その3
大野治長が駿府より戻る少し前、精強な一団を率いて大坂城に入城した者がいる。
元土佐の国主である、長宗我部盛親である。
土佐の国主だった長宗我部盛親は、関ヶ原後に改易になった元大名である。
改易後、京で幕府の監視を受けながら、寺子屋のようなものを開いていた。
在所から幕府の許可なしに離れることはできない立場であったが、それでも四散したかつての部下と密かに連絡は取っていた。
長宗我部家再興のために。
元が土佐一国の国主であったために、その配下の者は多い。
改易後、名のある武士は他家に仕えたりしているが、多くの者が浪人となった。
関ヶ原後に生まれた数多くの浪人の中でも、土佐は一大勢力であろう。
長宗我部盛親が大坂からの呼びかけに答えて入城する、と聞いたかつての臣下たちはこぞって彼の元に駆けつけた。
このまま貧窮の中で朽ち果てるよりは、華々しき戦場でもう一度、と考える者は多かった。
土佐兵と言えば、全国でも聞こえた強兵である。
入城した時は郎党を含めて千人に満たない人数であったその後も増え続けている。
長宗我部盛親が参戦する条件として示したのは、土佐の国主への返り咲きである。
が、これは体面に過ぎないであろう。
世間の観測はともかく、まともな国持ち大名が軒並み徳川についている状況で大坂が勝利するとは、盛親も思っていない。
むしろ、万が一に大坂が勝利したとして、再度豊臣の世が来るのであれば、長宗我部盛親の奮戦なくしてはありえず、その恩賞が土佐一国とは過少に過ぎる。
彼もまた、関ヶ原の雪辱を期す者であった。
「此度の戦、徳川には二つの命題があります。外様である、豊臣家恩顧の大名達にこの大坂城を攻めさせることにより、徳川家への忠誠を示させること。
そして、今ひとつは譜代の家臣達に手柄を挙げさせることでしょう。これ以上、外様の者に恩賞として土地を授ける事は出来ぬでしょうからな」
秀頼に謁見した盛親はそう語った。
後藤又兵衛や明石全登と違い、元国持ち大名であり幼少の頃より高度な教育を受けてきた彼には、大名としての目線でこの戦の趨勢を見ることが出来る。
これは貴重な意見であった。
「大坂城の城壁へと最初に攻撃をかけてくるのは豊臣恩顧の大名達でしょうな。しかし彼らが大きな手柄を立ててしまえば、それなりの恩賞を与えねばなりませぬ。
此度の戦、勝ったとて徳川の物になる土地は河内などの70万石程度。それも大坂と堺という要所があり今日に近いこの地に外様は置けますまい。
となると、徳川は外様大名を譜代の家臣に率いさせて攻め上ってくると見るべきかと」
その意見に秀頼も同意する。
「それ以上に、大名達には深刻な問題として、この出兵事態が負担となることがあるでしょう。
遠く領国から大坂まで大軍を率いて来るのは思う以上に大変な事です。戦が長引く事は嫌うはず。
半年、一年と対陣が続けば国許が不安になるでしょうし、戦費は莫大になり補給もおぼつかなくなるでしょうな。
しかも此度の戦、徳川としては一度始めると勝つまで止められますまい。降伏に近い形での和睦はありえるでしょうが、我らが勝っている状況では引くに引けない・・・。
そういった状況をどこまで維持できるか、ということが勝機を見出す唯一の方法かと存じます」
遠国からはるばる出兵してきている大名達はさっさと国許に帰りたいのは当然である。
最大限の動員兵力をもって参陣し、攻撃に加わったのだから十分に忠誠心は示せた、だから早く終わって戻らせて欲しい、というのが心情であろう。
それが予想以上に長く対陣することになればどうか?
