その2
かつて、防衛戦、あるいは篭城戦の名手がいた。
名を真田昌幸。上田城の城主にして表裏比興の者と呼ばれた智将である。
城とそれに付随する防御施設、自然の地形を最大限に利用しての防衛戦には定評があった。
特に、上田城という小城で徳川の大軍を二度も防ぎきっているという事実がそれを物語る。
家康公は城攻めが苦手、という評価に一役買った人物と言えるかもしれない。
だが、彼も関ヶ原の戦いで西軍につき、徳川秀忠率いる大部隊を中仙道で足止めしついに関ヶ原本戦に参加させないという抜群の武功を挙げながら、
西軍が敗走したために、敗者の地位へと追いやられた。
高野山近くの九度山にて息子の信繁と共に蟄居となる。死罪となるはずであったが、家康に仕えていた長男、信幸の助命嘆願により赦免されたためである。
九度山に蟄居して以来、国許から援助を受けつつ真田紐という紐を販売して生計を立てていたという。
関ヶ原から年月もたち、何度か家康に赦免を願う旨を伝えているが、遂に許される事はなかった。
彼は慶長16年に病で死ぬが、その晩年には家康に赦免を期待することを諦め、徳川家への恨みが残った。
彼は別の期待をしていた。豊臣家と徳川家の戦である。
豊臣と徳川が手切れとなれば、必ず豊臣家は自分を誘うであろう。
そうすれば自分が采を取り、あの大坂城を舞台に徳川家相手に三度辛酸を舐めさせることが可能である。
上田の城ですら落とせなかった家康に、我が采を振るう大坂城を落とせるわけがない。
その自信も戦略もある・・・だが、この身がそこまで持つかどうか。
そう息子である信繁に語っていた。
あの城を使えば、いかな大軍でも防ぎきる自信はある。
長き対陣を相手に強いれば、全国の大名の負担は増大し、不満が拡大するであろう。
そうすれば幾多の大名達の間に、徳川家を見限り、豊臣家に着く者が出る可能性はある。
いや、そのような流説が流れるだけでも効果はある。
そうしてさらに無理押しを徳川に強いれば、乾坤一擲の機会が必ずある。
そのためにはどう戦い、どう守り、どう攻めるか。
それをひたすらに夢想し、叶わぬと知りながら万が一の可能性に賭けていた。
が、彼の命数はそれに間に合わなかった。
無念さを抱えたまま、彼は死んだ。
「家康程度、あの太閤様が作った城を使えば・・・返す返すも無念である」
これを大言、老人の戯言と言い切れないのが彼の戦歴の恐ろしいところであるのだが、いかんせん寿命には勝てなかった。
それを側で聞いていた、息子の信繁が、豊臣家からの誘いに乗って大坂に入城したのは当然であろう。
彼には、尊敬する父の無念を晴らす絶好の機会であったのだから。
当然、このまま九度山に蟄居していても父と同じように許されることもなく、ただ逼塞して死んでいくだけという気持ちもあっただろう。
それ以上に、彼は華々しき舞台でもう一度六文銭の旗を掲げて真田の武勇を証明したいという気持ちが強かった。
だからこそ、使者の「秀頼様は信繁殿を名指しで必ず味方につけよと仰せられました」という言葉に歓喜し、急いで郎党を集めて九度山を降りた。
一応、浅野家の監視の下にあり、近隣の百姓達がその役目を担っていたのだが、彼は父の旧臣を集めると秀頼から送られた支度金を使って彼らを完全武装させた。
そのまま、夜間に麓の村を押し通ったのである。百姓に止められるものではなく、さすがに浅野家もこの百姓達を不問とした。
この時の信繁の心情をいい現すなら。
「家康に父の無念の分、きっちり落とし前着けて貰う」
と言ったところである。さすがに再び世に出るための出陣、しかも徳川家相手の大立ち回りぞ、と意気込んでいる侍たちを百姓に止めろというほうが無茶である。
