただけの部隊が、静かに中央に出てきた。
「毘沙門天の旗・・・」
誰かが呟く。
かつて、常勝不敗・戦国最強の名を誇った家。
又兵衛は表情こそ変えなかったが、槍を握る手が白くなるほどに強くなっていることに気がついた。
「いよいよ本番ということか。毘沙門天に挑むほどの戦が出来ようとは、まこと、大坂に来た甲斐があるわ」