兵糧の不足、国許の不安、何より徳川の威信は傷つくに違いない。
「そこまで来て初めて、離反を考える諸将も現れるでしょうな。まあ、これは余り期待できないでしょうが。
雪崩を打ったように時勢が変わる、というところまで我らが耐え切れば・・・あるいは、万が一もありうるかもしれませぬ。
そのためには、数年間この大坂城に篭城する覚悟が必要でしょう」
最後に盛親は出された茶を飲みながら、静かにこういった。
「正直、私は自分に武略があるのか、将としての器があるのか、まるでわかりませぬ。
関ヶ原では一弾も撃たず、槍を合わせることもなくただ退却しただけの男です・・・。
が、少なくとも私が率いている土佐兵の強さだけは保証致しましょう」
盛親が退出した後、秀頼は自室で今後の事を考えていた。
大坂方の基本戦術は真田信繁の言った先制攻撃にて、一定の勝利を掴んだ後篭城する、ということで一致している。
軍略の基本戦術は信繁が立案し、盛親がそれを補完しつつ実際の戦闘指揮官として最前線で戦うのが全登となるだろう。
又兵衛は年齢やその軍歴、名声から言って各将の間に立っての調整役として自然に役割を見出している。
無論、大坂方は関東より兵数が少ない。指揮官の数も少ないので又兵衛も信繁も盛親も前線に出ることになるだろう。
秀頼はそれらとは別に一つの別働隊を組織するつもりでいた。
これは又兵衛と信繁にも打ち明けており、彼らもその有用性から是非組織したほうがよいと言ってくれている。
浪人の中から屈強の者を選び、小数の部隊を作る。
この部隊はいわば強力な遊撃隊として運用するつもりである。あるいは、機会によっては決死の突撃に使う可能性もある。
この部隊の人選は秀頼が行うことになっているが、信繁や又兵衛、全登などが浪人の中からこれはと思う人材を推薦してくれることになっている。
ただ屈強なだけではなく、敗勢になっても逃げない人物、この戦を死に場所としている者が必要である。
現状では以下の者がこの秀頼配下遊撃隊に組み込まれている。
塙団右衛門。
塙直之ともいい、出家した時は鉄牛と称していた。元加藤嘉明の鉄砲大将だったが、対立して去っている。
浅井政高。
元戦国大名であった浅井家の一族である。すでに五十を過ぎており、ここを最後の死に場と定めている老人である。
毛利秀秋。
織田家に仕えた毛利長秀の息子であり、嫡子であったが父の遺領は、子の秀秋を差し置き、娘婿の京極高知が対部分を継承してしまった。
なぜそうなったのか、本人は黙して語らないが、何事かがあったからこそ、大坂から呼びかけに応じて入城したのであろう。
大谷吉治。
関ヶ原で西軍として奮戦し、命を落とした大谷吉継の息子。父に変わって家に訪ねてきた太閤をもてなした経験もある公達である。
内藤元盛
大坂では佐野道可と名乗る。西国の毛利家より密かに使わされた武士であり、軍資金と共に入城した。
輝元からの依頼だが、あくまで大坂についたのは個人の判断である、との立場をとっている。
仙石秀範
信濃小諸藩藩主仙石秀久の息子。関ヶ原で西軍についたことで嫡男であったが廃嫡され勘当されている。
福島正守・福島正守
福島正則一族の者。福島正則は幕府から危険視されており、江戸に留守役として留め置かれているが、彼らは一浪人として入城してきた。
南部信景
北信景と名乗る。盛岡藩藩主である南部利直と折り合いが悪く、放逐された、と本人は語っているがどうやら南部利直が関東と豊臣に二股賭けのために送り込んだようである。
弓五百張り、金箔塗りで自身の名が書かれた矢を一万本、堺の金蔵にあった十二万両を秀頼に献上しており、盛岡藩はどちらに転んでも主家を守れるように立ち回ったのだろう。
井上時利
信長に仕えて、後に秀吉に仕えた古豪の武士。関ヶ原で西軍についたため、改易され浪人となった。