なお、史実よりも秀頼からかなり大目の支度金を渡されていたので、兵装を整えることが出来たために、史実のように城門で山賊と間違われるような事はなかった。
むしろ大坂城の近くまで来た時に秀頼から再度使者が訪れ、立派な馬や真田の馬印を渡してくれたのだ。堂々たる行進であった。
このことも、信繁の秀頼に対する心証を良くした。
士を知っておられる。
そう思い、大阪城に入城した彼は早速秀頼との謁見に望んだ。
「大坂城に篭ってひたすらに防衛する前に、京へと部隊を差し向け、二条城を襲うべきです。
敵よりも先に機先を制して出撃、大和の宇治、瀬田の橋を落として河川を天然の堀に見立て敵を迎撃。
そのまま伏見城を攻略し、これを焼き払い、さらに京へと進撃するのです」
野戦で勝利を得ておくことにより、大坂方強し、の印象を敵に与え味方には勝てるかもしれぬ、との希望を抱かせる。
武威は大いに上がり、士気も高まるであろう。
その後部隊を撤収して大坂城を拠り所にして敵を防ぐ。
この初戦での勝利によってその後の流れが大きく変わるはずである。
これが彼の、というよりは父である昌幸の基本戦略であった。
「徳川方は全国から大名を動員します。集結には当然のことながら時間がかかり、先に大和へと進撃すればさほどの抵抗はないでしょう。
堺を押さえるための出撃はもちろん、ここはどんな形でも勝利を掴んでおくべきです」
その後は寄せかかる敵を城壁によって撃退する。
最初に勝利を得ていれば、敵は必ず勢いを取り戻す為にも無理押しをしてくるだろう。
そうすれば撃退も容易になり、敵に損害を与えやすくなる・・・というのが信繁の戦略であった。
準備が整えばすぐにでも軍勢を動かし、一気に初戦の勝利を得る。
同時に大坂城の防備を強化しなければならない。
彼は城の南側に出丸を築くことを提言した。
「城の南方の防備が弱い、と太閤様はおっしゃったと父から聞いておりますが、なんの、この城の防備は南側とて十分です。
されど、そこに出丸を築くことによって敵により多くの打撃を与えられるでしょう。
敵も南方の防備が他に比べて弱い、ということを知っておりましょうから、そこを攻め立ててくるのは必定。
そこで大いに敵を叩いておけば、やはりそう簡単にはこの城は落ちぬ、との印象を寄せ手に与えることができます」
史実でも同じような提案をし、その提案が譜代衆から退けられたことを知っている秀頼はこの意見を聞いてこう言った。
「確かにその作戦は大いに有効であろう。ただ守っているだけでは勝てない、との言はさすがに智将として知られた昌幸殿の薫陶を受けただけの事はある」
秀頼にしてみれば史実と同じように城に篭っていても同じような結末を辿る可能性が高いことを知っている。
一か八か、この信繁の戦略に乗って流れを変えなければならない。
このままだとどうせ負けるのである。出来る事は全てやっておきたかった。
「これが今、我らに味方すると返事をくれた者達である。すでにこの中で後藤又兵衛殿は入城しておる。
続々と浪人達も入城しており、木村重成が編成を行っている。元信濃や甲斐出身の者達はそちの手につけよう。
どうだ、その先発部隊、任せられる者はおるか」
信繁としては自分がその部隊を率いるつもりであったが、これは秀頼に止められた。
城の南に築く出丸の指揮を執ってもらわねばならないし、防衛戦となれば彼の技量が不可欠だと見たからだ。
自分の戦略が受け入れられたことにより、大いに満足していた信繁は早速出丸の普請に取り掛かることを約束。