大坂で徳川の重臣の一人でも討ち取らん、との気概で参加してきた男である。
様々な立場、理由がありこの大坂に入った武士であるが、どれも一騎当千と呼べる武士である。
これらを部隊として統率し、制御して運用する将がいる。
又兵衛などは、自分などがその役目を引き受けるしかないか、と思っていたようだが、秀頼の考えは違った。
「最初に名指しで参戦してほしいと連絡を取った者のうち、最後の一人がいる。その者にこの部隊の指揮をやらせるつもりである。
奴は必ず来る」
そう言って自分が引き受けましょうか、と言って来た又兵衛をさがらせた。
又兵衛には他にやって貰うことが多い。
機を見て戦場に投入し、遮二無二突っかかり将の首を取ってさっと退くのがこの部隊の戦い方となろう。
その軍勢の指揮官として、又兵衛は文句ないところだが、彼にはもっと大局的な戦略を練ってもらう必要がある。
秀頼は連日、城内を回りながらこの部隊で戦える人物を見極めては部隊に組み込んでいった。
同時に彼は最後の男を待っていた。
(土佐で山内家の保護下にあるから、そう簡単にはこれまいが、彼は必ず来る)
堺での戦闘とも呼べぬ、占領戦が収束し、そこに集積されている幕府の蔵から米や金などを大坂城へ運び込んでいる頃。
秀頼が待っていた男が息子を連れて大坂城にやってきた。
毛利勝永。
五人衆、最後の一人である。
豊臣側が戦力を整えている間、徳川も戦準備に余念がなかった。
家康はオランダから大砲を買い付け、また配下の者に大砲を製造させている。
巨大な城郭である大坂城を攻めるには大砲が不可欠との判断であった。
さらに各大名から幕府の命に逆らわないとの誓詞を取っている。
この頃、家康は密かに藤堂高虎に対し、大坂への先陣としての命を出している。
伊賀の大名である高虎は京、大坂へと進撃するに重要な位置にいる大名である。
彼が関ヶ原後に伊賀に封じられたのは偶然ではなく、将来の大坂攻めを考えての事であった。
大坂城では真田信繁、後藤又兵衛、明石全登、長宗我部盛親、木村重成、大野治長らが秀頼の前で軍議を開いていた。
議題は主に二つ。
明石全登を大将として送り出す伏見攻撃部隊の編成について。
そして、紀州への工作についてである。
現在の豊臣家の領地に接している紀州の民衆を扇動し、一揆を起こさせる。
それにより浅野家の足元を揺るがして大坂に加わる圧力を軽減する。
それが紀州工作の目的である。
紀州は元々独立心の強い風土がある。
雑賀衆が治めていた頃、信長に反抗し、秀吉にも対抗した国である。
今は浅野家の領土となっているが、領民は懐かず常に不満が燻っている状態である。
かつてこの国をまともに治められたのが、天下の調停人と呼ばれた豊臣秀長のみであったことが、この国の難しさを物語っている。
紀州への工作を担当するのは、大野治長。
又兵衛ら浪人衆と違い、彼は譜代の家臣である。
豊臣譜代の中でも重臣に位置する彼が直接出向いて工作することは危険も伴ったが、紀州の動乱を煽るためには必要な事であった。
彼が出向いてこそ、豊臣家が本気で支援するという気概を見せることにもなるのだから。
早速、軍資金と武器、浪人達から千人ほどを三十の組に分けて紀州へと潜入させ、地元の一揆へと加わらせるべく出立する大野治長。
目的は浅野家の戦力を国許に釘付けにすることである。足元が騒がしければ、そうそう出てはこれないだろうとの読みである。
浅野家だけが参陣しなかったとしても、全体から見れば微々たる敵が減るだけであるが、浅野家が地理的に最も先に大阪へと進撃することが出来る位置にいる。
この進軍を遅らせることは、伏見攻撃部隊にとって重要な事であった。
伏見攻撃部隊の大将である明石全登はこの作戦の目標を伏見城を焼き落とすことに絞っていた。
後藤、真田と協議したが、どう頑張っても伏見城を中心としてそこに防衛線を敷いても食い止めるには無理がある。
ならば、伏見城という名の知れた城を一つ、落とすことによって世間への印象を植えつける事こそが目標になると結論づけた。
すなわち、大坂方は弱兵ではない。むしろ命を惜しまぬ浪人達が集まっており、意外に強兵ではないか。
そう印象つけることが、今後の篭城において重要な要素になるであろう。
対紀州工作に大野が、伏見城攻撃に明石全登が出立する。深夜を選んで、騎乗の士を多くし、徒歩でも健脚な者が選ばれている。
伏見を攻撃している時に、徳川本隊が到着、などとなれば全滅はまぬがれない。風のような速度で伏見に進出、防備が整っていないうちにこれを撃破。
しかるのちに城に火を放って撤退、あるいは余裕があるようなら京の二条城もどうにかしたいところだが・・・と明石は思っていた。
が、これはその時の状況によるであろう。無理をする必要はないし、逆に無理をして敗れれば世間からはやはり上方弱し、と取られる可能性が高い。
先鋒として精鋭を率いる御宿勘兵衛もそこは同じ思いであった。
(ま、ほとんど守備隊のいない伏見は楽勝だろうが、問題は焼いてからの撤退戦になりそうだな)
あっさりと逃がしてくれるかどうか。
実際に瀬田で防衛線を行うことになれば、いよいよ退き時が重要になってくる。
その辺りの采配は明石全登に任されていた。
明石全登が軍勢を率いて出立したその日。
出陣を見送った秀頼は今後のことを考えていた。
真田丸の建造は順調であり、もうすぐ完成する。
後藤又兵衛による部署の割り振りも済んだ。
結局、大坂方としてはこの大坂城に篭る以外に戦いようがない。
古来より、篭城は援軍を期待してのものと決まっているが、彼らに今のところ援軍はない。
大坂方にあるのは、敵をよく防ぎ、損害を多く与えて相手から譲歩を引き出すか、あるいは寝返りを期待する事のみである。
寝返りと言っても、実際に今の徳川から豊臣についていいことなど一つもない。今のままの情勢なら、だが。
真田信繁、後藤又兵衛の勝利への戦略、とはまさにここにある。
万が一、それ以下の確立であっても、あるいはこの情勢をひっくり返せる可能性。
それはただ一つ、徳川家康の首を取ることである。
それがどんなに困難なことか、彼らには分かっている。が、この絶望的な状況を打開するにはそれしかないこともまた分かっていた。
「大御所の首を取れば、今の徳川家の体制は崩れる。崩れざるを得ない」
それが二人の稀代の名将の一致した考えであった。
果たして、本当に家康の首を取る方法があるだろうか?
戦を経験したことのない、平和な現代日本から来た秀頼にもそれが途方もない難事であることは分かる。
敵はこちらの数倍、正規軍であり、こちらは浪人軍団、しかも相手は用心深いことこの上ない徳川家康である。
(そう言えば・・・俺自身は徳川家康という御仁を知識でしか知らんのだった)
秀頼はそう思った。
彼が豊臣秀頼になってしまったのは、歴史上に有名な二条城での会談後である。
つまり、会った事も話した事もないのである。
(実際の徳川家康とは、どんな人なのだろう? 狸とか陰謀家、策士ってイメージが強いが、最近の研究では若い頃は血気盛んだったって説があるし。
とは言え、家康に直に会って親しく話した事のある人間なんて浪人衆にはいないよな・・・片桐且元なら知ってるかも知れないけど、それでも親しく話した事はないか。
織田政権時代を生き抜いた武将なんて、いても皆大名になってるだろうから大坂方ではないし・・・あ)
そこまで考えて、身近に一人、家康を知っている人間がいることを思い出した。
(・・・忙しさにかまけて全然会ってなかったけど、居たな、確実に知ってる人間が)
そう、秀頼の正室、千姫である。