提示された浪人衆の名前を見て、一人の男を指し示した。
「又兵衛殿には他の役割がありましょう。さすればこの中で名声があり敵もさるものよ、と相手に思わせるお人がおりまする」
彼が指し示した名前は二人。
「一人は御宿勘兵衛殿。さらに一人は明石全登殿でしょう」
明石全登を大将として、先駆けとして御宿勘兵衛がこれを率いる、という布陣を信繁は提案した。
この会談からまもなく、後の世で五人衆と呼ばれる一人、明石全登が入城した。
「あの時・・・関ヶ原でわしは秀家様の先陣として福島正則隊と戦った。戦況は一進一退、いや、うぬぼれるならわしが押しておったよ。
何度も福島隊を押し返し、押し込み、何丁も退がらせた。だが、我ら宇喜田隊に後詰めはなく、どうしても関ヶ原中央に進出できなかった。
今でも昨日の事の様に思い出せる。西軍のあと一隊でもまともに戦闘に参加していたら。毛利が山を降りていたら。
全ては意味のない仮定じゃろうがの。結局、あの家康が石田三成より何枚も上手であったわけだ」
大坂城に入城した明石全登は、秀頼との謁見を済ませた後、真田信繁を訪ねていた。
自分を先制攻撃隊の大将へと押してくれたことの礼と、あの真田昌幸の息子に直に会ってその器量を確かめたかったのだ。
今、彼は信繁と差し向かいで酒を酌み交わしながら語っている。
「正午くらいか、それより前か。定かではないが、小早川隊が突如として大谷殿の部隊に襲い掛かった。
秀家様は激昂し、口汚く秀秋殿を罵った。金吾を討て、金吾と刺し違えてでも奴を冥土へと送らん、と。
全軍を小早川隊へと向けよ、と仰ったがわしが止めた。この場より落ちて再起を図りなされ、とな。
果たしてそれが正しかったのか、今でも自問しておる・・・結局秀家様は捕らえられ、流された。今はどんな不遇な暮らしをなされておるか・・・」
そう言って酒をあおった。
「今は八丈島におられるとか・・・」
「左様。備前一国の国主であられたお方が、儚い事じゃ。わしはのう、信繁殿・・・」
酒の杯を置くと、明石全登はまっすぐに信繁を見詰めて言った。
「デウス様の教えを広めたい気持ちもあるが、それ以上に関ヶ原の雪辱を願っておる。
確かに、世間の言うとおり、ほとんど勝ち目のない戦になろう・・・じゃが、わしは殿の代わりに秀頼様を助けねばならん。
そうでなければ、顔向けが出来ぬわ」
「勝ち目は元よりほとんどない戦、されど秀頼様の下に集った者は強者が多く、士気は高く、死を恐れぬ者ばかり。
我らが協力すれば、万が一の可能性も生まれましょう」
さようさな、とまた酒を注ぎながら明石が言った。
「秀頼様も、どうやら大将としての器が見て取れもうす。ことここに到って、女官やお袋様の言いなりのような柔和なお方だとどうにもならなんだが。
又兵衛殿と信繁殿、それにわしや他の浪人達を使いこなすことができそうなお方じゃ。
信繁殿、お主には何か策があるのじゃろう。絶対的に負けが決まっておる戦で、万が一の可能性を起こす策がの。
言わずともよい。わしはわしの為すべきことを為そうぞ」
そう言って、明石は胸のロザリオに手を当てた。
「わしはこの通り、デウス様の信者よ。ゆえに自殺は戒律で禁じられておる。負けても腹は斬らぬが、手を砕いて働くことは約束しよう」
「忝く存じます。ともかく、まずは・・・」
「堺に進出し、幕府の蔵から兵糧を強奪、か。秀頼様も育ちに似合わぬお方よの。それが楽しみでもあるが。
わしは浪人達を急ぎ纏めて、隊を指揮できる者を選抜し、軍容を整えよう。最初は伏見か・・・」
これから忙しくなるのう、と少し嬉しそうに明石は笑った。
明石全登が入城する頃には、大坂城に集った浪人達は十万人に達しようとしていた。
同時に、秀頼は近畿一円より兵糧を買い占める。
何年篭城するかわからないので、とにかく兵糧が多いに越したことはない。
ついでに近畿一円から兵糧を買い占めれば、徳川軍が現地での調達に困ることになろう、との又兵衛の進言でもあった。
遠くの地より兵糧を輸送してくるにしても、それはより遠征軍に負担を強いることになる。
秀頼は木村重成に、堺に軍を差し向け、幕府の蔵米を強奪してくるように命じた。
全国から集まった蔵米は一度堺に集められ、そこから運ばれる。
幕府の蔵米を強奪すれば、当然の事ながら豊臣家から戦を仕掛けた事になるだろうが、秀頼にしてみたらこの辺りが潮時であった。
どうせ家康は豊臣家を滅ぼすために軍を起こす。
相手が大義名分を掲げて準備している間に、強烈な先制攻撃をかけるべきであった。
かくして、大野治房が兵五千人を率いて堺に進出したのが、大坂の陣の最初の戦闘となる。
最も、堺には常駐している兵力はほとんどおらず、戦闘にもならずに街に入り、大急ぎで蔵米を運び出すのが主な仕事であったが。
この頃には駿府から大野治長も戻っていた。
大野治長は元々主戦派である。秀頼から方広寺の件で幕府へと弁明に行け、但し一切退くな、媚びずに挑発してこい、と言われたので意気揚々と使者として出かけていったのだ。
「君臣豊楽」のどこが悪い、主家である豊臣家を敬い、その元で天下泰平を願う目出度い言葉ではないか。
そもそも徳川家は豊臣家の大老であり、その職を降りるとは聞いておらぬ。ならば何が問題だコノヤロー、とばかりに挑発しまくったのだ。
簒奪か、お前ら簒奪するのか? 主家を攻め滅ぼして、自分達の天下か。
もの凄い上から目線で挑発しまくった大野。応対した本多正純のこめかみに浮き出た青筋が切れるかと思えるほどだったが、大野治長は堂々と言い切った。
「そもそも方広寺の件、そちらから豊臣家に対して質問を投げかけること、甚だ不敬である。本来であれば、そのような態度を取ることが許されるべきではない。
秀頼様の寛容なお心によって、それがしがこうして使者として参ったのに、弁明はあるかとは何事か。
・・・お主ら、何か勘違いしておるのではないか」
将軍になったからって、立場が逆転したと勝手に思うなよ、と大野治長は言い切った。
この時、大野治長は大野治長で覚悟を決めている。
応対した徳川家の人間が激昂すれば、その場で刀を抜き、斬り死ぬ覚悟である。
不可能だとは思うが、この城には家康がいる。あわよくばその首を取って果てたいとさえ思っていた。
まあ、結局のところ、青筋立てたとはいえ、本多正純が切れるようなことは無かったのだが。
報告を受けた家康は思案に沈んだ。
まさか豊臣側から挑発してくるとは・・・いや、それ以上に秀頼である。
大坂は淀君を中心とした女どもが権勢を握っていたはず・・・それがどうだ、腹心の大野治長を遣わして堂々と挑発に来た。
元々、方広寺の件はかなり強引な言いがかりである。それでも片桐且元などはなんとか宥めようとして弁明に手を尽くすと考えていた。
豊臣秀頼・・・追い込まれた事によりその器量が発揮されてきたのか。
なんにせよ、このままこの安い挑発に乗るのは良いことではあるまい。
大坂にいる間者や協力者からさらなる情報を集めねばなるまい。
浪人達を大量に雇い入れるだけではなく、実績ある者を次々と登用しているとも言う。
負けることはあるまいが、今後の徳川の治世のためにも世間に簒奪者との印象が残るのは避けたい。
家康はしばらく物思いにふけっていた。